帰国しました
■一昨日、湖北省の武漢にある華中師範大学での協議を終えて、昨日は一日かけて日本に帰国することになりました。
■武漢からは、余裕をもって13:40発の便に乗る事にしていました。しかし、華中師範大学の先生方のご判断で、早めの朝9時半にホテルを出発して武漢空港に向かうことになりました。何もなければ空港までは1時間たらずなのですが、市内の渋滞もあること、それに昼食も「きちんと」とらねばならないという判断からです。渋滞も問題なのですが、中国では食事をとても大切にされているます。きちんと昼食をとることは、とても大切なことなのです(もちろん、私たち日本からの来客に丁寧に対応されているということもありますけどね)。
■武漢市内の交通渋滞についてですが、これはかなりひどいものがあります。車の増加に、都市のインフラが追いついていないようです。市内のあちこちで道路や地下鉄等の整備をして交通渋滞を緩和しようと市政府も努力しているようですが、私には、まだその効果のほどがよくわかりませんでした。通訳をしてくれた大学院生の話しでは、「市政府は、今は陣痛のようなものだから、もう少し耐え忍んでほしい」といっているのだとか。pm2.5の問題も含めて大気汚染も深刻です。これは大きな問題です。
■交通渋滞以外にも、気になったことがあります。武漢には2泊しましたが、夕方から夜にかけて街中を走っているときに気がついたのですが、再開発されたあとに立った高層マンションには灯りがともっていないことです。つまり人が住んでいない。投資目的で購入している人が多いことを示しているように思います。不動産バブルが心配になります。現地の先生方も心配されていました。このような都市の再開発と関連しますが、中国のどこにいっても、同じような都市景観になってきています。これも長期的にみれば、大きな問題かと思っています。都市の没個性化・画一化の問題です。私のような一訪問者の眼には、直接的に見えてきませんが、この背後には経済格差の拡大等の問題も存在しているはずです。
■さて、武漢空港から日本までですが、13:40の国内便で上海浦東空港まで飛び、上海からは国際便で関西空港まで…ということになります。武漢から関西空港までの直行便はないのです。上海でスッと乗り換えができればよいのですが、そうもいかず、上海浦東空港では3時間半待ちになりました。それに加えて、機材の到着が遅れたとかで出発も30分遅れることになりました。結局、上海を19時を過ぎてから飛び立ち、関空に到着したのは22時過ぎ…ということになってしまいました。いつもは、関空から南海・特急ラピートに乗って帰宅するのですが、この日は、ちょうど最終のラピートが出てしまったあとでした。「orz…」です。南海のあとは近鉄を利用するのですが、結局、帰宅は深夜0時30分近くになってしまいました。写真は、上海浦東空港で撮ったものです。
中国出張
■19日から中国に出張しています。19・20日は浙江省寧波市の寧波大学。一昨日21日は、浙江省の寧波から湖北省の武漢へ移動。華中師範大学にあるホテルに宿泊しています。こちらでは、大学がホテルを経営しています。大学関係者だけでなく、一般の方たちも、普通にこのホテルを利用されています。ちなみに、こんなことは中国の大学では普通のことです。日本の大学も、そして龍大も、そんな感じだったらいいのに…と思ってしまいます。
■それはともかくです。きちんと仕事「東アジアプロジェクト」の話しをしておきます。昨日の午前中は、華中師範大学の社会学院そして外語学院日本語学科との共同で協議を行いました。龍谷大学・華中師範大学間だけでなく、こちらの学院間(日本の学部間)を超えた協働により、龍谷大学の社会学研究科に優秀な留学生を送り出してもらえる事業が進めていくことで合意しました。また、中国側の若手教員の短期研修受け入れ、日本人学生・院生の中国での短期研修等を実施できるように努力することになりました。これは、なかなか画期的なことなのではないかと思います。
■「東アジアプロジェクト」は、国境を超えて、日中韓の大学間の協力のもと、社会福祉の専門職・研究者を養成していくプロジェクトです。今回も、社会福祉学を専攻される先生とともに訪中しています。私は、社会学専攻なので、社会福祉に関しては素人ですが、いろいろしっかり勉強させていただきました。すでに退職された先生が中国に撒かれた種を、同僚の教員の皆さんと育ててやっと芽が出てきた感じがします。大切にこの芽を伸ばしていければとも思います。
