ぼてじゃこトラストの記念シンポジウム

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▪︎本日の午前中は、ボランティアの皆さんと一緒に自治会の夏祭りの後片付けをして、午後は大津市南郷の「アクア琵琶」に移動しました。この「アクア琵琶湖」を会場に、発足20年を迎えた市民団体「ぼてじゃこトラスト」の記念シンポジウムが開催されたからです。20年も地道に活動を継続しながら成果もあげていく…とてもすごいことだと思います。私は、お祝いの気持ちとともに参加させていただきました。この「ぼてじゃこトラスト」は、環境の変化や外来種の増加で激減したぼてじゃこ(タナゴ)の調査を行うとともに、子どもたちへの環境教育活動にも取り組んでおられます。

▪︎今日のシンポジウムでは、琵琶湖や琵琶湖流域に関わって活動をされている小中高生を中心とした団体が活動報告をされました。「ぼてじゃこワンパク塾」、「アイキッズ」、「ホタルの学校」の3団体の皆さんです。それぞれの団体のみなさんの活動のレベルの高さに驚きました。素晴らしい。活動報告のあとは、前滋賀県知事・びわ湖成蹊スポーツ大学学長の 嘉田 由紀子さんが基調講演をされました。嘉田さんのファンの方達がたくさんいらしゃっていたようで、真剣にメモを取りながら聞いておられました。そのあとのパネルディスカション、残念ながら、夕方から自宅マンションの管理組合の理事会があるため、聞かせていただくことができませんせでした。途中で会場を後にしました。「滋賀の川遊び、雑魚取り文化を次世代につなげよう!!」というテーマでのディスカッションだったようです。残念ですね〜。でも、総合地球環境学研究所のPD研究員の浅野さんが来てくれていたので、彼にどのようなディスカッションだったのかをあとで聞かせてもらうことにしたいと思います。このパネルディスカッションのテーマ、すごく大切なテーマだと思っています。

2015「びわコミ会議」

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▪︎昨日は、大津市の「コラボしが21」で、「びわコミ会議」が開催されました。琵琶湖に関わって活動をしている人びとが一堂に会すると同時に、琵琶湖の現状を知るための「大交流会」です。この「びわコミ会議」ですが、「マザーレイク21」と呼ばれる琵琶湖総合保全整備計画との関連で開催されています。詳しくは、こちらをご覧ください。私は、参加している総合地球環境学研究所のプロジェクト「生物多様性が駆動する栄養循環と流域圏社会─生態システムの健全性」のメンバーと参加しています。

▪︎午後のセッション「びわ湖のこれから話さへん?」では、様々なテーマに分かれてグループ・ディスカッションを行いました。地球研のプロジェクトリーダー奥田昇さんと、PD研究員の浅野さん、サブリーダーである京都大学生態学研究センターの谷内茂雄さん、そして私で担当したのは、「野洲川と人びとのつながり」に関するグループです。野洲川上流、甲賀市の丘陵地帯にある農村、そして野洲川下流の守山市にある農村からお越しの、3人の農家の皆さんにお話しを伺うことができました。特に話題になったのは、お3人がまだ少年だった昭和20年代の話しです。河川改修や圃場整備事業が実施される以前の、「魚つかみ」「魚食」の文化の豊かさについていろいろお話しを伺わせていただきました。皆さん、大変楽しそうにお話しになりました。私自身も、とても興奮しました。野洲川流域の上流、野洲川の下流と、お住まいの農村はもちろん、「魚つかみ」をしていた河川の状況や、つかんだ魚の種類も全く違っているわけですが、「もっと話しをしていたい」とおっしゃるぐらいに話しあいは盛り上がりました。村の中で昔話をすることはあっても、他所の村の方たちと話しをした経験はないそうです。必ず、また、こういう盛り上がることのできる「場」を設けること、お約束いたしました。

