メジロ

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■娘はある企業で建築士として働いています。趣味は海釣り。よく日本海にでかけます。遊漁船で沖にでて、でっかい魚を釣っていきます。一昨日も、メジロを届けてくれました。メジロとは、ブリの子どもです。ブリは「出世魚」と呼ばれ、成長する段階で名前がかわりますが、関西では、プリになるひとつ手前の段階を「メジロ」というようです。wikipediaですが、以下のように解説していました。

関東 - モジャコ(稚魚)→ワカシ(35cm以下)→イナダ(35-60cm)→ワラサ(60-80cm)→ブリ(80cm以上)
北陸 - コゾクラ、コズクラ、ツバイソ(35cm以下)→フクラギ(35-60cm)→ガンド、ガンドブリ(60-80cm)→ブリ(80cm以上)
関西 - モジャコ(稚魚)→ワカナ(兵庫県瀬戸内海側)→ツバス、ヤズ(40cm以下)→ハマチ(40-60cm)→メジロ(60-80cm)→ブリ(80cm以上)
南四国 - モジャコ(稚魚)→ワカナゴ(35cm以下)→ハマチ(30-40cm)→メジロ(40-60cm)→オオイオ(60-70cm)→スズイナ(70-80cm)→ブリ(80cm以上)

■我が家には、いちおう出刃包丁はあるのですが、サバやアジ程度の大きさをおろすときに使うものです。その小さな出刃包丁で苦労しながらさばきました。昨日は、刺身とカマの塩焼き。今日の晩は、あら炊き。明日の晩は、塩焼き。夫婦2人の家庭ですが、1匹丸ごと全部いただく予定になっています。

須磨海岸

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■出身地はどこかと聞かれたら、神戸だとこたえます。しかし、5歳から16歳の夏までは、神戸にはいませんでした。父親の転勤で、下関、小倉、博多、広島と転居と転校が続きました。幼稚園は3つ、小学校も3つ、中学は1つですが、高校も2つ。転校を繰り返した少年時代でした。というわけで、神戸出身とはいうものの、かなり微妙なところがあります。

■神戸に戻った両親は、私が高2年生のときに、須磨の新興住宅地に家を建てました。子どもからみても、かなり無理をして、がんばって建てた…という感じがしました。国の持ち家政策に煽られて、多くのサラリーマンがローンを組んで郊外に住宅を求めた時代です…。それとはもかく、高校や大学には、この須磨の家から通学することになりました。通学では山の中に造成された新興住宅地から海岸沿いの駅まで歩いていきました。通常、この地域の多くの住民はバスを使って通勤・通学をしていたと思いますが、私のばあい、節約する必要がありました。貧しかったので節約せざるを得ませんでした。行きも帰りも歩いていました。片道2.5kmほどの距離だったと思います。家は高台にありましたから、駅にむかって歩いていくときには、淡路島や瀬戸内海が見えました。

■駅の真横は須磨海岸でした。よく、海岸に座ってぼーっとしていました。現在のようなおじさんの年齢になると、仕事に追われるばかりで、そんな贅沢な時間は何処かに消えてしまっています。ありふれた言い方ですが、お金はなかったが、気持ち的には豊かだった…のです。。

■今日、通勤で京都駅のプラットホームに立っていると、普通・須磨行きの電車が止まっていました。仕事に疲れている現在「気持ち」的には、この電車にそのまま乗ってしまいたかった…というのが本音です。ひさしぶりに、若い頃のように、海岸に座ってぼーっとしてみたかったのです。しかし、それはあくまで妄想のなかだけでしか許されません。

■写真は、2009年の5月の須磨海岸。姫路にある兵庫県立大学に仕事に行った帰りに撮ったものです。末期の肺癌で苦しんでいた父親を泊まり込んで看病していた時期です。父親は、苦しんで、2ヶ月後に亡くなりました。海岸の風景も父の死を予感しながら眺めていたように思います。この写真、長らく塩漬けになったままの個人ブログから引っ張りだしてきました。

小倉時代

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■少し前のことですが、連休中、母親の家で自分が少年の時のアルバムをみつけました。そして、「篠崎バイオリン教室」のこと…をエントリーしました。今回もアルバムの写真に関するエントリーです。

