「ONE PIECE」75巻
■昨日は、「大津エンパワねっと」の学生の指導がありました(そして、今日もあります^_^;)。みんな、日曜日の報告会に向けて、発表用のポスターやパワーポイントづくりで頑張っています。そんななかに1人の学生が、『ONE PIECE』の最新号、75巻が発売されていることを教えてくれました。学生諸君は、みなさん、きちんとフォローしていますね。また、「大津エンパワねっと」の事務職員のお一方も、猛烈な『ONE PIECE』ファンで、私に最新号のことを教えてくれました。そうですか、買わなくちゃ…です。
■しかし、最近の『ONE PIECE』どうもストーリーの展開が緩慢で、ダイナミックさに欠けるところがあります。また、私のようなおじさん(おじいさんに近いおじさん)には、どうも一コマ一コマの絵が複雑すぎて、何が描かれているのか…よくわからないことがあります。困ったことです。でも、そんな不満は、私だけじゃなかったのですね。数年前の記事になりますが、ネットにこんな感じのものがありました。「【ONE PIECE】最近の「面白く無さ」は一体何があったんだ?!」。私だけじゃなくて、安心しました。
■記事を読んでみると…
「1.絵柄が見にくくなり読み難さが増した。」
「2.登場人物が多すぎて把握できない。」
「3.ストーリーが把握できない。」
「4.面白いと言う人はほとんどが初期頃。」
■もっともなご指摘ですね〜。と、ぶつぶつ文句を言いつつ、明日の朝、コンビニで買ってしまうでしょうね〜。
【追記】■とりあえず、読了。漫画でも読了というのか…は、別にして、とにかく、頑張って読みました。上記の「絵柄が見にくくなり読み難さが増した」という問題と、「登場人物が多すぎて把握できない。」という問題を乗り越え、とりあえず読了です。疲れました。でも、本質的にはおもしろい漫画だと思います。この漫画、どこまでいくんでしょうね〜。
『戦後日本公害史論 』(宮本憲一・著)
■発注しました。『戦後 日本公害史論』。読者は、歴史から学ぶ…ということですね。この著書の根底のところに流れている宮本先生の「歴史観」のようなものを、きちんと理解できればなあと思います。丁寧に、真摯に読み、先生のご著書から学ばさせていただかなくてはいけないと思います。しかし、同時に、宮本先生が気になさらかったことはどういうことなのか、そういうことについても、後発の者たちは考えなくてはいけないと思っています。
■amazonでは「一時的に在庫切れ; 入荷時期は未定です」ということになっています。定価よりも、中古品の方が値段が高いということ、これも、この本への社会の注目度があらわれではないのかなと思います。
■朝日新聞の書評で、環境経済学者の諸富徹さんは、次のように書いておられます。
「著者は日本の環境政策が決してトップダウンではなく、ボトムアップ型で形成された点に特徴があると強調する。それは、世界でも類例のない公害問題を手探りで克服する中から、新しい方理論が生み出され、画期的な被害者救済制度が創出され、今では当たり前になった『原因者負担原則』が打ち立てられる創造的な過程でもあった。」
序章 戦後日本公害史論の目的と構成
第1節 歴史的教訓
第2節 日本公害史論の方法と構成
第1部 戦後公害問題の史的展開
第1章 戦後復興と環境問題
第1節 戦後復興期(1945〜59年)の経済と政治
第2節 本源的公害問題の発生
第3節 大都市の公害
第4節 公害対策
第5節 典型公害
第2章 高度経済成長と公害問題
第1節 国民的社会病
第2節 公害の政治経済システム
第3節 公害対策の始まり
第4節 地域開発と公害
第3章 公害対策の展開
第1節 公害反対運動
第2節 公害対策基本法
第3節 革新自治体と環境権
第4節 公害国会と環境庁の創設
第4章 4大公害裁判
第1節 公害裁判の創造
第2節 イタイイタイ病裁判
第3節 新潟水俣病裁判
第4節 四日市公害裁判
第5節 熊本水俣病裁判
補論 高知パルプ生コン投入事件刑事訴訟
第5章 公共事業公害と裁判
第1節 公共性と環境権
第2節 大阪空港公害裁判
第3節 国道43号線・阪神高速道路公害裁判