■とりあえず元気に働いていますが、ひとつ困ったことが…。先日のエントリーで寧波の歓迎会で白酒(パイチュー)をいただきすぎた話しをしました。そのさい、今回は、私には珍しくリバースしてしまいました。内モンゴルの草原のゲルで白酒の「攻撃」を受けたとき以来…です。リバースするときには、はやく白酒を体外に排出してしまおうとして、普段使わない筋肉まで使ってしまい、脇腹というか背中に近い方が痛みます。何もしなければなんともないのですが、触れると痛い…。くしゃみをすると痛い…。強い振動を受けると痛い…。風邪をひいて酷い咳が続くと肋骨にヒビが入ることがあるらしいのですが、ひょっとすると…今回もヒビが入っているかもです。まあ、そのばあいも自然治癒にまかせるらしいのですが…。帰国したら医者にみてもらうことにします。
地球研のプレリサーチが始まります
■出張で、中国・浙江省の寧波市にある寧波大学外語学院に来ています。ということで、このエントリーは中国からのものです。昨晩は、外語学院(日本でいえば学部)の院長・副院長、そして日本語学科の教員の皆さんが歓迎会を開催してくださいました。「中国的な意味において」とても素晴らしい宴会になりました。中国的に意味においてとは、どういうことなのか…。50℃の強い焼酎であるパイチュ(白酒)の乾杯合戦でノックアウトされてしまいました。まいりました。今日の午前中は、留学生受け入れのための協定書に関してミーティングをもちましたが、午後からはホテルで休憩中です。今回中国に一緒に中国来ている原田達先生と大塩まゆみ先生は、寧波訪問が初めてということもあり、学科主任の先生の案内で寧波市内を見学されています。
■さて、ホテルでメールを確認していると、日本から重要かつ嬉しいメールが届いていました。大学共同利用機関法人・人間文化研究機構「総合地球環境学研究所」で、私たちの研究プロジェクトがプレリサーチに採択され、研究所のホームページにもそのことが掲載されていたというメールです。プロジェクトリーダーの奥田昇さんからのメールでした。上の画像が、その通知の掲載です。なんともそっけない通知ですね…。
■総合地球環境学研究所では、研究プロジェクトを次のように説明しています。
■地球研では、既存の学問分野や領域で研究活動を区分せず、「研究プロジェクト方式」によって総合的な研究の展開を図っています。
●研究プロジェクト方式は段階を経て研究を積み重ねていく方式です。全国の研究者コミュニティに公募された研究を、IS(インキュベーション研究 Incubation Study)、FS(予備研究 Feasibility Study)、PR(プレリサーチ Pre-Research)、FR(本研究 Full Research)という段階を経て実施することで、研究内容を進化させ、練り上げることを目標としています。
●国内外の研究者などで構成される研究プロジェクト評価委員会の評価をFS 以降の各段階の対象年度に実施し、それぞれの研究プロジェクトの自主性を重んじつつも、研究内容が平板な積み重ねにならないように配慮しています。また、IS を除くすべての研究プロジェクトが、研究の進捗状況や今後の研究計画について発表を行なう場として、研究プロジェクト発表会を開催しています。
●終了した研究プロジェクトに関しては、研究の終了後2 年間はCR(終了プロジェクト Completed Research)として、成果の社会への発信や次世代の研究プロジェクトの立ち上げなどさらなる研究の展開を図っています。
■上の引用にもありますが、「プレリサーチ」を通過するためにあたっては審査があります。この審査は、今後も続きます。また、「FS」から「プレリサーチ」にすべてのプロジェクトが駒を進められるわけではありません。審査の結果、「FS」の段階を継続しなければならないプロジェクトや、プロジェクトが打ち切りになるばあいもあります。プロジェクトを通して良い成果をあげていかなければ、「プレリサーチ」に駒を進められなかったプロジェクトの皆さんに、申し訳が立たない…そんな気持ちにもなります。通常「プレリサーチ」は「本研究」に入る前の1年間があてられます。このあと、本研究が3〜5年間続きます。長い道のりですが、頑張って取り組んでいこうと思います。
■プロジェクトのフィールドは、琵琶湖に流入する野洲川、そしてフィリピンのラグナ湖が中心になりますが、比較研究するために、国内では八郎潟、手賀沼、宍道湖なども視野に入れて研究に取り組んでいきます。
【追記】■関連エントリーです。
これからの研究プロジェクト