■写真は、通学前の私です。たぶん、小4の頃だと思います。当時は、北九州市小倉区の城野団地に住んでいた。日本住宅公団(現在のUR)が開発した団地です。その団地から、私は私立の小学校に通っていました。小倉区に隣接する戸畑区の明治学園小学校。カトリック系の私立の学校に通っていました。ですから、写真では制服を着ています。バスで1時間以上かけて通学していたように記憶しています。今も1時間40分かけて奈良の自宅から大津瀬田のキャンパスまで通勤していますが、考えてみれば、このような遠距離通勤のルーツはこの時代にあるのか…という気になります(実際のところは関係ありませんが…)。

■この私立の学校には、親の意向で通うことになりました(もっとも、両親ともクリスチャンではありませんが…)。親の意向とはいえ、宗教的な様々な経験ができたことは、自分の人生にプラスだったのではないかと思います。この小学校は、私のような庶民の倅から、制服を着たおかかえ運転手のベンツで通学する大病院の令嬢や、地方財閥の御曹子まで、いろんな階層の子どもたちが通っていました。そのような「社会」を日常的に経験することも、自分としては良かったのではないかと思っています。

■住んでいた小倉の城野団地は、3DK。6畳、4.5畳×2、小さなキッチンの間取りでした。今から思うとかなり狭いわけですが、当時、庶民の暮らしはこんなもんだったと思います。おそらく40平米程ではないでしょうか。写真は部屋の中、そして自宅の窓から撮ったものです。おそらくは、フイルムが残ったから、父がもったいないと撮ったのだろうと思います。窓からの写真には、団地に隣接する三郎丸の聾学校(現在の福岡県立小倉聴覚特別支援学校)が写っています。時々、こちらの学校の生徒さんに散髪をしていただきました。理髪の技術を身につける実習のような位置づけだったと思います。近くには、元々米軍基地だった自衛隊基地(松本清張の小説で知られる)がありました。鉄条網で囲まれて、中には歩哨の自衛隊員が銃をもって歩いていました。ドキドキしながら、近所の子どもたちとそばによって話しかけたこともありました…。近くには民族学校もありました。そこでは、赤いネッカチーフをまいた少年少女たちが、左右に腕をふりながら並んで行進の練習をしていました。そのときは、素朴に、自分たちの運動会の練習とはずいぶん違うなあと思いました。まだ、帰還事業が行われていました。少し離れたところには、廃線になった線路がありました。かつて炭鉱につながっていた線路です。石炭を満載した貨車が走っていたのでしょう。私の少年の時には、すでにエネルギーは石油が中心になっていました。そういう時代でした。私が小倉に住んだのは、1964年4月から1968年3月までことです。

【追記】■本文に、「地方財閥の御曹子まで…」と書きました。これは本当のことです。クラスメートの1人がその地方財閥の次男でした。彼の自宅は、学校の近くにありました。大きなお屋敷でした。子どもたちが、軟式庭球のボールで、ちょっとした野球ができるほどの広さの庭がありました。庭というよりも、庭園ですね。植木や芝の手入れも細かく行き届いていました。遊びにいったとき、お屋敷の大きな正面玄関ではなく、キッチンのある裏口から入りました。裏口といっても、普通の家の玄関ぐらいはありました。基本的に欧米風のつくりになっていました。キッチンにある裏口に置かれたマットの上で靴をぬぎました。段差がありません。キッチンもちょっとした家庭科教室程の広さがありました。お手伝いさんが働いておられました。そのままスリッパに履き替えてお屋敷のなかを案内してもらいました。

■大きな広間のようなリビングには暖炉がありました。その暖炉の前で、クラスメートの兄姉の皆さんと一緒にゲームをしました。そのゲームは、アメリカ製のボードゲームでした。ボードに書かれている文字は英語で、小学生の私にはさっぱり意味がわかりませんでした。おそらくは、人生ゲームのようなものではなかったかと思います。書けばきりがないのですが、「こんな大きなお家に住んでいる子どもも、世の中にはいるんだな…」と団地に暮らしていた私は心の底からびっくりしました。現在、そのお屋敷に、クラスメートの家族は住んでいません。結婚式場になっています。どうしているのかな、そのクラスメートは。