第4節 東海道新幹線公害裁判
第6章 公害対策の成果と評価
第1節 公害健康被害補償法
第2節 ストック公害とPPP
第3節 公害対策の成果と評価
第2部 公害から環境問題へ
第7章 戦後経済体制の変容と環境政策
第1節 高度経済成長の終焉と政治経済の動態
第2節 環境政策の一進一退
第3節 環境保全運動の新局面
第8章 環境問題の国際化
第1節 多国籍企業と環境問題
第2節 アジアの環境問題と日本の責任
第3節 沖縄の環境問題
第4節 国連環境開発会議をめぐって
第9章 公害対策の転換と環境再生
第1節 公害健康被害補償法全面改定
第2節 環境基本法の意義と問題点
第3節 「公害と闘い環境再生の夢を」
第10章 公害は終わっていない
第1節 水俣病問題の解決をもとめて
第2節 終わりなきアスベスト災害
第3節 福島第一原発事故
終章 維持可能な社会(Sustainable Society)
第1節 システム改革の政治経済学
第2節 足元から維持可能な社会を
『銀の匙』12巻
■あの大蝦夷野農業高校を舞台とした『銀の匙』、12巻が出ました。すでに出版されてからしばらくたっていると思いますが、今日、やっと手に入れました。今日は、老母の生活介護の日でしたが、母親の自宅近くの書店で購入し、いろいろ世話をして大阪も戻ったあたりで、読了していました(漫画で読了というのかな…)。
■この『銀の匙』、よく考えて描かれていますね〜。本当に、いつも関心します。市場で「商品」として売買される農産物(畜産も含む…というか、こちらがメイン)と、「命」としての農産物。その両者のギャップから生まれる葛藤。日本の農業をめぐる厳しい状況と、そのなかで翻弄されながらも必死に経営に挑む農家。都会の若者と同じように、将来のリスク・ヘッジ(より安定した生活をしたい…)を気にしながらも、この状況を突破しようと懸命に夢に向かって挑む農業高校の若者たちの悩み。これは、一度に全部、読み通してほしいな〜と思います。
■1巻から12巻まで私の研究室にあるので、2〜3日で読破するぞという学生の皆さんには、お貸しする事もできますよ。ただし、読後の感想を聞かせてください。いろいろこの漫画に関して、話しをしてみたいものです。
「消滅する市町村」に関して
■例の増田レポート「消滅する市町村」が一人歩きしているなと思っていたら、やはりこういう議論が出てきました。雑誌『世界』(岩波)の特集「『消滅する市町村』論批判」です。
■昨年の『中央公論』の12月号に、「壊死する地方都市 戦慄のシミュレーション」という特集記事が、そして今年の6月号では「消滅する市町村523〜壊死する地方都市〜」という特集記事が掲載されました。いずれも、元総務大臣の増田寛也さんと日本創世会議・人口問題検討分科会の研究がもとになっています(11年前に岩手県立大学に勤務しいただけに、元岩手県知事といったほうが私にはしっくりきますが)。この「増田リポート」、強いインパクトをもっているせいか、様々な場面で語られています。もちろん、この私自身も、気にしないではいられません。今回の『世界』の特集は、その「増田リポート」に対する批判です。もうあたりまえのようになった「限界集落」という用語が登場したときも、似たような感じがありました。
■「どうせ消滅するんだったら、何をやっても無駄じゃないか、無駄なところにお金を投資するのはやめよう…」的な言説が流布しだすと、予言の自己成就的なスパイラルにはまり、「消滅市町村」にが現実化していくスピードが加速するような展開になりはしないか…という心配もあります。このような「消滅市町村」の議論に便乗して、妙な動きが水面下で動いていないか…ということも心配になります。
■以下は、『世界』のサイトからの引用です。
「人口減少社会」の罠
坂本 誠本稿では、月刊誌「中央公論」に掲載された増田寛也東京大学大学院客員教授ら人口減少問題研究会による論文や、増田氏を座長とした日本創成会議・人口減少問題検討分科会が発表した提言など、増田氏を代表とする一連の論稿を「増田レポート」と総称し、その意味と問題点について、それが政策に及ぼすインパクトを含めて批判的に検討する。
