大著「命の嘆願書」が伝えるもの ジャーナリスト 井手裕彦氏講演会4/18
▪️『命の嘆願書』の著者であるジャーナリスト・元読売新聞大阪本社論説委員・編集委員の井出裕彦さんの講演会です。『命の嘆願書』は、以下のような書籍です。
新聞記者生活の最後の年 著者はモンゴルへ向かった。「命」の呼称がある文書と言えば、第二次世界大戦中、ナチス・ドイツ の迫害から逃れようした多くのユダヤ人にリトアニアの日本領事館領事代理だった 杉原千畝が発給した「命のビザ」が知られる。一方、私が見つけた「命の嘆願書」 はモンゴルやロシアの公文書館の奥深くに「外交文書」や抑留の「公的記録」とし て厳重に保管され、誰の目にも触れず、歴史の中に埋もれようとしていた。 こんな抑留者やその妻、母、子がいた真実を置き去りにしたまま、出会った記録を 墓場まで持っていっていいものだろうか。新聞社を後にして筆を執ってから脱稿ま で三年を要したが、私は伝えずにはおれなかったのである。
▪️井出さんの講演会は、4月18日にギャラリー読売で開催されます。会場参加:700円、オンデマンド受講:500円 です。詳しくは、こちらをご覧ください。
杉岡孝紀先生のこと
▪️土曜日の若林義人監督退職パーティーの際、来賓としてお越しになっていた入澤崇学長から、「今連絡があり、杉岡先生が亡くなられました」と小さな声で教えていただきました。杉岡先生は文学部に勤務されていますが、以前は、農学部にもご所属の時期がありました。龍谷大学では、「仏教の思想」という授業が必修になっており、それぞれの学部のこの授業を仏教を専門とされる教員が担当するのです。そのようなわけで、以前、杉岡先生は農学部に所属されていました。私は社会学部に所属しているので、杉岡先生とは深い交流はありませんでした。杉岡先生が学内で研究発表されている時にお話をお聞きした程度です。ただ、私がセンター長を務める龍谷大学世界仏教文化研究センターでは、杉岡先生に副センター長をお勤めいただいていました。センターの会議はその多くはオンラインではありますが、杉岡先生には、その会議の際にいろいろお世話になりました。
▪️昨日は杉岡先生のお通夜の日でした。葬儀場には、たくさんの僧籍を持つ方たちが集まっておられました。そのことは服装からわかりました。おそらくご同僚や後輩、大学院や学部の指導学生の方たちなのでしょう。葬儀場に入られたときには、身体の中から溢れてくるように南無阿弥陀仏とお念仏を唱えておられていました。自分の意思とは別にお念仏が口から出てくるというふうにしか感じられませんでした。葬儀の導師は、杉岡先生が住職をお勤めの岐阜県のお寺のお近くのお仲間の方でした。「正信念仏偈」を唱えました。お通夜に参列された方達の多くが僧侶であることから、場内には「正信念仏偈」を唱える声が響き渡りました。最近、通夜や葬儀に参列することが少しずつ増えてきましたが、今までこのような経験をしたことはありません。
▪️通夜は枚方で行われましたが、枚方に向かう途中、「りゅうこうブックス」という龍谷大学宗教部が発行している講演録を収めた冊子の、杉岡先生のご講演を読み直していました。ひとつは、「他者とは誰なのか」、そしてもう一つはこのYouTubeの動画にある「人間は一本の管、だが苦悩する管である」というタイトルのご講演です。私は、この杉岡先生の講演録を読んで、直接、先生がお考えになる「他者」という問題について、詳しくご教示いただきたいと思っていましたが、それは叶わないことになりました。大変残念です。「りゅうこくブックス」のバックナンバーのリンクも貼り付けておきます。
若林義人監督退職記念パーティー
▪️24日(土)、京都コンサートホールでの退職記念コンサートに引き続き、ホテルグランヴィア京都で、若林監督の退職記念パーティーが開催されました。
▪️私と若林監督との最初の出会いは、瀬田キャンパスの生協食堂で開催された教職員の交流会(パーティー)の場だったと記憶しています。混み合う会場の向こうの方から、私の方に向かって来られるお二人の方がおられました。若林監督と児玉コーチでした。その時は、私がブログに龍谷大学吹奏楽部の定期演奏会のことや、クラシック音楽のことを投稿していることを知って、わざわざやってきてくださったのです。その時は、簡単なご挨拶と名刺交換だけだったのですが、数年後(たぶん)、2019年に吹奏楽部の部長に就任することになりました。あとで監督ご本人からお聞きしましたが、あの名刺交換が、ある意味で部長就任に向けての「布石」のようなものだったようです。