「篠崎バイオリン教室」のこと

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■連休中、通いで母親の介護をしています。母の家でみつけた、私の子どもの頃のアルバムのなかにこういう写真がありました。

■子供の頃、私はバイオリンを習わされていました。もちろん、私が「習わせて!!」といったわけではなく、強制です。「ピアノかバイオリンか、どっちをするか」と5歳のときに母親に迫られました。「やらない」という選択はありませでした。昭和一桁生まれの両親は、若い頃は戦争でできなかったことが多かったようです。いわゆる「文化的な事柄」に対するあこがれがありました。そもそも、いわゆる「文化資本」のない家ですから、「子どもには、何か身につけさせたい」というパターンだったんだろうと思います。本当は、ボーイスカウトのような活動をしたかったのですが、これについては、即、否決されました。

■この写真は、通っていた、「篠崎バイオリン教室」の「おさらい会」の写真です。当時、暮らしていた、北九州市小倉区(現在の小倉北区)に教室はありました。写真の「おさらい会」ですが、小倉のヤマハだったように記憶している。角のほうに「於:日本楽器国小倉店8階ホール」って書いてありますね。まず、一人一人、自分が取り組んできた曲の演奏を終えたあと、全員で合同演奏しているときの写真です。何を弾いているのかは、もう記憶にありません。

■右端に立っている男の子が私です。前の列には、先生の息子さんである篠崎史紀さんが弾いています。まだ幼稚園じゃないかと思います。当時は、「ふみちゃん」と呼ばれていました。年齢が離れているので、話しをすることはあまりありませんでした。現在、ふみちゃんは、N響のコンサートマスター。「まろ」というニックネームでファンの皆さんから呼ばれています。なんといいますか、迫力のある風貌をされていますが、小さい時は、こんなに可愛らしかったんです(まあ、あたりまえですね)。しかし、将来は大物のバイオリニストになると、みんな思っていたのではないでしょうか。子どもながらも、立派な演奏をされていました。ふみちゃんの他にも、篠崎バイオリン教室からは、すぐれた演奏家が排出されているようです。バイオリンが好きでなかった(当時…)私は、この教室の劣等生でした…。いつも先生に叱られていました。ところで、私の記憶では、彼はいつもマッシュルームカットでした。お母さんが自ら鋏をでカットされていたような記憶があります。

■篠崎永育先生がどうされているのか、調べてみました。喜寿でお元気のようですね。
篠崎ヴァイオリンスクール 九州交響楽団 合同演奏会

【追記】■写真の右隅をみると、昭和44年5月5日とあります。1969年ですね。そのとき、私は博多に住んでいました。篠崎先生は、小倉と博多で教室を開いておられました。博多の教室が開かれたのは、市内の東のほうにある公団住宅の集会所だったように記憶しています。ちなみに、私の向かって左側の方は、現在、九州で活躍されているバイオリニストです。北九州交響楽団のコンサートミストレスをされていたようです。

父の残したもの

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■年老いた母を介護する必要があり、連休は母の家に通っています(介護保険のヘルパーさんは連休明けの7日から)。連休ということもあり、いつもとは違って、ゆっくり母の世話をしています。介護の合間に、5年前に亡くなった父の書斎にいってみました。じつは、連休のあいだも大学の事務仕事があり、集中したかったのです。ところがです、集中できません。いろいろ懐かしいものが目にはいってくるからです。そういうものを手にとって眺めていると、記憶にないアルバムをみつけました。写真は一切張ってありません。写真ではなく、何処かに行った時の電車の切符や美術館や展覧会の入場券、家族旅行で宿泊したホテルの領収とか…、まあ普通であれぱ捨ててしまうよなうものが、大切にアルバムに張ってありました。実のところ、父が大切に思っていたかどうか…はっきりしません。たまたま、溜まっていたそれらのものをアルバムに整理しただけ…のようにも思います。単なる、物好き…なのかもしれません。ちなみに、ガラクタの類いばかりで、いわゆる「お宝探偵団」に出品できるようなものは、一切ありません。

