震災発生から6日後に収録されたパペポTV (上岡龍太郎・笑福亭鶴瓶)


■滋賀県で高校の先生をされている知り合いの方が、この動画に関してfacebookに投稿されていました。23年前に起こった阪神淡路大震災のあと、6日後に収録されたテレビ番組です。当時、大変人気のあった「鶴瓶上岡パペポTV」という番組です。笑福亭鶴瓶さんと、今は引退された上岡龍太郎が出演するトーク番組です。1987年4月14日から1998年3月31日まで放送されました。さて、知り合いの高校の先生の投稿には、このようなメッセージが添えられていました。「鶴瓶師匠が言うてること、当時自分が感じたこととほぼイコールです。お時間あるときに、見てください」。

■その先生は、西宮で被災されました。当時は西宮で中学校の先生をされていました。その中学校には多くの方達が避難され、そこで被災者の皆さんに懸命に対応されたようです。さて、鶴瓶さんと上岡さんが語られている内容の細かな点や事実認識については様々な異論があるかもしれませんね。ただし、特に、鶴瓶さんの報道のあり方に対する意見については、共感される方が多いのではないかと思います。知り合いの先生が「鶴瓶師匠が言うてること、当時自分が感じたこととほぼイコールです」というご指摘、被災地と非・被災地との間にある圧倒的な非対称性の問題でしょうか。あるいは、最近、しばしば言われる言葉であれば、「災害ポルノ」(disaster porn)の問題でしょうか。自らも被災者である鶴瓶さんと上岡さんの間にも、若干、そのような非対称性を私は感じてしまいます。(この動画は、YouTubeに2015年にアップして公開されたようです。テレビを直接撮影しているようなので、画質は相当悪いですが、著作権的に問題があるとの指摘があるかもしれません。それでも、有益な動画と判断し、リンクさせていただきました。)

■この動画と関連するネットのインタビュー記事を見つけました。「【熊本地震】「“震災ポルノ”ではなく潜在的課題を報じて」農村社会学者が感じた震災報道の “違和感”」です。インタビューを受けているのは、農村社会学者の徳野貞雄さんです。熊本大名誉教授で、一般社団法人「トクノスクール・農村研究所」の理事長もされています。徳野さんは、熊本地震が「マチ型震災」と「ムラ型震災」の複合型震災であるにも関わらず、マスコミの報道が限定された結果、「マチ型震災」ばかりがクローズアップされている点を指摘されています。目に見える分かりやすい「マチ型震災」に報道が集中し、農山村部の被害状況についてはほとんど報道されていないという指摘です。加えて、以下のような指摘もされています。「震災ポルノ」(=「災害ポルノの問題」)です。

「ムラ型震災」に限ったことではないが、目に見えにくい被害を、もっと多く伝えてほしいと強く願う。例えばトイレ問題。人間、排泄を長い時間我慢することは難しい。特に女性や高齢者は、発災直後、どこで排泄するかという問題に直面した。こうした課題を報じることで、地震の経験が日本全体で共有・蓄積されていく。
目に見えにくい被害に共通するものは「日常生活の解体」だ。これを早期に復旧させるために、報道や研究者はこのテーマにもっと注目してほしい。
今回の熊本地震で特に感じたことだが、テレビや新聞は「心の交流」などと、心温まるエピソードを紹介しすぎだ。もちろん、こうした報道には、人々を勇気付けるという素晴らしい目的がある。しかし、それも度が過ぎると“震災ポルノ”となってしまう。被害のあった建物や橋などの映像も、明らかに多すぎる。何でもバランスが大事。マスコミは“震災ポルノ”ではなく、目に見えにくい潜在化した課題について、しっかり報じるべきだ。

ーー“震災ポルノ”とは?

