仙台の素敵なお店と食

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20160326sendai1.jpg ■宮城県仙台市に出張するといえば、「それじゃ、牛タンを食べた?」と聞いてこられます。しかし、私自身は仙台の牛タンにはあまり関心がありません。牛タンが嫌いというわけではありません。焼肉店でいただく牛タン塩は、大好きです。また、仙台で牛タンをいただいたこともあります。なんというか、仙台には何度も来ているので、もう牛タンを食べる必要がない…そんな気持ちなのかもしれません。仙台1日目の晩は、共同研究者である谷内茂雄さん(京都大学生態学研究センター)と一緒に、どういうわけか、「にいがたや」というお店で食事を摂りました。実際、新潟のお酒がメインのお店でした。料理の味も良かったし、酒も美味しくいただきました。しかも、お店を仕切っておられた店員さんがとても素敵な女性でした。ちなみに、仙台の方とのこと。人を和ませる雰囲気と会話に感心しました。「看板娘」…という感じでしょうか。彼女は旅行好きなのだそうです。この「ふちこ」さんは「太陽の塔」とともに旅行先の大阪で購入されたとのことでした。仙台で大阪を発見です!!

■2日目の昼は、「仙台麻婆焼きそば」をいただきました。この「仙台麻婆焼きそば」については、全く知識がありませんでした。最近、仙台の若者のソウルフードと言われてるのだそうです。wikipediaの情報ですが、「麻婆を使い、具は豆腐に限定しない」、「麺は焼くか、揚げたものとする」、「宮城県中華飲食生活衛生同業組合の認定人が認定したものとする」、この3つの条件が必要なのだそうです。歴史については、wikipediaにはこう書かれています。

1970年代前半に、仙台市内の中華料理店「まんみ」にて賄い料理として提供したのが始まり。その後同店の正式なメニューとして加えられたが、人気メニューとは到底言えない料理だった。しかし2013年、『秘密のケンミンSHOW』で「仙台市民なら誰もが知っているメニュー」として取り上げられた。テレビ番組放映後、仙台マーボー焼そばを注文する客が大きく増加したことで、宮城県中華飲食生活衛生同業組合は対応に苦慮。発祥の店である「まんみ」が中心となって「マーボー焼そば推進委員会」を設立し、同年10月より仙台市の新たなご当地グルメとして普及させてゆくこととなった。

■テレビに取り上げられた2013年から話題になっているわけですから、なんだかずいぶん最近の話しのようです。とはいえ、好奇心に勝てず試してみることにしましたました。半信半疑だったわけですが、いや、なかなかな美味しいのです。仙台でないと食べられないのかなと思っていたら、職場の方から、大学の門を出たところにある中華屋でもメニューにあるとのことでした。灯台下暗し…です。

仙台の魯迅

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■22日(火)から24日(木)まで仙台で開催された第63回「日本生態学会大会」に参加しました。今回は共同発表があったため、非会員ではありますが参加しています。23日(水)は、総会等が開催されました。総会は非会員には関係がないため、ちょっと時間ができました。ということで、生態学会大会の会場に近い東北大学に行ってみることにしました。東北大学史料館で、「魯迅記念展示室」を見学してきました。

■中国の小説家である魯迅(本名 : 周樹人)は、1902年、21歳の時に官費留学生として来日します。1904年からは仙台医学専門学校、すなわち現在の東北大学医学部に入学し、勉強を始めました。仙台医専では、解剖学の藤野厳九郎教授の丁寧な指導を受けることになりました。魯迅は、生涯にわたって藤野教授の学恩を忘れなかったといいます。史料館の展示では、魯迅のノートが展示されていました。そこには、あちこちに朱筆の添削が入っていました。藤野教授は、非常に丁寧に指導していたことがわかりました。しかし、魯迅自身は、医学から文学に転向することを決意し、仙台医専を退学し、その後、1909年に帰国しています。ちなみに魯迅には、自伝的短編小説である「藤野先生」があります。

