喫茶店とカフェ
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▪︎4月1日から新しい仕事が始まりますが、その仕事との関連もあり、辞令をいただく前ではありますが、小さな連絡会議にオブザーバーとして出席いたしました。研究科長を2期4年つとめてきましたが、それとはまた別の仕事になります。なんといいますか、気持ちが引き締まるような思いです。会議は1時30分から5時半まで続きました。たくさんの案件に関して調整と協議を行いました。これからは、月曜日の午後が、毎週、その会議にあてられます。
▪︎会議が終わったあと帰宅しましたが、京阪電車の深草駅に向かうキャンパスの門のあたりに、カフェができていました。スターバックスです。私がのぞいたときはやっていませんでしたが、4月からはフル回転になるのかなと思います。今時の大学では、外部の資本も導入して、キャンパスのアメニティーを高めていく必要があります。ある大学では、お化粧室があると聞いています。そこまでいきませんが、学内にはコンビニエンスストアも入りました。深草キャンパスのほうは、ずいぶん施設が充実してきて羨ましいかぎりです。
▪︎キャンパスの外に出て駅に向かうと、駅の隣にカフェではなく1軒の喫茶店があります。駅前の喫茶店です。個人的には、こちらのほうが落ち着きます。喫茶店「みどり」は、昭和の香り満載の喫茶店です。以前のエントリーにも少し書きました(「みどり勉強会」と『大学生のためのドラッカー』)。龍谷大学の学生たちは、長年にわたってこちらの喫茶店にお世話になってきていると思います。マスターが元気でいらっしゃるかぎり、龍大生に通い続けてほしいなあと思います。
「おおつ未来まちづくり学生会議」の報告書ができました!
▪︎このブログでは、「おおつ未来まちづくり学生会議」についてたくさんのエントリーをしてきましたて。この「おおつ未来まちづくり学生会議」の取り組みは、「環びわ湖大学・地域コンソーシアム」大学地域連携課題解決支援事業2014に、「理想の大津つくろう~大学生が考える未来の大津~」という事業名で採択されました。また、その活動成果については、環びわ湖大学地域交流フェスタ2014 「大学地域連携課題解決支援事業」&「学生支援事業」活動報告会で報告され、「活動奨励賞」を受賞ですることができました。市役所の職員の皆さんと龍谷大学瀬田キャンパスの学生の皆さんが力をあわせた成果が評価されました。
▪︎このたび「おおつ未来まちづくり学生会議」の活動報告書ができあがりました。学生会議に参加した4年生の卒業式に間に合うように、龍谷大学の瀬田RECの職員の方が作成してくださいました。ありがとうございました。すばらしい出来上がりになっています。内容については、ネット上にあるPDFファイルでご覧いただくことができます。私は、アドバイザーという形で参加させていただきましたが、学生と一緒にこの事業に取り組んでくださった大津市役所の職員の皆様、側面からこの活動を支えてくださった龍谷大学の瀬田RECの職員の皆様には、心より感謝したいと思います。
【追記】▪︎以下は、関連エントリーです。
越直美大津市長とのランチミーティング
環びわ湖大学地域交流フェスタ2014「大学地域連携課題解決支援事業」
「おおつ未来まちづくり学生会議」発表会、無事に終了しました。
第3回「おおつ未来まちづくり学生会議」
第2回「おおつ未来まちづくり学生会議」の開催
おおつ未来まちづくり学生会議
脇田ゼミ8期生が突然に…
中島省三さんの「じじい二人の板絵展」
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▪︎昨日は、第35回「北船路野菜市」でしたが、そこに自転車に乗った旧知の男性があらわれました。映像作家の中島省三さんです。中島さんとは、私が滋賀県庁職員で、琵琶湖博物館開設準備室にいたときからのおつきあいです。中島さんは、高度経済成長とともに琵琶湖の環境が破壊されていく過程を、ずっと映像に撮り続けてこられました。くわしくは、こちらの「中島省三フォトギャラリー」をご覧ください。
