大規模地震の被害と対策に係る映像資料【南海トラフ巨大地震編】-全体版(17分)-

「中津川に住もう!」

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■岐阜県の中津川市役所から写真のような資料が送られてきました。私は、中津川市で「中津川市地域づくり型生涯学習実践講座」の講師を時々させていただいています。今年度は、まだ中津川市に伺えていませんが、昨年まで何度も市内のいろんな地域を訪問させていただきました。講師ということになっていますが、市民の皆さんの前で何かを話すというスタイルではなくて、あえて市内各地域で様々な活動をされている皆さんと車座になっておしゃべりをする・・・そのようなスタイルでさせていただいています。基本は、「へ~、すごいですね~」「あっ、めっちゃ素敵ですやん」「ほ~おもしろいですね~」と聞き役に回る形のなかでの交流です。

■さて、送られてきた資料ですが、中津川市の定住推進部が発行しているものです。あえていえば、「自然と文化、そして様々な地域活動が取り組まれている魅力的な中津川市に移住しませんか?」というメッセージを都会の皆さんにスタイルになっています。「中津川に住もう!」というタイトル入ったパンフレットには、中津川市に移住されてきた方たちが語る中津川での暮らしの魅力に関するインタビューや、市内各地域の特徴が紹介されています。

■全国の多くの自治体で、定住促進の取り組みが行われています。先日も、高島市に移住した若いご夫婦と少しお話をするチャンスがありました。ITエンジニアとクラフト作家のご夫婦です。高島市に古民家を見つけて、そこを自分たちの手でリフォームして暮らしておられます。自然が豊かで、移住を歓迎する自治体の取り組みも充実しており、奥様がクラフト作家であることから、そういう工芸関係の方がたくさん工房をお持ちの高島市が気に入ったとのことでした。そうそう、大切なことを忘れていました。移住の決定打になったのは、ご主人のお仕事の関係からだと思いますが、高島市のインターネット環境が優れている点だとのことでした。

■滋賀県内の他の地域の実情はどうなんでしょうか。何が、若い世代の移住にとって魅力なのか。若い世代にとって、「ちょっと田舎で、ちょっと都会」の滋賀県の魅力はどこにあるのでしょうか。とてもたくさんあると思います。私自身、今年の春に滋賀に転居して、本当によかったと思っています。いろんな方たちに、特に若い世代の方たちにお話しを伺ってみたいものです。

びわこテンプレート

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■先日、浜大津にいくチャンスがありました。ということで、浜大津のアーカスという商業施設にある「湖の駅」に行ってきました。「湖の駅」は、滋賀県の特産品を集めたた常設市場ですが、ここに「コクヨ工業滋賀」が製造している環境や琵琶湖に配慮した滋賀県らしい文房具が売られているのです。今回は、特に、この9月に発売された「びわこテンプレート」を買おうと「湖の駅」を訪問してみました。

■この「びわこテンプレート」は、写真をご覧いただけばおわかりいただけると思いますが、琵琶湖の形を正確に描くことができます。しかも、竹生島や沖島の形や位置も正確に描くことができます。これは、すばらしい。しかも、遊び心があります。晴れ、曇り、雨、雪のマークのほかに、ヨット(琵琶湖)、自転車(琵琶湖一周→びわいち)、城(彦根城)、手裏剣(甲賀忍者)、ダッシュ(飛出し坊や)、カイツブリ(県の鳥、琵琶湖の水鳥)、ナマズ、湖魚・・・等、滋賀や琵琶湖になじみの深いものが描けるようになっています。しかも、左上の「ロクブンノイチ野帳」に最適なサイズになっています。今回は、その「ロクブンノイチ野帳」や、やはりコクヨから発売されている「滋賀のお魚ヨシノート」も購入しました。

■しおりですが、こちらは「ビワクンショウモ」のしおりです。ずいぶんマニアックですね。「ビワクンショウモ」とは、琵琶湖に生息するプランクトンで固有種です。こちらは、「財団法人淡海環境保全財団」の製造・販売です。このような文房具、ぜひ瀬田キャンパスの学生生協でも販売してほしいですね~。

枡田明弘くんのこと

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■昨晩、急なことですが、私のゼミのOBである枡田明弘くんが訪ねてきてくれました。枡田くんは、2014年の3月に卒業で、「北船路米づくり研究会」の3期生でもあります。3期生のリーダーでした。卒業後は、故郷の姫路に戻り、元気に働いています。今回は、休暇を使って旅行中とのことで、龍谷大学社会学部のある大津にもやってきてくれたというわけです。ということで、大津駅前のいつもの居酒屋「利やん」で飲むことになりました。

