戦後史証言アーカイブス「津波研究50年」首藤伸夫先生のこと
■まず、最近facebookにアップした記事を、加筆修正の上で転載します。
首藤伸夫先生は、津波研究の第一人者だ。
私は、1998年4月から2004年3月まで、6年間、岩手県立大学総合政策学部に勤務していた。所属は、地域政策講座だった。首藤先生には、そのとき同じ地域政策講座でお世話になった。東北大学を定年で退職されたあと、岩手県立大学に勤務されていた。
教員住宅もお隣同士だった。私は単身赴任だったが、インフルエンザにかかってしまったとき、正月、関西に帰省していて、岩手に戻ったら水道管がカチンコチンに凍っていたとき…、私生活の面でもいろいろ助けていただいた。
もちろん、首藤先生には、津波のことについても、教えていただいた。5〜6年前だろうか、東京で偶然にお会いした。そのとき、日本大学に勤務されていた。そして、今日は、首藤先生にネットでお会いすることになった。NHKの「戦後史証言アーカイブス」のなかで証言しておられた。あのとき、もっと先生からいろいろお話しを伺っておけばよかったと思う。まあ、人生とは、そういう後悔の連続だからと、最近は開き直ってしまうけど。先生の証言を聞きながら、昔の教わったことや、首藤ゼミの学生たちの研究内容についても思い出してきた。
「津波研究50年」(「番組名 戦後史証言プロジェクト 日本人は何をめざしてきたのか」 2013年度「地方から見た戦後」第6回 三陸・田老 大津波と“万里の長城”)。
■さて、インターネットに「戦後史詳言アーカイブス」を開設した目的を、NHKは次のように説明しています。
NHKでは、戦後の歩美の中で日本人が経験したことを、未来に伝えるため『戦後史詳言アーカイブス』を開設しました。『日本人は何をめざしていたのか』などの番組で取材した政財界人から一般市民にいたる幅広い証言を、未放送の部分も含めてインターネット上で公開していきます。
■首藤先生の証言。2013年度「地方から見た戦後」の第6回「三陸・田老 大津波と”万里の頂上”」に登場する8人のなかのお1人として証言されています。
大津波を二度体験した/三陸・宮古市田老住民/赤沼ヨシさん「96歳 巨大防潮堤の町に生きた」
大津波を二度体験した/三陸・宮古市田老住民/荒谷アイさん/「悲劇を忘れない 昭和8年大津波で家族7人失う」
元 運輸省防災課/久田安夫さん「津波対策に取り組んで いま思う「悔しさ」」
元 建設省土木研究所研究員 東北大学名誉教授/首藤伸夫さん「津波研究50年」
大津波を二度体験した/三陸・宮古市田老住民(現 青森在住)/田畑 ヨシさん「二度の大津波体験を紙芝居で伝える」
田老診療所 医師(東日本大震災当時)/黒田仁さん「津波の町で医療を守る」
岩手県釜石市唐丹町 花露辺町内会長/下村恵寿さん/「”防潮堤はいらない”」
元 田老町漁業協同組合/梶山亨治郎さん「田老のシンボルだった巨大 防潮堤建設の経緯」
三陸・宮古市田老住民 漁師/扇田文雄さん/「将来に抱く不安 それでも海を離れたくない」
宮古市危機管理課 元 田老町職員/山崎正幸さん/「心の中に防潮堤を『津波防災の町 宣言』」
■首藤先生の証言全体は、4つのチャプターから構成されています。各チャプターごとに、語りが「再生テキスト」として文字化されています。
[1]おばあさんに教わった
[2]「津波研究などムダ」と言われた
[3]津波対策のこれから(一)
[4]津波対策のこれから(二)
【[1]おばあさんに教わった】
■このチャプターでは、1960年のチリ津波の調査に入ったときのことが証言されています。先生が津波研究に入られた動機が語られています。東大工学部を卒業されて当時の建設省に入省されます。1957年のことです。まだ高度経済成長の入り口に日本がいた時代です。私自身は、そのときにまだ生まれていません。日本はまだ貧しく堤防や防潮堤をつくる…という発想はまだなかったようです。
始まりはね、やっぱりチリ津波なんですよ。釜石のすぐ近くに両石っていうところがあって。そこでね、2階屋の1階がめちゃくちゃになって、2階はちゃんと残っている。後片付けに忙しいおばあさんのところに近寄って行ってね、「おばあさん大変ですね」って言ったらね、そのおばあさんがまたね、にこっと笑ってね、こんなに被害にあっているのにあんなきれいな笑顔ができるのかっていうぐらいににこっと笑ってね。「あんたね、こんなものは津波じゃないよ、昭和や明治の津波に比べたら」と、こうおっしゃったのね。(中略)昭和や明治の津波に比べたらこんなもの津波じゃないよと言ったので。それで昭和や明治の津波っていうのがどんなものだったのかという事を一生懸命文献を探しては読んでいた。そうしたらだんだんね、そのものすごさが分かってきた。
