環びわ湖大学地域交流フェスタ2014「大学地域連携課題解決支援事業」
![]()
■昨日の午後、大津市の「コラボしが21」の3階で、環びわ湖大学地域交流フェスタ2014 「大学地域連携課題解決支援事業」&「学生支援事業」活動報告会が開催されました。滋賀県内の大学が加盟する「環びわ湖大学・地域コンソーシアム」の事業です。この日は、A「地域課題対応型」とB「自主活動型」の活動報告が行われました。また、C「学生支援事業」の活動報告も行われました。私は、A「地域課題対応型」の審査員と、このAの後半のコメンテータを務めました。滋賀県内の自治体と連携したたくさんのチームの報告がありました。大学で地域連携型の教育プログラムに関わってきたこともあり、いろんな意味で勉強させていただくことができました。ありがとうございました。
■A「地域課題対応型」では、私がアドバイザーとして参加した「おおつ未来学生まちづくり会議」の報告も行われました。下のプログラムの4番目です。この審査だけは関係者ということで外れました。「おおつ未来学生まちづくり会議」とは、龍谷大学社会学部の「大津エンパワねっと」を修了した学生や、理工学部と国際文化学部で食や農に関するプロジェクトに取り組む学生たちが、大津市の企画調整課と連携して実施した事業です。詳しくは、最後の関連エントリーをご覧ください。
■とても嬉しかったことは、複数の審査員の皆さんたちから「おおつ未来学生まちづくり会議」の報告に評価をいただけたことです。「活動奨励賞」を受賞ですることができました。学生会議自体は、4回しか開催されていませんが、それぞれの回に向けて学生たちはチームごとにわかれてミーティングを重ねてきました。その努力が実ったということでしょうか。この日の報告自体も、いろいろ工夫されたものでした。企画調整課の皆さん、学生たちをご指導いただき、ありがとうございました。
■このあとの「おおつ未来学生まちづくり会議」の活動ですが、明日、大津市長とのランチミーティングが開催されることになっています。学生たちの視点が、次期の大津市総合計画のなかに活かされることになっていますが、越市長に自分たちの思いを伝えてほしいと思います。「おおつ未来学生まちづくり会議」の活動は、このランチミーティンクが最後になります。今後も、市役所の職員の皆さんと一緒に活動を行うなかで、学生たちが成長できるような…そのような事業が生まれればよいなと思っています。
≪プログラム≫
13:00 開会
13:10 活動報告会
A「地域課題対応型」の活動報告
1. (農産加工品等) 地域資源掘り起しと活用
2. 人口流出を防ぐための定住施策
3. 甲賀市の地域資源を活かしたまちづくり(水口〜土山の文化遺産を活かす事業化)
4. 理想の大津つくろう〜大学生が考える未来の大津〜
5. 玉川っ子検定〜わがまち玉川の魅力発見〜
6. 歴史まちづくり法に基づく草津市のまちづくり
7. 彦根ユネスコ協会の活動への青年層の参画促進について
8. 環境推進員(えこリーダー) への参加
【関連エントリー】
おおつ未来まちづくり学生会議
第2回「おおつ未来まちづくり学生会議」の開催
第3回「おおつ未来まちづくり学生会議」
「おおつ未来まちづくり学生会議」発表会
「おおつ未来まちづくり学生会議」発表会、無事に終了しました。
大学のホームページに「第4回 おおつ未来まちづくり学生会議」の記事
【追記1】▪︎「活動奨励賞」を受賞しました。代表して清水くんが受け取ってくれました。左右は、市役所企画調整課の龍池さん(右)と古田さん(左)。
【追記2】▪︎大津市役所のホームページに、大津市長と「おおつ未来まちづくり学生会議」メンバーとのランチミーティングの様子が掲載されました。
「魚忠」さんと赤ズイキ
![]()