■枡田くんは、学生時代からしっかりした学生ではありましたが、社会人になったせいか、より落ち着いた感じになっていました。彼は、私のゼミに所属して「北船路米づくり研究会」の活動をしただけでなく、社会学部の「大津エンパワねっと」も履修していました。様々活動をすることで、学生時代をとても有意義に過ごすことができたのではないかと思います。今回は、まずは最近の仕事のこと、近況のことを聞かせてもらいました。そのうえで、自然に話しは昔話しになっていきました。「北船路米づくり研究会」のリーダーとしての苦労話しも聞かせてもらいました。しかし、そのような苦労した経験が、彼の人生を豊かにすることにつながっているようでもありました。その点は、指導した教員としては良かったなと改めて思いました。

■しかし、難しいですね・・・。学生の気質も少しずつ変化しています。いわゆる「スパルタ教育的な指導」が、いつまでも通用するわけではありません。その辺りが、私としてはなかなか難しいなあと思っています。社会人になって仕事をすると、よくわかるんですが。世の中には、自分の教育に絶対の自信をもっている・・・、あるいは自信ありげな感じの教員もおられますが、私はまったくその逆ですね。いつも、いろいろ悩んでいます。特に、学生との年齢差が広がってきて余計にそう思うようになりました。さらに昨年からは研究部長になり、学生と面談する時間が極端に減っています。まあ、頑張るしかないのですが・・・。ゼミの卒業生の皆さん、また、いろいろ、思うところを教えてください。

琵琶湖八珍「琵琶湖は、ほんに凄い!」

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■調査で島根県の宍道湖を視察した時に、「宍道湖七珍(しんじこしっちん)」という言葉を知りました。宍道湖は琵琶湖と違って浅い湖ですが、海水と淡水が混じり合う汽水湖であることから、いろんな種類の魚が獲れます。「宍道湖七珍」は、そのような豊かな生態系を背景にしています。wikipediaではありますが、以下に解説を引用しておきます。

宍道湖七珍は1930年に島根新聞社の記者であった松井柏軒が中国西湖十景に倣って松陽新聞(現:山陰中央新報)に起稿した「宍道湖十景八珍」が始まりとされる[1]。その後、荒木英之が「湖魚四珍」を発案し、松江住民に珍味という言葉を浸透させた。中海の干拓が計画されたことを契機として1958年に発足した「湖に別れを惜しむ会」を中心に湖の珍味を提唱する動きが活発化し、「宍道湖七珍」という言葉が誕生したと考えられている[1]。言葉の誕生後に荒木・木村によって何を取り上げるかが議論され、「スズキ、ウナギ、シラウオ、アマサギ、コイ、アカガイ、ホンジョウエビ」が挙げられ、最初の宍道湖七珍となったが、いつ、どのような経緯を経て現代の宍道湖七珍へ変化したかについては不明となっている[1]。

公益社団法人日本水産学会『日本水産学会誌』Vol.72 No.3 - 馬場幸男「水産談義古今東西-宍道湖七珍」p.520

■この解説で興味深いことは、宍道湖につながる中海の干拓が計画されたことが契機だということです。干拓されれば汽水湖の豊かな生態系はなくなってしまいます。すなわち、人びとの暮らしと湖との関係が切れて、地域の食文化や食材が消えてしまうさいに、この「宍道湖七珍」という言葉が誕生したのです。「湖に別れを惜しむ会」という名称からもそのことがわかります。無くなってしまうことが前提になっています。

■滋賀県の琵琶湖にも「琵琶湖八珍」という言葉があります。2013年末に、県立安土城考古博物館が、来場者への湖魚料理人気アンケートを基に供給量ならど考慮して選定したものです。こちらの言葉の歴史はまだ浅いのです。中海・宍道湖の場合は、干拓によって消えてしまうから…というのが理由でしたが、どうも、琵琶湖の場合は、目の前に豊かな生態系があるにもかかわらず、湖魚を食べる魚食文化が衰退しているという危機意識が背景にはあるように思います。琵琶湖ならではの魚介類を、県内のみならず旅行で滋賀県を訪ねて来られる観光客の皆さんにも味わってもらえるように、「琵琶湖八珍」という言葉での広報活動に取り組んでいるのです。このあたり、背景が中海・宍道湖とはかなり違っています。滋賀県の場合は、琵琶湖の周囲にあった浅い内湖が干拓されましたが、深い琵琶湖は干拓の対象ではありませんでした。