■そのようなアルバムの中に、父の通勤定期がありました。トップの写真です。当時は、神戸市北区の山の街に住んでいました。そのため父の通勤提起には、神戸電鉄「山の街駅」発行に書かれています。父が働いていた会社は、阪神「元町駅」にありました。ですから「元町駅」から、自宅の最寄りの駅である「山の街駅」のひとつ隣の駅である「箕谷駅」までになっています。発行日は、昭和49年8月28日です。3ヶ月14,040円。父の年齢は、47歳です。この父の年齢の数字を見たとき、心になに少しズンと響くものがありました。とうの昔にこの頃の父親の年齢を超えています。この頃私は16歳。高校1年生で、神戸市長田区にある兵庫県立兵庫高校に通学していました。

■昭和49年=1974年8月って、どんな年だったのか…。wikipediaには、次のように書かれていました。前年が「オイル・ショック」の年、1973年でしたね。「ウォーターゲート事件」と「朴大統領狙撃事件」と「ベルサイユのバラ」は、同じ年の同じ月だったんですね。改めてみると、「へ〜〜!!」と思わずいってしまいます。

8月8日 - ウォーターゲート事件でニクソン米大統領辞任。フォード副大統領が大統領に昇格。
8月12日 - ダイハツ工業が同社初のSUV「タフト」を発売。
8月15日 - ソウルで朴大統領狙撃事件(文世光事件)。
8月15日 - 津川雅彦長女誘拐事件(翌8月16日に誘拐犯が逮捕され、人質は保護された)。
8月19日 - 国連人口会議
8月19日 - 第56回全国高校野球選手権大会は千葉・銚子商業高校が大会初優勝。
8月28日 - 神奈川県平塚市でピアノ騒音殺人事件が起きる。
8月29日 - 『ベルサイユのばら』が宝塚大劇場で初演を迎える(大ヒットになり、以後宝塚歌劇団の代表作の一つに)。
8月30日 - 東京都千代田区丸の内の三菱重工業本社で時限爆弾爆発(三菱重工爆破事件)。
8月末 - 熊本県の阿蘇山で1965年以来9年ぶりの噴火。

■アルバムには、こんな切符もありました。次の2枚の写真をご覧ください。阪神電鉄の国道線と北大阪線廃止記念の切符です。阪神の野田駅で昭和50年5月6日に購入したようですね。廃止の日かな…。元々、船舶関係のエンジニアだった父親が、何故、廃止になる電車に関心を持ったのか、そのあたりのことよくわかりません?たまたま…好奇心が湧いてなのかな?消えゆくものたちへの感傷的な気持ちからか。まあ、いわゆる「鉄ちゃん」ではなかったと思いますが、もし父が健在であれば、聞いてみたいところです。ところで、学生の皆さんはご存知ないでしょうね。かつて、大阪から甲子園まで阪神の路面電車が走っていたのです。電車は「キンギョバチ」と呼ばれていました。四角い金魚鉢をひっくり返したような形をしていたからです。

【追記】■父の名前ですが、恵人と書いて「めぐんど」と読みます。相当、変わった名前です。

後輩たちと呑む

20140501kg.jpg ■昨日は、午前中の授業と午後からの会議を終えて、晩、大阪梅田にでかけました。大学時代に所属していてた学生オーケストラの後輩たちと呑むことになったからです。場所は、梅田のグランフフロントにある「世界のビール博物館」というお店。参加したのは、年上からいくと、私、不動産鑑定士のYくん、税理士のSuくん、会社員のOくんとSugくん、そしてバイオリン職人のSaくんの6名でした。Sugくんと会うのは、30年ぶりぐらいではないでしょうか。

■Oくんがタブレットに入れてある昔の学生時代の写真や、最近開かれたOB会の写真も見せてくれました。なつかしかったですね〜。みんな元気にしているようです。もちろん、近況もお互いに報告しあいました。大病したことや、仕事のこと、それから私たちの世代ですから親の介護のこと…。辛いこと、楽しいこと、それからおめでたいと話しもありましたね〜。