■なぜ魯迅は仙台医専を退学したのか。それは、授業で見た幻灯写真がきっかけだったといわれています。日露戦争の最中のことです。幻灯写真に描かれているのは、ロシア軍のスパイだった中国人が日本軍によって処刑されようとしているところを、中国人が囲んでその処刑を見ようとしているシーンでした。そのシーンに魯迅はショックを受けるのです。魯迅は、肉体よりも精神の改造の方が必要だと判断し、医学から文学に転じたのです。これは、よく知られている話しです(東北大学史料館の「魯迅展示記念室」では、その真実性については評価が分かれる…と書かれていましたが)。

■私自身は、今から10年前に魯迅の出身地である浙江省の紹興という街を訪問しています。たまたま仕事で立ち寄ったわけですが、魯迅所縁の地を訪問できたことに満足しました。今回も仙台の魯迅の所縁の場所を訪問できてよかったなと思います。これは、ある種の「聖地巡礼」なのかもしれません。

第63回「日本生態学会大会」

20160326ecojogy1.jpg ■18日(金)が卒業式、19日(土)から21日(月)までが秋田県で八郎湖や大潟村を視察して研究会。そして関西に戻ったと思ったら、その翌日には、今度は宮城県の仙台へ。ということで、22日(火)から24日(木)まで仙台で開催された第63回「日本生態学会大会」に参加してきました。22日は、長年にわたって一緒に研究をしてきた研究仲間の谷内茂雄さん(京都大学生態学研究センター)が、私との連名で一般講演(学会発表)を行いました。講演のタイトルは「ステークホルダーの多様性が生態系のレジリアンスを担保する条件」です。ということで、私自身は生態学会の非会員ですが、仙台に行くことにしたのでした。私たちのプレゼンに少々問題があったためでしょうか、講演の最後に生態学会の重鎮?!から質問が出ましたが、講演後の簡単な意見交換で少しは誤解が解けたかもしれませんが、議論の前提となっている考え方の違いにも気になりました。

■今回の生態学会では、幾つかの自由集会に参加しました。22日は、「IPBESアセスメントから示唆される生物多様性と生態系サービス研究の将来展望」でした。「IPBES」とは、「intergovernmental science-policy platform on biodiversity and ecosystem services」の頭文字をとったもので、「生物多様性及び生態系サービスに関する政府間科学政策プラットフォーム」のことです。環境省のホームページでは、以下のように説明しています。「生物多様性と生態系サービスに関する動向を科学的に評価し、科学と政策のつながりを強化する政府間のプラットフォームとして、2012年4月に設立された政府間組織です。科学的評価、能力開発、知見生成、政策立案支援の4つの機能を柱とし、気候変動分野で同様の活動を進めるIPCCの例から、生物多様性版のIPCCと呼ばれることもあります」。

■さて、この自由集会の趣旨ですが、以下の通り。「生物多様性版のIPCC」と言われることがよくわかります。「生物多様性分野の科学と政策の統合を目指す」このような世界的な動きには、生態学会の重鎮の皆さんが関わっておられます。ただし、生物多様性分野…とは言っても、このIPBESには自然科学者だけが関わっているわけではありません。社会科学者も関わっています。IPBESに関して、動画を見つけました。

生物多様性及び生態系サービスに関する政府間科学政策プラットフォーム(IPBES)は、生物多様性と生態系サービスに関する動向を科学的に評価し、科学と政策のつながりを強化する政府間のプラットフォームとして2012年4月に設立された。IPBESでは対象とする地理的範囲やテーマ、科学・政策連携のための機能ごとに分かれたアセスメントやツール、方法論のカタログ等の作成が進められており、2019年に全ての完成を目指している。このうち、特にアジア・オセアニア地域における地域アセスメントには日本からも多くの研究者が執筆者として参画している。

