秋田での研究会(地球研出張4)

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■総合地球環境学研究所のプロジェクト「生物多様性が駆動する栄養循環と流域圏社会―生態システムの健全性」の中で行っている、「国内湖沼の環境ガバナンスに関する比較研究」関連での秋田出張、このエントリーが最後になります。20日(日)の午後と21日(月)の午前中、秋田県立大学で研究会を開催しました。

■研究会では、まず八郎湖の周囲で活動されている皆さんから、八郎湖の環境問題に関連してご報告をいただきました。研究プロジェクトのメンバーでもある秋田県立大学の谷口光吉さんからは「八郎湖再生の現状と課題」というテーマで、秋田県立大客員教授・NPO法人秋田水生生物保全協会の杉山秀樹さんからは「八郎湖流域環境学 魚類資源を管理し、持続するために」というテーマで報告をお聞かせいただきました。それに対して、私の方からは、私たちの研究プロジェクトの簡単な紹介を行うと共に、私たちが流域管理に関して目指しているアプローチについて説明しました。近年の琵琶湖流域での流域管理の動向についても少し説明しました。八郎湖の琵琶湖、双方からの報告を行った後で、何を問題として捉えるのか、どのようなアプローチで解決するのか、そのような点について議論を行いました。

■加えて、八郎湖での流域管理の活動に関して、干拓事業によって生まれた大潟村の農家と周辺地域の方達との対話はどのような形で可能なのか、また様々な人びと(ステークホルダー)が、「楽しい」「嬉しい」「美味しい」といった要素を含む活動を通して、八郎湖とのより深い関わりが生まれていく状況を作っていくことが必要なのではないのか…そのような問題提起をさせていただきました。これまで行われてきた技術的解決手法(工学的手法)、法律や条例による規制的手法、また近年の経済的インセティプによって環境配慮行動へと人びとを誘導する経済的手法だけではなく、人びとの参加・参画を促す社会的・文化的手法にもっと注目するべきではないのかという問題提起でもあります。時に厳しい議論になりましたが、同時に、有益な情報交換をすることもできました。

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■八郎湖の皆さんの中からは、私の問題提起に応えるかのように「活動の方法やスタイルは、今までのままでよいのか」という意見も出されました。もっと女性や若い世代が参加しやすい状況を作っていく必要があるというのです。このままでは、若い世代に活動を継承していけないのではないかということでもあります。私もそのご意見に同感しました。地球研の研究員である浅野さんからは、場所や立場が違っても、それらの違いに縛られることなく若い世代には繋がっていける可能性があるのではないかとの意見も出されました。言い換えれば、若い世代は、相対的にではありますが、参加・参画を抑制してしまうような問題状況の認識、社会状況や構造等にしばられることがないので、より連帯しやすいのではないかということかもしれません。

■また、個々の活動を超えて、湖沼や流域の長期的目標が必要なのではないのかという意見も出されました。それに対して私は、目標そのものと同時に、そのような目標はどのように決めていくのかが重要なのではないのかと意見を述べました。最近、環境管理に関連して「順応的管理的管理」ということがよく言われます。自然環境の管理は不確実性が高いので、計画を実行するにしてもそのプロセスをチェックしてモニタリングをして、計画の見直しを随時行っていくことが必要だというのです。それはそれで納得できるのですが、その計画の中に含まれる目標は誰がどのように決定していくのかというところが、曖昧です。多様なステークホルダーが参加・参画しながら目標をどのように設定していくのかというプロセス自体も問われなければなりません。

■いいろいろ議論を行いましたが、研究会の最後の方で、ある方が、それまでじっと我慢していたかのように、突然「打瀬船」を復活させたいというご意見を述べられました。それも、多くの人々の参加で復活させたいというご意見でした。「打瀬船」については、1つ前のエントリーで紹介しました。かつて、白い大きな帆を風で膨らませた「打瀬船」が、八郎潟のあちこちでシラウオ等の魚を獲っていました。八郎潟「打瀬船」が浮かぶ風景。現在では写真でしか見ることができませんが、それらの風景からは八郎潟の持つ「豊かさ」を感じ取ることができます。その「打瀬船」を復活させたいというのです。そのような復活が、干拓事業以前を直接的に知らない若い世代の人びとにとって、どのような意味を持つのか、大変興味深いところです。ぜひ復活を成功させていただきたいと思いました。その他にも、八郎潟と琵琶湖を比較する中で、様々な差異や共通点が確認されましたが、それについては後日、まとめて報告できればと思います。

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■研究会では、八郎潟・八郎湖に関連する様々な文献を教えていただきました。私が「おっ!!」と思ったのは、2014年に出版された「大潟村史」です。大変細かいことまで、あらゆることが記載されています。村ができて50周年を記念して出版されたようです。これは、何としても入手したいものです。もうひとつは、地元の「潟船保存会」が発行した『潟の民俗』に掲載された林芳典のエッセイです。以下に転載させていただこうと思います。大変興味深い内容です。