■しかし、なんといっても学生時代の話しは盛り上がりますね〜。今の大学生だと考えられないような、また耐えられないようなことを、昔はあたりまえのようにやっていたんですね〜。私たちはオーケストラで楽器を演奏していたので文科系のはずなのですが、先輩後輩の関係はちょっと体育会系でもありました。けして昔がよかったとはいいませんが、なんといったらよいのでしょうか、みんな逞しかったんだな…と思います。

■後輩の皆さん、また呑みましょう。

WANTED

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■今日(月曜日)は、4限が4年生のゼミ「社会学演習ⅡA」です。今日から、学生たちの卒論にむけての研究報告が始まります。春のこの段階では、卒論のテーマと方向性の確認、そして関係論文を読み込んでいくとを大切にしています。もちろん、はやくフィールドを決めて調査に行くように…とは、口を酸っぱくしていっているのですが、就職活動のことが心配でなかなか気合いを入れて調査に取り組めずにいます。そこが残念ですし、大変困ったことなのですが、ただし、今日のゼミで「おやっ…」と思ったことがありました。昨年と比較して、論文を読むことの勘所のようなものが少し向上しているのではないか…と思えたからです。他のゼミ生も含めて、この調子で、フィールド調査に突入してほしいと思います。

■ところで、ゼミが終ってしばらくすると、さきほどの4年ゼミ生のうちの6名が研究室にやってきました。何事か…と思っていたら、「少し遅いけれど、お誕生日おめでとうございます」と、お祝いをプレゼントしてくれたのでした。素直に「わ〜い、嬉しい!」と思いました。それに、誕生日の記念に、お酒のラベルも特性で作ってくれていました。漫画『ONE PIECE』の懸賞金のポスターのパロディですね、これ!ゼミ生たちは、私が『ONE PIECE』好きをみんな知っているので、わざわざラベルを作ってくれたんだな。少し説明しますと、『ONE PIECE』では、たくさんの海賊が登場するのですが、その海賊に対して海軍が懸賞金をかけているのです。その金額が、海賊の実力に対する評価ということにもます。これをみると、最低でも1億はいっているかもしれませんね〜。ただし、「?」の中身が「0」だとだめですが…。4年生のみんな、ありがとうございました‼︎ちなみに、中身は、ゼミで行っている「北船路米づくり研究会」がプロデュースした純米吟醸「北船路」です。

■写真は、以下の通りです。絵の上手い磯辺くんが私の顔を書いてくれました!!
山科 梅村 鶴井
磯辺 吉永 冨田 脇田 

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ONE PIECE

【追記】■磯辺くんが描いてくれた原画を画像で送ってくれました。これをもとに、パソコンの得意な吉永さんがスキャンして彩色してラベルにしてくれたのかな…たぶんそうだと思います。ありがとうございました。で、参考にしたのは、たぶん右側の写真でしょう。facebookでプロフィールに使用している写真です。ちなみに、インドネシア・バリ島のデンパサール空港で撮ったものです。
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発熱

■めずらしく、体調を崩してしまいました。月曜日、大学院の授業も終わり、そろそろ帰宅しようかなと思っていると、なんとなく体がだるく、少し寒気がしました。「ひょっとして、これは風邪をひいたのかな…」と思っていたら、案の定、夜中には体温が38℃を超えていました。薬を飲んで一晩眠ればだいじょうぶだろうとなめてかかっていたら、翌朝はさらにひどくなっていました。39℃。こんな高熱はひさしぶりです。

■昨日、火曜日は2限に1年生の「社会学入門演習」という授業がありました。この日は、図書館職員の方を講師とした「図書館オリエンテーション」を開催する予定だったのですが、39℃の熱では大学にいくわけにもいきません。教務課とLA(ラーニングアシスタント)さんに連絡を入れて、私がいなくてもオリエンテーションが受けられるようにしました。そしてフラフラしながら掛かり付けの病院にいき、診察を受けました。幸いなことにインフルエンザではありませんでした。安心しました。これがインフルエンザだと、完全に完治するまで大学にいくこともできませんから…。