▪︎「びわコミ会議」の最後まではいることができませんでした。自分の所属する自治会で「夏祭」か開催されており、そこでボランティアとして焼きそばを作らなければならなかったからです。あとで、プロジェクトリーダーの奥田さんに聞いたところ、琵琶湖に関わって活動をしている人びとが一堂に会する「大交流会」である「びわコミ会議」らしく、いろんな方達との今後の協働の可能性が見えてきたようです。こういう人びとの連携が生まれるとこも、この「びわコミ会議」の魅力かなと思います。

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夏期休暇中に総合地球環境学研究所へ

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▪︎大学の一斉休暇明、深草キャンパスと瀬田キャンパスに出勤しましたが、今日は大学ではなく総合地球環境学研究所へ向かいました。今年度、下半期の予算の計画的な執行にあたっての打ち合わせです。いつのまにやら研究プロジェクトの「人間社会班」というザクッとした名前の班リーダーになっていることから、地球研の職員ではありませんが、けっこう細々したことを調整しなければなりません。夏期休暇中は、けっこう頻繁に地球研に通っています。まず、旅費を確定するために、フィリピンで行う海外調査と、国内の宍道湖や八郎湖で行う調査の日程を決めました。優秀なPF研究員がいてくれるので、なんとかなっていますが…、そのように人材がいても研究プロジェクトのマネジメントはなかなか大変…なわけです。もちろん、大学の仕事とのバランスや調整も難しいのですし…。

▪︎休憩しに研究所の庭に出ると、私たちのプロジェクトの調査地である甲賀市甲賀町小佐治から頂いた稲が成長していました。少しずつ成長して、稲穂らしくなっきていました。こんなふうに、私たちの研究プロジェクトも成長発展すればよいのですが、なかなかそういうわけにはいきません。少しずつしか前進できません。とはいえ、前向きに、誠実に、研究プロジェクトに取り組んでいます。

イタリアンな昭和の居酒屋

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▪︎昨日は、瀬田キャンパスの研究部に一日詰めていました。いろいろ、雑多なことを済ませクタクタになり、さて帰宅しようと思うと夕方になっていました。「そういえば、今日は、晩御飯がなかった」と思い出しました。妻が友人と食事を楽しみに出かけたていたからです。ということで、いつもの駅前の居酒屋「利やん」へ。そういえば、ひさしぶりに「利やん」の話題です。

▪︎「利やん」のマスター、体調を調整中で、代打の料理人の方がカウンターに入っておられます。マスターが全幅の信頼を置いておられる料理人です。この方、この「利やん」のご常連の息子さんです。イタリア料理を修行されてきた方です。そういう方が、「昭和の居酒屋」である「利やん」で料理をすると、「和」と「イタリアン」のコラボレーションのような料理が生まれます。写真は昨日いただいた料理です。

▪︎トップは豚肉のローストにジェノベーゼ風ソースをかけたものです。ジェノベーゼソースとは、本来、香草であるバジルの葉と、松の実、チーズ、オリーブオイルをもとに作りますが、今回のソースはジェノベーゼ風です。バジルはシソ科の植物です。ですから、シソと風味が似ています。シソを細かく刻み、そこに粉チーズとニンニクを入れ、オリーブオイルを加えてあります。松の実は、高いので無し…とのことでした(笑)。ジューシーな豚肉とこのソースが口のなかでよくからみ、非常に美味しかったです。

▪︎下の左の写真。これはジャガイモ料理です。「利やん」はおでんが名物の居酒屋ですので、おでんのジャガイモを流用しています。やはりバジルのかわりにシソを使ったソースですが、こんどはイカの塩辛をきざんだものが入っています。通常は、アンチョビかなにかを使うそうですが、今回は、お店にあるイカの塩辛です。これも美味しかったな〜。最後、下の右の写真ですが、鶏肉のローストなんですが、味噌をベースにしたソースがかかっています。