■ところで、この「琵琶湖八珍」の中身ですが、「ビワマス、アユ、ス、ホンモロコ、ゴロブナ、ジエビ、リ、サザ」のことです。アンダーラインを引いたところをつないで読むと、「ビワコハホンニスゴイ」になります。「琵琶湖は、ほんに凄い!!」です。これは偶然なんでしょうか。偶然なんでしょうね〜。このことを発見した方を、心の底から尊敬します。凄いです。

龍谷大学、日本料理アカデミーおよび日本料理ラボラトリー研究会が包括連携協定を締結

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■昨年の4月26日に「龍谷大学農学部の『食と嗜好研究センター』開所式」をエントリーしました。食と農の総合研究所付属「食と嗜好研究センター」の開所式の様子をお伝えしました。「食と嗜好研究センター」では、その後、日本料理の発展を図るため、教育研究及び文化技術等の普及活動に取り組む団体である「日本料理アカデミー」、およびその関連組織である「日本料理ラボラトリー研究会」と研究活動を推進してきました。そしてこの度、その研究成果や実績をもとに、龍谷大学と「日本料理アカデミー」と「日本料理ラボラトリー研究会」の三者で包括連携協定を締結し、日本料理の伝統的な技術に関する研究をさらに推進するとともに、龍谷大学で設置予定の大学院農学研究科における教育・研究体系の構築をしていくことになりました。23日(金)は晩の20時半から、協定の調印式が行われました。私は農学部の教員ではありませんが、「食と嗜好研究センター」が所属する食と農の総合研究所を所管する研究部の部長であることから、この調印式に出席いたしました。

pichio candle

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■25日(日)は、京都西陣の「マヤルカ古書店」で開催されている、「pichio candle」の展示会「ピチオのキャラクターたち」に行ってきました。と言いますか、「pichio candle」の経営者?!でキャンドル作家の並松やよいさんに、ひさしぶりにお会いしてきました!! 並松さんには、昨年の春まで、足掛け6年近くも社会学部「大津エンパワねっと」の事務局に嘱託職員としてお勤めいただき、私たち教員や学生のサポートをしていただきました。本当に、いろいろお世話になりました。龍谷大学をご退職後は、本格的にキャンドル作家として活動されておられます。あちこちの催事に「pichio candle」として出店されているのを、facebookを通して知っていましたが、なかなか伺うチャンスがありませんでした。今回は、やっと並松さんと再会することができました。
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■展示会「ピチオのキャラクターたち」が開催さている「マヤルカ古書店」、とても素敵な古書店でした。西陣にある古民家を利用しておられます。住所を頼りに地下鉄の二条駅から徒歩20分程度のところにあります。最初は、どこにあるんだろうと…と不安だったのですが、路地の入り口に赤い小さな看板を見つけました。そこに「マヤルカ古書店」と書いてありました。路地の奥からは、とっても楽しげな雰囲気が伝わってきました。皆さんも、ぜひ訪問なさってみてください。扱っておられる本の趣味が、私の趣味と重なり合います。また、この「マヤルカ古書店」を訪問してみたいと思います(京都市上京区上長者通千本東入ル愛染寺町488-6)。
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■「マヤルカ古書店」は、1階が店舗で、2階がギャラリーになっています。古民家の昔ながらの急な階段を上ると…、並松さんがおられました!! あらかじめ訪問することをお伝えしてありましたが、再会をとても喜んでくださいました。嬉しいな〜。並松さんは、昔はホルン奏者だったり、中国茶に詳しかったり…いろんな面をお持ちの方なのですが、今はキャンドルの製作に集中されています。もともとは、四角いキューブ状のキャンドルを製作されていたのですが、途中から、コケシの大ファンになられたことから、製作されるキャンドルもコケシのようなキャラクター達になっていきました。並松さんがコケシの大ファンになり、東北のコケシを作っておられる工人さん達のところを訪問されている時期を私は拝見していました。その頃、並松さんは、コケシの魅力について熱く語っておられました。キャンドルのコケシを製作される際、一つ一つ絵付けをされるわけですが、その時がとても楽しい…と語っておられました。手で表情を描かれるのですが、似ているようでも一つ一つに個性があります。見ていて飽きません。私も、並松さんのコケシキャンドルの世界に引き込まれていきました。
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20160927namimatsu10.jpg■この上の2枚の写真は、キャンドル製作のワークショップをされているところを撮らせていただいたものです。私はこのワークショップに参加させていただくだけの時間がありませんでしたが、チャンスがあれば教えていただきたいなあと思います。下の段の右、これは「お洒落さん」というキャラクターです。並松さんは否定されますが、どう見ても並松さんにそっくりです。「pichio candle」の中でも、どうも特別の役割を与えられているキャラクターのようです。そのあたり、詳しい説明をお聞きすることを忘れてしまいました。右の写真は、「pichio candle」のキャラクターの詰め合わせ…のようですね。並松さんのお母様が日曜大工がお得意で、このような展示用のケースを作ってくださったのだそうです。いいですね〜。これ全体を、自宅に飾りたくなりますね。