徳野氏:目に見える感動しやすい部分を、安易に取材して記事化したものを指す。報じたとしても、課題が解決されることはない。

■最近は、この「震災ポルノ」=「災害ポルノ」だけでなく、「貧困ポルノ」や「感動ポルノ」(障がい者の存在がメディアなどによって過剰に感動的に演出され、非障がい者の消費の対象になっている)等、いろんなところでこの「〜ポルノ」という言葉が使われています。ショッキングな言葉だからでしょうか(これらの言葉自体は少しインフレ気味かもしれませんね)。困難な問題に抱える人びとに寄り添うようでありながら、その問題を、外部からのステレオタイプな関心(あるいは好奇心)によって「消費」していることの問題性を、徳野さんは指摘しているわけです。被災地の外部の人の好奇心の入り混じった関心に合わせて、情報が切り取られ、強調され、提供されていくことの結果、「ムラ型震災」が無かったかのように扱われ、目に見えにくい潜在化した課題も伝えられない…ということになっているのです。

■冒頭の「パペポTV」で鶴瓶さんが必死に伝えようとしていることは、「自分たち被災者は災害ポルノとしてマスメディアで消費されている」一方で、現実の本当に困っている問題、徳野さんの指摘で言えば「目に見えにくい潜在化された課題」にはなんら社会的な対応がなされず、被災地とその外部の非・被災地との間に大きな落差が存在している…ということなのだと思います。阪神淡路大震災、東北大震災、熊本地震…。この問題はずっと変わっていないのかもしれません。私も含めて、外部にいる人間は、いつでも、簡単に、この「ポルノ」の罠に絡め取られてしまう危険性を抱えています。

朽木村古屋の坂本家のこと

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■先週の金曜日、ゼミの卒業生である坂本昂弘くん(脇田ゼミ6期生)、そして坂本くんの叔父さまと一緒に呑むことになりました。少しその背景を説明しておきます。昨年の夏、大学の先輩でもある写真家・辻村 耕司さんのご紹介で、朽木古屋(高島市)の「六斎念仏踊り」を拝見することができました。そして、坂本くんと再会し、坂本くんのご一家ともお話しをすることができました。詳しいことは、以下のエントリーをご覧いただきたいのですが、いよいよ坂本家三代の皆さんにお話しを伺うことになりそうです。

朽木古屋「六斎念仏踊り」の復活

■場所は、当然のことながら、大津駅前のいつもの居酒屋「利やん」。酒を楽しみながら、叔父さまから古屋での山村の暮らしや、一家で山を降りてからも、家や家産として山を守るために古屋に通い続けて来たことなど、いろいろお聞かせいただきました。坂本くんも、普段、親戚が集まっても、自分のルーツについて詳しい話しを聞くこともなかったらしく、叔父さまの話しを真剣に聞いていました。

■坂本家の皆さんにお話しを伺う準備として、朽木が高島市に合併される以前の1974年に発行された『朽木村史』と、高島史に合併されてから、2010年に発行された『朽木村史』の2つを入手して朽木のことについて勉強をはじめました。良い仕事ができるように頑張りたいと思います。

琵琶湖の鴨猟と朽木の木地師

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■過去2年間、私の研究室は物置のようになっていました。研究部にいることが多く、研究室の椅子に腰を押し付けて仕事をすることがほとんどありませんでした。ということで、ひさしぶりに、研究室で「断捨離」を断行しつつ、徹底的に整理整頓を進めています。なかなか作業は進みません。というのも、ついつい「発掘」した資料や書籍に目を通してしまうからです。そうしていると、ずいぶん昔に、ある方から頂いた新聞記事を書架から取り出すことになりました。ある方とはどなたなのか…。私も記憶がはっきりしません。

■ひとつは、昭和35年(1960年)12月28日の京都新聞の夕刊です。今は禁猟になっている琵琶湖の「モチ網猟」の記事。記事によれば、この当時は、すでに「モチ網猟」は琵琶湖だけしか許可されていませんでした。しかも、猟銃ブームのあおりを受けて、伝統的なこのモチ網を使った猟もこの時点でかなり衰退していたようです。当時の琵琶湖の漁師の皆さんの服装が興味深いですね。普段は漁師ですが、鴨猟の時は猟師かもしれません(この「「モチ網猟」については、後で補筆します)。