▪︎代打の方は、昨日が最後のお仕事でした。本日より、マスターが復活されます。よかった。めでたし、めでたし。

【追記】▪︎「利やん」は、私にとって、いろんな意味で大切な「場所」です。昨日は、よく存じ上げているご常連と、その奥様、奥様のお友達が一テーブル囲んでおられました。年上のお姉様方になるわけですが、北船路で生産している「龍大米」(コシヒカリ)に強い関心をもってくださいました。10月の「北船路野菜市」では、新米も販売します。ぜひ、お買い求めいただき、龍大米の味を試していただきたいと思います。また、カウンターに座っていた若い青年は、大阪の方。純米吟醸「北船路」が好きで、これまでも何度も「利やん」に来てくださっているようです。私のゼミが、この純米吟醸酒をプロデュースしたとことを知って、いろいろ質問をしてくださいました。昨晩は、「利やん」で「北船路米づくり研究会」の宣伝をずいぶんさせていただきました。

龍谷大学第5次長期計画 第2期中期計画

20150820vision.jpg■一斉休暇明け、昨日は深草キャンパスの研究部に出勤しましたが、今日は瀬田キャンパスの研究部に出勤しています。研究室で仕事をしてもよいのですが、現在、この酷暑のなかで研究室の空調が故障しております。私の研究室は2号館という建物の3階にあります。3階建の3階ですから、真夏は空調なしでは耐えられません。今日は、雨模様の天気で比較的気温は低いのですが、それでも研究室の内部は34℃になってしまいます。これでは、体調を崩してしまいます。ということで、研究部に避難して、仕事をさせてもらっています。

■今日は、メールボックスに「龍谷大学第5次長期計画 第2期中期計画」という冊子が投函されていました。教職員全員に配布されたものだと思います。龍谷大学では、1970年代から長期計画に基づき大学運営に取り組んできました。現在の第5次長期計画は2010年度から展開しています。その前半期の「第1期中期計画」が2014年度で終了し、2015年度からは、後半期である「第2期中期計画」に取り組んでいます。この「第2期中期計画」のことを、学内では「2中」と呼んでいます。「2中」では、「第1期中期計画」に取り組むなかで明らかになった課題、外部環境の変化や文教政策動向などを勘案し、新たに31項目にわたるアクションプランを策定しています。以下は、ごく一部を紹介したいと思います。

■「2中」では新たな評価方法が導入されました。重要行政評価指標(KPI= Key Performace Indicator)です。評価についても、できるだけ客観的な数値でということです。定性的要素に依存する事業についても、間接的に定量化できる事業をもって評価指標・基準を設定することになっています。なかなか厳しいです。31項目のアクションプランのうち、研究部のアクションプランは、「特色ある研究体制の確立」と「外部研究資金の獲得および研究活動の充実強化に向けたスキームの確立」です。前者では、龍谷大学らしさを備えた研究の特色化に資するものとして、「世界仏教文化研究センター」における活動の実質化と広報体制の確立、そして強みのある研究を推進するための学内支援制度の見直し、新しく開学した農学部の教学資源を活用した研究・社会連携方策の展開していくことになっています。現在、「世界仏教文化研究センター」のプロデュース作業に、必死で取り組んでいます。後者の「外部研究資金の獲得および研究活動の充実強化に向けたスキームの確立」では、外部資金獲得に向けて、新たなインセンティヴ要素の充実、科研費獲得に向けた諸制度の充実・整備、外部研究資金獲得・誘致に向けた体制の整備をおこなっていきます。農学部が開設されたことで、科研費の獲得金額がかなり伸びています。外部研究資金の獲得も増えています(一般には、理科系学部の多いところほど、また理科系学部の規模が大きいほど、科研費の獲得金額は高くなります)。

■この「龍谷大学第5次長期計画 第2期中期計画」を睨みながら、改めて、研究部としての展開を考え、頭のなかを整理しています。巻末言のタイトルは、「『大学冬の時代』における成長戦略としての5長、そしてポスト5長期」です。18歳人口が減少するなかで、大学という業界には、かつての右肩あがりの時代の呑気さは微塵もありません(そのはずです…大学から給与を得ている者は、そうでないといけない)。この厳しい状況のなかで、どう生き残り、どう成長していくのか、大変困難な課題かと思いますが、知恵を絞り、汗をかきながら前進するだけです。