▪️部長就任後は、元々龍谷大学吹奏楽部のファンでもありますし、吹奏楽の経験はないけれど音楽は大好きでしたから、練習にもたびたび見学に通ってきました。部長の仕事を通して、音楽を楽しんでいた…というのが正直なところなのかもしれません。
▪️部長に就任してすぐに気が付いたこと、それは吹奏楽部の「部訓」でした。吹奏楽部の「部訓」は「音楽・感謝」です。世の中一般の部訓と比較して、なんだかシンプル過ぎるな〜というのが最初の印象でした。しかし、すぐに「音楽・感謝」の意味がわかってきました。大学の、それも龍谷大学の吹奏楽部に所属して音楽に取り組むということは、相当の時間とエネルギー(体力、精神力、そして経済力も)を吹奏楽のために費やすことになることにきがついたからです。もちん、個々の部員の皆さんは、しっかりと自分自身をコントロールされているわけですが、その背後には、応援してくださるご家族の皆様、励ましてくれる友人たち、楽器や音楽を指導してくださる指導者の先生方、そして練習場や活動資金に関して活動を応援してくれている龍谷大学、演奏会で自分の音楽を聴いて感動してくださる観客の皆様(そうやって感動していただくことが一番の励みになります)、いろんな方たちの存在があるのです。自分たちが、大好きな音楽に取り組み、全国一の学生バンドとして評価していただけるのは、そのような方たちの存在抜きには考えられない。それが、「音楽・感謝」の部訓の意味なのではないかと、私はずっと思ってきました。
▪️記念パーティでは、いろんな方達とお話をしました。パーティー会場を巡っていると、同い年のOBの方がいらっしゃいました。その方と、同じテーブルにいた方達は、そのOBの方の先輩でした。1970年代、吹奏楽部はまだ同好会のような小さな存在でした。本当に音楽が好きで、吹奏楽に取り組みたいという純粋な気持ちから活動をされていました。もちろん、いろんな問題や課題が発生していたようです。しかし、それらを乗り越えて活動を継続してきてくださったからこそ、今の龍谷大学吹奏楽部が存在しているのです。現在200名(卒部した4回生も含めて)を超えるまでに成長した吹奏楽部の、最初の礎、小さいけれどもしっかりと礎を築いてくださったOBOGの先輩方に心より感謝したいと思います。
▪️今回の記念行事では、OB・OG会の皆さんがしっかり準備と運営をしてくださいました。若林監督のご退職というタイミングで、OB・OG会の結束力が一層高まったように思います。大学の課外活動は通常4年間のみです。OB・OG会の同窓会活動がなければ、交流することはありません。そのあたりのことを、部長として少し気にしていました。今回のコンサートとパーティーにより、OB・OG会の活動がさらに活発になるような気がしています。そして、組織力を強化していただき、現役の部員の皆さんの音楽活動を、笑顔で静かに支えていけるような存在になっていただきたいと思います。期待しています。写真についても説明いたしましょう。
▪️1枚目は、OBの方1人を離さないうにして、スピーチをする若林監督です。ひょとして、若林監督はシャイ…なんでしょうか。2段目左は、竹林先生とのツーショット。竹林先生には、フルートのご指導はもちろんのこと、バンド全体のことについても細かなご指導をいただいています。コンクール等では、本当にお世話になっています。感謝です。2段目右は、私も写っています。龍谷大学吹奏楽部が大変お世話になってきた作曲家の酒井格先生と日景貴文先生と一緒に写真を撮らせていただきました。あはは、ミーハーですね。嬉しかったです。3段目右、龍谷大学吹奏楽部の十八番である「ブラジル」です。現役部員とOB・OG会の皆さんが合同で演奏しています。盛り上がりました。実に楽しそうです。動画から画像をカットしたので、少しブレています。指揮をしているのは児玉コーチ、指揮棒ではなくてフォーク。3段目右は、龍谷大応援リーダー部の皆さんに、エールをきっていただきました。ありがとうございます。