この作業の中で、政策連携に必要な生物多様性と生態系サービスに関する科学的知見について、既に十分な蓄積があるものもあれば、逆になお不足しているものもあることが明らかになってきた。このため、本セッションでは様々なアセスメントのスコーピングに携わる専門家や執筆者にこれらの点についての所感を述べていただき、今後、政策連携に向けて必要とされる生物多様性及び生態系サービスに関する研究課題についての展望を共有したい。

またセッションの最後には、今後のアセスメントの枠組や作業スケジュールを説明し、IPBESアセスメントに対して研究成果のインプットが可能なタイミング等について解説する。


IPBES: アナンサ・ドゥライアパー インタビュー

20160326ecojogy2.jpg ■23日の晩は、日本生態学会の懇親会が仙台国際ホテルで開催されました。会員ではないのですが、参加させていただくことにしました。懇親会の会場で、滋賀県立琵琶湖博物館に勤務していた時代、大変お世話になった川那部浩哉先生にもお会いできた。先生というと怒られるので、以下では、あえて「川那部さん」とさせていただきます。川那部さんは滋賀県立琵琶湖博物館の初代館長をされていました。川那部さんはどう思っておられるのかはわかりませんが、私としては館員・部下として一生懸命お仕えしました。川那部さんは、現在、84歳。とても元気にされおられます。お1人で関西から仙台の学会にまで参加されるのですから。とても、施設に入っているうちの老母と同年齢だとは思えません。

■川那部さん以外にも、懐かしい面々にお会いすることができました。写真をご覧くだい。私の横にいるのは、現在は岡山大学(岡山大学異分野融合先端研究コア)に勤務している兵藤不二夫くんです。残りの3人とは、現在も総合地球環境学研究所で一緒に研究プロジェクトに取り組んでいますが、兵頭くんは、地球研で以前に参加していた研究プロジェクトで一緒だったのです。その時は、博士研究員をしてくれていました。プロジェクトをやっている時は、いろいろ大変だったわけだが、時間が過ぎてセピア色に染まってくると「あの頃」のことを懐かしみながら話すことができます。当時の地球研は、現在の、京都・上賀茂にある立派な建物ではなく、街中の廃校になった小学校を再利用したものでした。

秋田での研究会(地球研出張4)

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■総合地球環境学研究所のプロジェクト「生物多様性が駆動する栄養循環と流域圏社会―生態システムの健全性」の中で行っている、「国内湖沼の環境ガバナンスに関する比較研究」関連での秋田出張、このエントリーが最後になります。20日(日)の午後と21日(月)の午前中、秋田県立大学で研究会を開催しました。

■研究会では、まず八郎湖の周囲で活動されている皆さんから、八郎湖の環境問題に関連してご報告をいただきました。研究プロジェクトのメンバーでもある秋田県立大学の谷口光吉さんからは「八郎湖再生の現状と課題」というテーマで、秋田県立大客員教授・NPO法人秋田水生生物保全協会の杉山秀樹さんからは「八郎湖流域環境学 魚類資源を管理し、持続するために」というテーマで報告をお聞かせいただきました。それに対して、私の方からは、私たちの研究プロジェクトの簡単な紹介を行うと共に、私たちが流域管理に関して目指しているアプローチについて説明しました。近年の琵琶湖流域での流域管理の動向についても少し説明しました。八郎湖の琵琶湖、双方からの報告を行った後で、何を問題として捉えるのか、どのようなアプローチで解決するのか、そのような点について議論を行いました。

■加えて、八郎湖での流域管理の活動に関して、干拓事業によって生まれた大潟村の農家と周辺地域の方達との対話はどのような形で可能なのか、また様々な人びと(ステークホルダー)が、「楽しい」「嬉しい」「美味しい」といった要素を含む活動を通して、八郎湖とのより深い関わりが生まれていく状況を作っていくことが必要なのではないのか…そのような問題提起をさせていただきました。これまで行われてきた技術的解決手法(工学的手法)、法律や条例による規制的手法、また近年の経済的インセティプによって環境配慮行動へと人びとを誘導する経済的手法だけではなく、人びとの参加・参画を促す社会的・文化的手法にもっと注目するべきではないのかという問題提起でもあります。時に厳しい議論になりましたが、同時に、有益な情報交換をすることもできました。