西粟倉村のこと

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▪︎つい先日、知り合いの新聞記者から問い合わせがありました。仕事上の問い合わせというよりも、個人的に意見を聞かせてほしい…という感じでしょうか。このような質問です。「日本創成会議が提唱している東京圏から地方への移住呼びかけについてはどう思うか?」。この「移住の呼びかけ」については、以下の日本経済新聞の記事をご覧ください。

民間有識者でつくる日本創成会議(座長・増田寛也元総務相)は4日、東京など1都3県で高齢化が進行し、介護施設が2025年に13万人分不足するとの推計結果をまとめた。施設や人材面で医療や介護の受け入れ機能が整っている全国41地域を移住先の候補地として示した。

 創成会議は「東京圏高齢化危機回避戦略」と題する提言をまとめた。全国896の市区町村が人口減少によって出産年齢人口の女性が激減する「消滅可能性都市」であるとした昨年のリポートに次ぐ第2弾。

 東京、神奈川、千葉、埼玉の1都3県では、今後10年間で75歳以上の後期高齢者が175万人増える。この結果、医療や介護に対応できなくなり、高齢者が病院や施設を奪い合う構図になると予測した。解決策として移住のほか、外国人介護士の受け入れ、大規模団地の再生、空き家の活用などを提案した。

 移住候補地は函館、青森、富山、福井、岡山、松山、北九州など一定以上の生活機能を満たした都市部が中心。過疎地域は生活の利便性を考え、移住先候補から除いたという。観光地としても有名な別府や宮古島なども入っている。

 高齢者移住の候補地域は以下の通り(地名は地域の中心都市。かっこ内は介護施設の追加整備で受け入れ可能になる準候補地域)。

【北海道】室蘭市、函館市、旭川市、帯広市、釧路市、(北見市)
【東北】青森市、弘前市、秋田市、山形市、(盛岡市)
【中部】上越市、富山市、高岡市、福井市、(金沢市)
【近畿】福知山市、和歌山市
【中国】岡山市、鳥取市、米子市、松江市、宇部市、(山口市、下関市)
【四国】高松市、坂出市、三豊市、徳島市、新居浜市、松山市、高知市
【九州・沖縄】北九州市、大牟田市、鳥栖市、別府市、八代市、宮古島市、(熊本市、長崎市、鹿児島市)

▪︎いかがでしょうか。なるほどと思われる方もいらっしゃるかと思いますが、私は、この提案内容に納得がいきませんでした。一極集中している東京の視点から語られているからです。乱暴にいえば、東京=大都市の論理に地方を従属させて消費しようとしているかのようです。移住とは、そんなに簡単なものでしょうか。高齢者の移住に関していえば、身体の弱ってきた人たちほど、移住は難しいと思います。移住してそこに根を生やして、その土地の人たちといろんな関係を作り、その地域になんらかの貢献をして…そういうプロセスを経ることが移住には必要だと思っているからです。このよう提案は、「物価の安い海外で優雅に暮らそう」という発想と、ほとんどかわりはありません。知人の新聞記者に教えていただきましたが、かつて「シルバーコロンビア計画」というものがあったそうですね。wikipediaで申し訳ありませんが、以下のように説明されています。「1986年に通商産業省のサービス産業室が提唱した、リタイア層の第二の人生を海外で送るプログラムを指す。正式名称『シルバーコロンビア計画”92”-豊かな第二の人生を海外で過ごすための海外居住支援事業』。『92』が付いているのは、目標年次を1992年としていたため。結局は、『計画』どまり、『構想』レベルに終わった」。また、もっと以前に遡れば、「南米への移住」等の政策についても、同様の考え方のように思います。

