李白と黄鶴楼
■22日(金)、武漢から上海経由で大阪まで戻りました。帰国の便は午後14時でしたので、午前中は何も予定も入っておらず空いていました。そこで華中師範大学社会学院の皆さんのご好意で、有名な黄鶴楼と武漢博物館を見学することになりました。じつは、今から20年程前、始めて武漢を訪れたさいにも見学をしているのですが、今回は通訳のために同行してくれた留学生Hさんの希望もあり、一緒に見学をすることにしたのでした。2度目になりますが、改めて見学してよかったと思っています。20年の時間が経過し、李白の漢詩を味わうことができるだけの年齢になってきたのかもしれません。
■黄鶴楼は、武漢市の武昌区にある丘の上にあります。「江南三大名楼」のひとつとして大変有名です(現在のものは、1980年代に再建されたものです)。丘の上にあるため、黄鶴楼の最上階からは、長江を見渡せます。李白(701年〜762年)の「黄鶴楼送孟浩然之広陵」(黄鶴楼にて孟浩然の広陵に之くを送る)という漢詩によって大変知られた楼閣でもあります。
■三国時代は魏の領地で、ここには見張りのための楼閣がつくられたのだそうです。それが、始まりなんだとか。李白が生きた唐の時代には、ここで酒盛りの宴会などが行われていたそうです。で、なぜ、黄色の鶴の楼閣なのか…ということですが、次のような言い伝えがあります。wikipediaからの引用ですが、次のようなものです。
昔、辛氏という人の酒屋があった。そこにみすぼらしい身なりをした仙人がやってきて、酒を飲ませて欲しいという。辛氏は嫌な顔一つせず、ただで酒を飲ませ、それが半年くらい続いた。 ある日、道士は辛氏に向かって「酒代が溜まっているが、金がない」と言い、代わりに店の壁にみかんの皮で黄色い鶴を描き、去っていった。 客が手拍子を打ち歌うと、それに合わせて壁の鶴が舞った。そのことが評判となって店が繁盛し、辛氏は巨万の富を築いた。その後、再び店に仙人が現れ、笛を吹くと黄色い鶴が壁を抜け出してきた。仙人はその背にまたがり、白雲に乗って飛び去った。辛氏はこれを記念して楼閣を築き、黄鶴楼と名付けたという。
■黄鶴楼には、こんな面白い言い伝えがあるのですね。壁から鶴が抜け出して、仙人と一緒に飛び去る…いかにも中国らしいロマンチックというかファンタジックな伝説です。前回訪問したときには、私もまだ若く、あまりこのようなことに関心をもてなかったのでしょう。今回の見学でやっとこの楼閣を、そして李白の漢詩を「味わう」ことができました。李白の「黄鶴楼送孟浩然之広陵」ですが、以下のような漢詩です。『李白 巨大なる野放図』(宇野直人・江原正士、平凡社)をもとに、日本語の意味も書いておきましょう。
黄鶴楼送孟浩然之広陵
故人西辞黄鶴楼 故人 西のかた黄鶴楼を辞し
烟花三月下揚州 煙花 三月 揚州に下る
孤帆遠影碧空尽 孤帆(こはん)の遠影 碧空(へきくう)に尽き
唯見長江天際流 唯(た)だ 見る 長江の天際(てんさい)に流るるを舟に乗って東へ行く、ふるい友達の孟浩然先生は、出発直後、西を振り返って、私が立っているこの黄鶴楼に別れを告げる。
美しい春景色が広がる三月、賑やかな揚州の街をめざして下ってゆく。
孟浩然先生が乗った、たった一艘の帆かけ舟の遠い姿は、やがて碧空に消えていく。
あとにはただ長江が、空の果てに向かって滔々と流れていくのが見えるだけである。*故人:亡くなった人という意味ではなく、古い友達という意味です。
■孟浩然は、李白よりも一回りちかく年上の詩人です。李白は兄貴として慕い尊敬していたようです。孟浩然も李白も、詩人としては大変有名ですが、同時に科挙に合格できなかった人たちです。大人になるということは、思い通りにならない現実を、きちんと受け止めることができることでもあります。科挙という官職を得るための試験に合格できない境遇を共有しつつ、この2人のあいだには、漢詩を通じて生まれた深い大人の友情のようなものを感じとることができます。丘の上にある黄鶴楼から、長江を帆船でくだる先輩詩人・孟浩然を見送る李白。「あとにはただ長江が、空の果てに向かって滔々と流れていくのが見えるだけである」という描写、いいですね〜…しみじみ。