▪︎中島さんとは、商店街のアーケードの下で立ち話をしました。私の方から、すぐにお尋ねしたのは、私たちが「野菜市」をしているすぐそばにある、「ギャラリーオー」さんでご友人と個展をされていることについてです。昨日、野菜市に向かうさいに、「ギャラリーオー」の前を通ったのですが、すごく魅力的な絵が飾ってありました。アクリル絵具で描いたカメラの「Leica Ⅲ f」です。そこには、「ボクの好きなバルナック、ライカフィルムカメラ」と書いてあり、近寄ってサインをみると「S.Nakajima」と書いてありました。「あれっ…」と思って、確かめてみると、「じじい二人の板絵展」という個展でした。「S.Nakajima」は、やはり中島省三さんのサインでした。ということで、立ち話の最初に、私のほうからいろいろお尋ねしたのでした。
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▪︎なにか、楽しいです。おちゃめです。板にアクリル絵具で描いているのだそうです。しかし、そのような雰囲気のなかにも、琵琶湖の環境問題をテーマにされてきた映像作家の中島さんならではの思いを込めておられることがわかります。「じじい二人の板絵展」。中島さんと私とは18歳違い。現在74歳になられました。とてもお元気です。
▪︎トップの写真ですが、中島省三さんとのツーショットの写真です。私、笑っていますが、まぶたの感じ等からは、かなり疲れが溜まっているようにも感じます。いけません。
長浜
▪︎長浜にいく用事がありました。 長浜、ひさしぶりでした。駅からは、雪の伊吹山が見えました。街中には、独特の雰囲気があって、なかなか良いものですね〜。長浜は、地元の商店・商業関係者によるまちづくりが盛んです。そのようなまちづくりの成果も、いろんなところで感じることができました。
▪︎私にとって長浜といえば、親子丼の「鳥喜多」さんなのですが、今回は伺うだけの時間的余裕がありませんでした。とても有名な鳥料理のお店で、いつも行列ができています。ということで、仕事が終わったあと、「ホワイト餃子」をお土産に購入することにしました。長浜のB級土産的な感じでしょうか。「ホワイト餃子」の写真を撮っておけばよかったな…。wikipediaの説明ですが、以下の通りです。「ホワイト餃子にはチェーン本部としての機能を持つ『本店』と、本店で技術指導を受けてのれん分けとして本店経営に準じた経営を行う『支店』がある。本店と支店は餃子専門店である。本店支店とは別に本店で技術指導を受け、かつ立地などの条件により(中略)特別に認められた『技術連鎖店』がある」。ということで、長浜で「ホワイト餃子」を売っているのは、「長浜茶真」というお店です。「技術連鎖店」です。中国で食べた「上海生煎」に似ています。満足しました。
▪︎もうひとつ、満足したものがあります。「長浜タワービル」です。ちゃんとwikipediaに説明がありました。
1964年(昭和39年)に、地元の資産家が「長浜にも東京タワーのような名物を」という理由で建設。ビルは5階建てで、その上部に「長浜タワー」と文字の入った鉄塔が立つ。ビル内は雑居ビルになっており、現在は1階部分に2軒の飲食店が入居している。開業当時は5階部分が有料の展望台になっていたが現在は閉鎖。また、かつてはビル側面に大きなバラの飾りを施していたが老朽化により強風時に飛ばされる恐れがあることから2004年(平成16年)に撤去された[1]。
なおビルの正面には「NAGAHAMA TOWERBILL」と英語表記が入る(下の写真参照)が、「Bill」はスペルミス。
▪︎おお、スペルミスですか…これもご愛嬌でしょうか。
平湖柳平湖の「つながり再生構築事業」の協議会