サンフランシスコ講和条約調印(一九五一年九月)という大仕事を果たした吉田首相はある日、ダレス米国務長官から「オランダの気持ちをやわらげるよう一段の努力をなさることです」と耳打ちされた。このことは吉田自身、いつも心にひっかかっている事柄であった。

オランダは日本軍によって植民地のジャワ、スマトラを占領され、人的物的に多大の被害を受けたうえ、戦争が終わったあと植民地はそのまま独立国となってオランダの手から離れてしまった。それだけに日本に対する国民感情は悪く、講和条約の調印にも最後まで注文をつけた。

吉田は日本が得意とする経済の分野、つまり貿易の増進によって交流を深めようと考えたが、両国の間にはとくに補完し合える商品がない。思いあぐねた矢先、フト思い出したのが英国大使だったころオランダへ出張したときの光景だ。延々と続く堤防で海を仕切った大干拓地。国土の25%が満潮水位以下にあり、「神は海をつくり、オランダは陸をつくる」といわれるこの国………。

さっそく保利農相を呼び、オランダの干拓技術を日本で生かす方法はないか、それにふさわしい事業はないか、検討しなさいと下命した。当時、農林省が抱えていた最大規模の干拓計画は秋田県・八郎潟であったが、何分にも巨大プロジェクトであるため技術面、予算面、利害関係の調整などの問題を残したまま日の目を見ないでいた。

ワンマン首相のお墨付きは、黄門さんの印ろうみたいなものだ。たちまち干拓反対派の知事は推進派に変わり、大蔵省も予算を付け、農林省はオランダとの間に技術援助契約を結んだ。技術指導者として来日したヤンセン博士らは寒風のなか八郎潟の湖岸に立って熱心にあれこれ助言をした。なかでもさすがと思われたのはオランダが開発した「サンドベット工法」だ。これは堤防の下五メートルぐらいまでヘドロを全部取り除き、幅百三十メートルの砂床に置き換えるという大掛かりな工法である。日本の技術陣がついぞ克服できなかった軟弱地盤での築堤が、これで安全度百%になった。

しかし、ヤンセン博士は吉田首相への報告では、いつも日本の技術陣の能力をほめ上げた。「日本の土木技術は高額の費用を払って私を招く必要はなかった。なぜ日本は私らを招いたか真意がわからない」といった。この謙虚さが日本人技術者の心証をどれほどよくしたか計り知れない。両者の信頼関係が固まって工事はトントン拍子に進み、起工から六年で干陸式を迎えた。

日蘭交流400年の今年、天皇が彼地を訪ねて「深い心の痛み」と「不戦の誓い」を異例の長さで述べられたのは、その意味で近ごろ会心のニュースであった。

■このエッセイを掲載している記事をネット上でも見つけました。リンクを貼り付けておきます。「八郎潟物語」(評論家・林 芳典)。そこに掲載された文章は、『潟の民俗』に掲載された文章とは少しだけ違っていました。『潟の民俗』に掲載された方では、最後の段落「日蘭交流400年の今年、〜」の前に、以下の部分が抜けていました。「これまでの日本地図では海と同じ青色だった男鹿半島の根っこの1万3千haが、豊かな耕地を示す緑色に塗り替わった。『米価が半分に下がってもペイする』という日本最強の低コスト米作地帯が、こうして日蘭協力によって出現した。今では関係者以外に余り知られていないこのエピソードは、世界に尊敬される国を目指す日本外交の在りようについて一つのヒントを与えてくれる。米・中など大国相手の外交やアジア近隣外交も重要だが、遠くて小さくてもピカッと光っている国を大切にすることも怠ってはなるまい」。この林芳典さんのエッセイは、平成12年6月8日発行の『公研 2000.6』に掲載されたものとのことです。

■ここに書かれていることが事実とすれば、ちょっと驚いてしまいます。第二次世界大戦後の国際関係・秩序が、八郎潟の干拓事業の背後に存在していたということになります。直接的に関係していないにしても(直接的には、食糧増産という「大義」なのでしょう)、吉田茂を媒介者として「たちまち干拓反対派の知事は推進派に変わり、大蔵省も予算を付け、〜」といった状況を生み出していったのです。この点については、さらに調べてみる必要があるかなと思っています。

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■今回の秋田の出張は、2泊3日と短いものでしたが、内容の濃い研究会を持つことができました。また、このような研究会を開催することをお約束して、21日(月)の夕方の便で関西に戻りました。少しゆっくりしたいところですが、翌日からは、仙台で開催されている日本生態学会に参加しなければなりませんでした。今度は、新幹線です。

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