■ところで、私たち日本人は、漢詩を訓読みします。ストレートに意味で理解しようとします。しかし、詩は本来は耳から入る音であるはずです。音を身体でまずは受け止めることが必要なように思います。しかし、中国語をしらなければ、そのような経験をなかなか理解することができません。この、動画をご覧ください。 動画では、中国人の女性が「黄鶴楼送孟浩然之広陵」を詠んでいます。漢詩は、古体詩と近体詩の2種類があり、後者の近体詩は唐の時代の初期に確立した規則や約束によってつくられる定型詩です。この定型詩が生み出す美しい音、心に染み入るような音、中国語がわからなくてもそのようなことを感じとることができます。いいですね〜…しみじみ。
■この写真は、黄鶴楼の最上階から撮った武漢の風景です。長江にかかっている橋は、武漢長江大橋です。ソ連の援助によって中国建国8年後の1957年に完成した橋です。李白の詩のなかにある「煙花」とは、春のもやのなかに咲く花なのだそうです。この季節、春霞といいますかもやがかかるのが、この地域のもともとの風景なのでしょう。この写真も対岸がよくみえません。でも、これはもう、もや…というよりもスモッグの影響の方が強いのでなはいかと思います。中国の環境問題、大変です。
中国に出張
■先週のことになりますが、3月18日(月)から22日(金)まで、中国に出張してきましきました。すでに、3月9日アップしたエントリーでもお伝えしたことの繰り返しになりますが、説明させてください。
■龍谷大学大学院社会学研究科では、日本の社会福祉学の蓄積を生かしつつ、アジアでの専門家養成を進めるために「東アジアプロジェクト」を立ち上げ、急速に少子高齢化が進む中国や韓国の大学などとも研究交流を深めながら、社会福祉を担う国際的な人材育成を進めています。今回は、このプロジェクトの関連で、中国の浙江省寧波市にある寧波大学外語学院と、湖北省武漢市にある華中師範大学社会学院、そして外語学院を訪問してきました。この2大学と龍谷大学とは、すでに国際交流に関わる「覚書」を締結していますが、今回は、さらに「一般協定」を締結し、「留学生受け入れ」や「教育研究交流」に関わる事業を実施できるように、2校の関係者のみなさんと協議を行ってきました。
■両大学の関係者からは、できるだけ早く一般協定を締結し、その上で、留学生の日本への受け入れ、日中の学生の短期交流プログラム、教育の研究交流プログラムの実現に取り組んでいけたらとさまざまなご意見やご要望をお聞きかせいただきました。大変前向きに、龍谷大学との連携を考えておられ、研究科長としても一安心。新年度からさっそく「一般協定」締結や具体的なプログラムの実現に向けて作業に入っていきたいと思います。
■今回は、このような協議ばかりでなく、華中師範大学外語学院日本語学科では講演も行いました。日本語学科ということで、全員きちんと日本語を聞き・話せる学生ばかりなので、私のような中国語のできない者でも講演することができるのです。今回は、「日本人の伝統的自然観とは」という題目で話しをさせていただきました。学生の皆さんの反応は大変よく、ちょっと華中師範大学の先生たちがうらやましくなりました…(^^;;。写真は、私の講演のために用意してくださったポスターの前で撮ったものです。背景の壁には、古代中国の青銅器の楽器です。華中師範大学のある武漢は、青銅器の出土で大変有名で、1978年に湖北省の随県にある曽侯乙墓から発掘された曾候乙の編鐘という楽器が武漢博物館に展示されています。壁面のレリーフは、この曾候乙の編鐘だと思われます。
■この動画は、その曾候乙の編鐘の演奏のようです。訪中時にお世話になった両校の先生方、ありがとうございました。 谢谢!!
