庭で孵化したトンボ

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20230531ynma2.jpg■朝、我が家の小さな庭を巡回中、小さな庭の中のさらに小さな池に、大きなトンボを見つけたのでした。じーっとしています。どうしていつまでもここにとまっているのかなと不思議に思い近づいて観察すると、脱皮をした後、体を乾かしているところのようでした。さらに、顔を近づけて観察すると、水面から突き出た水草にとまっているのではなく、そこにはヤゴの抜け殻があり、その抜け殻にとまっているのでした。

■さあて、これはなんというトンボでしょう。大きさからすると、オニヤンマではないかと思うのですが、素人の同定はあてになりません。脱皮したばかりだと色もだんだん変わってくるだろうし…。帰宅後、ヤゴの抜け殻から推測してみることにします。でも、こんな池でよく羽化できましたね。ひょっとして、池の中のヒメダカを「絶滅」に追いやったのは、このトンボなのかな。ヒメダカは餌にされたのかな〜。

■しかし、今日は、朝からちょっと興奮し感動しました。子どもみたいですけどね。子どもの時は、こういう興奮や感動がたくさんあったのでしょうね。これから歳をとってまた子どもにかえっていくのだから(二度童というらしいですが)、少しずつ興奮と感動が増えないかな〜と思いますが、まあ無理ですかね。

【追記1】
■この投稿とほぼ同じ内容をfacebookに投稿したところ、滋賀県立琵琶湖博物館で学芸員をされている金尾滋史さんから、コメントをいただきました。「ヤブヤンマっぽいですね。成熟したこのトンボのオスの眼は非常に美しいですよ」とのことでした。オニヤンマではなくて、ヤブヤンマなのだそうです。

【追記2】
▪︎その後、庭の池に残されたヤゴの抜け殻を水草ごと採取、今はリビングに飾ってあります。
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タイサンボク

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20230531taisanboku3.jpg■車で自宅から5分ほどのところにある直売所で売っていたようです。立派ですね。大きいです。タイサンボク(泰山木)というのだそうです。名前にある泰山からすると中国原産かなと想像しましたが、全然違っていました。北米の南東部が原産なんですって。アメリカのルイジアナ州とミシシッピー州ではタイサンボクが州花なのだそうです。立派な花です。fb友達の中にも、このタイサンボクのことをご存じの方も多数おられるのでしょうね。私は、残念ながら知りませんでした。

■我慢できずに先にネットで調べてみましたが、やはり実際にどんな具合に花が咲くのか確認しないとね。開花時は香りが強いとのこと、これもまた楽しみです。当初、大きな蕾の上には薄皮があったのですが、蕾が膨らんでくると破れて落ちました。寒さから蕾を守るためのようです。中からより白っぽい蕾が現れました。2枚目の写真。蕾が大きくなってきて薄皮が割れていますね。この薄皮がポロリと落ちます。どんな感じで花は咲くのでしょうね。なんだか、「パカっ!!!」という音がしそうです(実際にはしないと思いますけど…)。

■このタイサンボク、直売所で売っているということは、直売所に野菜を出荷されている農家さんのお庭か裏山なんかに植えてあるんでしょうかね。できれば、実物を拝見させていただきたいなあ。

『ワイルドライフマネジメント』(梶光一 著)

20230531kajikoichi.png■著者の梶光一先生に送っていただきました。ありがとうございました。『ワイルドライフマネジメント』。このような本です。

課題解決型研究の方法論を示す
野生動物とともに生きるために――シカ、クマ、イノシシなどの野生動物と人間との関係が保護から管理へと変化してきた歴史をたどりながら、科学と政策の視点から、これからの野生動物管理システム、野生動物管理教育、野生動物管理の日本モデルについて提言する。
【主要目次】
はじめに
第1章 有蹄類の爆発的増加――個体群動態をめぐる議論
第2章 個体群動態――洞爺湖中島のシカ
第3章 シカ管理――知床・イエローストーン・ノルウェー
第4章 定点観測と長期モニタリング――個体群変動のプロセスとメカニズム
第5章 フィードバック管理――順応的管理へ向けて
第6章 世界の野生動物管理の歴史――自然を管理するということ
第7章 日本の野生動物管理の歴史――保護から管理へ
第8章 個体群管理から生態系管理研究へ――ランドスケープの視点
第9章 野生動物管理システム研究――研究経営論
第10章 人口縮小時代の野生動物管理――持続可能な地域のために
第11章 野生動物はだれのものか――野生動物管理とステークホルダー
第12章 大学の野生動物管理専門教育――実現に向けた取り組み
第13章 野生動物管理の日本モデル
おわりに
さらに学びたい人のために