■そして本日、水曜日は、なんとしても大学にいかねばなりませんでした。1限に授業あるのですが、先週は母親の急な入院の騒動で休講にしてしまっているからです。こんどは本人の病気のためではあっても、2週続けて休講というのはちょっとマズいですからね〜。加えて、午後からは会議が3つ続き、最後の会議では議長をしなくてはいけません〜…。ということで、昨日はとりあえず汗をいっぱいかいて、水分をいっぱいとって、頓服薬ものんで、39℃あった熱を無理矢理平熱まで下げました。ちょっとフラフラしている感じがまだありましたし、ずっと寝ていたせいか腰も痛いのですが、とりあえず出勤しました。晩までもってくれるとよいのですが…。いつも健康に暮らしているし、周りの人たちからも「丈夫、頑丈」と言われますが、そのような私でも、たま〜〜にこういうことがあります。

チューリップのポスター

20140409kadan.jpg ■自宅のマンションは、奈良にあります。奈良から滋賀県大津のキャンパスまで通勤しています。遠距離通勤者です。さて、昨晩、自宅マンションに戻ると、入り口付近にある掲示板にこんな手作りのポスターが張ってありました。「チューリップが咲いています 視てね!! 今年はいくつ咲くのかな?」。うちマンションには、小さな公園かあり、その公園に小さな花壇があります。いったいどうして、こんなチューリップが咲いているのか…。女性を中心としたボランティアグループが花壇のお世話をされているのです。このことについては、昨年の以下のエントリーをご覧いただければと思います。

春の花壇

■ボランティアグループの皆さん自身が楽しみながら、マンションにお住まいの他の皆さんにも楽しんでもらおうとされていることが素敵だなと思います。私は、残念ながら参加できませんがしたが、この花壇のある小公園に植えられているしだれ桜の花見会も行われました。

【追記】■今日は、朝1限から授業でした。7時前には自宅を出ました。そして花壇に寄ってみました。素敵ですね〜!!
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研究室の大掃除

20140408soji.jpg ■昨日は、午後2時から、大学院社会学研究科の執行部会議、それから教務課長や担当課員との打ち合せで暗くなるまでかかりました。新年度ということもあり、教務課の皆さんは、いろいろ複数の業務をかけもちされていましたので、打ち合せもなかなか進まず…という感じでした。私自身は、後の予定がなかったので、結果として時間をかけてじっくり相談できたのでよかったということもあります。

■新年度、明日からは、いよいよ授業が始まります。学会会議、教授会、研究科委員会も開催されます。ということで、気持ちよく仕事をしようと、こんな時期なのですが研究室の大掃除をしました。溜まりに溜まった書籍を書架に整理すること、溜まりに溜まった書類を分別し廃棄処分すること、これだけの作業なんですが…なかなか大変なのです。ここは、思い切って「断捨離」です!! 溜まっていた書籍を書架に配架しました。どいうふうに並べるかで、いろいろ考えてしまいました。時間がかかりました。そのあと、書類をがんがん捨てました。しかし作業が終わったのは夜の20時でした。昼の14時頃からですから、6時間もかかっていますね…トホホ。

■書類は、まだ比較的簡単に捨てることができるのですが、書籍についてはなかなか難しいです。研究室の書架が、そろそろ満杯になってきました。となると、いらない書籍を処分しなければならないのですが、これがなかなか難しい…。書籍の処分は、今日はできませんでしたが、近いうちに断行しなくてはいけません。できるかな…そんな時間があるかな…。

■本日、捨てるために縛った書類の山は、明日、溶解処分にしてもらいます。

【追記】■社会学部の教員の皆様へ。私だけが知らなかったのかもしれませんが、溶解してもらう資料は以下のようにとのことでした。
・クリップとかガチャ玉は外す。ホッチキスはかまわない。
・段ボール箱に入れて、密封する。
・瀬田事務部に電話をして、何時頃に預けにいくと伝える。
・溶解してもらう資料は、1号館の倉庫に。1号館の山側、通路に面したところにある。
・職員の方に鍵をあけてもらい中にいれる。最後に鍵を閉めてもらう。

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