NHK日曜美術館「死を想(おも)え、生を想(おも)え。 写真家・藤原新也の旅」
■1o月16日のNHK「日曜美術館」で放送されました。写真家の藤原新也さんの回顧展についてです。以下は、番組の紹介です。日曜美術館の公式サイトからの転載です。
写真家・藤原新也。インド・ガンジス川で撮影した、犬が人の遺体を食べる写真は「ニンゲンは犬に食われるほど自由だ」のキャッチコピーと共に、日本の社会に大きな衝撃を与えた。それからおよそ半世紀、藤原は世界各地で「生と死」を写真と自らの言葉で捉え続けてきた。今年故郷北九州で初の回顧展が開かれるにあたり、写真家は「死を想い、生を想う」撮りおろしの旅にでかけた。78歳となった今、藤原新也が見つめるものとは?
■残念ながら16日の放送は見逃してしまいました。再放送を、予約録画します。再放送は、NHKEテレ1、10月23日(日)午後8時〜8時45分までです。
芥川仁さんの写真展「羽音に聴く」
■火曜日の午前中、大阪中島のキャノンギャラリー大阪で開催されている芥川仁さんの写真展「羽音に聴く」に出かけてきました。芥川仁さんは、普段は宮崎にお住まいになっています。また、全国各地を飛び回って取材旅行をされています。なかなか芥川さんにお会いして実際にお話しできるチャンスもなく、隙間の時間で大阪に出かけることにしたのでした。
■芥川さんは、山田養蜂場の支援を受けて、全国の養蜂家を訪ねて、取材をされています。自然環境の中で、ミツバチと養蜂家の関係を丹念に取材されています。写真はもちろんのことですが、芥川さんがお書きになる文章もとっても素敵なのです。ですが、どうもご本人は「それでいいのかな〜…」、「もっと写真で表現することに集中すべきなのではないのかな…」などとお考えのようなのです。ちょうど、そのようなことを思案されていたところに、私がやってきて「芥川さんは写真はもちろん素敵だけど、読ませる文章をお書きになる」と話してしまったものですから…、今お考えになっていることをお話しくださったのです。短時間だけどちょっと深いお話を聞かせていただくことになりました。
■写真展の作品ですが、働き蜂が口吻を出して花に向かう瞬間を映した写真、卵を産めなくなり巣を追い出された女王蜂の死骸の写真に、「あっ…」と驚きました。素晴らしいな〜。ミツバチの生態がどうなのか、あまりよくわかっていなかったのですが、写真に添えられた文章で理解できました。働きバチは、みんな雌であること。ローヤルゼリーで育てられる雌は交尾産卵能力を有する女王バチになること。卵を産まなくなった女王蜂は、働きバチによって巣の外に追い出されること。女王蜂とは言ってはいるけれど、子孫製造工場の役割を担わされていること…。よく知りませんでした、ミツバチのこと。
■芥川さんは、私よりも11歳年上ですが、すごくお元気です。62歳の自分は、前日は本の編集でへばってしまいました。芥川さんを見習わなくちゃ…と、気合を入れることになりました。そして、「そうだ、こういう時はインデアンカレーだ…」と思い、あの甘くて辛い大阪のカレーを、写真展を観覧した後にいただくことにしました(堂島店)。ルーの大盛りに卵。食道と胃が、焼けるようでした。とても刺激的でした。ひさしぶりのインデアンカレーに驚いてしまったようでした。インデアンカレーで喝を入れて、大学に戻りました。火曜日は3回生のゼミです。そして晩は自宅で本の編集作業を行いました。結局、編集作業は、月曜日から金曜日まで続きました。とりあえず、今月分の作業は終えることができました。でも、まだまだ編集作業続きます。
京都の写真展と植物園