増田論文の根拠となるデータ、そして増田レポートの分析に問題はないのか。農山漁村における「ショック・ドクトリン」的効果を狙ったものともとれるこれらの論稿に、気鋭の研究者がメスを入れる。
「農村たたみ」に抗する田園回帰
──「増田レポート」批判 ──
小田切徳美市町村消滅を予測する「増田レポート」のインパクトは非常に大きかった。一部の地域には、「諦め」の気配もある。それを含めて、このレポートは地域に大きな混乱をもたらしつつある。さらに、この混乱に乗じて、いままで出来なかったことを一気に実現しようとする輩も見え隠れする。
いま、必要なことは、こうした状況のなかで、事態を冷静に整理して、今後の足がかりを示すことであろう。そこで、本稿では、増田レポートとそのインパクトの実態、そこで生まれつつある「農村たたみ論」の意味、そして、その対抗軸のように発生しつつある若者を中心とする「田園回帰」傾向の実態や展望について論じる。
■9月8日発売予定の『世界』10月号でも引き続き、地方再生の問題が特集されるようです。予告には「安倍政権は『地方創生』関連法案を9月からの臨時国会に提出すると言われています。最近聞かれるようになった『ローカル・アベノミクス』にリアリティはあるのか。地方が生き続けられるためには何が必要なのでしょうか」とあります。
「寄生獣」
■今から四半世紀(25年)ほどまえのことです。当時は、漫画を読む習慣がありませんでした。しかし、そのような私でも勧められて夢中になって読んだ漫画があります。それが『寄生獣』(作・岩明均)です。漫画の評価をきちんとできるだけの力量は私にはありませんが、これは名作だと思いました。研究室に置いてあります。大切な蔵書の一部です。
■今から四半世紀前、環境問題のなかで「共生」という言葉が流行っていました。それも、かなり軽い意味合いで使われていました。この『寄生獣』は、そのようなブームとしての「共生」を拒否し、超えようとする内容を含んでいると思いました。当時、ある大学で非常勤講師をしていましたが、授業の教材でも使用しました。懐かしいですね。当時、私の講義を受けた方達、今では、40歳代半ばになっているわけですね…。さて、この『寄生獣』のストーリーは書きません。なぜ、名作なのかも、実際にお読みいただき実感していただければと思います。ところで、この『寄生獣』、映画になるようですね…。個人的には観てみたいものの、微妙な気持ちでもあります。がっかりしたくないのです。
マンガ『銀の匙』
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■「銀の匙」といえば、私たちのような年代の者にとっては、中勘助の小説がすぐに頭に浮かんできます。読んでいなくても、大学受験の現代国語の知識(文学史)として知っている人が多いと思います。その『銀の匙』について、少し前のことになりますが、別の「銀の匙」があることを教えてもらいました。私が学生と一緒に「北船路米づくり研究会」の活動をしているからでしょうか、ある方が(どなたがったか…忘れてしまいましたが…)、「そんなに農業に関心があるのならば、ぜひ、この漫画も読んでみたほうがよい」と勧めてくださいました。それが、この荒川弘の『銀の匙』という漫画です。
■「荒川弘」という作者の名前を、最初は、「あらかわ・ひろし」と読んでしまっていました。男性の漫画家だと勝手に思っていました。しかし、「あらかわ・ひろむ」という女性の漫画家であることを、またまた、ある方からご指摘をいただき知りました(どなたがったか…忘れてしまいましたが…)。この漫画『銀の匙』は、北海道出身で、酪農家に生まれ、農業高校を卒業された荒川さんの経験をもとにしているといわれています。大蝦夷農業高等学校を舞台にした「汗と涙と家畜の酪農青春グラフィティ!!」…なのだそうです。農業とはどういう営みなのかを知る上で、非常に考えさせられる内容です。学生の皆さんにもお勧めします。
■この『銀の匙』ですが、アニメにもなっていますし、近々、映画としても公開されるようですね。
つぶやき岩の秘密