■梶先生ご自身の研究を総括するようなご著書だと思います。梶先生は、野生動物の管理のための文理融合型研究を進める際に、私たちが琵琶湖の流域管理で提案した「階層化された流域管理」(『流域環境学 流域ガバナンスの理論と実践』,2009,京都大学学術出版会)の考え方を積極的に取り入れてくださっていました。そのことを、このご著書の中でも丁寧に説明してくださっています。ありがとうございました。具体的には、第9章「野生動物管理システム研究―研究経営論」の中で取り上げていただきました。また「さらに学びたい人へ」では、文献紹介の筆頭に、私たちの『流域環境学-流域ガバナンスの理論と実践』を挙げてくださっています。「空間スケールに注目した『階層化された流域管理』といてう概念は、私たちの野生動物管理システム研究の道標となった」とご紹介いただきました。大変光栄に思います。

■以前、梶先生がご所属されていた東京農工大学でお話をさせていただいたこともありました。梶先生は生態学者で、私とは専門とする分野が違いますが、こうやって文理融合型プロジェクトの研究を通して交流できたこと、そしてプロジェクトの参考にしていただいたこと、とても幸せに思っています。

■以下の投稿もご参照ください。

『野生動物管理システム』(梶光一/土屋俊幸 編
京都大学生態学研究センターでのセミナー

藤野家住宅/東華菜館

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20230531fujino_jyutaku3.jpg■この前の日曜日のことになりますが、急遽、京都市中京区にある藤野家住宅を訪問しました。こちらの住宅、国登録有形文化財です。この住宅の概要ですが、以下の通りです。

大正15年に住まいとして建てられた藤野家住宅(国登録有形文化財)は、通りに面して高い塀を構える典型的な「大塀造(だいべいづくり)」の町家の秀作。
塀の内側に、平屋建の「表側棟」と二階建「居住棟」を「玄関棟」でつないだ造りです。
玄関を兼ねた四畳半の茶室や、数寄屋風意匠が取り入れられた瀟洒な佇まい、門の脇に雪隠や供待(待合)を備えた前庭を茶室の露地として使えるように演出しているのもみどころです。

■こちらの藤野家住宅、じつは友人である藤野正弘さんが理事長をされている「一般財団法人藤野家住宅保存会」が管理されています。藤野さんは、かなり前のことになりますが、社会人大学院生として私の授業を履修されていました。まあ、そのようなこともあり、また、当時同じように(潜りで)私の授業を履修されていた藤井まち子さんご夫妻とご一緒に、藤野家住宅を見学させていただきました。勉強になりました。このような文化財的価値を維持することの当事者としての誇りや気概、そして維持に伴う大変なご苦労等について、お話をお聞かせいただきました。

20230531thokasaikan1.jpg■藤野家住宅見学の後は、やはり建築学的な価値をもつ「東華菜館」で、藤野さんや藤井さんご夫妻と夕食をご一緒しました。こちらの建物、四条大橋の西側に建っているレトロな建物ですので、皆さんよくご存知かと思います。私もいつか訪れてみたいとずっと思っていました。母校・関西学院大学の設計者と同じく、ウィリアム・メレル・ヴォーリズが設計した建物だからです。東華菜館の公式サイトを拝見すると、丁寧に説明されています。以下は、その説明を転載させていただきます。もちろん、お料理もいただきました。現在、健康回復に努めている最中なので、量は控えめにしながら中華料理を楽しみました。

シンプルなデザインの学校・教会建築を数多く残したヴォーリズ氏による商業建築は少なく、その中でも当店は氏による生涯唯一のレストラン建築です。
特に玄関ファサードで印象的な海の幸・山の幸等食材のモチーフは、館内にちりばめられており、目を楽しませてくれます。
シンプルな直線と曲線を組み合わせた天井や梁・腰板・扉の装飾が美しいのも特徴的。
また、建物に合わせヴォーリズ氏により設計された調度品や花台も残っており、料理とともにお客様をもてなします。
当店の建物は、ほぼ大正15年竣工当時の姿を残しており、今もその維持管理・保存に努めております。