▪︎そのようなやり取りを、知人の新聞記者としたあと、facebookでひとつの記事をみつけました。岡山県にある西粟倉村に関する記事です。西粟倉村は、岡山県の最北東端に位置し、兵庫県・鳥取県と境を接する村です。記事は、「ニシアワー」という名前がついたサイトです。西粟倉村の挑戦者たちの活動を伝えるサイトです。こう紹介されています。

ぐるぐる、めぐる。生態系の循環に寄り添う地域作り
ニシアワーは、岡山県西粟倉村の挑戦者たち活動をお伝えするメディアです。

2008年、西粟倉村で50年後(2058年)を目指す「百年の森林構想」が掲げられました。50年後を目指す冒険の物語は、ローカルベンチャーと呼ばれる挑戦者たちが村に眠っている可能性を発掘していくこと、そして挑戦者たちを見守ってくださる応援者を増やして行くことによって成立し、前進していきます。

■「なんだか、おもしろいぞ!!」と思わせる力のようなものを感じました。西粟倉村の主産業は林業てす。しかし、多くの国内の地域と同じく林業になかなか展望を見いだせない状況にありました。そのような厳しい状況にありながらも、西粟倉村は2004年に合併を阻み、独自の道を歩み始めます。2008年には「百年の森林構想」を打ち出し林業と地域と人の再生をはかっていきます。この「百年の森林構想」の経緯にいて説明した文書を引用してみます。

西粟倉村は、2004年に合併を拒み、村として自立していく道を選択しました。スケールメリットよりもスモールメリット。小さな村だからこそ実現できる未来があるはずだ。大都市、大企業の下請けにはならない、自立した循環型の地域経済を目指すべきだ。2004年以降、議論を積み重ねるなかで、目指すべき方向が徐々に言語化されていきました。

2005年には「心産業(しんさんぎょう)」というコンセプトが打ち出されます。心の生態系の豊かな村へ。心のつながりを大切にしながら、価値の創出と交換が行われる地域経済へ。(中略)仕事がないから過疎化する。だったら仕事を生み出そう。地域資源から仕事を生み出していける起業家型人材の発掘・育成を進めることになりました。 そして2008年、「百年の森林構想」という旗が掲げられました。「百年の森林構想」というビジョン、「心産業」というコンセプト、「雇用対策協議会」という推進組織によって、移住・起業の連鎖反応が広がっていくことになります

■非常に建設的で前向きな地域経営に対する意志のようなものを感じます。地域の主体性です。そのような主体性が、移住・起業の連鎖を生み出したというのです。このあたりについては、「挑戦者たち」というページにいろんな方たちが登場します。たとえば、酒屋と日本酒バーを開業した女性、「地域の中のローカルベンチャーの支援をする。それのなにが悪いんですか」と主張する役場職員、地域商社、西粟倉・森の学校の若き経営者…。非常に気になる方たちばかりです。こういう方たちがいる地域って、魅力的ですよね。その魅力に挽きつけられるように多くの方たちが、この西粟倉村にやってこられるようです。そして、西粟倉村で生まれて育っている子供たちが増えているというのです。詳しくは、こちらのページをご覧ください。

京阪・深草駅の工事

20150819fukakusa1.jpg▪︎本日は、大学の一斉休暇が明けた初日でした。午後から、深草キャンパスの研究部に出勤しました。一斉休暇前から、複数の懸案事項がありました。研究部のこと、地域連携のこと、個人的なこと…。3つの部署の関係者と調整や相談をさせていただきました。授業は来月からですが、事務部門の業務はすでに再開しています。とはいえ、交代勤務のようですし、学生もあまりいないので、キャンパスにはのんびりした夏休みの雰囲気が漂っていました。

▪︎事務的な作業を終えて、夕方には帰宅しました。今日は、大学に向かうときには気が付きませんでしたが、京阪の深草駅、新しい駅舎の鉄骨が組み上がりつつあります。ここに新しい駅舎と自由通路ができます。今までは、自転車を押して上り下りできるような、緩やかな階段がついていました。自転車はいいのですが、車椅子だと無理です。ということで、エレベーターが設置されるようです。バリアフリー化工事ですね。駅舎の方は京阪電鉄が、自由通路の方は京都市が担当して工事を進めています。