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■八郎湖の皆さんの中からは、私の問題提起に応えるかのように「活動の方法やスタイルは、今までのままでよいのか」という意見も出されました。もっと女性や若い世代が参加しやすい状況を作っていく必要があるというのです。このままでは、若い世代に活動を継承していけないのではないかということでもあります。私もそのご意見に同感しました。地球研の研究員である浅野さんからは、場所や立場が違っても、それらの違いに縛られることなく若い世代には繋がっていける可能性があるのではないかとの意見も出されました。言い換えれば、若い世代は、相対的にではありますが、参加・参画を抑制してしまうような問題状況の認識、社会状況や構造等にしばられることがないので、より連帯しやすいのではないかということかもしれません。

■また、個々の活動を超えて、湖沼や流域の長期的目標が必要なのではないのかという意見も出されました。それに対して私は、目標そのものと同時に、そのような目標はどのように決めていくのかが重要なのではないのかと意見を述べました。最近、環境管理に関連して「順応的管理的管理」ということがよく言われます。自然環境の管理は不確実性が高いので、計画を実行するにしてもそのプロセスをチェックしてモニタリングをして、計画の見直しを随時行っていくことが必要だというのです。それはそれで納得できるのですが、その計画の中に含まれる目標は誰がどのように決定していくのかというところが、曖昧です。多様なステークホルダーが参加・参画しながら目標をどのように設定していくのかというプロセス自体も問われなければなりません。

■いいろいろ議論を行いましたが、研究会の最後の方で、ある方が、それまでじっと我慢していたかのように、突然「打瀬船」を復活させたいというご意見を述べられました。それも、多くの人々の参加で復活させたいというご意見でした。「打瀬船」については、1つ前のエントリーで紹介しました。かつて、白い大きな帆を風で膨らませた「打瀬船」が、八郎潟のあちこちでシラウオ等の魚を獲っていました。八郎潟「打瀬船」が浮かぶ風景。現在では写真でしか見ることができませんが、それらの風景からは八郎潟の持つ「豊かさ」を感じ取ることができます。その「打瀬船」を復活させたいというのです。そのような復活が、干拓事業以前を直接的に知らない若い世代の人びとにとって、どのような意味を持つのか、大変興味深いところです。ぜひ復活を成功させていただきたいと思いました。その他にも、八郎潟と琵琶湖を比較する中で、様々な差異や共通点が確認されましたが、それについては後日、まとめて報告できればと思います。

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■研究会では、八郎潟・八郎湖に関連する様々な文献を教えていただきました。私が「おっ!!」と思ったのは、2014年に出版された「大潟村史」です。大変細かいことまで、あらゆることが記載されています。村ができて50周年を記念して出版されたようです。これは、何としても入手したいものです。もうひとつは、地元の「潟船保存会」が発行した『潟の民俗』に掲載された林芳典のエッセイです。以下に転載させていただこうと思います。大変興味深い内容です。

サンフランシスコ講和条約調印(一九五一年九月)という大仕事を果たした吉田首相はある日、ダレス米国務長官から「オランダの気持ちをやわらげるよう一段の努力をなさることです」と耳打ちされた。このことは吉田自身、いつも心にひっかかっている事柄であった。

オランダは日本軍によって植民地のジャワ、スマトラを占領され、人的物的に多大の被害を受けたうえ、戦争が終わったあと植民地はそのまま独立国となってオランダの手から離れてしまった。それだけに日本に対する国民感情は悪く、講和条約の調印にも最後まで注文をつけた。