■社会学をやっていると、「おばあさん」のきれいな笑顔の意味、「昭和や明治の津波」の経験が、「おばあさん」の人生のなかでどのように位置づけられていたのか、突然不幸を受け止める力、それは何にもとづいているのか…そのようなことも気になってきますが、それはともかく。先生の関心は、「こんなものは津波じゃないよ、昭和や明治の津波に比べたら」という、そのものすごい津波の実態を知ろうというところから始まります。そして、それをどう防げばよいのかということにつながっていきます。
【[2]「津波研究などムダ」と言われた】
■このチャプターでは、「津波は防潮堤で防げる」という「過信」がひろがっていく時代について証言されています。「チリ津波特別措置法」により、「津波対策」=「構造物をつくること」…という社会的な発想が社会に定着していくのです。「こんなものは津波じゃないよ、昭和や明治の津波に比べたら」という古老の経験は活かされることはありません。あちこちに防潮堤が建設されました。1968年の十勝沖地震津波が、チリ津波よりほんのわずかだけど小さかったことが、かえって「過信」を生み出すことになりました。1980年代に入り建設省の河川局と水産庁が津波対策の再検討を始めたとき、先生は幹事長を務められたようですが、そのとき「予報」、「避難」、「構造物」の3本立てで津波対策を進めようとされました。ハードだけでなく、ソフトも含めて総合的な政策を進めなければならないという立場ですね。しかし、このような考え方に対しては、縦割り行政組織のなかにいる官僚たちから強い反発があったというのです。「津波は防潮堤で防げる」という「過信」がひろがっていく時代に、ソフト対策に対する抵抗は相当根強いものだったのです。古老の経験に耳を傾けることはありませんでした。
【[3]津波対策のこれから(一)】
■「チュウボー」という言葉が出てきます。「中防」=「中央防災会議」です。その「中防」が津波に関して提示した方針、「千年に一回程度襲ってくる最大級のレベル2の津波は、防潮堤を越えることを想定、手段を尽くした総合的な対策を立て」、「百年に1回程度のレベル1の津波は、基本的に防潮堤で防ぐ」という方針についても、それはすでに1993年の北海道南西沖地震の頃には、「頻度の高い津波は構造物で、それ以外はソフト対策とかね、町を津波に強いものにするという思想はずっとあった」というのです。先生は、こうも語っておられます。「とにかく人間はね、地球の事を何も知らないんですよ。だから今だってL2だほら何だとかって言って、1000年に1回なんて言っていますけどね、明日もっと大きいのが来てあとで調べたら1万5000年に1回のだったなんて事になっちゃ、ね。そういう事ってあり得るっていう事を考えて対策をするという、それが根本の考え方にないとダメですね」。ここには、限定された時空間の、限られた経験にもとづいて社会的に「わかったこと」にしてしまう傾向、別の言い方をすれば「蓋をしてしまう」傾向が垣間みえます。
■「津波対策っていうのは結局発生する頻度がそんなにないものだから、やっぱりいろんな部署ででも住民の間ででもとにかく忘れられてしまうっていう事がね。いちばんの難問題なんですよ。これをどうして繋いでいくかね」ということもおっしゃっています。世代を超えて「社会的な負の記憶」をどのように継承していくのかと言い換えることができるのかもしれません。もうひとつ、巨大な防潮堤のような構造物をつくっても、それらが劣化していく問題が視野に入っていないことも指摘されています。巨大な構造物を維持していくのには相当な社会的費用が必要です。そのような費用が担保できないのであれば、かえって巨大な構造物は危ないかもしれないというのです。「昔に比べてね、何かこう、行政がやってくれるからそれに従っていれば大丈夫だっていう気持ちがちょっと強くなりすぎているんじゃないんですかね」という指摘も、大切なご指摘だと思いました。
【[4]津波対策のこれから(二)】
■どのような津波の防災が必要なのか。たとえば巨大な防潮堤を拒否する地域がありますが、先生ははっきりこう言っておられます。「住民が責任を持っていろいろな情報を元にね、住民が責任を持ってそういう選択をするっていうのがね。それがいちばんいいことです。住民がそれを自分の責任で自分の子どもや孫にきちんと繋いでいくね、そうなきゃいかんと思います」。少し長くなりますが、以下をご覧ください。
守られた場所で本当に生活が成り立っていくという事とね、兼ね合わせですね。それを選ばにゃいかん。それはそれの最終決断は住民しかできないでしょう。だからその大きな構造物をつくる、いや、それはちょっと小さくしておいて、その代わりの手立てとして例えば高地移転するとかね、いろんなものの組み合わせがそこの集落の生活をつなぐという事との兼ね合わせでね。だから生活ができて、しかも安全であるという組み合わせ。どういう組み合わせを住民がよしとして取るかね。それをやってないと結局は大きいものをつくってあげたから大丈夫だろう、安全だろうって言って、つくってあげた方は俺はできる限りの事をしたと思っていても、そこで生活が成り立たなきゃみんなどこかに行っちゃいますよね。そうしたらせっかくつくったものが結局は役立たずになりますわな。だから最終的には住民がきちんとした情報のもとに判断をして、それを行政が助けてあげるという姿勢じゃないとね。防災対策なんて長続きしませんね。