20150819fukakusa2.jpg▪︎新しい駅舎には、エレベーターが2基、幅広改札口、点字案内板、多機能トイレが整備されます。また、すでに工事は進んでいますが、ホームも拡幅延長され、列車接近表示器も整備されるようです。深草キャンパスに、今年の4月から新しい国際学部ができたことにより、深草駅での学生の乗降数が増えたため、安全確保のためにもこのようなホームの拡幅は必要だったと、うちの大学の関係者からは聞いています。

▪︎この界隈、たしかにバリアフリーが必要です。東西に移動するためには、京阪や琵琶湖疎水を横断しないといけません。歩道もあまり整備されていません。車椅子等でもスムースに移動できるようにするためには、バリアフリー化工事が必要なのでしょう。深草駅のバリアフリー化工事は、2004年3月に「深草地区バリアフリー移動等円滑化基本構想」の策定により決定しました。その基本構想では、JR稲荷駅のバリアフリー化工事や、道路の段差・勾配の改善、歩行空間の明確化といった道路のバリアフリー化も含まれています。深草界隈も変化しつつあります。いつか、「あの頃は、そうだったね〜」と思い出すときに、役立つかも…と思い、撮っておくことにしました。

第4回「北船路・かかし祭」の開催

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▪︎今月末の30日(日)に、大津市八屋戸北船路で、第4回「かかし祭」が開催されます。農村と都市の架け橋となり、「顔のみえる関係」づくりを目指している北船路米づくり研究会の一大イベントになります。この季節、北船路の棚田は、稲穂が成熟していき、黄金色に染まります。その棚田の向こうには、大津から伊吹山まで一望することができます。その素晴らしい風景を背景に、「みつばち保育園」の園児さんたちが作った「かかし」がづらりと並ぶことになっています。「みつばち保育園」では、食育に熱心に取り組んでおられます。北船路の棚田で生産した環境こだわり米を給食に使っておられます。また、春と秋には田植えや芋掘りをする遠足に来られます。そのような北船路とのつながりがあることから、この「かかし祭」にも積極的に参加していただいているのです。もちろん、「かかし祭」には、保育園の園児さんや保護者の皆さんだけでなく、一般の皆さんも多数参加されます。

▪︎26日の午前中には、北船路米づくり研究会(脇田ゼミ)の学生たちが、保育園で園児さんたちと交流しながら、「かかし」を製作する「かかし教室」を開催する予定になっています。園児さんたちには、「かかし」の顔を描いてもらい、「かかし」の服には、手型スタンプをたくさん押してもらいます。昨日は、その「かかし教室」や、「かかし祭」の事前打ち合わせの日でした。学生たちが事前に作成したチラシに一部修正が必要なりましたが、時間がないようなので、午後から、急遽ピンチヒッターで私のほうでチラシを作成し、夕方、保育園の方に届けました(学生の活動なので、私が手を出すことは望ましいことではないのですが…)。園長先生のリクエストにも応えて、手書きのイラスト入りにしました。このイラストは、第1回のときに私が書いたものと、ほぼ同じです。北船路の棚田から琵琶湖がみえている風景です。

▪︎なお、今回から、「北船路・かかし祭」と名称を変更しました。地元の北船路の皆さんからのご支援をいただいていることを明確にするためです。「北船路中山間地域管理組合」、「農事組合法人北船路福谷の郷」の関係者の皆様に全面的に応援していただいています。また、「NPO法人スモールファーマーズ」の皆さんにも当日、お手伝いいただく予定です。少しずつではありますが、成長発展してきています。