懐かしの岩手へ!
■3月15日(金)に開催された卒業式の翌日、1泊2日で岩手県に行ってまいりました。トップの写真は、盛岡市の中心市街地にある開運橋から撮影した岩手山です。どうですか、盛岡や周辺の地域では、このような風景が街中からみえるのですよ!! 「ふるさとの山に向ひて言ふことなし ふるさとの山はありがたきかな」 (石川啄木)。おそらく啄木が見た岩手山の方角は違っていたとは思いますが、岩手山のこの「存在感」は、啄木の生きた時代も今もかわりません。
■私は、かつて岩手県立大学総合政策学部に勤務していました。その頃、盛岡市郊外の教員住宅に暮らしていましたが、岩手山をみながら通勤していました。本当に、幸せな気持になりました。盛岡市や周辺にお住まいの皆さんは、きっと岩手山に包み込まれるような、そんな気持ちとともに暮らしておられるはずです。啄木がいうとおり「ふるさとの山はありがたきかな」なのです。
■岩手山は本当に素晴らしいのですが、もちろん、今回岩手を訪問したことの目的は別にありました。岩手県立大学総合政策学部勤務時代にお世話になったソフトウエア情報学部・伊藤憲三先生の退職記念の最終講義と記念パーティに参加するためでした。伊藤先生とは学部は違いますが、教員住宅近くの呑み屋(「三鶴」)で酒を楽しみつつ、いろいろな話題で楽しい時を過ごさせていただきました。また、いろいろアドバイスやサジェスチョンもいただきました。また伊藤先生の研究室には、当時、私が取り組んでいた流域管理に関する研究プロジェクトにもお力添えをいただきました。写真の左側は、伊藤憲三先生です。
■伊藤先生の退職記念パーティは盛岡駅前のホテルのレストランで開催されました。パーティ終了後は、かつての教え子の皆さんと9年ぶりに再会することになりました。私は2004年から龍谷大学社会学部に異動したのですが、2003年まで私のゼミに所属していたOAさん、そして私の地域調査実習を履修していたさSMさんが、私が盛岡に来ることを知って会いにきてくれたのです(写真右)。彼女たちとも、夜遅くまで楽しく過ごすことができました。ありがとう!! また、岩手で同窓会をしましょう~!!
2012年度卒業式
■一週間以上前、先々週の金曜日、3月15日に「2012年度 学位記、卒業証書・学位記、修了証書授与式(社会学部、社会学研究科)」=卒業式が行われました。脇田ゼミ8期生16名も無事に卒業をすることができました(卒論指導、大変やったぞ~…)。ここにアップした写真は、卒業した8期生から送ってらったものです。卒業生の皆さん、ありがとうございました。
■写真中段以下の写真は、社会学部同窓会歓迎のパーティのときのものです。龍谷大学では、いわゆる「謝恩会」ではなく、卒業したばかりの学生を新・同窓会メンバーとして同窓会が歓迎する…そのような趣旨でパーティが開催されています。そして、毎年、私たち教員もこのパーティに招待されています(同窓会の皆さん、ありがさうございます)。さて中段の写真の中央、卒業生の皆さんからとても素敵なTシャツをいただきました。私がマラソンを走っていることから、このようなTシャツをプレゼントしてくださいました。また、中段写真の右ですが、手作りの「記念アルバム」をいただき、大変感動しているところです。卒業生の皆さん、心のこもった記念品、本当にありがとうございました。
■脇田ゼミの「北船路米づくり研究会」や卒論に取り組んだ経験は、きっと社会人になってからも活きてくると思います。社会人として活躍されること期待しています。また、年に1回は同窓会を開催するようにいたしましょう。学年監事の杉下佳苗さん、よろしくお願いいたします。
6,000アクセス感謝!