地球研プロジェクト「生物多様性が駆動する栄養循環と流域圏社会ー生態システムの健全性」
地球研プロジェクト「生物多様性が駆動する栄養循環と流域圏社会ー生態システムの健全性」 のその後
公開シンポジウム「自然共生社会を拓くプロジェクトデザイン」
研究会
人間・社会班で研究会議
甲賀の農村で
研究会議
明日から中国
■昨晩は、先日出走した「篠山ABCマラソン」の打ち上げを行いました。一緒に走った、龍大職員の皆さん4人と「利やん」で楽しい時間を過ごしました。そのまま帰宅できれば良かったのですが、本日から中国に出張です。朝早い便で上海まで飛ぶので、関空の対岸、りんくうタウンにあるホテルで前泊しました。新快速に乗り大津から新大阪まで。新大阪からは日根野まで特急に乗り、日根野からは一駅でりんくうタウン。1時間45分ほどかかりました。寝過ごして、和歌山までいってしまうのでは…緊張していたせいか、無事に、りんくうタウンまでたどりつけました。
■本日からの出張は、大学院社会学研究科の仕事です。留学生の入試に関する協定を締結するためなのですが、今回の訪中では締結の一歩手前まで。新年度に入ってから、早々にも締結する予定です。訪問するのは、浙江省の寧波市にある寧波大学外語学院と、湖北省の武漢市にある華中師範大学社会学院と外語学院。日曜日には帰国するので、ゆっくりしている暇はありません。ただし、旧知のあちらの大学の教員の皆さんと交流してまいります。
■先月訪問した韓国の韓瑞大学、そして今回の寧波大学と華中師範大学。社会学研究科の「東アジアプロジェクト」のそれぞれの国の拠点になります。今後は、研究・教育交流の中身をさらに発展させていきます(国際化の実質化・豊富化)。この出張が終わると、少しだけ休憩させていただきます。ちょっと疲れがたまっているかな。
小澤征爾
■先日、NHK-Eテレで、小沢征爾さんの指揮をひさしぶりに拝見しました。今年の1月17日に行われた水戸室内管弦楽団の第89回定期演奏会です。小澤さんが指揮したのは、ベートーベンの交響曲4番。大病されていたので、水戸では2年ぶりの指揮なのだそうです。ちなみに小澤さんは、この水戸室内管弦楽団の音楽顧問・指揮者。団員も様々な国籍の、世界で活躍している演奏家の皆さん。小澤さんの指揮に対する団員の皆さんのものすごい集中力のようなものが伝わってきました。小澤さんの指揮を、すべて味わいつくそうとしている…って感じかな。楽しませていただきました。小澤さんは、楽章のあいだに椅子にすわって休憩されていましたが、ずいぶん回復されているようにも思えました。
■ということで、CDを注文しました。「『小澤征爾さんと、音楽について話をする』で聞いたクラシック」というCDです。以前、作家の村上春樹さんが小澤征爾さんが小澤征爾さんに行ったロングインタビューが、『小澤征爾さんと、音楽について話をする』という本になり出版されました。大変深い内容だったのですが(小澤征爾にとってのカラヤンの存在とか…)、その本に出てきた曲が、CDにおさめられているようです。少し前にすでに発売になっていたようですが、そのことを私は知りませんでした。偶然にみつけたのです。
■すでにamazonに注文してありますが、たぶん大学の方に届いているのではないかな…。明日から中国に出張ですらか、帰国して、体を休めながらゆっくり聞いてみたいと思います。もちろん、ロングインタビューも再読ですね。
総天然色!! 昭和30年頃の大津 -国産最初期のカラー写真でみる町の記録-
■今日は、「大津市都市計画審議会」でした。審議会が終了し、市役所の建物の外に出ると、道路沿いの掲示板に目がいきました。大津市歴史博物館の特別展のポスターです。「総天然色!! 昭和30年頃の大津-国産最初期のカラー写真でみる町の記録-」。いいですね〜。素晴らしい。以下は、ネット上のこの特別展の情報を引用させていただきます(トップの画像はその一部です)。
【概要】
本年3月、故 西村榮次郎氏が撮影した古いカラースライドが、大津市歴史博物館に寄贈されました。全139枚にもおよぶスライドの中には、昭和30年頃の大津市内各所の様子が鮮明なカラー写真で残されていました。日本におけるカラーフィルムは、すでに戦前に国産第1号が販売されていましたが、本格的に普及しはじめるのは、この写真が撮られた昭和30年頃からだといわれています。また、当時はフィルムが非常に高価だったこともあり、これらの写真は大変貴重なものだといえます。