伊丹空港と「千里川の土手」

20150817itami.jpg▪︎今年の夏期休暇は、家のなかの「断捨離」を実行することが私に課せられたミッションでした。今日は、「断捨離」4日目でした。課せられたミッションですが、とりあえず、まあ、なんとか…完了いたしました。今日も清掃工場に「燃やせないゴミ&大型ゴミ」をもちこみました。なんとか、我が家の自家用車1台に積み込める量でおさまりました。家のなかが、少しすっきりしたような気持ちになります。夏期休暇中に「断捨離」した量、かなりのものだと思っています。よく溜め込んでいたなと…。とはいえ、これで終わりではありません。「断捨離」は、おそらくは秋にも実施されるかと思います。こんどは、食器や調理器具、さらには家具にも手をつけることになろうかと思います。

▪︎本日は「断捨離」4日目でしたが、午後から老母の世話にかけつけました。まあ、そんなこんなで、今年の夏期休暇は、毎年恒例の旅行には行けませんでした。残念ですが、仕方がありません。せめて旅の雰囲気だけでも味わおう(?!)…というわけではありませんが、老母の世話を終えてから、伊丹空港のそばに行ってみました。まずは、空港の西側にある「伊丹スカイパーク」という公園にいきました。滑走路と並行してつくられた公園です。旅客機の離着陸が楽しめます。しかし、私はこの「伊丹スカイパーク」だけでは満足できませんでした。写真は、噂に聞いていた「千里川の土手」です。目の前の柵を越えれば、そこは滑走路の一番端…という場所です。頭の上を、旅客機がものすごい轟音とともに着陸していきました(若干の熱も伝わってきました)。ちょっと怖かったな〜。着陸する旅客機の数も半端ではありません。「どうやって着陸を調整しているのだろう、空だと一時停止できないし…」というのが一緒にいた妻の質問でした。私にもわかりません。たぶん、管制官が調整しているのだろうな…と思っていますが。

【追記】▪︎知らなかったんですが、知り合いの方たちからfacebookで教えてもらったことがあります。ここは、若い方たちのデートスポットでもあるらしいのです。2人の方から教えていただきましたが、ほぼ同年代の方たちでした。私が通った大学は、伊丹空港の比較的近くにあるのですが、学生時代には、ここがデートスポットなんとことは、聞いたことがありませんでした。たまたま知らなかったのか、当時は、まだデートスポットとしては認知されていなかったのか…。そのあたりは、よくわからないのですが…。もはや、この歳になればどうでもよいことですが、なんだか気になるな〜。

写真は「断捨離」できるのか

20150816mychildren.jpg ▪︎夏期休暇中に取り組んでいる我が家の「断捨離」も、3日目になりました。いよいよ、最も「断捨離」が難しい、写真に取り組むことになりました。昨日から、娘が帰省しており、娘にも彼女が必要とする写真を選んでもらいました。しかし、山のように写真があります。少々のことでは、おいつきません。子どもたちが誕生してまだ小さいときまでは、娘用の、そして息子用のアルバムがそれぞれ何冊かあるのですが、だんだん写真が増加していくに従いも「親の気力」が追いつかなくなり、未整理のままの写真が大量にダンボールに入っているのです。

▪︎しかし、この写真を「断捨離」できるのか…というと、なかなか難しいものがあります。結論としては、ゆっくり時間をかけて写真を選択して(同じような写真、ピンボケの写真、意図が不明の写真は処分する)、選択した写真をデジタル化することにしました。今頃…とお思いでしょうが、我が家も、やっと「時代の常識」に追いつきつつある…という感じでしょうか。デジタル化するさいには、写真だけでなくテープに録画してある動画もあわせて行う予定です。そうしてデジタル化したデータを、複数のハードディスクに保存しておきます。タブレットにも入れて、子どもたちの祖父母にブレゼントしてはどうか…というアイデアも家族内では生まれています。

