総合地球環境学研究所で打合わせ
▪︎今日も、深草キャンバスに直行。午前中は例によって研究部の仕事で…いろいろ…ありました。協議、打合せ、会議。事務職員の皆さんには申し訳ありませんでしたが、午後からは、溜まりに溜まっている、研究プロジェクトの仕事をするために、総合地球環境学研究所に移動しました。深草キャンバスの最寄りの駅は、市営地下鉄の「くいな橋」駅。そこから終点の「国際会館」駅まで移動し、そこからはバスになります。京都の南から北に移動するわけですが、地下鉄のおかげでスムースに移動できます。
▪︎地球研では、PD研究員の浅野さんと、溜まりに溜まっていた案件の打合せをしました。浅野さんは、6月から奥田プロジェクト「生物多様性が駆動する栄養循環と流域圏社会─生態システムの健全性」に雇用されることになった若手研究者です。とても優秀な人で、「打てば響く」ような感じで打合せが進みました。プロジェクトの重点サイトである甲賀市甲賀町小佐治での調査の進め方、社会科学系担当者の研究会の日程調整、さらには8月に滋賀県が主催して開催される「マザーレイクフォーラム」への参加…いろいろ仕事を進めることができました。午前中は大学の「研究部」の仕事でしたが、午後からは自分の「研究プロジェクト」の仕事に集中できました。なんだか、本来の自分を取り戻したような気分です。
▪︎写真は打合せ中の様子です。リーダーの奥田さんは、この日開催されていた国際シンポジウムに出席されていましたが、休憩時間にやってきてくれました。テーブルの中央に広げてあるのは、小佐治の地図です。すでに、この地図は、地理情報システムに取り込まれています。これから調査で得られる様々なデータを、地理情報システムの上で整理していくことになります。地域の住民や農家の皆さんとの協働作業でもあります。そのような協働作業から、予想もしない「発見」が生まれてくることを期待しています。楽しみです。
▪︎浅野さんは、この地理情報システムに詳しい方です。昨日はいろいろ教えてもらいました。ずいぶん昔、当時参加していたプロジェクトで地理情報システムを使っていたことがあるのですが、技術はどんどん進歩しています。専門家だけの技術ではなく、多くの人びとがスマートフォン等を使って気軽に利用することができるようになってきています。たとえば、多くの皆さんが参加して自らの記憶や体験を、地理情報システムに保存していくと、それはアーカイブとして機能するようになります。そのようなアーカイブに多くの人びとが参加することで、様々な多様な記憶や体験が蓄積されていきます。そして、相互に連関していくことのなかで、新しい「社会的価値」がその内側から生み出されていくように思います。浅野さんからは、まず「Hiroshima Archive」のことを教えてもらいました。
▪︎まずは、イメージを掴むために、以下の動画をご覧ください。
▪︎「Hiroshima Archive」の公式サイトには、以下のように説明されています。
はじめに
被爆から66年が経ち、あと数十年のうちに、被爆者のいない未来がやってきます。それは、最も強く平和を願い、核兵器のない世界を切望した人々がいなくなることを意味しています。「ヒロシマ・アーカイブ」は、2010年に公開された「ナガサキ・アーカイブ」のミッションを受け継ぎ、被爆者の体験と想いを未来の地球に遺していくために、66年間にわたって蓄積されてきた大量の資料と、最先端のインターネット技術を融合して制作されました。多元的デジタルアーカイブズ
「ヒロシマ・アーカイブ」は、広島平和記念資料館、広島女学院同窓会、八王子被爆者の会をはじめとする提供元から得られたすべての資料を、デジタル地球儀「Google Earth」上に重層表示した「多元的デジタル・アーカイブズ」です。1945年当時の体験談、写真、地図、その他の資料を、2010年の航空写真、立体地形、そして建物モデルと重ねあわせ、時空を越えて俯瞰的に閲覧することができます。このことにより、被爆の実相に対する多面的・総合的な理解を促すことを企図しています。記憶のコミュニティ