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原爆ドーム・平和記念公園・都市計画

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▪️広島への出張でしたから、原爆ドーム、平和記念公園、原爆資料館にも行ってきました。もう何度目でしょうか。おそらく6回目かなと思います。じっくり時間をかけて展示を拝見しました。原爆資料館は、修学旅行の小学生たちでいっぱいでした。海外からの観光客の方たちも。

▪️facebookにも同じ写真を投稿しました。すると、知り合いの建築家・秋山東一さんからコメントをいただきました。

今回のサミット云々で、脇田さんの写真の映像がテレビ上に再三登場した所為ですが、原爆ドームの左側のビルが、当初意図された象徴性を壊している……、私の周りの建築設計界では話題でありますです。

▪️確かに、そうですね。ビルの高さ規制等があれば違うんでしょうね。原爆ドームの保存、平和記念公園の設計思想、それから周囲の都市計画(高さ規制)。本来は、それらが「三位一体」であるべきだったのかもしれません。

母校訪問

20230530futaba-_junior_high_school.jpg▪️先週、広島に出張しました。保護者懇談会で、保護者の方たちとの懇談が仕事の内容です。その仕事も終わり、その後の教職員や新和会(保護者会)の役員の皆さんとの慰労会も終わった後のことになりますが、卒業した中学校まで1人で歩いてみることにしました。広島市立二葉中学校といいます。宿泊していたホテルは広島駅に隣接していました。そこから母校の中学までは1.2km程度ととても近いのです。母校に行ってみようと思い立ったのは、たぶん21時をすぎていた頃かと思います。

▪️私が二葉中学校を卒業したのは1974年の3月です。ですから、50年近く前のことになります。私の記憶の中に朧げながら残っている広島を、現在の街の様子と結びつけることはかなり難しいです。すっかり変わってしまっています。広島にお住まいの方にお聞きしましたが、広島駅の北側かここ5年ほどで大きく変化したようです。昔はなかったマンションが多数建設されています。母校の後者も、もちろん校舎は建て替えられていました。当たり前ですね。50年前ですから。私たちの頃は、木造2階建ての校舎でした。廊下は油拭きでしたね。戦後になって建てられた校舎だとは思いますが、私が在籍していた頃から、かなり古い建物だったような印象があります。一学年A組からI組までありました。9クラスです。1クラスは40人ほど。当時として、これは多いのかそれほどでもないのか、そのあたりはよくわかりません。

▪️夜、母校の校門の前に立ちながらいろいろ思い出すことがありました。私は、部活動として「技術クラブ」に入っていました。電気はんだごてや電子部品でラジオ等を組み立てる…そのような感じのクラブでした。活動は低調な感じだったような気がします。その頃、アマチュア無線の試験を受けたりもしましたね。2年生の時に電話級アマチュア無線従事者の試験に合格しました。そのような世界に憧れていたんでしょうね。また、3年生の時は生徒会にも入っていました。

▪️話は変わりますが、私の3学年上の先輩に、亡くなった歌手の西城秀樹さんがおられます。

50年ぶりの中山町

▪️広島の出張、現地解散になったので、少し寄り道をすることにしました。50年前に暮らしていた地域を訪ねてみることにしました。歩いてみると、いろんな記憶が甦ってきました。私は10代の後半に至るまで転園や転校が続いたのですが、なんとか小学校と中学校は広島の学校を卒業しました。私が卒業した小学校は広島市立中山小学校。かつて暮らしていた家から小学校まで記憶に残っている道を歩いてみました。私はこの広島市中山町に小学校5年生の3月から高校1年生の夏まで暮らしていました。1970年3月から1974年7月までです。

▪️広島市が全国で10番目となる政令指定都市に指定されるのは1980年です。その時から、中山町は東区中山町になりました。その頃から住所表記も変わったようです。私が暮らしていた当時は、住所表記に小字の地名がまだ残っていました。以下、私以外の皆さんには意味が無い文章かと思います。すみません。長々と書いていますが、つまらない文章ですので、どうかスルーなさってください。