本展では、大津市中心市街地の町並みをはじめ、市内の社寺等の観光地の写真。また、大津市制60周年記念式典の様子やビワコ一周自転車競走などの行事の写真など、厳選した約50点を展示し、総天然色で再現された、今から60年前の大津の町並みや暮らしの様子をご覧いただく写真展です。
【撮影された写真の特徴】
写真は、35㎜カラーポジスライド、139点、撮影年代は昭和30年~36年頃です。多くは、「観光大津」という小箱に収納されており、当時の大津の魅力をスライド上映用にまとめたものが中心です。 この時期は、大津に駐留していた在日米軍が、キャンプ大津からの撤退した年(昭和32~33年)にあたります。また、昭和33年は、大津市が市制60周年を迎えた年でもあります。その意味では、まさに大津にとっての戦後が終わり、高度経済成長期に向かって歩み始めた過渡期に撮影されたものといえます。写真の中には、それら町の移りかわりが随所に記録されています。
■私自身は昭和33年生まれなので、かろうじて「懐かしい風景」といっても許されるかもしれません。もちろん、当時、大津には来て記憶しているわけではありません。写真の中に埋め込まれている時代の雰囲気が懐かしいのです。ただ、カラー写真だとある種の生々しさがあります。そこが不思議な気持ちにもさせてくれます。そう、昔は「総天然色」っていいましたね〜。【撮影された写真の特徴】には、米軍が撤退して大津の戦後が終わり、これから行動経済成長期が始まる過渡期だと書かれています。とても興味深いですね。1枚1枚の写真ごとに、たくさんの発見があるのではないかと思います。ぜひ、観覧してみたいです。ちなみに、場所は、大津市歴史博物館ではありません。ゼミの「北船路米づくり研究会」がいつも野菜を販売させていただいている丸屋町商店街の「大津百町館」が会場になります。お間違いのないように。
タイトル 総天然色!! 昭和30年頃の大津 会期 平成26年 3月23日(日)~3月30日(日) 期間中の休館日 3月24日(月) 会場 大津百町館(大津市中央1丁目8-13・丸屋町商店街内) 主催 大津市歴史博物館 協力 大津の町家を考える会 観覧料 無料
「かわせみ工房」のスマホケース
■昨日は、週1回の老母の生活介護の日でした。介護の日は、大阪の梅田を通過します。facebookをみると、いろいろお世話になった橋田健司さんが、梅田の阪急デパートにおられることがわかりました。橋田さんは、皮革を使ったクラフト作家。野洲市に「かわせみ工房」というお店を経営されています。昨日は、阪急デパートの10階で開催されていたステーショナリーマーケットに出店されていたのです。
■橋田さんのお店に初めていったのは、「かわせみ工房」がまだ大津市にあったころです。特注で老眼鏡のメガネケースを作っていただきました。そのあとは、デジカメ用のストラップ、スマートフォンのストラップ、そしてキーケース等々、橋田さんの作品を買わせていただいています。また、他社の鞄の修繕もしてもらいました。今回については、目についた素敵なスマホケースを購入させていただきました。フェルトと革のスマホケース。ポケットもついていて、そこにコードなども入れることができます。ひさしぶりにお会いした橋田さん。お元気にされていました!! トップの画像は、そのスマホケースと、AirMac13でみたfacebookの「かわせみ工房」を重ねて撮ったものです。
Ryukoku University Brand Book
■龍谷大学では、龍谷ブランドを伝える「Ryukoku University Brand Book」デジタルブックを公開しました。以下は、サイトからの引用です。
龍谷大学は、2012年9月、新しいロゴマークとスローガンを導入しました。
そこには、本学の学生一人ひとりが、ともに学び、力を鍛え、未来に向けて成長していく姿を表現しています。
学生が、本学で学ぶことの楽しさを発見し、自主的・積極的に学んでほしい-
そんな龍谷大学の思いを、内外に向けて明確に打ち出すために「Ryukoku University Brand Book」では学生を育成していく、さまざまな取り組みを取り上げながら、新ブランドを表現しています。
■この「Ryukoku University Brand Book」のかなでは、社会学部の「大津エンパワねっと」が取り上げられています。トップの画像は、そのページのものです。以下から、ご覧いただけます。「PC版で開く」、「HTML5版で開く」、「スマートデバイス版で開く」の3つから選択していただけます。