■先日、書店の文庫本売り場で、『つぶやき岩の秘密』が置いてあるのに気がつきました。タイトルをみて「おおおっ!!」と思いました。というのも、「つぶやき岩の秘密」とは私が中学生の頃にNHKで放映された「少年ドラマシリーズ」の中の一作であったからです。もう、どんなストーリーだったかは忘れてしまっています。しかし、そしてこのドラマの主題歌が「遠い海の記憶」であったこと、そしてその歌の歌詞やメロディーを、今でもしっかりと記憶しているからです。非常に懐かしい気持ちになりました。
■さらに「おおおっ!!」と思ったことがあります。それは、このドラマの原作が、山岳小説で有名な新田次郎だったということです。そのことを、この文庫本の表紙をみて初めて知りました。「NHK少年ドラマシリーズ」は、1972年から1983年にかけて放映されました。私の年代の前後の人たちにであれば、多くの皆さんが記憶しているはずです。すでにベテラン女優である古手川祐子や紺野美沙子も、このシリーズのなかの作品でデビューしています。多岐川裕美も出ていましたね。そんなことを知ってはいても、このシリーズのなかの『つぶやき岩の秘密』の原作が新田次郎であったことは知らなかったのです。もちろん、知らなかったのは私だけなんでしょうが…。
■もうひとつ「おおおっ!!」と思ったことがあります。それは、ドラマの主題歌である「遠い海の記憶」を歌っていた歌手が、井上陽水の奥さんである石川セリだったことです。このドラマのストーリーは、すでに忘れてしまっているのですが、すでに述べたように、この主題歌の歌詞を今でもしっかりと記憶しています。しかし、歌っていたのが石川セリさんだったとは知りませんでした。おそらく、今の学生の皆さんには、新田次郎も石川セリも、「それって、誰?」ということんでしょうが…。
【追記】■眠気に抵抗しながら書いたためか、めためたな文章でしたので、少しましなものにしました…すみません。
武村正義・今村仁司
■Amazonからの書籍は、大学で受け取ることにしています。この日も、本が4冊届いていましたて。届いた本を読んでいる時間は昨日はありませんでした。大学院の広報誌の原稿を書く仕事があったからです。たかだか、1200字なんですが…。ディプロマポリシー(卒業認定・学位授与に関する方針)やカリキュラムポリシーにかかわらせながら社会学研究科を紹介しなさい…というミッションが入試部(広報)から与えられているため、さてどうしたものかと資料を確認したり、いろいろ思案していたからです。まあ、なんとか原稿を書き上げたのですが、原稿を書き始めたのが夕方近くだったので、作業終了時はもう晩になっていました。
■今回届いた書籍は、大きくは、ふたつにわけられます。4冊のうち3冊は、以前、滋賀県知事をされていた武村正義さんに関する本です。『武村正義の知事力』はジャーナリストが執筆したもの。『私はニッポンを選択しかたった』は、武村さんご自身の執筆。そして『武村正義回顧録』は、近代日本政治史、オーラル・ヒストリーで有名な政治学者・御厨貴さんの聞き書きです。私自身の関心は、武村県政時代の琵琶湖の環境政策、なかでもいろんな意味で大きな転換点となった県民運動である「石けん運動」にあります。この「石けん運動」との関連で、「滋賀県琵琶湖の富栄養化をう防止に関する条例」(通称・琵琶湖条例)という当時としては画期的な条例も制定されました。このテーマについては、今から20年程前にインタビューさせていただいたこともあります。
■この「石けん運動」や「琵琶湖条例」に関しては、直接的、そして間接的に、以下のような論文を執筆してきました。
・「環境問題をめぐる状況の定義とストラテジー-環境政策への住民参加/滋賀県石けん運動再考」(『環境社会学研究』)
・「変身する主婦」(『変身の社会学』宮原浩二郎・荻野昌弘編,世界思想ゼミナール)
・「行政と環境ボランティアは連携できるのか-滋賀県石けん運動から」(『環境ボランティア・NPOの社会学』鳥越皓之編,新曜社)
・「地域環境問題をめぐる“状況の定義のズレ”と“社会的コンテクスト”-滋賀県における石けん運動をもとに」(『講座 環境社会学第2巻 加害・被害と解決過程』,有斐閣).