■「モチ網猟」の記事はもちろんなのですが、下の広告の類もとても興味深いなと思いました。「急告」いうものが掲載されています。「急告 トモオちゃん帰ってちょうだい死なないでください みわこ」。なんだか内容は切実ですね。果たして「みわこ」さんの思いが「トモオちゃん」に伝わるのか…心配になりますよね。しかし、昔の新聞には、こういうのがよくありました。そえいえば、ずいぶん昔のことになりますが、駅の改札口の横には、チョークで書く伝言板がありましたよね。スマホとアプリを使って簡単に連絡がとりあえることが当たり前になっている学生の皆さんには理解できないでしょう。

■旅館やホテルの広告も興味深いですね。宿泊と休憩の料金設定は、当時の時代状況、住宅事情を反映しているのです。詳しくは、こちらの記事に詳しいのでご覧いただければと思います。それから「とんかつとテキ 羅生門」。テキとは、ステーキのテキ、ビーフステーキ=ビフテキのテキのことだと思います。この店は、有名だったようです。そして藤井大丸の広告。「インスタントの時代!」。現在とは、インスタントという言葉の使い方が少し違いますよね。まあ、古い新聞の広告を見ているだけで次々と面白い「発見」があります。

■鴨の話しに戻ります。私は、堅田にある「魚清楼」という料亭に2回ほど行ったことがあります。いずれも、3月です。「ホンモロコの炭火焼」と「鴨すき」をいただきました。とても美味しかったわけですが、鴨は琵琶湖産ではありませんでした。琵琶湖を泳いでいる鴨については、現在では、禁猟で食べることができません。1964年(昭和39年)から禁止になっています。中居さんのお話しでは、このお店の鴨は北陸の方から仕入れているとの話しでした。

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■琵琶湖の鴨猟の記事は1960年(昭和35年)でしたが、こちらは記事は1978年(昭和53年)です。しかし、活字が小さいです…。昔は、こんな小さい字をみんな読んでいたのです…すっかり忘れてしますが。それはともかく、です。こちらは、琵琶湖ではなく朽木村の木地山と福井県の小浜を結ぶ木地山峠の話しです。木地山の木地師は、昔から全国的に知られていました。私はよく知らないのですが、少し調べてみると、山の高いところの樹の伐採を保証する「朱雀天皇の綸旨」の写しを所持し、諸国の山々を漂白しながら生活していたようです。この辺りは、曖昧です。もっと勉強しなければなりません。しかし、明治時代になると、地租改正が行われ土地所有のあり方が大きく変化する中で、土地の所有者の許可がなければ樹を伐採することができなくなりました。

■木地山の人々は、このような社会の変化の中で、なんとか地元の住民としての森林を所有する権利を獲得することになります。しかし待望の山林を手に入れても木地師たちは、結局、木地山からいなくなってしまいました。記事には、こう書いてあります。「待望の山林を手に入れたが、明治に入って売り物の菊の御紋入り作品が不敬罪でつくれなくなり、目に見えてさびれ、木地師たちは急速に姿を消した」のだそうです。かつて、惟喬親王を祖とする木地師たちは、黒地の盆や膳に朱色で皇室と同じ16べんの菊紋を用い、全国的に知られていました。木地師の中でも、付加価値のついた木工品を生産していたのです。ところが菊紋が使えなくなり、そのような付加価値は失われてしまいます。一部の木地師は炭焼きに転向したようです。かつて木地師が通った峠の道は、炭の道になっていきました。

■木地師や木地山ではないけれど、昨年の夏、朽木で林業に従事していた方達と出会いました。日本の林業不況で山を降りたご家族です。そのご家族にお話しを伺いたいと思っているのです。近々、ご家族の息子さんやお孫さんとお会いする予定になっています。何か、不思議なタイミングで、この記事を再度読むことになりました。