■先々週の土曜日、11月29日は、第32回「北船路野菜市」でした。そのとき、協力農家から出荷された赤ズイキを、大津市の中心市街地にある料亭「魚忠」さんにご購入いただきました。「魚忠」さんは、市場ではなかなか手に入らない地元の野菜を使いたいと強く希望されていましたので、とても喜んでくださいました。後日、facebookでご連絡をいただきました。赤ズイキの芋は、とてもネットリして煮崩れもなく、大変美味しかったとのことでした。この赤ズイキは、協力農家のKさんが生産されたものですが、私たち「北船路米づくり研究会」としても、大変嬉しくなります。「魚忠」さんには、お店でも料理に使っていただけるようです。なお「魚忠」さんからは、茎の調理の仕方についても検討されているとのことでした。
■このことを指導農家の吹野さんに伝えたところ、すぐに反応がありました。赤ズイキを配達しよう。赤ズイキの茎を地元ではどのように調理されているのか、出荷してくださった協力農家の奥様にもサンプルの料理を作っていただき味わっていただこう。そのときに、調理方法や保存方法をお店の方にお伝えしよう。そういう提案でした。もちろん、私への提案ではなくて、学生リーダーのKくんへの提案です。写真は、そのときの様子を写したものです。「魚忠」の社長さん、とってもよろこんでいただけたようです(私は、この場にいません)。
■「北船路米づくり研究会」の活動目的は、「生産者と消費者の『顔のみえる関係づくり』」にあります。最近は、その延長線上で、「農・商・学」連携についても頑張っています。ということで、明日、「魚忠」さんの定休日なのですが、社長さんに北船路まで来ていただけることになりました。実際の生産地をご覧いただけることになりました。案内役は、学生リーダーのKクン。別の協力農家が苦心して生産されている高級食材「海老芋」についても、ご覧いただけるかと思います。明日のことは、また報告させていただきます。
夜の大津駅前
![]()
■大津駅前の風景です。駅の西側は、以前は木造の住宅がたくさん立ち並んでいました。借家もたくさんありました。しかし、区画整理事業で一体がすっかり雰囲気を変えてしまいました。今は、写真のような高層マンションが建設されました。あくまで個人的な主観にしかすぎませんが、まだこの風景に慣れないためか、私のばあいどこかに違和感が残っています。マンションの裏側は、これから建物の建設が始まるのだと思いますが、空き地が広がっています。まだ、ちょっと殺伐とした雰囲気があります。
■大津駅前の通りは、「中央大通り」と呼ばれています。歩道の幅も広く、ゆるやかな坂道の向こう側には琵琶湖が見えます。とても景色は良いのですが、大津祭のような特別の行事やイベントがないかぎり、この幅広い歩道は、閑散としています。それは、昼間も夜間も…です。中央大通りの中央分離帯の植木には、冬になるとこうやってイルミネーションで飾り付けが行われます。しかし、ほとんど人が歩いていません。このイルミネーションは、誰のためのものなのか…寂しい道が余計に寂しくなります。法律の規制があるのでしょうが、期間限定であっても、この幅広い歩道に臨時のオープンカフェのようなものが並ぶと良いのに…と個人的には思っていますが、これはあくまで個人的な意見でしかありませんし、はたして賛同してくれる人たちもいるのかどうか…。大津の街の潜在的な可能性が活かされていません。非常にもったいないと思います。
跡取りさんや若旦那と
![]()
■先週の金曜日のことですが、鮒寿司の「阪本屋」の跡取りである「うっちゃん」と、「浅茅生」の銘柄で有名な「平井商店」の若旦那「しょうちゃん」と一緒に、街中の「夢」について語りあいました。お2人とも、私の子どもとほぼ同じ世代の方たちです。街中で頑張る青年層と話しができてよかったです。まちづくりの活動のなかでは、この世代の人数が一番少ないように思いますし。彼らは貴重な存在です。
■おそらく全国的にそうなのでしょうが、ローカルな地域社会で頑張って地域づくりに取り組んでいるのは退職したあとの前期高齢者の皆さんです。「シニアのボランティア団体と事業型NPO、二極化するNPO法人の実態」という記事を、今日、たまたま読みました。岐阜で「NPO法人G-net」の代表理事である秋元祥治さんが書かれたブログ記事です。日本政策金融公庫のデータをもとに、以下のように指摘されています。