吉田は日本が得意とする経済の分野、つまり貿易の増進によって交流を深めようと考えたが、両国の間にはとくに補完し合える商品がない。思いあぐねた矢先、フト思い出したのが英国大使だったころオランダへ出張したときの光景だ。延々と続く堤防で海を仕切った大干拓地。国土の25%が満潮水位以下にあり、「神は海をつくり、オランダは陸をつくる」といわれるこの国………。

さっそく保利農相を呼び、オランダの干拓技術を日本で生かす方法はないか、それにふさわしい事業はないか、検討しなさいと下命した。当時、農林省が抱えていた最大規模の干拓計画は秋田県・八郎潟であったが、何分にも巨大プロジェクトであるため技術面、予算面、利害関係の調整などの問題を残したまま日の目を見ないでいた。

ワンマン首相のお墨付きは、黄門さんの印ろうみたいなものだ。たちまち干拓反対派の知事は推進派に変わり、大蔵省も予算を付け、農林省はオランダとの間に技術援助契約を結んだ。技術指導者として来日したヤンセン博士らは寒風のなか八郎潟の湖岸に立って熱心にあれこれ助言をした。なかでもさすがと思われたのはオランダが開発した「サンドベット工法」だ。これは堤防の下五メートルぐらいまでヘドロを全部取り除き、幅百三十メートルの砂床に置き換えるという大掛かりな工法である。日本の技術陣がついぞ克服できなかった軟弱地盤での築堤が、これで安全度百%になった。

しかし、ヤンセン博士は吉田首相への報告では、いつも日本の技術陣の能力をほめ上げた。「日本の土木技術は高額の費用を払って私を招く必要はなかった。なぜ日本は私らを招いたか真意がわからない」といった。この謙虚さが日本人技術者の心証をどれほどよくしたか計り知れない。両者の信頼関係が固まって工事はトントン拍子に進み、起工から六年で干陸式を迎えた。

日蘭交流400年の今年、天皇が彼地を訪ねて「深い心の痛み」と「不戦の誓い」を異例の長さで述べられたのは、その意味で近ごろ会心のニュースであった。

■このエッセイを掲載している記事をネット上でも見つけました。リンクを貼り付けておきます。「八郎潟物語」(評論家・林 芳典)。そこに掲載された文章は、『潟の民俗』に掲載された文章とは少しだけ違っていました。『潟の民俗』に掲載された方では、最後の段落「日蘭交流400年の今年、〜」の前に、以下の部分が抜けていました。「これまでの日本地図では海と同じ青色だった男鹿半島の根っこの1万3千haが、豊かな耕地を示す緑色に塗り替わった。『米価が半分に下がってもペイする』という日本最強の低コスト米作地帯が、こうして日蘭協力によって出現した。今では関係者以外に余り知られていないこのエピソードは、世界に尊敬される国を目指す日本外交の在りようについて一つのヒントを与えてくれる。米・中など大国相手の外交やアジア近隣外交も重要だが、遠くて小さくてもピカッと光っている国を大切にすることも怠ってはなるまい」。この林芳典さんのエッセイは、平成12年6月8日発行の『公研 2000.6』に掲載されたものとのことです。

■ここに書かれていることが事実とすれば、ちょっと驚いてしまいます。第二次世界大戦後の国際関係・秩序が、八郎潟の干拓事業の背後に存在していたということになります。直接的に関係していないにしても(直接的には、食糧増産という「大義」なのでしょう)、吉田茂を媒介者として「たちまち干拓反対派の知事は推進派に変わり、大蔵省も予算を付け、〜」といった状況を生み出していったのです。この点については、さらに調べてみる必要があるかなと思っています。

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■今回の秋田の出張は、2泊3日と短いものでしたが、内容の濃い研究会を持つことができました。また、このような研究会を開催することをお約束して、21日(月)の夕方の便で関西に戻りました。少しゆっくりしたいところですが、翌日からは、仙台で開催されている日本生態学会に参加しなければなりませんでした。今度は、新幹線です。