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▪︎昨晩は、草津市の琵琶湖湖岸近くにある志那町にお邪魔しました。志那は、平湖・柳平湖という内湖のそばにある集落です。志那町では、この内湖の環境を復活させようと、長年にわたり様々な取り組みをされてきました。昨日は、自治会舘である志那会館で、平湖柳平湖の「つながり再生構築事業」の協議会が開催されました。この「つながり再生構築事業」では、「魚道を生かした在来魚の郷づくり」、「淡水真珠の復活」…地域の夢を共有しつつ、少しずつその実現に向けて取り組みが進もうとしていますが、私は、その取り組みの進捗をお手伝するために、滋賀県庁琵琶湖環境部琵琶湖政策課の職員のみなさんと一緒に、この協議会に参加しています。昨日は、草津市農林水産課の職員の皆さんも参加されました。来年度からは、総合地球環境学研究所で私が参加している研究プロジェクトも、在来魚の復活に関してモニタリングをさせていただく予定です。
▪︎昨晩の協議会では、地元の皆さんから、地元の思い(希望・夢)として、来年度の取り組みに関して、以下のようなご提案がありました。4月には、在来魚の産卵状況を確認することになりました。地元の言葉では、湖岸の浅瀬にきて、マコモ等に在来魚が産卵することを「魚がセル」といいます。この「魚がセル」状況を確認しようということになりました。そのためには、内湖の水位等も調整しなければなりません。5月には、地元の方たちが講師役となって、地元の小学校の生徒さんたちにを対象に、内湖の環境を題材とした環境学習を実施されます。田植えの後は、内湖に面した水田に孵化した仔魚を放流し、一定生育した段階で内湖に移動させる作業を行います。来年度は、琵琶湖から内湖に在来魚が遡上させるための魚道の設置も検討中です。6〜7月にかけては、淡水真珠養殖の復活を目指した活動が行われます。3年目のイケチョウガイから淡水真珠の玉を取り出す作業を行うようです。このような取り組みについては、草津市役所農林水産課や草津市にある立命館大学等が支援されているようです。また、在来魚の生態調査等も行います。ここには、すでに述べたように総合地球環境学研究所の研究プロジェクトが参加させていただく方向で検討させてもらっています。7月には、外来魚の駆除をかねた地元の子どもたちも参加する「釣り大会」が開催されます。ここには、滋賀県庁琵琶湖環境部琵琶湖政策課が支援させてもらうことになっています。秋には、他の地域の内湖復活の取り組みを視察にいくことや、内湖の浅瀬にシジミをまくことが予定になっています。非常に盛りだくさんですね。でも、すべて地元の人たちの手作りの取り組みです。そこに、行政や専門家が、側面から支援するということになっている点が重要かと思います。あくまで主体性といいますか、イニシアチブは地元側にあり、内発的に生み出された地元の思い(希望・夢)を、側面からゆるやかに行政や専門家が応援していく…という感じでしょうか。
▪︎その他にも、たくさんの個人的なご意見をお聞かせいただきました。
暮らしが内湖とともにあったこの地域の文化を次世代に継承していくために、身の丈にあった(自分たちで維持管理ができる)ビオトープがつくりたい。/ 昔は、農作業にいくときに必ず内湖を通った。今は、暮らしと切り離された遠い存在になってしまっている。ビオトープは集落のそばにつくりたい。/ 現在、内湖の維持管理の作業が大変。維持管理することが、少しでも集落にとって経済的プラスになるような仕組みをつくりたい。/ かつては、内湖に釣にくる人たちを対象に、駐車場やマッチの販売等をしてこずかいを稼いでいた。励みになっていた。/昨年、ラムサール条約の関係で、全国から子どもたちがやってきて、田舟に乗ったり、淡水真珠やイケチョウガイをみてとても感動していた。このような感動を地元の子どもたちにも味合わせたい。/ 50歳ぐらいから下の人たちは、田舟の艪をこいだ経験がない。河川改修、圃場整備等で、水路で移動することがなくなってしまったから。艪こぎの競争とかできたら、盛り上がるのでは。田舟を使った遊びもできたらいい。/ 夢を実現していくためにも、ひとつひとつ取り組みの成果や効果を確認していく必要があるのでは。
▪︎平湖柳平湖の今年度の協議会は、これが最後になります。いよいよ、具体的な取り組みを始めてくいことになります。このブログでも、取り組みの様子や成果等をご報告できるようにしたいと思います。
▪︎昨日は、できあがったばかりの『志那町誌』を購入させていただきました。写真は、そのなかにあるかつての平湖柳平湖の地図や絵図です。河川改修や圃場整備が行われる以前の姿を確認できます。田舟なしには生活できなかった当時の様子を想像できるのではないでしょうか。