■先週の土曜日、福島あつしさんの写真展「弁当 is Ready」【KYOTOGRAPHIE2020】に行ってきました。土曜日が最終日でしたが、なんとか間に合いました。前日の金曜日、新聞で紹介されていたこの写真展の記事を読んでとても気になったのです。どうしても作品を拝見したくなりました。福島さんは、高齢者の方達に、お弁当を届けて安否を確認する…そのようなアルバイをされながら、サービスを提供する高齢者の皆さんと関係の中で、たくさんの写真を撮ってこられました。ただし、福島さんは、高齢者と自分との関係のあり方に関して、いろいろ悩みながらこの作品を撮ってこられました。私自身、親の介護していた時のことを思い出しながら作品を拝見しました。福島さんの作品と自分の気持ちがどこかで共振したように思うのです。ただ、福島さんが悩んで利用者の高齢者の皆さんに向き合ってきたように、自分は果たしてきちんと親と向き合ってこられたのかな…そのあたり、自信がありません。
■福島さんの写真展の後は、ひ……っさしぶりに滋賀県の外に出たことから(山科駅はのぞいて)、どこか気持ちの良い場所に行こうと思い、北山にある京都府立植物園に行くことにしました。ここ数年、自宅の小さな庭でガーデニングを楽しんでいるせいでしょうね。様々な種類の植物を観察・鑑賞して楽しむことができましたが、一番良かったのは植物園の雰囲気でしょうかね。大正13年に開園した日本最古の公立総合植物園なのだそうです。
50年代・60年代の香港
■香港の50年代・60年代の写真らしいのですが、この街の雰囲気に釘付けになってしまいました。Fan Hoという中国出身の写真家の作品です。大変有名な方のようですね。下の動画もご覧ください。
90年前の京都
■昨日、ネットで偶然に見つけました。「初期のサウンドカメラで撮影されたという1929年の京都の映像」なのだそうです。昭和4年ですね。私が生まれる29年前になります。サウンドカメラとはどのような映写装置なのでしょうね、私にはよくわかりません。それはともかく、当時の京都の皆さんの声が録音されています。着物姿が多いのは当然ですが、日本髪を結った方達が結構おられることに少し驚きました。また、録音からは、下駄や草履の音がたくさん聞こえてきます。
■動画の途中で、少女たちが集まっているシーンがあります。当時の流行歌を歌っています。「君恋し」という流行歌です。戦後、フランク永井によってリバイバルヒットしており、私はそちらのフランク永井の代表曲としては知っていたのですが、昭和初期に20万枚もレコードが売れた曲だとは知りませんでした。面白いと思ったのは、餅の移動販売です。音楽担当の方が、縦に琴を抱えて弾いておられるように見えます。そのほかにも、どこかは私にはわかりませんが、京都の当時の神社仏閣の神事や儀礼の様子が映されています。京都をよく知る人であれば、これがなんであるのか、すぐにわかるんじゃないでしょうか。
「藤原敦写真展『つくろひ』」(三井寺観音堂書院)
◾️出版社「さいはて社」の大隅直人さんからご案内いただき、昨日、三井寺の観音堂書院で開催されている「藤原敦写真展『つくろひ』」を観覧してきました。藤原さんは、滋賀県出身東京在住の写真家です。今回の写真展のメインの展示は、藤原さん作品群『蝉丸』になります。
◾️平安前期の歌人である蝉丸をご存知でしょうか。「これやこの 行くも帰るもわかれては 知るも知らぬも逢坂の関」の百人一首で有名ですね。三井寺から少し離れたところ、浜大津から山科に向かう途中に、この蝉丸を祀った蝉丸神社があります。逢坂山に住み、盲目で琵琶の名手とされています。音曲の守護神、芸能の神様としても有名です。
◾️藤原さんの『蝉丸』は、この蝉丸からインスピレーションを得ているのだそうです。そのようなこともあり、今日は、「琵琶の秘曲をきく 蝉丸に想いを馳せるミニコンサート」も開催されました。琵琶は小野真龍さん、篳篥(ひちりき)は前川隆哲さんが演奏されました。演奏されたのは3曲。「太食調 長慶子」と「高麗壱越調 胡蝶」。この2曲は、平安時代に作曲されたものですが、最後に演奏された「啄木調 啄木〜『三五要録』より」は、唐からもたらされた琵琶の3つの秘曲のうちの1つです。最初の2曲が和風とすれば、この「啄木」は、私の個人的な印象ですが、シルクロードの向こうの地域を連想するような調べでした。とても興味深く拝聴しました。
◾️コンサートは本日のみですが、写真展は11月4日まで開催されます。ぜひご覧になってください。ところで、私は、この写真展で、ハンセン病歌人、明石海人のことを初めて知りました。時間を見つけた、彼の歌集を読んでみたいと思います。