幼いころの未来予想

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■年老いて一人暮らしができなくなった母親。現在、福祉施設に入所しています。母が昨年まで暮らしていた自宅、いろいろ整理を始めています。衣類、食器、家具、電化製品、書籍…。できるだけ知り合いの方たちに使っていただくつもりですが、それでも余ったものは、途上国支援の活動をされているNPOに送る予定にしています。衣類については妻が頑張ってくれています。先日は、2階の箪笥に入っている衣類の整理に取り掛かり始めました。すると、写真のような色紙が見つかったというのです。

■左下の方に、ひらがなで「わきたけんいち」と書いてありますね。どうも私が色紙に描いた絵のようです。まだ漢字が書けない、幼い頃なのだろうと思います。鉄道と高速道路…ですね、一応。未来の様子を予想して描いているのだろうと思います。私たちが子どもの頃は、未来の予想図(未来都市とか)のようなものをよく目にしました。そういう社会の風潮の影響を受けているのです。その頃は、社会は「発展」していくものだったし、未来の社会に対しては「夢」がありました。おそらく、今の子どもは、このような絵を描かないんじゃないでしょうか。おそらく50年以上前の作品かと思います。ですから、1960年代ですね。

【追記】■この色紙の写真をfacebookにアップしたところ、このような反応がありました。「同じような絵を私も画きました!(1961年生) 未来=都市、やはり曲線を描いて空中を走る高速道路網・・・のイメージでした。海底都市もあったかな。。。農村の未来って、考えませんでした」。確かにそうです。「農村の未来」という発想は、本当に存在していみませんでした。なぜ、農村の未来を考えなかったのか。当時、社会全体の中で、農村や農業を評価するような風潮はありませんでした。むしろ、否定的な扱いだったかもしれません。「発展から取り残された存在」…というと言い過ぎかもしれませんが。高度経済成長期は、「民族大移動」と言われるほど、農村部から都市部へと若者を中心に人口が移りました。しかし、急激な経済発展が様々な問題を発生されると、その反動のように、「田舎ブーム」が何度か押し寄せることになりました。まあ、両者はお互いの欲望を「写しあっている」のでしょうが。

国立民族学博物館 特別展「夷酋列像 ―蝦夷地イメージをめぐる 人・物・世界―」

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■新年度になり週末もいろいろ用事が入り、兵庫県の介護老人保健施設に入所している母親の洗濯物の交換や見舞いに行くことができませんでした。ということで、木曜日ですが、車を飛ばして母親のところに行ってきました。授業が始まっていないので、会議が入っていなければこういうことも、まだ可能なのです。車で行くことから、吹田市にある国立民族学博物館に立ち寄ることにしました。民博で、特別展「夷酋列像 ―蝦夷地イメージをめぐる 人・物・世界―」が開催されていたからです。以下は、特別展の企画内容です。

極彩色の衣装に身を包み立ち並ぶ、12人のアイヌの有力者たち。松前藩家老をつとめた画人、蠣崎波響が寛政2年(1790)に描いた「夷酋列像」は、時の天皇や、諸藩の大名たちの称賛を受け、多くの模写を生みました。蠣崎波響筆のブザンソン美術考古博物館所蔵本と国内各地の諸本が、はじめて一堂に会します。絵をめぐって接する人、交叉する物、そして日本の内に胎動し始めた外の「世界」。18世紀から現在に続く、蝦夷地=北海道イメージを見渡します。

■展示は、4つのコーナーで構成されていましたが、私は特に、後半の「Ⅲ 夷酋列像をめぐる物」と「Ⅳ 夷酋列像をめぐる世界」を興味深く観覧することになりました。「夷酋列像」に描かれたアイヌの有力者が身につけている衣服は、「蝦夷錦」と呼ばれる絹織物の着物、おそらくはロシア人のコートや靴などを身につけています。アイヌの有力者たちは、北海道、千島、サハリン、沿海地方といった北東アジアの交流・交易によってそれら衣服を得ているのです。この特別展では、「『異人』であると同時に味方の『功臣』であるという、相反する二つの要素を持つアイヌ像」という表現をしていますが、そのような両義的な存在であるアイヌ像を媒介として、鎖国の状況の中で江戸時代の人びとは、外国をイメージしていったのですね。そのことを展示を通して実感しました。「夷酋列像」には、多くの模写が存在していますが、そのような模写を生みだした当時の状況を理解することができました。