再会
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▪︎先々週の土曜日の話しになります。「東京スカイツリー」に登ったあと、ずっとご無沙汰していた東京の友人のMさんとCさんに再会しました。特に、Cさんとは何年もお会いしていませんでした。上野駅の地下鉄銀座線の改札口で待ち合わせだったのですが、現れたCさんは、なんだか山荘の主人のようないでたち、そして立派のヒゲも蓄えておられれました。なんだかとっても迫力がありますね。
▪︎Mさん、Cさんとは、上野恩賜公園の近くの飲食店で昼食をとりました。 Cさんと私は酒飲みなので、昼間から生ビールをいただき、ご機嫌状態です。上の写真は、御徒町あたりを歩いているCさんと私です。写真家でもあるMさんが、撮ってくださいました。生ビールでご機嫌状態のまま、上野から御徒町へ、そして秋葉原まで歩きました。こうやって、あってくださる友人の皆さんが、あちこちにお住まいになっていることを、私自身はとても幸せなことだと思っています。
▪︎Mさん、Cさんとのお付き合いは、ブログがきっかけでした。お互いのブログにコメントを書き込むうちに、オフ会ということになり、これまでも何度もお会いしてきました。2006年から2010年頃までのことです。懐かしいですね。あの頃、私の周りではブログが全盛期でした。お2人と知り合いになり、墨田区の京島界隈もよく歩きました。その京島も、再開発がどんどん進むなかで、ずいぶん地域の雰囲気が変わってしまいました。複雑な気持ちです。
東京スカイツリー( 2 )
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▪︎トップの写真、中央に高い高層マンションが見えます。しかし、「東京スカイツリー」の450mの展望台からだと、たいした高さに見えません。ここは、墨田区の京島と呼びれる地域です。線路が見えますが、京成電鉄と東武電鉄です。少し離れたところに確認できますが、大きな川があります。これは荒川です。私は、東京の友人たちと、この京島から荒川にかけてのエリアを何度か歩きした。大変、思い出深い地域です。それこそ、「虫の眼」でもって歩きました。今回は、「鳥の眼」でこの地域を眺めています。「虫の眼」と「鳥の眼」、その両方で見るからこそ理解できることがあります。「虫の眼」からだけでは、また「鳥の眼」だけからでは、理解できないことがあると思います。両方が大切だ、それが私のスタンスです。これは社会を考えるさいの視点の取り方について比喩的にもいっているわけです。荒川の向こう側は、江戸川区です。写真ではよく確認できませんが、さらに向こう側には江戸川が流れており、江戸川の左岸は千葉県です。千葉の松戸にも行ったことがあります。松戸に親しくさせていただいている方たちが多数お住まいなのです。その松戸を訪問したのも何年も前のことになります。懐かしいです。
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▪︎左は東京タワーを撮ったものです。「東京タワー」にも登ったことがありますが、ずいぶん小さく見えますね。「東京タワー」は333m(「東京スカイツリー」は634m)、昭和33年(1958年)に竣工しました。私と「同い年」です。「東京スカイツリー」よりも「東京タワー」に共感を覚えるものですから、こんなに小さく見えることに少しがっかりしました。右側は、「東京スカイツリー」の南側の風景です。東京湾が見えます。小さくてわかりにくいですが、東京湾にポツンと何か建造物が見えます。これは、「東京湾アクアライン」の「風の塔」です。地下トンネルの換気のために設けられています。左の方には、「海ホタルPA」や「アクアブリッジ」のシルエットが確認できます。