■このホームページに設定しているカウンターの数字が6,000を超えました。5,000を超えたのが2月21日でしたから、ほぼ1ヶ月で、さらに1,000回のアクセスをいただきました。ありがとうございます。
中国に出張しています。
■15日の卒業式、そのあと16・17日は岩手に行き、18日から22日までは中国に出張しています。18・19日は浙江省寧波市にある寧波大学外語学院を訪問し、留学生の受け入れ、研究・教育の交流に関して協議を行いました。20日は、湖北省武漢にある華中師範大学に移動。本日から明日の午前中まで、外語学院と社会学院の教員の皆さんと、やはり留学生の受け入れや研究・教育交流に関する協議を行う予定です。
■ということで、このホームページにあるブログ、しばらく更新がストップしています。
今年も大津市「パワーアップ・市民活動応援事業」に採択されました!!
■ゼミ活動の一環としておこなっている「北船路米づくり研究会」では、昨年、大津市の「パワーアップ・市民活動応援事業」【頑張ってみよう部門】に応募し、採択していただくことができました。この助成金のおかげで、昨年の9月には、街中と農村(北船路)との交流事業(「かかし祭」)を成功させることができました。今年も、引き続き研究会として応募することにしました。書類審査も無事通り、3月9日(土)、大津市浜大津にある「明日都浜大津」で審査会が開催され、学生たちがプレゼンテーションを行ってきました。今回は、ひとつ下の学年、すなわちこれから研究会をリードしていく学年のリーダーMくんとサブリーダーYくんがプレゼンテーションを行いました。
■プレゼンテーションの内容は、この2年間やってきた実績に加えて、今年新たに取り組む「地酒プロジェクト」(日本酒プロジェクト)をアピールするものでした。この2人、社会学部が取り組む「大津エンパワねっと」を履修したこともあり、また準備にも時間をかけたのでしょう、プレゼンテーションは安心して聞くことができるレベルに達していました。発表は朝9時50分からでしたが、採択結果は夕方に発表されたようで(私は、学生のプレゼンしか聞くことができませんでした…)。結果として、今年、応募したのは【学生部門】でした。リーダーのMくんの報告では、3つある部門全体をとおしても、かなり良い点数で採択されたとのことでした。おめでとう!! 学生たちにとって、審査委員の前でプレゼンテーションすることは、教育的にもとても良い経験になったと思います。
「京都マラソン2013」完走!
■一昨日、3月10日に開催された「京都マラソン2013」に出走し、完走しました!!グロスタイムが5時間22分55秒。ネットタイムが5時間14分37秒でした。素直に、嬉しいです。昨年、11月23日に開催された「福知山マラソン」では、30km目前で右フクラハギに肉離れを起こし途中棄権したので、やっと念願がかなったという気持ちです。しかし、自分の課題もみつかりました。
■上の表は、京都マラソンの公式サイトの中にアップされている私の個人記録です。今回の「京都マラソン」では、あらかじめネット上で登録をしておくと、各ランナーの5tkmごとの記録がFacebookやTwitterに自動的にアップされる「SOCIAL_MARATHON in 京都」というソーシャルネットワークのサービスが用意されていました。私も登録しておいたものですから、コーチであるHさんからは、スタート1時間後にfacebookにコメントが入っていました。「先生、ペースが早いです。我慢してください!京都はキツイコースです。このペースだと持ちませんよ。キロ7′30をキープして、ゆっくりいってください」。しかし、私の方は必死に走っていますから、そのコメントをiPhone5で読んでいる余裕はありません…。セーブしようとしながらも、まわりのスピードに流されて予定よりもスピードが速くなってしまいました。