■さて、この「マヤルカ古書店」の2階のギャラリーでは、10月2日(日)の夜に、定期開催の「キャンドルおはなし会」が開催される予定になっています。この古書店の店主さんが朗読を行い、マダムTという方が語りをされるそうです。語りというのは、本の朗読とは違い、お話し=物語を語るのです。何だか非常に興味が湧いてきました。このイベントで並松さんは、キャンドル作家として会場のキャンドル装飾を担当されています。できれば、参加してみたいと思っています。

彼岸花

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■今年の春から大津に転居しました。自宅には小さな庭があります。以前お住まいだった方が、丁寧に庭の手入れをされてきたおかげで、季節ごとに様々な草花が花を咲かせます。先日、突然、ホワイトアスパラガスのような芽が伸びていることに気がつきました。彼岸花でした。彼岸花は田んぼの土手によく生えています。私の家の庭にも、そのような土手によく似た日当たりの良い場所があるのですが、そこに生えてきたのです。おそらくは、彼岸花の球根を植えられたのでしょうね。

■彼岸花は、人によって好き嫌いの違いが大きいようですね。あまり好んで植えられる品種ではないようにも思います。というのも、お彼岸のころにピタリと標準をあわせたかのように咲くからです。それぞれの家のご先祖様とつながる時期であることから、あの世と結びついているかのようにとらえる考え方もあるようです。墓地などにもよく植えられてきました。そういうことから、不気味なものを感じる方もおられるのでしょう。球根にはアルカロイドが含まれているので、食べることができません。毒ですから。とはいえ、私は、季節限定で咲くこの花に美しさを感じています。写真を撮ったとき、ちょうどカラスアゲハが蜜を吸いにやってきていました。赤と黒。なかかな面白い組み合わせです。

南湖1周42kmウォーキング

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■龍谷大学・保健管理センター主催の「ウォーキング・キャンペーン」に参加し、ウォーキングを始めた7月の当初、9月末までに100万歩を超えることを最終目標に置いていました。先日の木曜日、1人で約42kmのウォーキングをしたことから1日の合計は「58,402歩」。7月からの合計も「1,059,155歩」となりました。とうとう100万歩を超えました(前日にすでに1万歩を超えていたのですが…)。非常に嬉しい。何か達成感があります。

■10月15・16日に開催される「第3回びわ湖チャリティー100km歩行大会」に参加しようと思いたったのは、直接的には、知り合いの社長さんの会社で、社長や新入社員の皆さんがこの100kmウォーキングに参加するとお聞きしたからです。新入社員の中には、私のゼミの卒業生もいます。しかし、もし龍谷大学の「ウォーキング・キャンペーン」に参加していなかったら、永田社長からの刺激も受け止めることができていなかったし、100kmウォーキングの発想も生まれてこなかったにちがいありません。

■6月だったと思いますが、たまたま深草キャンパスの出口で、保健管理センターの部長・課長・看護師のお三人に囲まれて「ウォーキング・キャンペーン」に参加するように強く要請されたことを思い出します。改めて、保健管理センターの皆さんに感謝したいと思います。あの瞬間がなければ、ウォーキングをしていないし、その延長線でランニングも復活させていませんから。さらに体重も落ちていないし、身体を絞ることもできていない。様々な方達との「ご縁」の中で、ウォーキングに励んでいる自分がいる。心より感謝いたします。

■もっとも、この「100万歩」達成も単なる自己満足にしか過ぎません。「ウォーキング・キャンペーン」に参加されている方の中には、軽く200万歩を超えるアスリートの方も多数おられるからです。8月末の段階ですでに100万歩を超えておられる方が、キャンペーン参加者全体で10人もおられるのです。