八郎潟の漁撈(地球研出張3)

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■21日(日)の午前中、秋田県潟上市にある「八郎潟漁撈用具収蔵庫」を見学しました。収蔵庫の前に設置された石碑には、次の文章が刻まれていました。

八郎潟漁撈用具収蔵庫

古来 私たちの生活と詩情をはぐく
んで来た八郎潟 日本第二の大湖であ
りながら最深部でも四M半という浅い
湖水 このような環境に合わせて素朴
な工夫や改良をかさねてきた独特な漁法
と習俗 昭和町が蒐集したこれら漁撈
用具が国の重要民俗資料として指
定されたので その永久保存のために建て
たのがこの収蔵庫である
内水面漁業における漁撈用具収蔵庫
としては国内最初のものである

昭和三十七年五月十一日
昭和町長 高橋嘉右衛門

■この収蔵庫は、国家による大規模開発=干拓事業により漁撈(漁業権放棄)と共に消えていく漁撈用具=漁具を保存する目的で設置されたのです。琵琶湖でも、国家による巨大開発事業である琵琶湖総合開発が進められる際に、「琵琶湖総合開発地域民俗文化財特別調査」が行われました。漁具については、1978年から1995年にかけて滋賀県教育委員会が収集した民具の中にも大量の漁撈用具が含まれており、それらは、現在、滋賀県立琵琶湖博物館に収蔵されています。そのようなこともあり、この収蔵庫を訪問した時、私は、八郎潟と琵琶湖とを重ね合わせていました。そして、収蔵庫内にあるトップの絵を見た時、心の中で「あっ」と叫んでしまいました。滋賀県の人がこの絵を見たら、きっと昔の琵琶湖の風景と思うでしょうね。しかし、これは干拓事業が行われる以前の八郎潟の風景なのです。エリのように見えるのは、松杭とヨシを使うモンパと呼ばれるものです。八郎潟は、収蔵庫の前の石碑からもうかがえるように、大変豊かな漁場でした。干拓事業で淡水化される以前は、日本海と繋がっていました。淡水と海水がまじる汽水湖だったのです。ワカサギ、シラウオ、フナ、ハゼ、ボラ…約70種類の魚が獲れたと言います。そのうち40種が漁業の対象となった魚だったそうです。そのような多くの種類の魚を獲るために、様々な漁法、漁具を使って漁撈活動が行われていたわけですね。例えば、厚い氷の張った冬の八郎潟で行われていた「氷下漁業」などは大変有名ですね。

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■この絵はどうでしょうか。「氷下漁業」とともに盛んに行われていた「打瀬船漁」です。この漁法は、「上を向いて歩こう」で知られる国民的歌手・坂本九の祖父である坂本金吉が霞ヶ浦から移住して伝えたのだそうです。この漁場の持つ漁業資源に注目したからです。この「打瀬船漁」、帆などの初期投資は必要ですが、2人で操業することができます。そのようなこともあり、八郎潟で広まっていったようです。この絵のように、大きな白い帆を膨らませたたくさんの漁船が、八郎潟のあちこちでシラウオを獲っていたのです。私はこの絵に描かれた風景から、八郎潟が持っていた「豊かさ」や、漁撈に従事する魚家の「誇り」を強く感じるのです。
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■この絵は、「モク採り」をしているところを描いたものです。モクとは、湖の中に生えている沈水植物のことです。沈水植物は、様々なことに利用されていました。例えば、布団の綿の代わりにこのモクを利用していました。赤ちゃんを入れる籠であるイズメの敷物としても使われたそうです。赤ちゃんのおしっこを吸収するわけです。もちろん、肥料としても盛んに使われていました。絵は、モクトリハサミと呼びれる道具を使ってモクを取っているところです。「モク採り」を行っていたのは、八郎潟に限ったことではありません。全国各地で行われていました。周辺の暮らす人々の生活や生業と深く結びついていました。