▪️パーティーの後は、近くの居酒屋で二次会。現役部員の皆さんとも、もっともっと話をしたかったんですが、ちょっと残念です。それでも、いろんな部員の方達とお話ができました。かわいそうなのは、現役の部員の皆さんは、青いブレザーを着用しており、お酒は厳禁。我慢されている方もおられたでしょう。パーティーを盛り上げてくださいました。パーティーには、関西の他大学の吹奏楽部の指導者の皆様、学外指導者の皆様、お世話になっているたくさんの皆さまがご参加くださいました。ありがとうございました。「音楽・感謝」です。
龍谷大学吹奏楽部特別演奏会「若林義人監督退職記念コンサート」当日のこと
▪️昨日、京都コンサートホールで「若林監督退職記念コンサート」が開催されました。プログラムは以下の通りでした。
【第I部】現役生ステージ
マーチ「ゴールデン・イーグル」(作曲/A.リード)
坂本九コレクション(作曲/坂本九 編曲/金山徹)
プスタ~4つのロマの舞曲~(作曲/J.ヴァンデルロースト)【第II部】OB・OGステージ
ポロネーズ「戴冠の春」本演奏会委嘱作品(作曲/酒井格)
アマポーラ(作曲/J.ラカジェ 編曲/小杉比)
高度な技術への指標 ( 作曲/河辺公一)
さくらのうた (作曲/福田洋介)
シンフォニア・ノビリッシマ (作曲/R.ジェイガー)【第Ⅲ部】合同ステージ
大序曲「1812年」 (作曲/ P.I.チャイコフスキー 編曲/松本昇一)
▪️当日のプログラムは、こちらからご覧いただけます。
▪️教えてもらったのですが、龍谷大学吹奏楽部 OB・OG 会 220 名、龍谷大学吹奏楽部現役生 150 名、あわせて370名の皆さんがこの日、ステージで演奏されたようです。OB・OG会の皆さんは、昨年の秋から、仕事の合間を縫って深草キャンパスや瀬田キャンパスに集まり、練習を積み重ねて来られました。関西に暮らしておられる方はまだ良いのですが、ご自宅が遠方のため、練習ホテルに宿泊して練習に参加された方もいらっしゃった聞いています。
▪️若林監督には40年にわたって龍谷大学吹奏楽部をご指導いただきました。最初の頃に指導を受けられた方は、もう還暦を超えておられます。そのようなわけで、【第Ⅲ部】合同ステージの大序曲「1812年」の演奏は圧巻でした。ステージだけでなくステージの背後にあるポディウム席にも150名ほどの方達が並んでバンダ隊として演奏を行いました。親子以上に年齢差のある方達が、指導を受けた若林監督の指揮のもとで一緒に演奏を行う…。ものすごく感動しました。きっとそれぞれの方が、若林監督との大切な思い出を胸に演奏されたのではないかと思います。ありがとうございました。昨日のコンサート、 YouTubeで配信されました。まだ、録画したものを視聴することが可能なようです。2時間17分20秒のあたりから、「1812年」の演奏が始まります。
▪️コンサートの最後では、入澤崇学長と赤松徹眞校友会会長(前学長)から花束の贈呈が行われました。このことからも、若林監督と吹奏楽部がどれだけ龍谷大学に貢献してきたのかが伝わってきます。コンサートの後は、ホテルグランヴィア京都で記念パーティーも開催されました。たくさんの皆さんと少しずつお話をさせていただきました。そのことは、また別の投稿にしたいと思います。
▪️来年度からの指導体制ですが、定年退職後も、若林義人監督には桂冠指揮者として引き続きご指導いただくことになっています。新たな音楽監督には現在監督補佐をお務めいただいている外囿祥一郎先生が就任され、児玉知郎コーチとともに学生の指導を担っていただくことになります。私事ではありますが、来年度は特別研究員に就任するため、学内ルールで課外活動の部長を務めることはできません。そのため、社会学部の同僚でもある栗田修治先生に代理をお務めいただくことになっています。
龍谷大学吹奏楽部特別演奏会「若林義人監督退職記念コンサート」リハーサル