NPO法人の代表者、シニアが多いという統計なのです。
なんとNPO法人の65%は、代表者が60・70代だということ。中央値・平均値共に約63歳ですよ。これらから透けて見えるのは、大づかみで捉えると、シニアが中心となったボランティア団体的NPO法人と、一部の事業型NPO法人という二極。もちろん、どちらが良いとか悪いとかって話ではないですが、いずれにせよ一緒に一括りにはできない、って話なんですよね。
地域で自主的なまちづくりや課題解決に取り組むボランタリー組織は必要だし、自治会組織率なども下がっていく中で、増えるシニア人材の活躍の機会はとっても大事。
一方で、より迫力をもって自立した「社会起業」として社会変革を担っていく、事業型NPO法人もまた求められる。とすると、んなひとくくりで「NPO支援」なんて乱暴なこと言ってちゃいけませんな。
ということを、視野に入れていく必要がある、という話でした。
■ここではローカルの小規模なNPOの代表者にシニアが多いとの指摘なのですが、NPOだけに限らず、様々な地域の「お世話」をしているのは、シニアの方たちです。ボランティアグループという任意団体だと活動助成を受けにくいので、NPO化して法人格を取った…という人も多いのではないかと思います。とはいえ、事業型NPO法人の規模に成長していくだけのこともエネルギーも投入できない…そんな様子が窺えます。ある意味で、そういう「シニア世代の方たちが地域を守っておられて頼もしい」と思うとともに、「この後継世代はどうなっていくのだろう…」という不安もあります。
■ですから、「うっちゃん」や「しょうちゃん」のような青年層が自分の商売を基盤にしながらも、「異業種交流」しながら「まち」のことについて悩み考えるそういう機運がもっと高まればなあと思っているのです。私のいう「まち」は、それほど大きなエリアではありません。「よう知ってる!!」、「まあまあ知ってる!」、「とりあえず話しはする」、「話しはちゃんとしたことないけど挨拶はする」、「顔は知っている」という様々な関係やネットワークが積み重なっている、そんな「まち」の範囲です。そのようなネットワークは、島状になって分散しています。それをつなげていくと…というような話しをしたように記憶しています。もっとも、この日は、けっこうアホな話しばかりしていましたね〜。まあ、酒を呑むとこんなもんでしょうか。
■ところで、真ん中の若旦那のしょうちゃんは、かわいいので、右端のおっさんのイカツさが際立ってしまうわ…と思います(- - ;;。
晩秋の瀬田
![]()
![]()
![]()
■昨日は、瀬田キャンパスから歩いて30分程のところにある京都大学生態学研究センターに行く用事がありました。会議です。時間は16時頃。日が傾き、終りかけの瀬田丘陵の紅葉を赤く染め始めていました。鞄のなかから最近入手した「OLYMPUS TG-3 Tough」を取り出しました。
■このカメラ、接写が特異なのです。トップの写真。植物の名前については大変疎いこともあり、樹種な何なのかわかりませんが、来春にそなえてすでに芽ができあがっていました。産毛がかわいらしい。「OLYMPUS TG-3 Tough」で接写をしたのは初めてですが、それなりにきれいに撮れました。もっと練習をします。
■2枚目の写真ですが、これは瀬田キャンパスの横にある文化ゾーンの公園を撮ったものです。こういうところを散歩するぐらいの余裕が欲しいのですが、この日は、生態学研究センターでの会議に向かっていたため、ゆっくり撮っている時間はありませんでした。残念です。もっと「OLYMPUS TG-3 Tough」の性能を確かめてみたかったのですが。3枚目の写真は、瀬田キャンパスの正門横にある茂みです。といいますか、終りかけの紅葉の茂みよりも、晩秋の空の方を写したいと思ったのです。
「もいきや」(「大津まち歩記」・【120-まち歩記】)
![]()