▪️中山町は、広島市の市街地から峠をひとつ越えたところにありました。元々農村地帯です。1956年に広島市に編入される以前は安芸郡中山村でした。東西は山で、中央には単線の芸備線が走っていました。その芸備線に沿って川があり、その川に向かって東西の山裾に谷間がいくつもあるような地形でした。その谷間の傾斜地に水田が作られていました。そのようなわけで収穫量は高いわけではなく、逆に、農業的には厳しい地域でした。海外へ移民された方達も多数おられたようです。国土地理院の空中写真(1947年)を拝借して地名を付け加えています
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▪️そのような地域なのですが、広島という都市の郊外に位置していることから、高度経済成長期には、以前は農村の里山だった丘陵地が新興住宅地になりました。戸建て住宅からなる大規模な住宅団地が造成されたのです。その頃から、少しずつ地域の雰囲気も変わっていったのかもしれません。いわゆる、混住化ですね。私の暮らした家は、そのような新興住宅地にではなく、農家が農地を切り売りした土地に建てられていました。三軒の二階建て住宅と、二軒のやはり同じく二階建ての賃貸住宅、農家の立派なお宅が並ぶ谷筋の集落の一番奥に、この5軒の住宅が並んでいました。この集落の下方には棚田が並んでいました。

▪️私がそのような混住化した地域に暮らしたのは4年半ほどの期間ですが、子どもの時とはいっても12歳から16歳までの期間ですから、かなり記憶に残っています。今回は、広島駅の北側からバスに乗って中山町の、かつて暮らした場所の近くのバス停で降りました。そこには、昔の記憶にはない大きな高速道路(広島高速5号線)が建設中でした。山陽自動車道広島東ICと直結し、広島駅周辺市街地と広島空港との間の高速性・定時性を確保するとともに、広島市北東部地区の交通渋滞の緩和を図るために建設されているようです。

▪️じつは、事前にGoogleMapで調べて高速道路が建設中であることはわかっていたのですが、実際にその高速道路を下から眺めると、やはり何か違和感のような感情がありました。しかし、その高速道路を抜けてかつて暮らした家に近づいていくと、ほぼ記憶通りの風景が目の前に現れました。近づいていくと特徴のある住宅が目の前に現れました。これまで思い出すことはありませんでしたが、「ああ、そうだった。この家はよく覚えている」と急に記憶が蘇ってきたのです。記憶の奥底にある記憶と目の前の住宅が一致しました。ただ、人がお住まいになっているような雰囲気はありませんでした。

▪️そこから坂道を登っていくと、農家の立派な和風の建物の奥に、かつて暮らしていた住宅が現れました。ひょっとすると築後60年ほど経っているのかもしれません。我家が暮らしていた住宅、今も人が暮らしいることはわかりましたが、ずいぶん庭は荒れていました。ちょっと残念な気持ちになりましたが、私がとやかくいうことではありません。その住宅の向かいには、私が中学生の頃には、新婚のご夫婦が暮らしておられました。当時と同じご夫婦が今も暮らしておられるのかどうかわかりませんが、もしそうならば、70歳代後半のご年齢でしょう。

▪️50年前は、ここが谷筋の一番奥で、その後ろは山林でした。ところが今は、さらにその奥に住宅開発が行われていて、整然とした街区に新しい戸建て住宅が並んでいました。その手前、私が暮らしていたところのあたりだけは、まるでタイムカプセルに保存されていたかのように50年前と変わっていませんでした。私が暮らしていた住宅に隣接する農家には、私よりも一つ年上のお嬢さんがお住まいでした。性別も学年も違うので、話をすることはありませんでしたが、農家のご夫婦には大変親切にしていただきました。よく記憶しているのは、年末の餅つきに呼んでくださったことです。懐かしいです。50年ぶりに訪ねていっても、怪しまれるだけでしょうから、外から眺めるだけでしたが、今はどなたがお住まいになっているのでしょうね。気になりました。

▪️その後、通学していた小学校に向かいました。記憶の中にある通学路は、ほぼ昔のままでした。通学路なんですが、そこは舗装はしてあるものの軽トラックが1台通過できるほどの狭い農道でした。今も、水田が耕作されているところは記憶している昔のままでした。ただ、その先に進むと農地も住宅化しているせいか、記憶にある道は残っていませんでした。農業排水路が暗渠化されて小さな道になっていたりして、記憶とまったく合致しませんでした。また、私が小学生の頃は、同じ間取りの平屋の賃貸住宅が並んでいました。その賃貸住宅の並ぶ土地を抜けて学校に通っていたのです。今は、そのような賃貸住宅はありません。仕方がないので別の道を探すことになりました。当時のことですが、小学校からの帰宅時、賃貸住宅の前で練炭で秋刀魚やタレに漬け込んだ鯨の肉を焼いておられたりしていました。なんだか、のんびりしていました。