■民博に車で出かけたのは初めてだったので、どこに車を駐車していいのかわからず、結局、日本最大級のショッピングモールと言われている「ららぽーとEXPOCITY」の駐車場にとめることになりました。この駐車場からだと、雨の中、民博まで15分ほど歩かねばなりませんでした。母の世話もあり、じっくり特別展を楽しむことはできませんでしたが、満足しました。

研究会議

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■先週の土曜日の話し。朝からの第32回「北船路野菜市」のあとは、神戸に移動しました。神戸大学の一室で、色々・諸々の会議を、懐かしい後輩の面々や、初めて出会う兄弟姉妹弟子筋の皆さんと一緒にもちました。色々・諸々なのです。ここには先輩がいません。私が一番の年寄り。このグループの最長老…ということになります。ということで、仕事もまわってきました。もっとも、本当に大変な仕事や作業については、優秀な40歳代の後輩諸君が全部仕切ってやってくださっています。さすがだ。色々・諸々については、また、このブログでご報告することがあろうかと思います。

20141124torigoe2.jpg ■会議のあとは、22時半まで阪急六甲の近くで呑みました。佐賀大学のFさんと、ひさしぶりにいろいろと話しをすることができました。学会の現状のこと、大学の経営・運営のこと、それぞれの研究や調査のこと、それから親の介護のこと(これは私のことですが)…。あちこちに、種類の異なるいろんな問題が山積みです。

■ところで、このグループの面々は、東北から九州にまで散らばって働いていますので、これからの仕事を進めるために「サイボウズ」といグループウェアを活用することにもなりました。「呑み」はまだまだ続いていましたが、私は奈良の自宅に戻るために、一足早くお暇しました。阪急六甲からタクシーで阪神御影まで移動。阪神御影からは、まず尼崎まで。尼崎からは、相互乗り入れの近鉄に乗って奈良の自宅まで、なんとか最終の1本前に自宅に戻ることができました。それでも、最寄り駅到着は、0時15分。朝から野菜を売っていましたし、かなり疲れました…。

第50回環境社会学会大会(龍谷大学)

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■職場で、環境社会学会が開催されます。今回は、龍谷大学で開催されます。といっても、会場は京都の大宮キャンバス、担当は政策学部の先生です。私はといいますと、学会誌の編集委員会が企画した書評セッションでコメンテーターをつとめます。書評の対象となるのは、茅野恒秀さん(信州大学)が今年出版された『環境政策と環境運動の社会学―自然保護問題における解決過程および政策課題設定メカ ニズムの中範囲理論』(ハーベスト社)です。著者である茅野さん自身が解題をおこない、そこにコメントをしてディスカッションをすることになっています。初めての企画らしく、はたしてどれだけの人たちが来てくださるのか不明です。同時に、複数の自由報告の部会が開催されていますし…。当日、環境社会学会に参加される皆さんには、ぜひお越しいただければと思います。よろしくお願いいたします。

人口減少地図(日本経済新聞)

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人口減少地図 統計でみる市区町村のすがた2014/9/24 公開

■あとで、きちんと本文を書きたいと思いますが、私自身は、これを、そのまま、「鵜呑み」にしてしまってはだめだ…と思っています。

テレビドラマ「サイレント・プア」

20140408silentpoor.png ■最近、「子どもの貧困」ゃ「介護の貧困」に関連する記事を読むことが増えてきました。今回紹介するのは、NHKのテレビドラマ、女優の深田恭子さんがヒロインのソーシャルワーカー役で登場する「サイレント・プア」です。同僚の先生のfacebookへの投稿で知りました。以下が、公式サイトにある番組紹介です。「声なき貧困」…ということですね。声をあげられない人たちの貧困ですね。今日から始まるドラマですが、知り合いの学生たちにも紹介したいと思います。ソーシャルワーカーという仕事の内容についても、知ることができるのではないかと思います。社会福祉に関心のある高校生にも視てほしいと思います。