大津市制120周年記念企画展(第76回企画展)「60年前の大津」
◾️大津市は市制120周年。私は今年、60歳、還暦になりましたが、その2倍ということですね。ということで、大津市歴史博物館では、「60年前の大津」という企画展を開催されるようです。このような企画です。
平成30 年10 月1 日、大津市は明治31 年(1898)の市制施行から120 周年、人にたとえれば「大還暦(2度目の還暦)」という節目を迎えます。今回の展覧会では、大津市が還暦を迎えた昭和33 年(1958)を中心に、高度経済長期を迎えて急速に変化する昭和30 年代の市内の移り変わりを、当時の写真や資料で紹介します。
昭和33 年は、大津市にとって新たな出発となる年でした。戦後、米軍(進駐軍)によって使用されていたキャンプ大津が返還され、返還間もないキャンプA地区(現:皇子山総合運動公園)の体育館で、市制60 周年記念式典が行なわれました。
この頃の大津市は、湖岸の埋め立てや山の手の開発などによる市街地の拡大とともに、学校や公共施設などの都市基盤の整備が急速に進められました。これらの様子は、当時の広報誌や市制60 周年の記念誌『還暦』などに多くの写真を使って紹介されています。まさに、現在の私たちが生活する大津の風景や生活の土台は、この頃にかたち作られていったといえるでしょう。
また、本展覧会期間中のミニ企画展は「大津市制の120 年」と題して、明治31 年の市制施行から現在までを市町村合併を中心に、かけあしで振り返ります。加えて、期間限定ですが、西武大津店でも貴重なカラー写真の展示も予定しています。この機会に、これまでの大津市のあゆみについて理解を深めていただければ幸いです。
西岡写真工房
■先週の金曜日(4月14日)のことになりますが総合地球環境学研究所の用務で、プロジエクト研究員の池谷透さんと一緒に、草津市にある「西岡写真工房」に向かいました。こちらの写真館の西岡伸太さんから、いろいろお話しを伺いながら、お若い時にお撮りになった、琵琶湖やその周辺の写真を拝見させていただきました。西岡さんが撮影されてきた琵琶湖の周辺は、国の巨大開発事業である「琵琶湖総合開発」、河川改修等ですっかり姿を変えてしまいました。西岡さんの言葉では、湖岸に凹凸がなくなり、直線的になってしまった…ということになります。自然が生み出した造形美が失われてしまい、直線的な人口的な景観に生まれ変わってしまっているからです。西岡さんは、そのような問題意識の中で、琵琶湖や琵琶湖周辺の写真を撮影されてきました。
■ライティングボックスの上にあるのは、草津市の北山田の昔の風景です。おそらく昭和30年代かと思われます。漁師の男性たが、琵琶湖の湖底からマンガンという漁具で獲ってきた貝を、女性たちが大きな釜で炊いて、貝の身を剥いているところです。このような風景は、もう見られません。西岡さんは、このような琵琶湖と人との関係にも焦点をあてて、写真を撮ってこられました。いろいろお話しをさせていただく中で、私が滋賀県立琵琶湖博物館に勤務していた当時の上司(副館長)である西岡信夫さんの写真の師匠をされていることもわかりました。世間は狭いですね〜。
田中長徳 Panorama Europe 1975 プロジェクト
■大隅直人さんが経営されている大隅書店から、あの田中長徳さんの写真集が出版される企画が立ち上がりました。クラウドファンディングで出版資金を確保することができることが条件のようです。最近、1975年前後に田中長徳さんがヨーロッパ各地で撮影されたパノラマ写真のヴィンテージ・プリント232枚が発見されたことからこの企画が始まったようです。詳しくは、以下をお読みください。
田中長徳 Panorama Europe 1975 プロジェクト
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中島省三 写真展