■記録からは、25kmから30kmまでのあいだに、まずガクッとスピードが落ちていることがわかります。「京都マラソン」最大の難所といわれる「狐坂」をクリアしたあたりからです。じつは、この頃、すでに膝に問題が生じていました。臀部から大腿部の横を通り膝までつながっている「腸脛靭帯(ちょうけいじんたい)」の、膝とのつなぎめのあたりが炎症をおこしていたのです。先月、フルマラソンにそなえて30km走をしたときにも、右膝が痛くなりました。いろいろ調べてみると、私のようなO脚気味の人は、膝の外側が痛くなる傾向があるのだそうです。ランニングニーと呼ばれています。30km走のときに右膝の外側が痛んだので、今回は、その対策として特性のサポーターをしていました。しかし、痛んだのはサポーターをしていない左膝でした。どうも、このランニングニーが私の弱点のようです。膝の痛みは、30kmを超えるとどんどん強くなっていきました。結果として、スピードも1kmあたり8分代と、相当遅くなってしまいました。もっとも、このあたりになると、周りのランナーの皆さんの半分以上が歩いておられました。故障がおきたかどうかにかかわらず、かなり体力的に消耗してくるからです。私のばあい、35km過ぎてからコーチであるHさんの応援もあり、ところどころで休みながらも、なんとか頑張ってゴールまで走り続けることができました。Hさんには大感謝です。
■この地図は、「京都マラソン」のコースです。京都の北山の山裾を走っていることがわかります。基本的には、25km前後の「狐坂」までは、アップダウンをくりかえしながらの「登り」道です。そして急坂である「狐坂」登り降りしたあとは、基本は下りになるのですが、地図をご覧になればわかるように、折り返しポイントが多くなります。42.195kmの距離をかせぐためにしょうがないのでしょうが、「盲腸」のような折り返しの道は、精神的に辛いものがあります…。また基本は下りなのですが、ところどころに「登り」道になったりします。まこれが、疲れきった体にはきついのです。私は、初心者で偉そうなことはいえないのですが、かなりの難コースなのです。しかも、昨日は、最悪のコンディション。20℃にまで気温があがるとの予報でしたので半袖のシャツで走ったのですが、北山のあたりでみるみる空は暗くなり、冷たい雨がふり、強風が吹くという状況になってしまいました。いや~、辛かったです。
■走り終わった直後は、ひさしぶりに経験したきつさから「しばらくフルマラソンは走りたくない…」という気持になりました。しかし、走り終わって2日たったいま、自分の弱点である膝を強化をしながら、さらに練習を続けたいという気持がムクムクとわいてきました。もっとも、膝の炎症が完全に治るまでは走りません。じっくり休養をして、練習再開です。今年の秋から来年の春までのあいだに、何回かフルマラソンに出走したいと思います。もちろん、毎年出ている「びわ湖レイクサイドマラソン」15km、そして「大津市民マラソン」も走ります。走ることが、さらに楽しくなってきました。それは、自分の課題と、その課題を克服したうえでの具体的な目標や、そこまでの練習のプロセス、そしてその目標に到達している自分をイメージできているからです。このイメージ、とても大切だと思います。
【追記】■写真は、スタート直後のものです。私は、スタートの段階でブロックはHでした。昨年の段階でのエントリーですので、目標を実力よりも高く掲げてしまったせいかなと思います。それでもHブロックだと、メイングランドには並ぶことができません。横にある練習用のサブトラックにならぶことになりました。スタートのピストルが鳴っても、なかなか前に進むことはできません。蟻の行列のようでした。
【追記】2013年3月13日。膝の痛みが消えました。が、しかし。あわてずに、もう少し様子をみて練習を再開します。
中国に出張
■龍谷大学大学院社会学研究科では、日本の社会福祉学の蓄積を生かしつつ、アジアでの専門家養成を進めるために「東アジアプロジェクト」を立ち上げ、急速に少子高齢化が進む中国や韓国の大学などとも研究交流を深めながら、社会福祉を担う国際的な人材育成を進めています。
■このプロジェクトの関連で、3月18日(月)から22日(金)までの5日間で、中国の浙江省寧波市にある寧波大学と、湖北省武漢市にある華中師範大学を訪問することになりました。この2大学と龍谷大学とは、すでに国際交流に関わる「覚書」を締結していますが、さらに具体的に「協定」を締結し、「留学生受け入れ」や「教育研究交流」に関わる事業を実施できるように、2校の関係者のみなさんと協議を行ってまいります。
■15日が卒業式、16・17日が岩手県への出張と、出発直前も予定が詰まっています。帰国は23日にシンポジウムに参加する必要もあります。慌ただしい旅程になりましたが、なんとか具体的に中国で協議を進めることができる時間を確保できました。こうやっているうちに、新学期が始まってしまいますね~。