サイレント・プア――声なき貧困。いま、そんな「見えない貧しさ」が社会に広がっている。それに立ち向かうべく新たに全国各地に登場したのが、コミュニティ・ソーシャルワーカー(CSW) という仕事だ。
里見涼(深田恭子) は東京下町の社会福祉協議会CSWとして、今日も愛する町を駆けまわる。
涼が出会うのはゴミ屋敷の主、引きこもり、ホームレス、若年性認知症など、懸命に生きながらも現代の社会的孤立の淵に沈んだ人たち。彼らに手を差し伸べ、それぞれの人生にふれていく涼だが、そんな涼自身にも独りで抱え続ける絶望的な孤独があった。
人は何度でも生き直せる――この信念で走り続けた涼がその先に見出したのは、自らが手を差し伸べてきた人や町に支えられ、新たな生へと踏み出す自分自身の姿だった。

■こちらは、「女性の貧困」に関する動画です。単身女性の3人に1人が貧困に陥っており、税金を引いた年間所得が112万円未満の人たちが増えているというのです。そういう女性たちは、誰にも相談できず(声をあげられず)孤立感を深めている…そのように解説されています。動画をご覧ください。

【追記】■ドラマということもあり、ソーシャルワーカーの当事者からすると、いろいろ意見はあるでしょうね。たぶん。CSWを、硬直したシステムと戦うヒロインやヒーローのように描きすぎているかな…とは思います。現実のCSWの仕事は、こんな感じではないだろうな〜…と素人でも思います。学園ドラマを視て、学校の先生が「違うよ…」というのや、刑事ドラマを視て、警官が「違うよ…」というのと同じかな。でも、来週もたぶん視ると思います。それにしても、米倉斉加年さんも、香川京子さんも、こういう年齢になっておられるのですね。米倉さんは80歳、香川さんは83歳?。であれば、香川さんは、毎週介護をしている自分の老母よりも年上でいらっしゃる…。驚きました。

メタレベルを強く意識する

■大学院生に指導をするとき、昔、自分が院生時代に読んだ本の話しをすることがあります。たとえば、佐伯胖さんの『認知科学選書10 認知科学の方法』(1986年)です。この本の1章から4章までのところで、佐伯さんは、「メタ理論の吟味」の重要性について述べておられます。そのうち、1章はズバリ「おもしろい研究をするには」です。タテ糸、ヨコ糸、ナナメ糸という比喩的な表現を使いながら説明されています。少しだけ紹介しましょう。

■タテ糸とは、「それぞれの研究テーマに関する過去から未来へ向けての研究の歴史的な流れ」であり、「過去にどのような人がどのような主張をし、どういう反論を経てどういう変化をしたのか」といったような、「一貫した問題意識と主義主張」の系列のことです。ただし、このタテ糸だけでは研究はおもしろくなりません。そこでヨコ糸です。ヨコ糸とは、「異なる分野での同じような考え方、理論、モデル、主張」のことです。佐伯さんは、このように述べられています。

当面の研究テーマの従来のバラダイムを一応踏襲しながら、その中で、従来研究の発想の限界を飛び越えた、あたらしい研究をはじめるため、他の領域からヨコ糸をはっぱってきてよりあわせる、ということならば、それほど困難なことではない。そういう例はいくつもあるのだが、発表された論文ではヨコ糸は陰に隠されて、読み取ることがむつかしくなっていることが多い。そういう隠れたネタを探り出し、「ははん、発想はあそこから取ったな」ということをあばいてみるのは、自分の研究をすすめるときのよいヒントになる。