▪︎私は1958年に生まれしまた。私の記憶にかすかに残っている我が家のカメラは、蛇腹のついたカメラでした。今、どこのメーカーのものだったかは思い出せません。はっきり記憶に残っているのは、2代目のカメラです。オリンパスペンです。ハーフサイズによる小型軽量化で、爆発的に売れたカメラと言われています。ハーフサイズといっても、デジタルカメラしか知らない若い学生の皆さんには、理解していただけないと思います。35mmフィルムをフルサイズの半分のハーフ判にして撮るカメラです。私が子どもの頃は、まだフィルムは高価で、通常の倍の枚数の写真が撮れることから、爆発的に人気が出ました。1960年代の話しです。私が子どもの時代に写真やカメラは、ものすごい勢いで大衆化していきました。

▪︎撮った写真を現像してもらい、その中から必要なものをプリントするという感じでしょうか。手間暇がかかっています。また、撮った写真を簡単に保管できるアルバムも発売されました。文房具のコクヨフリーアルバムを発売したのは、1964年のことだと思います。それまでは、アルバムの台紙に、1枚づつ貼り付けなければなりませんでしたが、コクヨフリーアルバムは台紙の透明シートをめくると台紙に粘着剤がぬってあり、自由に写真をレイアウトできることもあり、人気の商品になりました。おそらく、私と同時代を生きてこられた方たちの御宅には、このようなアルバムがたくさんあるのではないかと思います。

▪︎カメラや写真が大衆化する以前、写真を撮ることは特別なことでした。普通の日常生活を写した、いわゆるスナップ写真が撮られるようになったのは、カメラや写真が大衆化して以降のことです。それまでは、なにか特別な日には、家族みんなで晴れ着を着て、街の写真館に出かけて集合写真を撮ったものです。今でも、七五三や結婚式のときなどにはプロのカメラマンが写真を撮られことがありますが、一般の人ぴとにとって、写真とはそのようなものだったはずです。そのような時代、個人が、家庭が保管する写真の枚数などたかが知れていました。現在、家族内の一人の個人に、何冊ものアルバムがあることは、特別珍しいことではないと思いますが、かつてはそうではありません。

▪︎保管する写真の数が多くなると(アルバムの冊数が増えると)、家のなかでもそれなりのスペースをとることになります。それだけではありません。子どもの写真は、子どもたちが成長したときにプレゼントしようと思えばできないわけではありませんが、デジタルカメラが当たり前になり、写真もデジタルデータとしてCDやハードディスクに保存して、パソコンのディスプレイ等でみるようになると、せっかく親が子どものことを思って作っアルバムも、子どもたちにとってはかさばる困った存在になるのかもしません(「実家に置いといて!! 帰省したときにみるし!!」とか…)。このような話しも聞きました。老夫婦が、自分たちが死んだあと、たくさんのアルバムを残されても困るだろうからと、あらかじめ写真を破って廃棄しているというのです。老夫婦だけでなく、老夫婦が引き継いだアルバムもあわせればかなりの冊数になります。「それぞれの写真は、撮った人の気持ちや思いがこもったものだから、なかなか処分できないだろう。子どもたちも処分に困るだろう。だから、自分たちの代で断捨離してしまおう…」というわけです。

▪︎しかし、デジタルカメラが普及し、当たり前になり、写真がデジタル化された現在、「断捨離」などという言葉とともに思いきらなくても、デジタルデータの廃棄、複写、編集等は簡単にパソコン上でできるようになります。家族に頼まなくても、一人一人の判断で簡単にできるようになります。自分が欲しいものだけ、コピー(複写)すればよいのですから。このような技術的革新と近代家族自体の変容とは、どこかで相関しているように思います。このような家族の写真をめぐる問題は、驚かれるかもしれませんが、墓の管理や継承をどうするのかという問題ともどこかで関連していそうです。家族の「個人化」、家族の「本質的個人化」の問題です。また同時に、「家族(親密圏)の記憶」に関係する問題でもあります。少し時間をかけて考えてみたいと思います。

▪︎おっと、忘れていました。写真は、うちの子どもたち。今から23年ほど前のものかなと思います。長女と長男です。この写真は、「断捨離」の対象にはなっていません。

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