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▪︎左の写真をご覧ください。手前の方に流れてくるのは隅田川です。その向こう側に流れているのは荒川です。さらにずっとずっと向こうには、筑波山も確認できます。手前の隅田川沿いの地域は、南千住です。ここも京島ほどではありませんが、歩いたことがあります。酒飲みの方たちには有名な店なのですが、南千住の「大林」という居酒屋にも数回行きました。懐かしいです。関心のある方は、ぜひネットで調べてみてください。東京に関心があるとしても私のばあいは、隅田川、荒川、江戸川の流れる地域が中心になります。私は、東京の友人たちと「東京底湿地帯」と勝手に呼んでいました。このあたりには、いわゆる「海抜0m地帯」が広がっています(実際には、-2mだったりするのだそうです)。
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▪︎写真左。中央に黒い細い帯のようなものがみえます。ここは、駅でいえば、王子、東十条、赤羽のあたりです。北区です。この地域も、よく歩きました。素敵な元気の良い商店街が健在でした。もし、東京に暮らすことがあれば、こういうところに住みたいなと思う場所でした。赤羽では飲みました。漫画「孤独のグルメ」で有名になった「まるます家」に行きました。懐かしいです。赤羽は台地の上に昭和30年代に開発された団地があり、台地の下には下町がひろがっています。ここもいろいろ勉強しました。思い出深い地域です。荒川の向こうには川口の街があります。若い学生の皆さんは、なんのことやら…でしょうが、吉永小百合が主演した「キューポラのある街」で有名です。赤羽、荒川、川口…。高度経済成長期、この川を挟んだ地域の関係は大変面白いものがあるのです。川口からすれば、赤羽は東京の入り口でもありました。川口の工場の女工さんたちが、休みに日に遊びにいく街でした。東京の一番北の入り口にあたる街でした。
▪︎真ん中の写真には、「上野恩賜公園」が見えます。この「上野恩賜公園」の左の方には、白い屋根のようなものが確認できます。これは、「東京ドーム」です。雲がなければ、おそらくは富士山も見えたのでしょうが、この日は、残念ながら確認できませんでした。右側の写真では、「両国国技館」が見えます。その横には「江戸東京博物館」も見えます。東日本大震災の後、東京の友人の皆さんと東京の街を歩くことがなくなりました。震災が、なにか私たちの意識を大きく変えてしまった感じがします。でも、またこの東京の街を歩くチャンスがやってくるのではと思っています。そうあってほしいと思います。
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▪︎今回、「東京スカイツリー」に登って感じたことがもうひとつあります。災害の問題です。東京都では、各地域における地震に関する危険性を、建物の倒壊及び火災、災害時の避難や消火・救援活動のしやすさ(困難さ)を加味して、それぞれの地域の危険度の測定を行っています。詳しくは、東京都都市整備局の「地域危険度とは」のページご覧いただきたいと思います。ひとつの目安ではありますが(危険度が低いから安心というわけではないでしょう)、こうやって地図化してみると、直感的に理解できます。上の図がそうです。東京都都市整備局では、「災害時活動困難度を考慮した総合危険度の高い地域は、建物倒壊危険度、火災危険度ともに高かった荒川・隅田川沿いのいわゆる下町地域一帯に分布しています。具体的には、足立区から荒川区、葛飾区西部、墨田区、江東区北部に広がる地域で、また、品川区南西部や北区北部から豊島区北部に広がる地域でも危険度が高くなっています」と説明しています。「東京スカイツリー」のあるあたりや、京島もこの危険度の高い地域に入ります。もっとも、このような危険度が、実際の地域社会のなかで、具体的にはどのように機能するのか / 機能しているのかという点については、私にはよくわかりません。「防災」や「減災」に対する取り組みがどれほど進んでいるのか、また、社会学の古典的な概念でいえば、このような危険度の提示が地域社会に対してどのような「潜在的逆機能」を持っているのか(特に、社会的に弱い立場にある方達にとって)…ということも気になるところです。
東京スカイツリー( 1 )
