八郎潟の漁撈(地球研出張3)

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■21日(日)の午前中、秋田県潟上市にある「八郎潟漁撈用具収蔵庫」を見学しました。収蔵庫の前に設置された石碑には、次の文章が刻まれていました。

八郎潟漁撈用具収蔵庫

古来 私たちの生活と詩情をはぐく
んで来た八郎潟 日本第二の大湖であ
りながら最深部でも四M半という浅い
湖水 このような環境に合わせて素朴
な工夫や改良をかさねてきた独特な漁法
と習俗 昭和町が蒐集したこれら漁撈
用具が国の重要民俗資料として指
定されたので その永久保存のために建て
たのがこの収蔵庫である
内水面漁業における漁撈用具収蔵庫
としては国内最初のものである

昭和三十七年五月十一日
昭和町長 高橋嘉右衛門

■この収蔵庫は、国家による大規模開発=干拓事業により漁撈(漁業権放棄)と共に消えていく漁撈用具=漁具を保存する目的で設置されたのです。琵琶湖でも、国家による巨大開発事業である琵琶湖総合開発が進められる際に、「琵琶湖総合開発地域民俗文化財特別調査」が行われました。漁具については、1978年から1995年にかけて滋賀県教育委員会が収集した民具の中にも大量の漁撈用具が含まれており、それらは、現在、滋賀県立琵琶湖博物館に収蔵されています。そのようなこともあり、この収蔵庫を訪問した時、私は、八郎潟と琵琶湖とを重ね合わせていました。そして、収蔵庫内にあるトップの絵を見た時、心の中で「あっ」と叫んでしまいました。滋賀県の人がこの絵を見たら、きっと昔の琵琶湖の風景と思うでしょうね。しかし、これは干拓事業が行われる以前の八郎潟の風景なのです。エリのように見えるのは、松杭とヨシを使うモンパと呼ばれるものです。八郎潟は、収蔵庫の前の石碑からもうかがえるように、大変豊かな漁場でした。干拓事業で淡水化される以前は、日本海と繋がっていました。淡水と海水がまじる汽水湖だったのです。ワカサギ、シラウオ、フナ、ハゼ、ボラ…約70種類の魚が獲れたと言います。そのうち40種が漁業の対象となった魚だったそうです。そのような多くの種類の魚を獲るために、様々な漁法、漁具を使って漁撈活動が行われていたわけですね。例えば、厚い氷の張った冬の八郎潟で行われていた「氷下漁業」などは大変有名ですね。

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■この絵はどうでしょうか。「氷下漁業」とともに盛んに行われていた「打瀬船漁」です。この漁法は、「上を向いて歩こう」で知られる国民的歌手・坂本九の祖父である坂本金吉が霞ヶ浦から移住して伝えたのだそうです。この漁場の持つ漁業資源に注目したからです。この「打瀬船漁」、帆などの初期投資は必要ですが、2人で操業することができます。そのようなこともあり、八郎潟で広まっていったようです。この絵のように、大きな白い帆を膨らませたたくさんの漁船が、八郎潟のあちこちでシラウオを獲っていたのです。私はこの絵に描かれた風景から、八郎潟が持っていた「豊かさ」や、漁撈に従事する魚家の「誇り」を強く感じるのです。
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■この絵は、「モク採り」をしているところを描いたものです。モクとは、湖の中に生えている沈水植物のことです。沈水植物は、様々なことに利用されていました。例えば、布団の綿の代わりにこのモクを利用していました。赤ちゃんを入れる籠であるイズメの敷物としても使われたそうです。赤ちゃんのおしっこを吸収するわけです。もちろん、肥料としても盛んに使われていました。絵は、モクトリハサミと呼びれる道具を使ってモクを取っているところです。「モク採り」を行っていたのは、八郎潟に限ったことではありません。全国各地で行われていました。周辺の暮らす人々の生活や生業と深く結びついていました。

■この絵を描いた方のお名前は、「高橋嘉右衛門」という人です。潟上市に合併される前の昭和町の町長をされていた方のようです。しかし、詳しいことがわかりません。この3枚以外にも、八郎潟の絵を描いておられます。高橋さん作品は、この収蔵庫以外のどこかにも残っているのでしょうか。残念ながら、今回は知ることができませんでした。

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