■中島省三さんは、大津市在住の映像作家です。大津の街中を歩いていると、よくスポーティーな自転車に乗った中島さんと出会います。お会いすれば、そこでしばらく立ち話しをさせていただきます。1940年のお生まれですから、現在76歳。大変お元気です。先日は、ご自身の写真展を、あの三井寺で開催するというお話しを聞かせていただきました。「三井寺秋のライトアップ2016」というイベントとの関連で開催されるようです。昨日のことですが、中島さんから「中島省三 写真展」の案内のハガキが届きました。軽飛行機のイラストもはいっています。そうなんです。中島さんは、飛行機から琵琶湖の映像をたくさん撮ってこられました。写真展は、11月18日(金)から27日(日)まで、三井寺観音堂書院で開催されますが、26日と27日には、飛行機から撮影した「16ミリフィルム上映会」が特別に開催されます。中島省三さんの「俺の見た琵琶湖(1980)」と「水のエスキス」という作品が上映されます。
■中島省三さんとの出会いは、かなり以前のことになります。私が、滋賀県立琵琶湖博物館の開設準備室に勤務している時代ですから、今からもう20年以上前になりますね。博物館の開設にあたっては、中島さんにもいろいろお世話になりました。それ以来、いつも親しく接していただいています。ありがたいことです。以下は、中島省三さんの公式サイト「中島省三フォトギャラリー」から引用したものです。「ウェブサイト開設にあたって」書かれた文章です。ここには、中島さんの映像作家としての、琵琶湖に対する深い思いが表現されているように思います。
1966年6月30日私は飛行機の練習を始めるため大津市にある際川の小さな飛行場から教官同乗で飛び立った。機はみるまに高度2000フイート、眼下に広がる琵琶湖は青く美しい水と光を受け緑色に輝く葭原が湖の湖岸を形成していた。私が琵琶湖を初めて空から見た日でした。それから12年後1988年5月27日八尾空港より淡水赤潮を取材するため琵琶湖へ向かった。大津上空撮影のため高度を下げると突然異臭が機内に魚の腐ったような臭いが立ち込める。湖面は醤油色染まっている衝撃が私の体に走った。あの美しい水は何処へ、たった10年あまりの事でそのころから私は琵琶湖の変化に興味を持ち始めた、そして滋賀の自然と琵琶湖守る会の人たちと出会い琵琶湖総合開発が始まると湖の自然環境の破壊が進み大変な事になるのではといつも会合で話題になっていた。
1979年に入ると開発工事が湖のいたるところで始まった。私の自主製作の映画を撮り始めるきっかけにもなったのが琵琶湖総合開発であった。愛機アリフレックスに16ミリフイルムを詰め湖の風景や開発による湖岸の破壊状況を記録し始めた。湖の様子は分きざみで変化してゆく様子を追われるように撮影をしたそして1年、1980年映画俺の見たびわ湖が完成、朝日新聞で紹介され話題にもなり貸し出しも40件ほどあった。以後私は毎年工事による湖の環境破壊をもの言わぬ湖の代弁者として記録美しい波や消え行く湖岸、そしてアオコや赤潮を琵琶湖からのメッセージとした映画やビデオをいままで20本製作してきました。1991年俺の見た琵琶湖1991を完成させたころには琵琶湖の美しい葭原は開発工事により消滅したりダメージをうけていた。滋賀県は1992年ヨシ群落保全条例をつくった。ヨシ群落を破壊したのは琵琶湖総合開発である事は言うまでもない。
今琵琶湖総合開発の功罪を議論する兆しが聞かれるが、今こそ開発を見なおして湖を主に自然環境の事を考え早く美しいヨシ群落のある湖に再生してほしいものだ。1980年頃ドキュメンタリーの映画でインタビュした時の近江舞子(雄松ヶ崎)に住む老漁師の話がいまも私の脳裏に浮かび上がる。もうこれ以上琵琶湖をオモチヤにしたらあかんと言う言葉が印象のこっている。浜大津から膳所への湖岸は人工的美しく近代的な建物が立ち並ぶがヨシは1本としてない、また空から見る風景では烏丸半島と由美が浜の人工の白浜が薄汚れた湖面と対照的に白く美しく輝いている。これからも私は負の記録者としてしずかに琵琶湖の行く末をながめてゆこう。
映像作家 中島省三 2000/7/20