私たちは、地元の高校生や全国のボランティアと連携して証言の収集活動をすすめ、集合的記憶の醸成をとおした「記録のコミュニティ」を生成しました。さらに、Twitterなどのソーシャルメディアを用いてオンラインコミュニティを形成し、平和と核廃絶に向けたメッセージを世界中から募り、デジタルアーカイブズに包含していきます。このようにして、過去の記憶と現在のメッセージを実空間/Web空間で共有し、未来の物語を紡いでいくためのプラットフォームとなることを目指しています。311を越えて
2011年3月11日、東日本大震災が発生し、「ヒロシマ・アーカイブ」制作メンバーのうちひとりは仙台で被災しました。人々が住みなれたまちを地震と津波が破壊しつくし、原子力発電所事故が放射性物質禍を引きおこし、これまで過ごしてきた日常は終わりを告げました。311以降、66年前のヒロシマを語り継ぐこのプロジェクトのミッションも変容しています。過去の悲劇を当事者として学び、自らのことばで未来に伝える。私たちが制作したアーカイブズが、多くの人々に利用していただけることを願っています。
▪︎今から15年ほど前のことになりますが、以下の論文を書きました。「『体験と記憶』のなかにある『場所』-『弱い語り』を支える調査」『社会学年報』No.30(東北社会学会)。この論文に書いたことを、進歩した地理情報システムの技術を念頭に、再考する時期にきているように思いました。基本の発想は変わっていないと思いますが、現段階においてさらに深めて考えてみたいと思っています。
▪︎打合せが終了した後、地球研の別のプロジェクト(「地域環境知形成による新たなコモンズの創生と持続可能な管理」)の共同リーダーである菊池直樹さん、PD研究員の浅野さんと私の3人で、夕食を一緒にとることにしました。府立植物園に隣接しているイタリアンレストランです。とても素敵なレストランでした。研究のこと、環境社会学会のこと、様々な(?!)議論をすることができました。有意義な時間を過ごすことができました。若い浅野さんも、いろいろ勉強になったのではないかと思います。写真は、デザートのケーキを写す菊池さんです。なんだか、かわいらしい〜。私の方は、バーボンウイスキーを楽しみました。
認知症の母を3年間撮り続けた写真集『DIARY 母と庭の肖像』山崎弘義さんインタビュー
▪︎このブログで、写真家・山崎弘義さんの写真集『DIARY 母と庭の肖像』を紹介しました。「『母と庭の肖像』(山崎弘義・著、大隅書店)」というエントリーです。今日は、ご紹介するのは、その山崎さんと山崎さんの写真集をとりあけだ「認知症ONLINE」というネットの記事です。以下は、その記事からの引用です。
葛藤の連続
写真の横には、山崎さんが当時記していた日記の一文が並びます。ある日の日記にはこう記されています。ヘルパーTさんの連絡ノートに書かれていた言葉。“トイレも自分で行かれ、家の中動き回っています。足腰丈夫になるため、よい事と思います。”今の私はそれについていけない。」
当時、家中をあちこち歩きまわる母を骨折させてはいけないと追いかけ、ティッシュペーパーを食べようとするのを止め、精神的にも、肉体的にも休めない日々が続いていた山崎さん。「ある日、喘息が出たのをきっかけに、母の足腰が一気に弱まったんです。正直、ホッとした部分もありました」本来、求めるべき親の健康を心から願えない自分自信に罪悪感があったといいます。また、別の日の日記にはこうあります。
母の行動にもついていけなくなる。3度ほど無理やり母を抱えてトイレに連れて行ったら、母は「邪険にするなよ」と泣きそうに言う。