■昔、むかし、そのムカシ…大津百町の界隈を歩き回り、写真を撮り、ブログにしていた時代がありました。仕事が非常に忙しなり、そのような趣味のブログもできなくなりました。ということで、完全に永久凍土のなかに埋まってしまっています。悲しい…。なんとか、この過去の遺産を復活させたいと思ってはいるのですが。
■ひとつの投稿の一部をフェイスブックに転載してみます。 2007年3月8日の投稿です。「大津まち歩記」というブログなのですが、このブログでは、エントリに1つずつ番号をつけていきました。このエントリーは【120-まち歩記】です。もう、あまり記憶がはっきりしないのですが、この2007年3月8日の時点で、かなりブログの更新が大変になっていたようです。大変ななか、まち歩きをして、興味深い風景をみつけ、なんとか更新を再開した…ということなのでしょう。
冬眠から目覚めました。今年は暖冬ですので。【74-まち歩記】(2006/03/07)では、「啓蟄」なんてタイトルで、「こんなサボりまくりのブログですが、お休みしていた2ヶ月間、『そろそろ更新かな』と期待して時々ご覧になってくださった方もいらっしゃったようです。もう、本当に、感謝・感謝です。」と反省したようなことを書きつつ、その後、秋になると更新が途絶え、あげくのはてに冬眠に突入してしまいました。お知り合いの方からは、「生きてますか~」と携帯で問い合わせがあるし、東京にいっても、ご近所ブログのある方に、「『町家の灯りが』からぜんぜん更新されないじゃないですか・・・」とクレームをいただく始末。本当に申し訳ありません。仕事の忙しさ&もうひとつ運営しているブログさえ更新できていない・・・という状況が続きまして(と、まだ言い訳をしている)。
「もいきや」です。どうです!!これは文句無しの一級品ですね。すばらしい。左から書かれた「もいきや」、いやいや正しくは右から「やきいも」と読まなくては。「大津一番やきいも」の紙の看板があり、そこに描かれているイラストは、まさしく焼き芋です。坂道につくられた店舗が作り出すライン。トタン屋根の錆のぐあい。時代を感じさせるショーケースとコカコーラの冷蔵ケース(ショーケースのなかには、“とりあえず”という感じでジュースとお菓子が置かれている・・・)。そしてお店の前には、2台のオレンジ色のシルバーカー。お店のなかからは、おばあちゃんたちのおしゃべりが聞こえてきます。なんだか、とっても楽しそうです。
今回は、お腹が減っていなかったので買わなかったのですが、こんどやはオヤツにぜひこの「もいきや」をいただこうと思っています。
■このような場所こそが、「まちの縁側」なのかなと思います。たとえば、「あそこにいけば、知り合いや友達の誰かがいるかも…」と、人びとが集まってくるような場所です。こういう場所が町中にたくさんあったらいいのにね…と思いますが、このお店、すでにありません。とても残念。
京阪・浜大津駅の絵
■京阪浜大津駅の改札口を抜けたところに、このような絵が飾ってありました。寄贈されたもののようです。場所は、京津線の「大谷駅」とのことです。絵画のことはよくわかませんが、なにか惹かれるものがあり、iPhone5で写真を撮ってみました。なにか、寂しい雰囲気の女性らしき方がホームのベンチに座っておられます。電車が来ているのに、どうしたのでしょうね。疲れて立ち上がれないのかも…なんて想像をしてしまいました(ちょっと写真のピントもボケていますね、すみません)。
■列車ですが、京都市営地下鉄まで乗り入れている800系ですね。京津線は、地下鉄区間と併用軌道(路面電車)区間を直通する車両です。日本でここだけです。しかも、急勾配、急カーブも多いことから、かなりの費用と技術を投入されている列車なのだそうです。
第6回「大津ジャズフェスティバル」
![]()
![]()
![]()
![]()
![]()
■昨日は、第6回「大津ジャズフェスティバル」(OJF)でした。実行委員のMさんから、緊急にボランティアをしてもらえないかとの打診があり、土曜日だけボランティアをさせていただきました。私の担当場所は「大津祭曳山展示館前」でした。ひさしぶりの会場担当でしたが、なんとか無事にボランティアを終えることができました。ありがとうございました。第6回をむかえた「大津ジャズフェスティバル」、じつに立派に運営をされています。安定感がありますね。「大津祭曳山展示館前」の受付をしながら、昔のことを思い出しました。