■さて写真ですが、ウォーキングに出発する前に自宅で撮ったものです。格好だけは一人前ですね。しかし、帰宅後はもうヘロヘロでした。南湖1周とは言っても、守山市・栗東市・草津市のあたりは、かなり内陸を歩いています。この道が、来月開催される「第3回びわ湖チャリティー100km歩行大会」のウォーキングのコースだからです。大津の街中に到着した頃(28km)あたりでは、雨が降り始めました。仕方がないので、なぎさ公園にあるイタリアンレストランで遅い昼食の休憩を取り、その後小雨になった頃を見計らって再びウォーキングを始めしまた。しかし、時期に本降りになりました。最後の13kmは雨の中のウォーキングになってしまいました。かなり辛いものがありました。ということで、ヘロヘロ状態でゴールインしました。

■しかし、本番はこの2倍以上の距離になります。しかも徹夜で歩かねばなりません…。と思うと憂鬱になってしまいます。自分で思いついたことではありますが…。しかし、なるようにしかならないと開き直って、本番までできるだけ練習するのみです。次のロングウォーキングは、10月1日の50kmウォーキングです。滋賀県農政水産部の「世界農業遺産」申請作業チームの皆さんと一緒に54kmを歩きます。今度も南湖1週ですが、南郷の洗堰を渡ります。頑張ります。

城野団地

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■施設に入所している母の家の中の整理をしていると、このような写真…というか絵葉書が見つかりました。これは、私が1964年4月から1968年3月まで暮らしていた団地です。日本住宅公団が建設した城野団地です。福岡県北九州市の小倉区(現在の小倉北区)にありました。この絵葉書、私の推測でしかありませんが、この団地に住んでいる住民の皆さんに配布されたものではないかと思います。ちょっと残念なことに、マジックインキで何やら矢印の線が書き込んであります。この意味は、私にはよくわかりません。団地の集会所と花壇、そして最寄りの西鉄バスのバス停(三艆丸)か近くの小さなスーパーマーケット「丸は」のあたりを指していますが…。

■城野団地には、5階建と庭のついたテラスハウスの2種類の住宅がありました。5階建の方の間取りは、多くは3Kと呼ばれるタイプだったのではないかと思います。団地サイズの小さな畳でですが、6畳の部屋と4畳半の部屋が2つ、加えて板の間のキッチン…という小さな間取りです。私の家も、この「3K」でした。確か、「2215」というのが私の家の番号でした。22棟の1階の左から5番目ということですね。

■この写真=絵葉書を見ると、当時のことがいろいろ思い出されます。団地の外に出て遊んでは絶対にいけないと厳しく言われていたので、団地の中を自転車で走ったり、団地の中央にあるグランドに隣接する公園等で遊ぶことが多かったように思います。グランドでは、盆踊り、運動会、ラジオ体操、映画の映写会…様々な行事が行われていました。グランドに隣接する集会所では、お稽古事の教室が開かれていました。書道や絵の教室、バレエの教室…。私も、書道と絵の教室に通っていました。

■それから、5階建の住宅の間にあるコモンスペースも大切な遊び場でした。シロツメクサが一面に咲いていました。一度、大雪が降ったことがありました。九州ですが、玄界灘に面している福岡の北の方は積雪することがあるのです。その積もった雪で、大人も手伝って「カマクラ」を作ったことも記憶しています。今のように、刺激的なオモチャがあるわけではありませんから、自分の想像力を最大限に膨らませて遊んでいました。

■以下は、以前のエントリーに書いたことからの転載です。

団地に隣接する三郎丸の聾学校(現在の福岡県立小倉聴覚特別支援学校)が写っています。時々、こちらの学校の生徒さんに散髪をしていただきました。理髪の技術を身につける実習のような位置づけだったと思います。近くには、元々米軍基地だった自衛隊基地(松本清張の小説で知られる)がありました。鉄条網で囲まれて、中には歩哨の自衛隊員が銃をもって歩いていました。ドキドキしながら、近所の子どもたちとそばによって話しかけたこともありました…。近くには民族学校もありました。そこでは、赤いネッカチーフをまいた在日の少年少女たちが、左右に腕をふりながら並んで行進の練習をしていました。そのときは、素朴に、自分たちの運動会の練習とはずいぶん違うなあと思いました。まだ、帰還事業が行われていました。少し離れたところには、廃線になった線路がありました。かつて炭鉱につながっていた線路です。石炭を満載した貨車が走っていたのでしょう。私の少年の時には、すでにエネルギーは石油が中心になっていました。そういう時代でした。

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