Ryukoku University Brand Book
■また、「龍谷ブランド動画プロジェクト」の映像も、公開されました。このプロジェクトは、“学生の成長と未来への可能性があふれる大学”という龍谷ブランドの考え方を学内外に発信するため、ブランドの主役である学生を制作メンバーの中心として、昨年10月以降、制作をすすめてきたものです。完成した動画は、龍谷ブランド全体を表現した作品と、学生が制作した4作品、さらに、学生メンバーの制作過程と作品ダイジェストを含めたものの合計6本です。その他に、撮影にご協力いただいた方へのお礼を込めた「メイキング篇」が1本あります。「北船路米づくり研究会」は、この「メイキング篇」に音声ぬきで、チラリ…と登場します。
龍谷ブランド動画プロジェクト
関連エントリー「龍谷ブランド動画」(撮影風景)
高齢者による新聞への投稿
■親しい知人のおじいさまは、100歳を超えておられます。100歳になったときは、地元の自治体の首長さんからお祝いの言葉が届けられました。一般論として長寿は大変おめでたいことなのですが、おじいさまは、孫になる私の知人に、「嫁さんもとうの昔に亡くなり、子どもたちもみんな先に亡くなってしまった。寂しい」と言っておられるそうです。一緒に生活をともにしてきた身内の人たち、言い換えれば、いろんな体験や記憶を共有している人たちが亡くなってしまうことが、お寂しいのですね。では、幸せな最期とは、どういうことでしょうね。家族や身内、そして友人たちに囲まれ、「ありがとう。あなたと一緒に過ごすことができて私は幸せでした…」といってもらいながら、息をひきとる。記憶や体験とともにある豊かな関係性を実感しながら亡くなっていく…ということなのかなと思います。あくまで、個人的な考えですが。
■今日、新聞で80歳になる男性の投稿を読みました。11年前に奥様を亡くされています。優れたユーモアのセンスをお持ちだということがわかります。しかし、同時に、亡くなった奥様のことを偲びつつ、奥様と一緒に暮らした日々のことを思い出しながら、生きてこられたご様子もなんとなく伝わってきます。そして毎日毎日を「しっかり生きておられる」ふうにも想像します。毎日毎日同じような暮らしかもしれないけれど、「しっかり生きる」。「しっかり生きる」ことができることを感謝する。そのような心持ち。これもあくまで個人的な想像ではありますが、素敵な投稿だと思いました。
大津百町
■大津で有名な和菓子屋「鶴里堂」さんの{大津百町}という名前の和菓子の包装紙です。そもそも大津とは、大きな津=港とい意味です。物資や人が行き交い、経済的にも文化的にも、江戸時代には宿場町として大変繁栄しました。大津市歴史博物館のネットにある展示解説では、次のように説明されています。
大津の地名は、大きな港(津)に由来し、すでに平安時代、都への物資を中継する港として重視されていた。豊臣政権下に築かれた大津城が関ヶ原合戦でその役割を終えると、城は膳所に移され、大津は城下町から商業都市へと変貌。江戸幕府の直轄支配地(天領・てんりょう)として代官が置かれ、その繁栄ぶりは「大津百町(おおつひゃくちょう)」と称された。このコーナーでは、「札の辻」町並み模型を中心に、宿場町・港町・園城寺(三井寺)の門前町として賑わった「大津百町」の様々な姿を紹介する。
■「鶴里堂」さんの包装紙は、この展示解説にある「札の辻」という場所を描いたものです。では、「鶴里堂」さんのお店の名前にどうして「鶴」があるのか。以下の説明の通りです。
鶴里堂(かくりどう)という屋号は、昔、比叡山より望んだ大津の里が細長く弓形(ゆみなり)で、鶴が翼ひろげてまさに飛び立とうとする姿に似ていたことから、「鶴の里」と呼ばれていたことに因んでいます。
■大津は幕府の直轄地であったことから、幕府の御触書を掲示する高札がありました。それが、四つ辻にあったことから、「札の辻」という地名がついたのだそうです。この包装紙に使われている絵には、ものすごい数の人たちが往来しています。絵だからデフォルメして書いてあるのだろうという人もいるかと思いますが、江戸時代、本当にれぐらいの人たちが行き来していたのではないかと思います。というのも、大津は東海道五十三次の宿場町のなかでも最も栄えたところで、元禄時代(17世紀後半)には、町数も本当に100カ町あり、人口1万8千人を超えていたといわれているからです。現在はどうかといえば、残念なことですが、たくさんの人が歩いている…そのような風景はほとんどみかけません。地図はこちらです。