・「エコフェミニズムとコモンズ論」(『国際ジェンダー学会誌』第4号)
・「琵琶湖の水質問題と石けん運動」(『よくわかる環境社会学』鳥越皓之・帯谷博明編,ミネルヴァ書房)
・「『環境ガバナンスの社会学』の可能性-環境制御システム論と生活環境主義の狭間から考える-」(『環境社会学研究』第15号(環境社会学会・有斐閣))
■現在、これらの論文をとりまとめる作業に入ろうとしています。とりまとめるにあたり、自分の書いた論文を加筆・修正するとともに、書き足らない部分を補足するための新たな論文も書く必要が出てきています。武村正義さんに関連するこれらの本は、そのとりまとめの作業に必要だと判断し、購入することにしました。『回顧録』などは、国会議員になってからのお話しですが、政治家・武村正義さんの「人生の文脈」のなかに知事時代の仕事を再定位したときに、どのようなことが見えてくるのかが気になり、読んでみることにしました。
■さて、残りの1冊は、今村仁司さんの『社会性の哲学』です。「石けん運動」の研究とは直接には関係しないのですが、この本のなかに出てくる「存在の贈与論的構造」という概念に惹かれて入手しました。すでに絶版になっているので古書を購入したのですが、定価の3倍以上の価格で驚きました。とはいえ、貴重な本は、思い切って購入しておかねばなりません。さて、「存在の贈与論的構造」…です。この概念に関連して、今村さんは次のように述べています。「生きて-あることは、存在が与えられて-あることで」あり、「人は自己の存在を何かによって与えられたと感じつつ生きて存在する」。この「与えられた」という感覚が重要です。この『社会性の哲学』のあとに続いて出版される『親鸞と学的精神』とも、根底のところでは思想的に結びついているように思います。ちょっとわくわくしますね。『社会性の哲学』から、大きなヒントをいただけるでしょうか。私には難解な内容ですが、味わいながら読んでいます。
【追記】■私はまだ読了していませんが、岩波書店の編集部が、以下のような解説さをされています(一部を、私が太字にしています)。本書で今村さんは、自著である『交易する人間』と『抗争する人間』の両者を貫く統一的観点を明確にしようとされているのです。
編集部より
本書は,フランス現代思想を基盤にして労働や暴力の原理的な問題に焦点を当ててきた著者が,人間の原初的存在を贈与論的構造に位置づけて,現世内存在たる人間の現象と政治,経済,法の諸相を考察した大著です.本書の校正中,著者は惜しくも亡くなりましたが(2007年5月5日),これまで研究してきた哲学的人間学の集大成となる著作と言えるでしょう.
人間は他者に取り巻かれている共同体と自然という二つの環境のなかで存在しています.人間の生誕ないし出現とはこの環境世界に投げ入れられることです.この投げ入れには投げ入れるものが存在しません.人間が生きて存在することは,この被投入を生きることです.このことを人間は必ずしも自覚しませんが,その原事実を感じ取ります.人間は「与えられて-ある」と感じるのです.この「与える働き」は語りえないものです.この「与える働き」に対して,人間は負い目をもつのだと著者は述べます.この語りえぬものは人間にとって「無限」であり,人間は自らの存在が贈与されているために,無限に対する返礼として自らを贈与する宿命にあることを感じ取っています.それゆえに,見返りを求めない純粋贈与となる自己贈与によって自己充足したいという欲望を人間はもつというのです.
しかし,根源的な存在論としては自己破壊となる自己贈与の欲望をもつとしても,現実的には自己保存が自己破壊的贈与よりも優越します.自己否定の契機は抑制され,その欲望は他者に振り向けられます.自分以外のものを死に至らしめる代理死の制度化が供犠なのです.