▪️本日23日はリハーサル、明日24日はいよいよ「若林監督退職記念コンサート」が開催されます。OB・OGの皆さん、そして現役の皆さんが演奏されます。龍谷大学吹奏楽部 OBOG 会 220 名、龍谷大学吹奏楽部現役生 150 名、あわせて370名の皆さんが出演いたします。さらに、普段指導をしてくださっている学外の先生方も一緒に演奏してくださいます。ありがとうございます。私は、例によっているだけなんですが、明日のリハーサルから見学させていただきます。
【追記】
▪️今日は、「若林監督退職記念コンサート」のリハーサルを、京都コンサートホールで行いました。この写真は、3部の最後の曲。チャイコフスキーの「1812年」です。OBOGの皆さんと現役生の皆さん、あわせてこれだけの人数で演奏します。すごいです‼︎
明日お越しいただけない皆様も、ぜひこちらのYouTubeでご視聴ください。
【開催日】2024年2月24日(土)
【開場】13:00
【開演】13:30
【会場】京都コンサートホール
【出演】若林義人 / 外囿祥一郎 / 児玉知郎
龍谷大学吹奏楽部 / 龍谷大学吹奏楽部OB・OG会【プログラム】
構成
第Ⅰ部 現役ステージ
第Ⅱ部 OB・OGステージ
第Ⅲ部 合同ステージ曲目
シンフォニア・ノビリッシマ / R.ジェイガー
アマポーラ / J.M.ラカーリェ
高度な技術への指標 / 河辺 公一
さくらのうた / 福田 洋介
特別演奏会委嘱作品 / 酒井 格
大序曲「1812年」 / P.I.チャイコフスキー 他
冬の立山連峰
▪️少し前の投稿で、20日、富山県美術館に行き、そして企画展「倉俣史郎のデザイン 記憶の中の小宇宙」を観覧しましたことを投稿しました。旅行の途中に、NHKの美術番組「日曜美術館」で知った倉俣史郎さんの企画展を観覧できたのは良かったです。ただし、残念なことも。繰り返しになりますが、この美術館からは晴れていれば立山連峰がバッチリ眺めることができるはずなのです。美術館の2階から屏風のように横に広がる立山連峰が見えるはずなのですが…、残念でした。
▪️最終日の21日。富山市の中心市街地から日本海の方の海岸や神通川の河口のあたりに岩瀬という場所があります。江戸時代は北前船がやってくることで大変栄えていたようです。ここには、「満寿泉」(ますいずみ)の銘柄で知られる枡田酒造店があります。こちらの酒造会社も、北前船の歴史と関係しているようです。今回の富山旅行での私の目的のひとつは、この岩瀬にある廻船問屋の森家の屋敷を訪問することでした。北前船に強い関心があるからです。ところが、元旦の震災のため、森家の屋敷、現在は立ち入ることができなくなっていました。残念。この日はとても寒く、この岩瀬の町中をゆっくり散策することはできませんでしたが、雰囲気の良い街並みでした。先ほどの枡田酒造店の社長さんは、まちづくり会社を発足させて、この地域の活性化に取り組んでおられるようです。詳しくは、こちらをご覧ください。この中にある「自分のため、身近な人のために行う切実な「まちづくり」」というのが素敵だなと思いました。
▪️で、この岩瀬でどこに行ったかというと、富山港展望台に登りました。神通川の河口の近くに25mほどの展望台が建設されているのです。昭和60年だそうです。写真は、この展望台からの景色です。冷たい雨が降って、さらに強い風も時々吹いてきます。そのような天気ですから、遠くは真っ白。晴れていれば、ここから立山連峰がバッチリ見えるはずなんですが。ガラス窓に、山々の輪郭が書いてあります。ただ、土地の皆さんにお聞きしても、一冬の間に、空が真っ青に晴れ渡って、雪の立山連邦がバッチリ見える日は限られているといいます。さあて、困りました。
▪️そこで思いつきました。天気予報の1週間程度の予報を元に、富山の天気の移り変わりを確認して、市内に設置されたライブカメラで確認するのです。早朝、空が晴れ渡って立山連峰がはっきり見えそうだと確信を得たら、急いで、富山に向かうのです。昼から夕方まで景色を堪能して、晩は、とても深い富山湾の地形と立山からの湧水により育った美味しい海の幸を堪能するわけです。良いプランです。来年の冬こそは、実現させたいと思います。
▪️もうひとつ。動画を。こんなふうに見えるらしいです。
立山連峰からの海底湧水と富山湾の深さが生み出す海の幸
タラの白子のポン酢/本ズワイ蟹の身とカニ味噌共和え
写真を撮る前に思わず一切れ食べてしまった「プリシャブポン酢」/シロエビの天ぷら