淡々と語られる日記の一文から、当時の山崎さんの追い詰められた精神状態、それに呼応するように具合を悪くする母・いくさんの様子が伝わってきます。「在宅介護を続けようか迷う瞬間はあった」という山崎さん。それでも在宅介護を続けたのは、母・いくさんにとって山崎さんが一人息子であり、父の介護で苦労を共にした同志であり、唯一無二の存在だったことを実感していたからだといいます。
▪︎「親の健康を心から願えない自分自信に罪悪感があった」という部分、現在、介護をされている多くの皆さんは、この山崎さんのお気持ちが痛いほどよくわかるのではないかと思います。お母様から「邪険にするなよ」と泣きそうに言われたときの、とても辛い気持ちも…。インタビューで山崎さんは、「日々のやりきれない想いを、作品として消化させた」とおっしゃっています。ああ、なるほどと思いました。お母様の写真を撮ることで、意識のうえでは、息子-母親関係とは異なる関係にスライドしていくのかもしれません。いったんはスライドさせることで、介護の現場で渦巻くマイナスのスパイラルに巻き込まれず、なんかと「本来」の息子-母親関係を維持することができたのかもしれません。また、山崎さんは、「父の介護で苦労を共にした同志であり、唯一無二の存在だったことを実感していた」とも語っておられます。介護の現場で渦巻くマイナスのスパイラルに沈んでいきそうなご自身を、在宅介護にお母様と一緒に協力して取り組んだという経験を思い出すことで、なんとか「軌道修正」できたのではないか…と想像するのです。皆さんも、ぜひ、『DIARY 母と庭の肖像』をご覧ください。
深草キャンバスのスターバックス
▪︎今日は…といいますか、今日もですね、深草キャンバスに朝一番で出かけました。8時45分から、約束していた新聞記者の方から小一時間程インタビューを受けました。テーマは琵琶湖に関連することですが、狭い意味での自分の専門領域でもないテーマであることから、なんだか的外れなことを言ってしまうのではと心配していましたが、とりあえず記者さんに納得していただけたようで安心しました。
▪︎そのあとは、研究部で事務部長さんと打ち合わせをしました。そして、大学執行部が出席する会議で報告を行い、昼には瀬田キャンパスに戻りました。このキャンパス間移動というのが、なかなか大変です。まだ、研究部長になってから2ヶ月半ですが、どうしたものかとまだ思案しています。うまく時間を使えるようにならないと…。昼からは、所属する社会学部社会学科の学科会議、研究倫理に関するe-ラーニングの講習会、教授会があるからです。写真は、深草キャンパス内にある「スターバックス龍谷大学店」に行った時に撮ったものです。今日の仕事を始めるにあたり、コーヒーで気持ちを引き締めました!!
島田叡さんのこと
▪︎私は神戸市の出身です。高校は、神戸市長田区にある兵庫県立兵庫高等学校を卒業しました。神戸新聞に、母校と関係の深い方の記事が掲載されました。島田叡(あきら)さんです。兵庫高校の前身は旧制の神戸二中になりますが、島田さんはこの二中の卒業生です。以下は、新聞記事からの引用です。
神戸市出身で、沖縄県最後の官選知事として沖縄戦に散った島田叡(あきら)氏(1901~1945年)の顕彰碑が沖縄県民の募金で建立され、命日とされる6月26日、那覇市の奥武山(おうのやま)公園内で除幕される。除幕式には、井戸敏三知事ら兵庫県代表団も出席し、いまも沖縄県民に慕われる「島守」の事跡をしのぶ。
島田氏は旧制神戸二中(現兵庫高)、東京帝国大をへて旧内務省に入った。45年1月に沖縄県知事として赴任し、米軍上陸を前に県民の疎開や食糧確保に奔走。米軍の砲撃の下でも壕(ごう)を転々として執務を続け、本島南部で消息を絶った。