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▪︎先々週の金曜日になりますが、早稲田大学所沢キャンパスで最終講義を聴講したあと、東京で友人の皆さんにお会いしました。そして翌日、最近の東京のお上りさんや海外からの観光客の定番である、「東京スカイツリー」の登ってみることにしました。前の日に、浅草に近いホテルに宿泊していたことから、「東京スカイツリー」までは徒歩でいってみることにしました。
▪︎後でわかったのですが、スカイツリーの展望台から眺めたとき、地上からスカイツリーを眺めたときの、なんといいますか「距離感」が違うなと思いました。地上からは、どちらかといえばスイスツリーが「遠く」に見えるのですが、スカイツリーの展望第からは、「遠く」に見えた場所が、すぐ「下」に見えるのです。目の錯覚だろうと思いますが、不思議な感覚です。
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▪︎「東京スカイツリー」には、「東京スカイツリー天望デッキ(350m)」と「東京スカイツリー天望回廊(450m)」の2つの展望台があります。それぞれ、350mまでは2,060円、450mまではさらに1,030円が必要です。私のときは30分程度並びましたか、それに加えてこの金額…。でもせっかく来たのだからとUターンせずに素直に入場料を払ってタワーに登りました。
▪︎「東京スカイツリー」のある場所は、墨田区です。海抜よりも低い0メートル地帯です。こういう海抜の低いところに、どうやってこのタワーは建設されているのか、気になりました。すでに有名な話しなのかもしれませんが…。建設は大林組です。公式のページがありました。「東京スカイツリー建設プロジェクト|株式会社大林組 : GO! GO!」。ここにスカイツリーの建設技術について解説されています。最新の技術で建設されているのでしょうが、どうも強風に弱いようです。私がいったときも、1台のエレベーターの扉が風の影響で閉まらなくなっていました。職員の皆さんが、6人がかりで扉を閉めようと努力されていましたが…閉まりませんでした。職員といっても、お揃いのワンピースの制服と帽子の女性の皆さんですから…。なかなか大変ですね。私は果たして登れるのかな…と少し心配しましたが、無事に450mの展望台まで登ることができました。続きは、次のエントリーをご覧ください。
神戸・須磨ニュータウン
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▪︎23日(金)は、「我が故郷神戸」に行ってきました。鵯越という場所にある「神戸シルバーカレッジ」という生涯学習施設に伺いました。60歳以上の方たちが学ぶ成人大学です。ここでグループワークと講義を行いました。今年で3年連続…ということになります。
▪︎「我が故郷神戸」に帰るのは良いのですが、やはり自宅のある奈良からだと結構遠いな…という気持ちになります。実質的な移動時間は、普段の通勤とあまり変わらないのですが、たまにしかいく用事がないものですから、「我が故郷神戸」であっても、気持ち的には「遠い街」になってしまっています。昨年までは、どうせ時間がかかるんだったらと、電車で新開地まで行き、神戸電鉄に乗り換え、西鈴蘭台まで移動し山岳列車気分を味わっていました。今年は、これまでとは移動方法を変えて、三宮からバスで行くことにしました。すると、意外なことに早く到着しました。三宮からは、かつて私が暮らしていた30年前にはなかったバイパス道路によって、「神戸シルバーカレッジ」の近くまで一気に移動できるからです。