人間の原初的存在はこのような贈与論的構造に位置づけられ,その原理は人間の社会生活と観念形態を貫きます.現実社会は,政治権力,国家,貨幣などを擬似的=代理的な無限としてつくりだし,それらに対する他者の犠牲というメカニズムが働きます.こうした視点に立って,政治,経済,法という社会性の諸相を考察するのが本書です.
第一部の存在の贈与論的構造をうけて第二部で展開される,政治,経済,法についての考察では,大胆で斬新な議論がなされます.
フランス現代思想のフィールドでの仕事がよく知られている著者ですが,この大著では,政治や経済を考察するために,西洋哲学・社会思想だけではなく,レヴィ=ストロース,モーリス・ゴドリエ,ピエール・クラストル,マーシャル・サーリンズ,エヴァンズ=プリチャードなど人類学者の仕事を検証し,議論の大きな射程のためにヘーゲルに立ち返っています.
まだまだ多くの仕事を予定していたと思われる著者ですが,遺著となった本書は閉塞状況に陥ったともいえる現在の思想状況・社会状況のなかで,人びとを新しい地平に立たせる記念碑的著作であることはまちがいありません.
「みどり勉強会」と『大学生のためのドラッカー』
■昨日は、火曜日。深草キャンパスで、午後から会議が3つ続きました。トホホ…な感じの火曜日なのですが、仕事ですから…。それに、3つのうち1つの会議は3月末。4月からは1つ減ることになります。頑張ります。で、それはともかくです。
■京阪・深草駅から深草キャンパスに向かう途中、といいますか深草駅の真横に「喫茶みどり」があります。今は世の中から消え去ってしまった「昭和の雰囲気」満載の喫茶店です。あくまで喫茶店であって、けしてカフェではありません。そこが、素敵な感じなんですよね~。時間があるとき、たちよって、こちらでコーヒーをいただきます。おちつくんですよね~。でも、今日は会議があるので、前を通り過ぎるだけでした、すると「本日みどり勉強会」と緑のマーカーで書いたホワイトボードが、入り口の横にぶら下げられていました。
■「みどり勉強会」、噂には聞いていました。「喫茶みどり」の会議室を使って、おこなわれている勉強会です。この「みどり勉強会」ではtwitterをもっておられます。そこには、次のように説明されています。
喫茶みどりの会議室で行っている勉強会です。龍谷大学の松谷先生を迎え、社会人、大学生、高校生、留学生などさまざまな業種や立場の人間が参加しています。毎週火曜日18:30~22:00までやっています。どんな人でも、参加自由ですよ~。
■いいですね~。30年続いている勉強会なのだそうです。こういうオープンな「場所」、そして「居場所」があるって幸せなことです(そうなんですよ、学生の皆さん)。社会学部がある瀬田キャンパスの近くにも、こんなのができたらな~思うのですが、実際のところ、すでにたくさんあったりして…。そのあたり、よくわかりません。ゼミの学生に聞いてみようかな。
■ネット上には、このような「みどり勉強会」に関する記事がありました。こんな記事もありました。朝日新聞の記事です。この勉強会に参加し、『大学生のためのドラッカー』という本を出版された松本健太郎さんが登場されます。『大学生のためのドラッカー』は、この「みどり勉強会」から生まれたのだそうです。以下からは、この勉強会の雰囲気が伝わってきます。
会は、まるで社会人になるための「道場」だ。先輩らの言葉は厳しい。この日も、教員志望の学生を「なるための努力はしているの?」「想像力が足りない」と一喝。松本さんも「声が小さい。みんな暗く見える。そんなんで就活、成功できるの?」と学生らを奮い立たせた。
3回目の参加という龍大1年の新町冴子さん(19)は「自分の小ささを痛感します。社会人になることは星に手を伸ばすくらい大変」と圧倒された様子だった。これから就活が本格化する私も甘さに気づかされた。「将来なりたいものを想像し、その過程を具体化し、実践して目標は達成される」。先輩らの指摘が心に残った。