■しかし、タテ糸とヨコ糸だけで研究がおもしろくなるわけではありません。佐伯さんは、ナナメ糸が必要だといいます。ナナメ糸とは、「それぞれの時代のそれぞれの考え方に対する『批判』の流れ」です。というのも、「すべての研究は『何かに対する』研究であり、『闘う相手』がいるはず」だからです。

そういう闘う相手をどこまで深く、広く意識した研究であるかによって、その研究の「おもしろさ」がきまるのだといってよいだろう。つまり、対立する仮説や考え方をどこまで徹底して「つぶして」いるか、それが相手にはどこまで深刻な打撃になっているかということが読み取れたとき、人は知的に興奮をおぼえる。

■ナナメ糸とは、「自らの闘う相手=敵手」をどこまで深く認識しているのか…ということと、関係しています。もちろん、「闘う相手=敵手」とは理論的・学説史的なものですが、おわかりいただけますよね。自分が闘う相手が「自明」としている点を、その足元から揺さぶりをかける(深刻な打撃)を与えるには、それなりの鍛錬がいります。自分自身の経験、そしていろいろ指導をしてきた経験からすると、そのような鍛錬ができるようになるのは博士課程(博士後期課程)からなのかなと思います。研究者として自立・自律していくプロセスでこのような能力を獲得する必要があります。言いかえれば、メタレベルを強く意識する必要があるのです。

■学術雑誌の査読や編集作業を長年やってきました。一番困るのは、このメタレベルをきちんと意識できていない論文です。そういう論文は、とりあえず分析っぽいことをしていますが、自分自身で論文の価値をうまく浮かび上がらせることができていません。「ほんで、どないやねん!!」と、ツッコミを入れたくなるのです。一応、冒頭の課題設定の節では、それらしいことを書いてはいるのですが、さっぱり理解できません。そういう論文の多くは、自分が闘う相手=敵手がわかっていないことが多いように思います。闘う相手が設定できても、ピントはずれな議論を展開して、闘う相手に深刻な打撃を与えることができていないばあいもあります。そうすると、結果として、分析の視点は焦点化していきません。これは大変困ったことです。比喩的な言い方をすれば、出汁が効いていない料理のような感じ…とでもいえばよいのでしょうか。

■もうひとつ、困ったことがあります。それは、一見、メタレベルを意識しているようでいながら、それが「借り物」であるばあいです。師匠である先生から学問的なトレーニングを受けるなかで、武道でいうところの「型」を身につけていきます。たしかに、それはメタレベルを認識する力でもあるわけです。「型」を身につけることは、その学問の「流派」の先人たちが蓄積してきた力をみにつけることでもあります。それはそれでよいのですが、下手をすると、そのあたりが無自覚なままになってしまう危険性があります。「型」のもっている「怖さ」も同時に知らなければ、単なる先生の「モノマネ」「サルマネ」のような論文になってしまいます。先生とは、扱う対象や事例が違ってはいても、わかる人が読めば、「モノマネ」「サルマネ」の論文にしか読めないのです。時々こういう話しを聞きます。「あの人たちは、どれを読んでみても、みんな同じようなかんじの論文しか書けないのだね…」と。

■「エピゴーネン」という言葉があります。「先行する顕著な思想や文学・芸術など追随をし、まねをしているだけの人。独創性のない模倣者・追随者を軽蔑していう語」のことです。そこまでいうと言いすぎかもしれませんが、自分自身の力でメタレベルを洞察し整理してほしいのです。とってつけたような学説史の整理や、「またそういう落とし所か…」(メタレベルの金太郎飴)というような感想をもたれてしまう論文は、あまり評価できません。こちらについても比喩的な言い方をすれば、スーパーやコンビニでよく売れている化学調味料で無理矢理まとめた味…という感じでしょうか。残念ながら「おもしろい研究」とは思えません。メタレベルで闘っていない論文は、おもしろくないのです。

■大学院生の指導に関して、次は、論文の構造ということについて書いてみたいと思います。

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