■10月15日の京都新聞の1面のコラム「凡語」に、小山さんの事が書かれていました。
青い琵琶湖と秋空を背景にしたステージで、プロやアマチュアのミュージシャンが演奏し、多くのジャズファンが音楽を楽しむ。「世界一美しい」をうたい文句とする大津ジャズフェスティバルが18、19の両日、大津市の浜大津など湖岸一帯で開かれる▼市民の自主的な活動として2009年に始まり、今年で6回目となる。開催を言い出したのは、第3回まで実行委員長を務めた故小山清治さんだ▼大津市の市街地を歩き、シャッターが下りた商店の多さに驚いたのがきっかけだった。「好きなジャズでまちなかを盛り上げたい」と、仲間と立ち上がった▼数人しかスタッフが集まらない会議もあったが地道に賛同者を増やし、強いリーダーシップで初回を成功に導いた。その後、がんが見つかり、闘病の中で第3回を開いたが、一昨年春に54歳で亡くなった▼遺志を継いだスタッフたちの奮闘で、その後もイベントは盛大に続き、今年は約160組1100人が32会場で演奏する。プロも含めて全て無料で聴けるのが魅力の一つだ▼小山さんは運営を始めたころ、「とりあえず、第5回までは何とか続けたい」と話していた。今回、もうその回数を超える。故人が当初想像した以上に育ったフェス。今年は、どんな音色をまちなかに響かせてくれるのだろうか。 [京都新聞 2014年10月15日掲載]
■第1回の2009年の7月に、父親が1年間の闘病の末に亡くなりました。私はずっと看病等で週末は父のところにいっていたので、「大津ジャズフェスティバル」の実行委員会立ち上げには参加できましたが、その後、実行委員としては実質的に参加できないでいました(実行委員会が週末に開催されたため…)。ボランティアかなにかでお手伝いをしようと思っていましたが、小山さんは、わざわざ私に声をかけてくださいました。開催近くになって、再び実行委員になってほしいと呼んでくださったのでした。しかし、実際に実行委員会に参加してみるときちんと機能しているようにはとても思えませんでした。人はそれなりに集まっていましたが、必要な知恵をだし、きちんと動ける人があまりにも少なすぎました。人を動かす仕組みもありませんでした。また、私が知る限りですが、MCなどをしたいという人はいても、汗をかいて舞台裏の仕事等をする覚悟のある人が少なすぎました。上記のコラムのなかには、「初回を成功に導いた」とありますが、それは天国の小山さんも「ちょっと違うよ、それは…」とおっしゃるかもしれません。実際、第1回の運営は惨憺たるものがありました(あくまで個人的な見解ですが)。個人的な知り合いの街の皆さん、そして市役所の職員の方からも、厳しい評価をいただきました。
■しかし、このときの失敗を乗り越え、きちんと実行委員会を再構成し、準備をしっかりした第2回目以降からは、「大津ジャズフェスティバル」は軌道に乗り始めしまた。社会経験豊富な社会人の実行委員の方が増えて、実行委員会の組織を機動力をもたせるた形に再構成したことが大きかったと思います。ジャズフェスティパルの目指す方向性や運営の仕組みをめぐっては様々な議論(激論)が交わされましたが、結果として、現在のジャズフェスの原型ができあがったのが、この第2回目なのではないかと思います。そして私が参加できたのも、この第2回目までです。というのも、1人暮らしを始めた老母の生活介護や大学の地域連携事業等で忙しくなり、ジャズフェスティバルにエネルギーを注ぐだけの余裕が無くなってしまったからです。第6回「大津ジャズフェスティバル」は、冒頭にもかきましたが、第2回目以降の経験知やノウハウが蓄積され、多くの実行委員やボランティアの参加もあり、大変安定した運営のように思えました。素晴らしいですね。