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▪️ここまで来ると目の前に芸備線があります。私が中山小学校に転校したての頃は、まだ蒸気機関車が走っていました。C58という形式の蒸気機関車だったと思います。当時、蒸気機関車は全廃する直前でした(全廃は1975年)。もうじき消えていくということで、全国的にSLブームでした。私の周りの男の子たちの関心は、もっと大型のD51(デゴイチ)とかC62だったように思います。だから、C58については少し残念な気持ちもありました。それはともかく、この芸備線で強烈に記憶に残っているのは、私が勝手に「黄色い霧事件」と密かに呼んでいる出来事です。当時、客車にはトイレがついていましたが、汚物を貯めるタンクはついていなかったと思います。朝、通学路で一緒になった保健室の先生と一緒のこの芸備線のガードの下を潜ろうとした時、上を走っている客車から黄色い霧が散布されたのです。私は保健室の先生と一緒に「うわーっ」と驚きながらガードしたを通りすぎました。先生は、ハンカチを出して笑いながら拭いておられました。拭いても仕方がないのですが…。今だと考えられない感じでしょうか。私もそのまま学校に向かいました。



▪️芸備線のガードをくぐったところに、今では雑草が生えまくっていますが、私が小学生の頃は、ここに「拝み屋」さんの小さな家がありました。家といっても掘立小屋のような粗末な小さな建物でした。その建物の前には、記憶が曖昧ですが、家庭菜園と花壇があったかもしれまん。この「拝み屋」さんとは、民間の祈祷師のことです。当時小学生だった私からすると老婆でした。でも、今の私よりもお若いかもしれまん。時々、祈祷師の衣装(僧侶に近い装束)を身につけて出掛けておられました。お仕事があったのでしょうね。おそらく、この土地は当時は国鉄のものだったのではないでしょうか。どういうわけで、そこにお住まいになっておられたのか、その辺りの事情はよくわかりません。

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▪️芸備線のガードをくぐった後は、右に行くと小学校なのですが、まずは左にある小高い丘の上の神社に向かうことにしました。この神社でもよく同級生と一緒に遊びました。神社の社殿の下に潜り込んで、蟻地獄(ウスバカゲロウの幼虫)を観察したりしていました。社殿の下には、たくさんのすり鉢状になった蟻地獄があったのです。それから、近くにはドングリの実が成っていました。地面に落ちたドングリの実を集めて、いろんなことをして遊びました。今回、参拝してみたところ、社殿はずいぶん立派になっていました。蟻地獄のあった社殿の下もコンクリートで固められていました。ちょっと残念でした。

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▪️社殿の横には、「中山稲生神社の沿革」という説明板が設置されていました。その沿革の最後の段落には、2003年に中学生の火遊びが原因で消失したため、再建されたとあります。そういうことでしたか。また広島市に合併される以前の中山村の歴代村長と中山小学校の歴代校長の顕彰碑が建てられていました。村長と校長の顕彰碑、何か時代を感じます。そこには、私が小学生だった時の校長先生のお名前もありました。長野幸雄先生です。顕彰碑の長野先生のお顔を拝見しながら、先生から伺ったことを思い出しました。長野先生は戦時中、海軍の兵隊でした。なんの軍艦だったか忘れましたが、沈没して救出されるまでの話を今でも記憶しているのです。疲れて眠ってしまうと海に沈んでしまうので、眠らないようにナイフで自分の体に傷をつけて痛みで眠らないようにした…そのような話だったように記憶しています。

▪️神社を参拝した後は、小学校に向かいました。校門の近くには、給食の調理室があり、良い香りが漂ってきていました。校舎も、増築されていました。ネット上にある情報を確認すると、1・4・5・6年は3クラス、2・3年は4クラスもあります。また、「昭和40年ごろから新興住宅地として発展してきたが,児童数もその影響を受けて増加の一途をたどった。その後児童数はやや減少ぎみであったが,最近は,学区内に団地ができたり,マンションが建設されたりして児童数が増えている」という説明もありました。私が在籍していた頃は、各学年は2クラス程度でした。1クラスあたりの人数はわかりませんが、増築が必要なほど児童数が増えているのではないでしょうか。私が小学生の頃は、マンションなどもちろん建設されていません。典型的な都市郊外の混住化した地域でした。