■縦のつながりのなかで、自分が鍛えられる…っていいなあと思います。それから、「将来なりたいもの」…大切ですね。今の学生の皆さんは、自分は何をしたいのか、将来何になりたいのか…そのあたりがよく見えないといいます(ある意味、仕方がない面もあるのですが…)。「あこがれ」「あんな先輩のようになりたい」というロールモデルが、横のつながりのなかでしか生きていないと、なかなか身近にみつけることができないのかもしれません。だから、縦のつながりって、大切なんだと思います。
■それから、『大学生のためのドラッカー』に関して、以下のようなことも…。一般論として、組織のなかで、つまらない、小さな政治的な動きをおこして、組織を混乱させる人たちのことですね(混乱させることで、自己満足)。ずばり「組織を破壊する」とありますが、その通りだと思います。ちょとドキリとしますね。学生の皆さん、いろいろ勉強されていますね~。
「大ドラ」の中の印象深い言葉を紹介したい。「人の強みよりも弱みに目を向ける。口だけで実行に移さない。何が正しいかより誰が正しいかに関心を持つ。成果に目を向けない。こうした者は真摯(しんし)さに欠け、組織を破壊することになる」
■町家キャンパス「龍龍」なんてかで、複数の教員で、「みどり勉強会」のようなことができたらなあと思います。複数の教員で…というところが大切だと思います。
「経験」すること
■ある学生と面談をしていたときのことです。「せんせー、僕の『やる気スイッチ』、どこにあるんですかね。結果がみえていないと、やる気がでないんですよ」。つまり、「こうすれば確実に確かな結果が獲得できる」と保証され、高い確実性が存在しないのであれば、自分は取り組みたくない…ということなのかもしれません。そのことを、自分でも困ったことだと思っており、なんとかしたいとは思ってはいるようなのですが…。私だって「やる気スイッチ」があればなあ…もっとバリバリ仕事をするんだけど…とは思いますが、「結果がみえないと、やる気がでない」というのは…すぐには理解できません。結果がすぐにはみえないから、確実ではないからこそ、そして未知の経験ができるからこそ、逆に、やる気が生まれてくるってこともあると思うからです。最初から結果が見えている…そんな計算可能、予測可能な未来…、それはそれで退屈で辛いことなんじゃないでしょうか(…・と思うのは、おじいさんに近づきつつある、おじさんの言い分でしょうが)。
■いろいろ学生たちと話しをしていて、時々、強く感じることがあります。コスト・ベネフィットを考えるように自分の日々の生き方を選択しているように思うのです。無駄になるかもしれないけれど、汗をかいて頑張って、人に相談をしてお願いをして…そんな面倒なことはできるだけしたくない。要領よく結果だけを獲得したい。そんな発想が見え隠れしているように思うのです。言い換えれば、自分の思うようにならないことは苦痛であり、そのような苦痛は、できるだけ自分の周りから消去したいという願望です。
■今、『民主主義のつくり方』(宇野重規・筑摩選書)という本を読んでいます。このなかで、藤田省三(日本思想史)が取り上げられています。引用してみます。
藤田は『経験の重視と自由の精神とは分ち難い一組みの精神現象』であるという。逆にいえば、経験が失われるとき、自由の精神も失われる。(中略)藤田にとっての経験とは、人と物との相互的交渉である。『物に立ち向かった瞬間に、もう、こちら側のあらかじめ抱いた恣意は、その物の材質や形態から或は抵抗を受け、或は拒否に出会わないわけにはいかない。そしてそこから相互的交渉が始まり、その交渉過程の結果として、人と物との或る確かな関係が形となって実現する』。藤田にとっての経験とは、自分が思うようにはコントロールできない物や事態との遭遇を意味した。その意味では、経験とは自分の恣意性の限界を知ることに等しい。
もし人がすべてを思うままに支配できるならば、そこには経験はない。思うままにはならない物事に対し、それと交渉し、何とか行き詰まりを打開すること、そのような実践こそが、藤田にとって経験の意味するものであった。そして、経験なくして人間の成熟はありえないと藤田は考えた。