没後70年を前に、慰霊碑は沖縄県民の有志が期成会を設立し、募金を呼び掛けたところ、主に県内から600万円近くが集まった。顕彰碑は高さ3メートルで、「琉球」を象徴する石灰岩の台座に、「希望」をイメージしたステンレスの球体を組み合わせる。
期成会会長で元沖縄県副知事の嘉数昇明(かかずのりあき)さん(73)は「碑に沖縄県民の『島田さんを忘れない』という思いが結集された。島田さんからもらった兵庫との交流の新たなスタートにしたい」と話す。
除幕式には、兵庫県から井戸知事や久元喜造・神戸市長、沖縄県人会兵庫県本部や兵庫高同窓会「武陽会」関係者ら計50人の代表団が参加し、沖縄県関係者らとの交流会も開かれる。
▪︎現在の兵庫高校の校舎は、私たちの頃とは違っています。建て替えられています。私たちが学んだ校舎は、戦前、旧制神戸二中の時代からの建物でした。いろいろ思い出すのですが、学校の敷地の西側、野球のバックネットの裏側にあった斜面に、島田叡さんの慰霊碑が建てられていました。「合掌の碑」と呼ばれています。両手を合わせて合掌したようなデザインの慰霊碑です。現在、この慰霊碑は、沖縄に向かって建てられています。私たちの時はどうだったのか…記憶が定かではありません。慰霊碑には、こう書かれています。神戸二中の後輩である、竹中郁さんの詩だそうです。
「このグラウンド
このユーカリプタス
みな目の底に収めて
島田叡は沖縄へ赴いた
一九四五年六月下浣
摩文仁岳の近くで
かれもこれも砕け散った」
▪︎現在、この「合掌の碑」の横には、島田さんの座右の銘であった「断而敢行、鬼神避之」 の碑が建てられています。「断じて敢行すれば、鬼神もこれを避く」。私たちのときは、どうだったのか…情けないことに、このことも記憶がありません。兵庫高校に在学していたとき、島田叡さんがどういう方なのか、詳しくは知りませんでした。授業のさいにも、ほとんど説明がなかったように思います。
▪︎wikipediaには、こうありますね。「沖縄への米軍上陸は必至と見られていたため、後任者の人選は難航していた。沖縄に米軍が上陸すれば、知事の身にも危険が及ぶため、周囲の者はみな止めたが、島田は『誰かが、どうしても行かなならんとあれば、言われた俺が断るわけにはいかんやないか。俺は死にたくないから、誰か代わりに行って死んでくれ、とは言えん。』として、日本刀と青酸カリを懐中に忍ばせながら、死を覚悟して沖縄へ飛んだ」。「北部への県民疎開や、食料の分散確保など、喫緊の問題を迅速に処理していった」。死を覚悟して沖縄に赴き、沖縄県民の皆さんのために尽力された島田さん。享年、43歳でした。新聞記事には、いまも沖縄県民の皆さんに「島守」として慕われていると書かれています。夏の高校野球の沖縄県大会で優勝した高校には、「島田杯」が贈られています。
龍谷大学吹奏楽部サクソフォン四重奏(TV出演)
▪︎同僚の方のfacebookのページで、この動画の存在を知りました。登場しているのは、龍谷大学吹奏楽部のサキソフォン四重奏の皆さん。3月に行われた「全日本アンサンブルコンテスト」で金賞を獲得した方たちです。この動画は、NHK京都放送局のローカルニュース番組のなかの「京のキラ星」に出演したときのものです。
▪︎演奏しているのは、アラン・ベルノー作曲、『サクソフォン四重奏より第4楽章』第4楽章。そして、Superflyの『愛をこめて花束を』です。アラン・ベルノーってどういう作曲家なのか、私はよく知りませんでした。少しだけ、調べてみました。1932年生まれの、音楽家の両親をもつフランスの作曲家のようです。若いころは、パリのコンセルバトワールで作曲を勉強をし、数々の作曲コンクールでその才能を認められるようになりました。室内楽から交響曲まで、さらには映画やテレビ番組の音楽まで手がけてきた作曲家のようです。