▪︎15時頃、「神戸シルバーカレッジ」での授業を終えました。そのまま帰宅してもよかったのですが、高校から大学まで過ごした須磨区にあるニュータウンに行ってみようと思い立ったのでした。須磨に転居したのは、約40年前、1975年(昭和50年)のことになります。新しく開発されたニュータウンに、両親が頑張って一戸建住宅を建てたのです。「高倉台」というニュータウンです。この「高倉台」までの移動が、けっこう大変でした。「神戸シルバーカレッジ」のある地域には「ひよどり台」というニュータウンがありますが、そのニュータウンを経由して、須磨ニュータウンの「白川台」を通り、まずは神戸市営地下鉄の「名谷駅」まで移動しました。この「名谷駅」から一駅、次の「妙法寺駅」まで地下鉄で移動し、「妙法寺駅」からは再びバスに乗って「高倉台」まで移動しました。何度も乗り換えてけっこう大変だったわけですが、かつてかこのような移動はできませんでした。不可能でした。ニュータウンの開発が終わっておらず、この日に利用したような公共交通機関も存在していなかったからです。隔世の感がありますね。
▪︎私が暮らした「高倉台」は、基本的には記憶通りの街でしたが、周辺部分は若干拡大しているようにも思えました。記憶のある街並みは、確実に40年を経過している…ことを実感させるものでした。まあ、当然ですね。「高倉台」の南側にある山にも登ってみました。ここは、公園としても整備させており、六甲山縦走のコースの一部にもなっています。山の頂上に登ると、私が暮らしていたときには存在しない「茶屋」が立っていました。おそらく、登山シーズンのときに開店するのでしょう。頂上からの景色は、とても懐かしいものでした。「高倉台」全体を見渡すことができるだけでなく、遠くに明石海峡や淡路島を望むことができたからです。唯一、記憶と違うことは、そこに明石海峡大橋が存在していることです。また、明石海峡大橋の右側には、さらに遠くに、ぼんやりと島の影が確認できました。たぶん…小豆島だと思います。この山頂から小豆島が見える…これは記憶にありませんでした(そうだったんだ…)。
▪︎私が暮らしていた時は、この「高倉台」からさらに奥にある地域が開発中でした。もちろん、現在では、今日、講義をした「神戸シルバーカレッジ」のあたりまで、いくつものニュータウンが広がっています。須磨ニュータウンは、主要には6つの住宅団地から構成されています。「北須磨」団地が1967年、「白川台」団地が1970年、「高倉台」団地が1973年、「名谷」団地が1975年、「落合」団地が1978年、「横尾」団地が1979年。主に1970年代に開発された住宅団地です。私が暮らした「高倉台」のばあいは1973年で、私の両親が家を建てて転居したのが1975年ですが、私の家のまわりには造成地がひろがっているだけでした。造成地のなかに、私の家も含めて、ポツポツと住宅が建ってるいだけでしたが、すぐに続々と戸建住宅が建設されました。
▪︎ここで、神戸市須磨区が出した「須磨区計画」(平成23年)には、以下のような記述があります。ニュータウンのある北部の地域は、高齢化していることがわかります。全国的に、都市郊外のニュータウンは高齢化していますが、須磨区も同様であり、10年・20年後のことを考えると、なかなか厳しい状況がみえかくれするのです。
須磨区の人口は、須磨ニュータウンの開発に伴い、昭和 50 年代から急増していましたが、60 年 代からは、横ばいとなり、平成 6 年の約 18 万 9 千人をピークに微減の傾向が続き、現在、約 16 万 8 千人となっています。将来的にも、須磨区全体の人口は減少の傾向であると予測されます。
須磨区の年齢別の人口構成に関しては、全市の平均と比べて、20 歳代から 40 歳代の人口が少なく、60 歳代以上の人口が多くなっています。特に北須磨支所管内では、60 歳代前半のいわゆる 「団塊の世代」の割合が高いことが特徴です。また、本区では、35 歳前後の「子育て世代」の割合が高いと言えます。
須磨区でも少子高齢化が進んでおり、本区、北須磨支所管内ともに、高齢化率は全市の平均を 上回っています。中でも友が丘地域などでは、高齢化率が 40%を超える推移を示しています。 特に、北部のニュータウン地域では、子どもの減少などが見られるとともに、急速に高齢化が 進んでいます。
▪︎ちなみに私の両親と妹は、1980年代の後半頃までこの「高倉台」に暮らしていましたが、その後、大阪に近い川西市の方面に転居しました。そちらのニュータウンに新しい家を建てて、転居したのです。結局、その新しいニュータウンも、高齢化率が高まっています。困ったものです。