自分の思うようにならない物事との交渉は、当然苦痛を伴うものになる。しかし、自分を震撼させるような物事との出逢いを回避するとき、人はすべてを支配できるという幻想に自閉することになる。とはいえ、それは真の意味での「自由」とはほど遠い。「自由の根本的性質は、自分の是認しない考え方の存在を受容するとこにあ」るからである。
(中略)現代社会をますます覆い尽くすようになっているのは、「私たちに少しでも不愉快な感情を起こさせたり苦痛の感覚を与えたりするものは全て一掃して了(しま)いたいとする絶えざる心の動きである」。このような傾きこそが、人々を「経験」から遠ざけると藤田が考えたことはいうまでもない。(中略)経験を拒み、言い換えれば自分に抵抗し拒絶を示すような事態との遭遇を回避し続けるとき、逆説的には人間は自動的な機械の部品にならざるをえなくなっていくと藤田は指摘した。
「今私たちを取り巻いている世界には、もはやそのような基礎経験も、それとの知的交渉を通した知的経験の再生力もない。それだけに、自分だけの『体験』を重視することによって、制度の部品となっている函数的境遇の中での気晴らしと『自分』の存在証明を求めようとする」。いたずに自らの「体験」を誇る言説の氾濫にいらだちながら、それにもかかわらず、「経験」は失われ続けていると藤田は指摘したのである。
■藤田省三の文献をきちんと読んだわけではなく、宇野さんの文章を引用しているだけです。孫引きのような形になりますが、この藤田省三の「経験」という概念は、面談する学生たちの発言の背後にあって無意識のうちに共有されている時代意識のようなものを考えるうえで、大切なことだと改めて思うのです。宇野さんが引用している藤田省三の文献は1980年代から1990年代にかけて書かれたものです。学生からすれば、ずいぶん大昔の話し…のように思えるかもしれませんが、そうではないと思います。藤田が批判的に指摘した状況は、より一層、深く社会のなかで進行しているのではないでしょうか。
■ここで、話しを少しかえます。龍谷大学社会学部の理念は、「現場主義」です。この「現場主義」をどう捉えるのか、教員によって様々だと思いますが、私は上記の藤田のいうところの「経験」を学生たちが積み重ねていくことこそが「現場主義」の教育ではないかと思うのです。私の限られた経験ですが、地域連携型教育プログラムである「大津エンパワねっと」で…、ゼミでおこなっている「北船路米づくり研究会」で…、そして各自の卒論のフィールドワークで、義務感からでもなく、就職に有利だからという功利主義的な考え方からでもなく、それぞれの活動のなかで自分の目の前に生じている事態にきちんと向き合い、「経験」(自分が思うようにはコントロールできない物や事態との遭遇)を蓄積していった学生が結果として成長していくように思うのです。そして、なによりも大切なことは、藤田のいう意味での「自由」に近づいていると思うのです。
【追記】■この『民主主義のつくり方』、勉強になります。この本を、出版社側は、こう紹介しています。
民主主義は今、不信の目にさらされている。決定までに時間がかかり、「民意」は移ろいやすい…。だが、社会の問題を共同で解決する民主主義を手放してしまえば、私たちは無力な存在となる他ない。ならば、この理念を再生させるには何が必要か?「習慣」と「信じようとする権利」を重視する“プラグマティズム型”の民主主義に可能性を見出す本書は、この思想の系譜を辿り直し、日本各地で進行中の多様な実践に焦点を当て、考察を加えてゆく。未来が見通しがたい今、「民主主義のつくり方」を原理的に探究した、希望の書である。
■プラグマティズムに関連して、本書ではチャールズ・テイラーが取り上げられていました。そしてテイラーの「孔だらけの自己」(porous self)と「緩衝材で覆われた自己」(buffered self)という概念、興味深いですね〜。
近代の「緩衝材に覆われた自己」とは、自らの内面に撤退し、そこから世界をうかがい、あるいは操作しようとする存在である。あらゆる意味は自らの内面からのみ生まれるのであって、自分の外部と統御すべき対象でしかない。