▪︎2曲目の曲は、Superflyの『愛をこめて花束を』です。Superflyって…これも知りません。でも、サビのメロディーは、私のようなおじさんでも知っていますね。印象に残っています。日本の音楽ユニットなんですね。オリジナルは、以下の動画をどうぞ。
集合的沸騰
▪︎この時期、就職活動で4年生がゼミになかなか参加できません。さらに教職課程をとっている学生は、この時期には教育実習が入ります。この日、4年生はは4人しか出席できませんでした。4人しか出席できなくても、ゼミはもちろんやります。この日は、Sくんが自身の卒論の構想について発表してくれました。市町村合併(平成の大合併)の影響により、従来より行われてきた地域の祭りが活気を失い、うまく行うことができなくなっている…ということが、彼の関心になります。Sくんには、まず芦田徹郎さんの『祭りと宗教の現代社会学』(世界思想社,2001)を、そしてエミール・デュルケームの『宗教生活の原初形態』を読んでみるようにと指導しました。特にエミール・デュルケームの『宗教生活の原初形態』に関しては、「集合的沸騰」という概念を中心に解説をしました。
▪︎しかし、言葉で「集合的沸騰」といっても、よくわからないかもしれないので、YouTubeで少し動画をみてもらうことにしました。ひとつは、長野県の諏訪地方で行われている「御柱祭」です。もうひとつは、岡山の西大寺で行われる「裸祭」です。あまりのすさまじさに、学生たちが驚いている…その様子がわかるでしょうか。
今日の8期生「地域エンパワねっとⅠ」
▪︎金曜日の午前中は、「大津エンパワねっと」コースの「地域エンパワねっとⅠ」の授業です。今日は、8期生9チームのうち5チームが地域に出かけて活動をしています。残りの4チームは、大学でミーティング。「地域エンパワねっとⅠ」の目標は、地域団体の皆さんととともに活動をしながら、学生の立場から地域の課題を「発見」することにあります。「発見」した課題にもとづき、後期の「地域エンパワねっとⅡ」では、地域の皆さんと一緒に小さなプロジェクトを立ち上げることになります。その準備がしっかり夏休み前までにできるとよいですね。
▪︎学生たちは、地域の皆さんからいろいろお話しを伺ってきています。明確な課題「発見」には至らないものの、頭のなかにはモヤモヤと問題意識が芽生えてきている…そのような状況かと思います。「エンパワ」の最初の難しさは、自分たちで意味のある課題をきちんと「発見」できるかどうかにあります。教員は、あくまで側面から見守り、時々相談に乗るだけです。このあたりの教員の関わり方にも、難しいものがありますね。
瀬田キャンバス教職員懇親会
▪︎昨日は、予定になかったのですが、深草キャンパスで、急に午前中に打ち合わせと会議が入りました。本当は、総合地球環境学研究所のプロジェクトの調査で、滋賀県甲賀市にいっているはずだったのですが…、仕方がありません。午後も打ち合わせや資料の作成と続きましたが、夕方のスクールバスで、瀬田キャンパスに移動しました。瀬田キャンバスで、「瀬田キャンパス教職員懇親会」が開催されたからです。
▪︎瀬田キャンパスでは、これまで何度か、学部を超えた教員の懇親会を開催してきました。理工学部、社会学部、国際文化学部の懇親会です。この4月からは、国際文化学部が深草キャンパスに移動し、国際学部になりました。また、瀬田キャンパスには、新しく農学部が開設されました。今回は、農学部の教員の皆さんをお迎えするという意味合いを含めて、さらには教員だけでなく事務職員の皆さんも含めてお互いにもっと親しくなれば…との思いから開催されることになりました。学部を超えて気楽に話しができる関係って、とっても大切です。そういう関係が、このような懇親会を通してもっと生まれてきたらなあと思います。懇親会では、農学部教務課の山川さんが、エールをきってくださいました(山川さんは、元・日本拳法のチャンピオン)。