アナゴの白焼/カニ焼売
ツナとクリームチーズのリエット
▪️2月19日から21日までの富山旅行で、富山の海の幸、いただきました。ありがとうございました。20日の晩のお店は「吟魚」さん。人気店で、予約しないと難しいお店のようです。私も予約して行きました。というのも、大津駅前のいつもの居酒屋「利やん」にお越しになったお客さんから、「富山に行くのならば吟魚でしょ」と教えていただいていたからです。写真の魚を中心とした料理以外に、野菜の料理についてもきちんといただきました。血糖値の管理しています。
▪️ところで、どうして、こんなに美味しい海の幸が豊富なのか。それを知るためには、富山湾を地学的・生態学的な側面から理解する必要があります。こちらの「富山の魚が美味しいのは、海底の地形に理由がある」では詳しく説明されていますね。「一年中が、旬。うまさすぐそこさかなは富山」というサイトの中でも、「富山のさかながうまい理由」が説明されいます。
「天然のいけす」富山湾
日本近海には約3,400種の魚がいて、そのうち日本海には約800種、
そして富山湾には約500種の魚がいると言われています。
立山連峰の標高は約3,000m、富山湾の水深は約1,000m。
この4,000mもの高低差が、富山湾のお魚のおいしさの最大の秘密。
大自然の滑り台のような高低差のおかげで、立山連峰の森の成分と酸素をたっぷり含んだ水が富山湾に注ぎ込んでいます。
▪️以下は、自然科学的な立場から富山湾の特徴について説明しているサイトです。富山湾の海底からは湧水、水が湧き出ているそうです。これは、立山連峰の山々に降った雨が、山の腐葉土の中で栄養をたっぷり吸収して、それらの水は地下水として海に運ばれて海底湧水として噴き出しているのだそうです。もちろん河川の水も海に栄養分を補給する役割を担っているのですが、湧水は時間をかけて地下を流れるので、窒素やリンなどをたくさん吸収しており、河川の水と比較してはるかに栄養分が豊富なんだそうです。そのような栄養分が富山湾の生態系を豊なものにして、美味しい海の幸を生み出すことになるのです。
「『木一本、鰤千本』-豊かな海を育んだ海底湧水の秘密(張勁・富山大学教授)」
「巡回する水、つながる水~日本海と富山湾の調査から~」(富山大学大学院理工学研究部 教授 張勁)
「富山の水循環から世界へ〜気候変化が地下水・沿岸海域・海洋生態系へ与えるインパクト〜」(地球生命環境科学専攻 博士課程1年 片境紗希)
▪️富山湾面白いですね。背後には立山連峰、加えて富山湾は水深1,200m。その落差は4,000m。短い距離の間で、これだけの落差がある地形は世界的に見ても珍しいそうです。その富山湾の地形は能登半島とも関係しているのでしょうね。どうして富山湾はこんなに深いのか、調べてみます。もう一度、この辺りのことをしっかり勉強することにします。再び、富山に行きたいと思います。
【追記】▪️こうやって豊な海の幸が生み出される背景を調べると実に楽しいですね。「大人の修学旅行」といった感じです。ひとつ前の投稿「扇状地と湧水」も含めて、地学、地理、歴史、生態、そして美味しい食事も含めて、富山を堪能しました。楽しめました。こういう「大人の修学旅行」が、滋賀県でも、「世界農業遺産 琵琶湖システム」をテーマにして実施できたら良いなというのが、私の願望なのです。「琵琶湖システム」が生み出す食材を「点」として消費するだけでなく、それらがつながって「線」になり「面」担って、それらを「舌」と「頭」と「心」で味わえるような「大人の修学旅行」。これから考えていきます。
扇状地と湧水
▪️富山旅行の3日目の最終日(2月21日)、富山市内にある「石倉町の延命地蔵」を訪ねました。ここは湧き水が出てくるのですが、たくさんの方達がその水を汲みにこられていました。詳しくは以下の「立山黒部ジオパーク」のサイトにある説明をお読みいただきたいのですが、ここは「常願寺川が運んだ土砂の堆積によってつくられた、扇状地の扇端部」なのです。立山の積もった雪が溶けて、扇状地に染み込み、非常にゆっくりと地下を流れて、扇状地の一番端から湧き出てくるのです。その湧き水と延命地蔵信仰とが融合しているわけですね。