■この絵を描いた方のお名前は、「高橋嘉右衛門」という人です。潟上市に合併される前の昭和町の町長をされていた方のようです。しかし、詳しいことがわかりません。この3枚以外にも、八郎潟の絵を描いておられます。高橋さん作品は、この収蔵庫以外のどこかにも残っているのでしょうか。残念ながら、今回は知ることができませんでした。

秋田駅で(地球研出張2)

20160323akita9.jpg ■出張の楽しみは、「地方の食」と共に、私の場合は「ローカル鉄道」ということになります。秋田駅の在来線は、新潟市の新津駅からスタートし秋田駅を終着駅とする羽越線と、福島駅からスタートし山形県を抜けこの秋田駅を通って青森駅に至る奥羽本線の2つになります。もっとも、後者の奥羽本線の追分駅から分岐し、男鹿半島に向かう男鹿線の気動車も秋田駅に乗り入れています。

■右の地図をご覧ください。これは、車で大潟村に行った際に地図アプリで残した画像です。水色の丸印が、私のいた場所です。八郎潟は、琵琶湖に次いで大きな湖でしたが、干拓事業により大部分が陸地になりました。八郎潟の中にできた陸地は大潟村になりました。湖の周辺地域も干拓されました。地図では、八郎潟となっていますが、制度的には、「残存湖」「調整池」と呼ばれています。つまり、干拓事業によって生まれた大潟村で行われている農業のための巨大な溜池の役割を担っているわけです。言い方を換えれば、国家による巨大開発事業の定義を押し付けられている…という側面を持っているのです。しかしながら、地域の人びとは、残された湖のことを決して「残存湖」「調整池」とは呼びません。まるで、国の名付けに対抗するかのように「八郎湖」という名前で呼んでいます。この辺りは、環境社会学的に非常に興味深いところですが、ここでは鉄道の話しに戻りましょう。

■八郎湖の東側を走っているのが奥羽本線です。奥羽本線から分岐している八郎湖の南側を男鹿半島に向かって走るのが男鹿線です。単線で電化されていません。気動車が走っています。下の写真のうち上段が男鹿線の気動車です。男鹿半島は、あの「なまはげ」で有名であることから、この男鹿線は「男鹿なまはげライン」の愛称が付けられています。気動車の入り口にも「なまはげ」が描かれています。本当は、このローカル線に乗って男鹿半島まで行ってみたいのですが、出張の仕事があるためそのようなことはできません。いつか個人的な楽しみでやってきたいと思います。ちなみに、男鹿半島と干拓事業によって誕生した大潟村は、「ジオパーク」に成っています。「日本が大陸から分かれ、日本海を形成し、大規模気候変動による環境の移り変わりを経て今日に至った、過去7,000万年間の大地の歴史を、ほぼ連続して観察できる地層がそろって」いるそうです(「男鹿半島・大潟ジオパーク」)。

■下の写真の下段の方は、奥羽本線を走っている特急「つがる」です。正面には、電光掲示で岩木山とリンゴが表現されています。この特急、鉄道に詳しい方からお聞きしたのですが、大変珍しいらしいのです。というのも、2011年4月から写真に写っている485系3000番台の列車は、E751系に変わっており、この日は、たまたま検査か何かでE751系が走ることができなかったので、代わりに…ということらしいのです。そうか、そんなに珍しいのならば、今のうちに乗っておくべきだな…と思うのですが、出張中ですからそんなわけにはいきません。

■これらの写真は、22日(日)は、朝、秋田駅の少し北の方にある追分駅まで移動した際に撮りました。追分からは、車に乗って、八郎湖周辺地域で八郎湖の環境保全に関わる活動をされている団体を訪問したり、潟上市が所有管理している八郎潟の漁具類の収蔵庫等を見学させていただきました。鉄道に集中してエトリーしましたが、「安心してください。仕事しています」…です。

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