▪︎「瀬田キャンパス教職員懇親会」は、瀬田キャンパスの生協食堂で開催されました。そのあとのことですが、私のばあいは、瀬田駅に場所を移し、二次会とということになりました。滋賀県にお住いの皆さんは、さらに三次会に突入されていましたが、私の方は自宅が遠いものですから、ここで離脱しました〜。本日、皆さんの体調は大丈夫なのかな…。
【公開シンポジウム】宗教と教誨の現在と未来 ~日本人の宗教意識~
▪︎龍谷大学では、「龍谷大学矯正・保護総合センター」という研究教育組織が設置されています。このセンターの始まりは、1977年に遡ります。龍谷大学法学部教授会において法学部の特色を活かすため、「法職課程」とともに設置された「矯正課程」そのルーツになります。その後の、長い期間におよぶ様々な活動実績が高く評価され、2010年には、刑事政策分野の研究と教育を総合した「矯正・保護総合センター」が開設されることになりました。以下は、センターの説明です。
本学は、浄土真宗本願寺派の戦前から今日に至るまでの長い歴史と伝統を持つ宗教教誨を基盤としながら、日本で唯一の刑事政策に特化した教育プログラムとして、1977年、法学部を中心に矯正課程(現在の矯正・保護課程)を設置しました。それ以来、刑務所・少年院・少年鑑別所などで働く矯正職員を目指す学生や、犯罪や非行をおかしてしまった人たちの社会復帰を手助けする保護観察官等の専門職をめざす学生、同じくボランティアとして活躍したいと希望する人たちのため、実務に即した教育活動を行っています。
また、2001年には、このような矯正と更生保護における教育活動の実績を継承して、新たな刑事政策構想を提言する矯正・保護研究センターを設置しました。2002年度から研究センターは、刑事政策分野に特化した大学付設の初めてとなる民間研究機関として、文部科学省私立大学学術研究高度化推進事業(AFC)に採択され、8ヵ年間の研究活動を行ってきました。
これら刑事政策に関する教育活動と研究活動は、いずれも本学の建学の精神を具現する特色ある活動として、着実に実績を重ねており、また、高い評価を得ているものです。
2010年に開設した矯正・保護総合センターは、これらの教育活動と研究活動をさらに一層充実・発展させるとともに、加えて、この分野における社会への貢献をめざして活動してまいります。
▪︎2014年の大学認証評価においても、次のように高く評価されています。
「『矯正・保護総合センター』の事業は、建学の精神に基づく『共生』の理念を具現化するもので、貴大学ならではの取り組みと認められる。すなわち、これは浄土真宗本願寺派の歴史と伝統に根差す宗教教誨・篤志面接委員を承継・発展させた事業で、教育活動として『刑務所、少年院、少年鑑別所などで働く矯正職員や、犯罪をおかしたり非行を行った人たちの社会復帰の手助けをする保護観察官等の専門職やボランティアを養成すること』を目的とする『矯正・保護課程』を開設するとともに、研究活動として『刑事立法プロジェクト』などの研究プロジェクトを推進し、『矯正講座』や研究年報などを刊行していることは評価できる」。
▪︎その「龍谷大学矯正・保護総合センター」の主催で、「宗教と教誨の現在と未来~日本人の宗教意識~」という公開シンポジウムが開催されます。プログラム第1部「科学の時代における宗教の役割~矯正・保護と宗教活動~」では、浄土真宗本願寺派前門主である大谷光真さんが話し手、そしてジャーナリストで『教誨師』の著者である堀川 惠子さんが聞き手となり、対談のような形式で進められるようです。第2部「犯罪と宗教教誨」では、赤松徹眞・龍谷大学学長、平野俊興さん(東京拘置所教誨師)、平川宗信さん(名古屋大学名誉教授)、3人の皆さんで報告と討論がおこなわれる予定です。
▪︎詳しくは、以下のページをご覧ください。
宗教と教誨の現在と未来~日本人の宗教意識~