富山市街を流れる「いたち川」沿いには、延命地蔵尊がいくつも祀られています。安政5年(1858)に発生した飛越地震により、立山カルデラの一部が大崩落し、溜まった土砂が自然のダムを作り、それが決壊して常願寺川からの濁流が町を襲いました。多くの死者や病人が出たなか、夢のお告げで川底からお地蔵様を引き上げて奉ったところ多くの病人が救われたと伝わっています。石倉町の延命地蔵が祀られている場所は、常願寺川が運んだ土砂の堆積によってつくられた、扇状地の扇端部にあたります。扇状地はたびたび洪水に見舞われますが、扇端部では豊かな水の恩恵を受けることができます。この場所では、扇状地に染みこんだ立山の豊富な雪解け水が、清純な地下水となって湧き出し、万病に効くといわれ延命地蔵の水として人々に利用され続けています。
▪️富山平野の背後には、北アルプスや飛騨高地(飛騨山地)があり、そこからいくつもの急流河川が富山平野に流れ出してきます。そして、水深1200mもある富山湾に注ぎ込んでいきます。そのため、この富山平野にはいくつもの扇状地群が発達することになりました。東側から、黒部川扇状地、片貝川扇状地、早月川扇状地、上市川扇状地、常願寺川扇状地、そして庄川扇状地です。最後の庄川扇状地=砺波平野は、散居村の景観で有名ですね。こちらの扇状地では、「屋敷林に囲まれた約7,000戸を超える家(農家)が点在」しています。こちらの地図をご覧いただけばわかりますが、投稿線の間隔が広いです。扇状地ではありますが、他の扇状地に比べて傾斜が緩やかです。だからこの扇状地の中央部分は、砺波平野と呼ばれるのでしょう。この庄川扇状地の散居村もいつか見学にぜひ行きたいと思っています。ただ、今回の旅行で訪問したのは、上記の引用にもあるように常願寺川扇状地になります。
▪️延命地蔵尊のあるいたち川は、元々は、この常願寺川を源とする川でした。そして、以前は常願寺川と神通川をつなぐ川だったようですが、今は、常願寺川から取水する「常西合口用水」から始まって、田園地帯、住宅街、市街地を流れて、最後は神通川につながるようです。さて、このいたち川、前述の説明では、地震により自然にできたダムが決壊して、水害の大変な被害にあった地域のようですね。そのあたりのことも含めて、地理的な特徴と災害について解説している「富山平野の土地条件と自然災害-急流河川がつくる扇状地群の平野」をネット上に見つけました。執筆者は、千葉大学で教員をされていた水谷武司先生です。「防災講座: 地域災害環境-日本各地の災害危険性に関わる自然環境・社会要因・災害履歴-」の中の一つの講座のようです。地理的なことに関して素人の私にもよく理解できる解説になっています。関心のある方は、ぜひお読みいただきたいなと思います。富山の地理的な特徴をよく理解できます。
▪️このいたち川に関連して、神通川のことも調べてみました。すると、今の神通川に河川整備されたのは、明治以降のことなんですね。ここではわかりやすい資料をネット上に見つけましたので、そちらのリンク先をここに貼り付けておきます。神通川沿いもよく水害が発生した地域のようです。ただ、明治以降、今の富山市の中心市街地は、河川整備により神通川の流路を変化させ(直線化)さい、その廃川になった跡地にできた場所なのだそうです。埋め立てたわけですね(新たに運河を掘った時に出た土砂で)。そのようなこともあり、土地の方のお話では、今年の元旦の地震によって道路に被害が発生したとお聞きしました。埋め立てた土地は、地震には脆弱ですから。
月刊グッドラックとやま 2003年7月号
月刊グッドラックとやま 2003年8月号
月刊グッドラックとやま 2003年9月号
▪️もうひとつ、「そうなんだ」と驚いたことがありました。このあたりが小説家の源氏鶏太(1912年・明治45年~ 1985年・昭和60年)の故郷であったということです。源氏さんは富山の生まれだったんですね。といっても、お若い皆さんはご存知ないでしょうね。私の年代でも、同世代であれば読むことは少ない小説家なんだと思います。私の場合ですが、亡くなった昭和一桁生まれの両親が、通勤の際に、源氏鶏太の小説を文庫本でよく読んでいて、家に書架に並べてあったその文庫本を高校や浪人の頃に手に取って読んでいたんですね。