■以下は、塩漬け状態になっている個人プログのなかの「大津ジャズフェスティバル」のエントリーです。忘れていたことを、いろいろ思い出します。この他にも、「ジャズフェスティバル」で検索すると、たくさんの記事がまだ出てくると思います。ジャズフェスの前史のような感じになりますが、私と小山さんとの出会いは、2008年でした。当時、大津市が主催していた地域SNSを通して出会いがありました。そして、6月には、龍谷大学社会学部で実施している地域連携型教育プログラム「大津エンパワねっと」と、中心市街地で地域づくりに取り組んでいる「大津まちなか元気回復委員会・企画部会」とのコラボレーションによる「町歩き」に、小山さんは参加されました。大津中心市街地の寂しい様子を目の当たりにし、「大津ジャズフェスティバル」の実施を決意されました。そのような話しも、以下のエントリーのなかに出てくるかもしれません。
2009/5/14「大津ジャズフェスティバル(その1)」
2009/5/14「大津ジャズフェスティバル(その2)」
2009/5/14「大津ジャズフェスティバル(その3)」
2009/5/14「大津ジャズフェスティバル(その4)」
■ところで、写真の説明をしていませんでしたね。ステージの背景は、「大津祭曳山展示資料館」です。ガラスを通して、なかに曳山の原寸大レプリカが置かれていることがわかります。「西王母山」です。この展示館がある丸屋町の曳山です。
■トップの写真は、「ORB」というバンドです。パンフレットには、「同じ会社で働いていた仲間が集まり、スタンダード・ジャズなどの演奏を楽しんでいる『おやじバンド』です」と自己紹介されています。定年退職をされた中までジャズを楽しまれているのですね。演奏ですが、これがまた素晴らしいのです。多くの人びとが会場の前で足を止めて、その演奏を楽しまれていました。
■3枚目の写真は、「幸バンド」です。男女のボーカルが印象的です。最後のステージということもあり、ベテラン…の風格が漂っています。迫力ありました。私の仕事は、会場の設営と撤収に加えて、パンフレット等の配布とともに、ステージが終わるたびに、募金をお願いすることでした。300円以上の募金をしていただくと、様々な種類が用意されたOJF特製のカンバッジを差し上げる仕組みになっています。たくさんの方達が募金をしてくださいました。市民の実行委員とボランティアが開催して、多くの市民が応援する…そして街に音楽と賑わいを生み出す、素敵だと思います。
滋賀会館
![]()
![]()
![]()
![]()
■ここは、滋賀会館です。滋賀会館は、2008年にはホールが閉鎖し、2010年3月31日にその他すべての文化施設機能が廃止されました。この滋賀会館が誕生したのは、1954年6月15日です。60年の歴史が経過しています。オープンした当時は、音楽、演劇、講演などの文化活動がホールで行われました。それだけでなく、結婚式場もあったと聞いています。他にも、映画館や県立図書館、地下には滋賀の名産を販売する銘店街やレストランなど、あらゆる機能が満載した施設でした。私と同年代以上の大津市民の皆さんにとっては、いろんな「思い出」がギュッと詰まったビルディングなのです。この滋賀会館、もうじき取り壊されることになっています。
■1991年4月から2年ほど、私は、このもうじき取り壊される滋賀会館の3階にあるとても狭いオフィスで仕事をしていました。滋賀県教育委員会文化施設開設準備室のオフィスです。私は、滋賀県立琵琶湖博物館開設を担当する「学芸技師」として滋賀県庁に採用され、この大津で働き始めることになりました。ほとんど研究している時間はありませんでしたが、人生にとって有意義な経験ができました(今から振り返るとですが…)。このときの人脈は、今でも大切にしています。それはともかくです。この滋賀会館のあと、私たちのオフィスは別の場所に移転しました。膳所のパルコの西あたりです。大昔のことになりますが、大津土木事務所が入っていた建物に移転し、(仮称)琵琶湖博物館開設準備室となりました。今は、その建物もありません。そして、このビルディングももうじきなくなります。ビルではなくて、ビルディング…。そう呼びたくなりますよね、どうしても。