▪️当時、私の家族のような転勤族は、「旅の人」と言われていました。また、どこかに転居していく人たち、一時的にここに暮らしている人たち…という意味でしょう。私は、広島市立中山小学校、そして広島市立二葉中学校を卒業した後、高校は広島市内にある広島県立皆実高等学校に入学しました。しかし、在籍したのは高一の一学期という短い期間でしかありませんでした。父親の転勤で、その後は編入試験を受けて兵庫県立兵庫高等学校に転校しました。実際に「旅の人」だったわけです。この「旅の人」という言い方には、なにか少しネガティブな響きもありますが、私自身は、暮らしていた地域の皆さんにとても親切にしていただきました。もし、編入試験に落ちていたら、そのまま皆実高校に通っていたら自分の人生はどうなっていただろう…おそらく大きく変わっていたに違いないと思います。

▪️長々と駄文を連ねてしまいました。つまらない投稿で申し訳ありません。さて、卒業生とはいえ、中山小学校を訪ねるわけにもいかずに、怪しまれないように母校の横をゆっくり歩いて通り過ぎ、そのあとは、再び市街地にバスで戻って行きました。大変短い時間でしかありませんが、記憶の奥底に眠っていた50年前のことを思い出すことができて満足しました。

路面電車が走る街

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▪️龍谷大学全国保護者懇談会で、岡山と広島に出張しています。保護者の皆さんと個別に学修懇談を行うことが主な仕事になります。今は、広島に移動しましたが、昨日は岡山でした。時間がないのですが、朝、少しだけ路面電車を「鑑賞」することにしました。路面電車のある街は、ゆとりがある…というか、落ち着いた素敵な雰囲気がありますね。本当は早起きして乗車してみるべきでした。広島の路面電車はもっとすごいですよね。明日の早朝は路面電車に乗ってみようと思います。ところで、路面電車の写真の上の方をご覧ください。桃があります。岡山ですね。

創立記念日に「地域エンパワねっと」の「まち歩き」

20230522empower-net.jpg ▪️昨日は創立記念日でした。大学の本部のある深草キャンパスには多くの教職員の皆さんが集まって式典を開催されました。私はといえば、「地域エンパワねっと・大津中央」(龍谷大学社会学部社会共生実習)の「まち歩き」を行いました。履修している学生さんたちの都合がどうしても昨日しか合わなかったのです。創立記念の式典、とても大切なことはわかっているのですが、昨日は、教育の方を優先させていただきました。

▪️先週は1名の学生さんと2人で「まち歩き」でした。これは、1週間前にしか日程が合いませんでした。昨日は、残りの12人の皆さんとの「まち歩き」になりました。歩いた距離は3.2kmちょっとです。大した距離ではありません。ただ、立ち止まっての説明や解説もするので、時間としては3時間半ほどかけて、じっくり「まち歩き」を行うことになりました。今日は、気温も高く、普段運動をしていない学生さんたちにとっては、けっこう体力を使うことになったのかもしれません。お疲れ様でした。

▪️一昨日は吹奏楽部の「新入生歓迎会」、昨日は「地域エンパワねっと・大津中央」の「まち歩き」。土日とも仕事が入ってしまいました。歳をとると、休み無しというのは疲れが抜けなくなります。

2023年度龍谷大学吹奏楽部「新入生歓迎会」

▪️一昨日の土曜日は、龍谷大学吹奏楽部の「新入生歓迎会」でした。このTwitterの集合写真は、最後に撮ったものです。なんだか、首がたくさん並んでいる感じになっていますね、仕方ありません。細かくご覧になった方に説明しますけど、最前列の右端のカップル、2人とも部員なんですが、赤いワンピースを着ている方の方は、余興で、盛り上げるために女装されています。スーツを着た男性と共に司会進行をされました。最初、私は、そのことがよくわかりませんでした。背の高い女子部員がおられるのだなあと思っていたので、びっくりしました。

▪️2023年度は、1回生が60人、2回生が1人、合わせて61 人の方達が吹奏楽部に入部されました。先輩たちの歓迎の企画もよく練られていて、「新入生歓迎会」は大いに盛り上がりました。このような楽しい雰囲気をペースに、210名の部員の皆さんの心がきちんと繋がってくれると良いなあと思います。子どもの歌ですけど、「1年生になったら〜♫」という歌があります。あの歌の歌詞に「友だち100人できるかな」というところがあります。でも、吹奏楽部は200人を超えています。普通、200人超えるような規模だと顔は知っているけれど名前がわからない…という感じになるし、話をすることもないかと思います。でも、ここは気合いで、全員と何か話をすることができるような関係になって欲しいと思います。

▪️お互いに、ちょっと労り、励まし、支え合うような関係、難しいとは思うけれど、頑張ってそんな関係が溢れる吹奏楽部にして欲しいと思います。

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