▪️それから、小説家の宮本輝さんが、1978年に第78回芥川賞を受賞した作品『蛍川』は、この投稿で取り上げたいたち川が舞台になっているようです。「いるようです」というのは、私は、宮本さんの『泥の河』と『道頓堀川』は読んでいるのですが、この『蛍川』は未読のように思います。『蛍川』は富山のいたち川が舞台だったんですね。今回は、扇状地と災害、そして源氏鶏太と宮本輝、いろいろ勉強になりました。
富山の薬屋「池田屋安兵衛商店」
▪️富山といえば、「薬売り」今回の富山旅行(2月19日~21日)では、江戸時代からの歴史をもつ池田屋安兵衛商店を訪問しました。なぜ富山で薬なのか、気になりますよね。特に、富山で薬草がたくさん生産されていたわけではなくて、江戸時代の殿様の経済振興策だったんですね。勉強になりました。では、原料はどこから?こういう資料を見つけました。今は便利です。旅行中に、スマホで調べることができます。
▪️トップの写真ですが、これは昔使われていた丸薬製造機のようです。かつては、一粒ごとに手で丸めて作っていたそうですが、この機械ができてから量産できるようになったとのこと。これは体験学習用で、本物の丸薬ではありませんが、粘土のような感じでしょうか。何か簡単にできそうですが、私がやってみると潰れてしまいました…。
▪️少し説明しないと、この製造機がどういう仕組みになっているのかわかりませんよね。すみません。垂直に立っている部分に、薬の原料が入っています。この垂直の箱の一番下には、横一列に、とても小さな穴が空いています。薬の原料に上から圧力をかけると、この横一列の穴から少しだけ出てきます。穴から少し出た薬を包丁のような道具で切り取ります。包丁のような道具には、粒が、横一列に並びます。それをこの垂直の部分の手前にある黒い部分に並べていきます。写真では、11列並んでいます。こうやって並べた後に、この上から少し重い四角い蓋のような道具で押さえつつ丸くなるように動かします。お店の方がやると、丸くなるのですが、上にも書きましたが私がやると潰れてしまいました。難しいです。
▪️私自身は経験がありませんが、子どもの頃は、富山の薬売りの方が各家庭を訪問されていました。使った薬の分だけ代金を徴収して薬を補充する。そういう商売の仕方でした。柳行李は薬売りの方がこの行李に薬を詰めて遠方のお店や家庭を訪問されていたわけですね。その横は薬箱ですね。看板の展示、左の方は近江国日野町と書いてあります。岡寶充堂…かな。右の岩盤の下に、こんな張り紙が。「越中富山の反魂丹 鼻くそ丸めて万金丹 それをのむ奴ァあんぽんたん」。これも子どもの頃ですが、「鼻くそ万金丹」という言い方をしていましたね。思い出しました。子どもが鼻糞を丸めたりいじったりしていると、そう言ってその子を囃したわけです。
「シリーズ 環境社会学講座」第6巻
新刊3/18頃発売
シリーズ 環境社会学講座 6
宮内泰介・三上直之編『複雑な問題をどう解決すればよいのか—環境社会学の実践』https://t.co/2ZFGoz5QJE環境問題は複雑な問題の束である。解決が難しく、何が解決なのかがわかりづらく、解こうとするほどもつれ、解決したらまた別の問題が生まれてくる。 pic.twitter.com/6ZIjuLKN2m
— 新泉社「シリーズ 環境社会学講座」 (@env_socio_shin) February 13, 2024
▪️3月18日に発売されるそうです。第5章「多層的なガバナンスから流域環境問題の解決を考える――琵琶湖流域における協働の試みから」を執筆しました。ぜひ手に取っていただければと思います。この書籍のタイトルは『〜どう解決すればよいのか』ですが、私自身は、「こうすれば良いのだ」などということ一言も書いていません。むしろ、自分の研究上でいろいろ悩んた上で、つらつら考え方ことを書いています。けっこう、ある意味辛いことでした。だから、自信満々の話ではありません。もし、「こうすれば良いのだ」ということが書かれていることを期待されている方がいらっしゃれば、それは違うと思いますので、あらかじめ申し上げておきます。とはいえ、繰り返しになりますが、ぜひ手に取って、できればお読みいただければと思います。