■行政によるパターナリズムを批判し(同時に公共事業のあり方についても)、地域住民による自治を強調されています。そのうえで、やはり「いちばん難しいのがそういうものを何十年もそういう知恵をつないでいくっていう事ですね。これが難しい」と語っておられます。ここでも、世代を超えた「社会的な負の記憶」の継承していくことの困難性を語っておられるのです。「社会的な負の記憶」が忘却されていくとき、津波の被害にあいやすい場所に老人福祉施設や病院等が建設されるようになる…これは、私が岩手県立大学に勤務していたときに、首藤ゼミの学生の調査から学んだことです。今回も、先生は、以下のように語っておられます。「事あるごとに重要施設とか弱者施設っていうのは、安全な方に安全な方に持って行くっていうのが原則だけど、それをやっぱり長い時間たつとね、忘れてしまうんですよ。それがいちばん問題。だから皮肉な事を言うと、あなた方は今一生懸命こうやっているけど、同じ熱意で15年後ね、これから15年何もないときに同じ熱意でやれますかっていう事」。
■首藤先生の津波研究の始まりは、チリ津波で被害を受けた釜石の「おばあさん」との出会いでした。大学を卒業して建設省に入省した青年官僚だった先生も、80歳になっておられますが、とてもそのようにはみえません。じつに矍鑠(かくしゃく)とされています。ひょっとすると、釜石の「おばあさん」よりも年上になられたのかもしれません。社会的忘却にどのように抗して、「社会的な負の記憶」を継承していくのか。「おばあさん」から受け継いだ教訓を、NHKの若い取材スタッフに、そしてアーカイブスを視る人たちに、世代を超えて継承しようと、語っておられるように思えました。
【追記】首藤伸夫先生のご講演。2011/09/25 首藤伸夫東北大名誉教授 講演『津波とともに50年』。一般の人びとにもわかりやすく、ご自身のこれまでの研究経緯を説明されています。ぜひ、ご覧いただければと思います。
『悪童日記』(アゴダ・クリストフ)
■この本は、アゴダ・クリストフ(1935-2011)という作家の『悪童日記』という小説です。自宅の書架にある『悪童日記』の奥付には、1991年初版発行、1994年17版発行となっています。今から23年前に翻訳出版された小説です(購入したのは20年前)。原作は1986年です。原題は「Le Grand Cahier」。「大きな帳面」という意味です。主人公である双子の兄弟が書いた日記、という形式で作品は書かれています。「大きな帳面」が、日記なのです。
■この『悪童日記』、世界的なベストセラーになりました。作者のアゴダ・クリストフは、1956年のハンガリー動乱のさいに西側に亡命し、フランス語圏のスイスに住みながら創作活動をしてきたのだそうです(世界史をまなんだことのない学生の皆さんだと、ハンガリー動乱といってもよくわかりませんよね。ここでは説明できませんので、各自で調べてみてください)。この『悪童日記』は、彼女にとって初めての小説で、しかもフランス語で書かれました。生きることが厳しい母国の状況から逃れ、異国の地に暮らし、母国語以外の言語で小説を書いたわけです。小説家としてのデビューは51歳のときでした。彼女自身、自らの自伝なかで、フランス語で創作活動をすればするほど自分の母国語であるハンガリー語を「殺し続けることになる」と述べているようです。言語というものは、人間にとって、大変大きな存在基盤です。自己を形づくっている基盤です。『悪童日記』を創作することは、大変な苦労だったと思います。といいますか、異国の地で異国の言葉で書き続けることが…といったほうがよいかもしれまれん。しかし、そのような言語的なハンディキャップが、むしろ独特の文体を生み出すことにもつながっているのです。
■ところで、なぜ昔読んだこの小説を自宅の書架からひっぱりだしてきたかというと、この小説が映画化され、10月3日より、全国各地の映画館で上映されているからです。新聞や雑誌等でも、この映画の評判を時々読みます。やはり行ってみたくなるではありませんか。芸術の秋は、いろんなところで素敵な展覧会をやっていますし、困りました。時間が足りません。とりあえず、映画の公式サイトをみてみました。すると、動画が自動的にたちあがりました。背景に流れる曲は、ベートーベンの交響曲7番の2楽章です。どうして、この曲が選ばれているかわかりませんが、深い哀しみを表現したかのような第2楽章とこの『悪童日記』とは、どこかで共振しあうように思います。
■映画のあらすじですが、原作にかなり忠実なようです。映画の公式サイトでは、次のように紹介されています。
第2次世界大戦末期、双子の「僕ら」は、小さな町の祖母の農園に疎開する。粗野で不潔で、人々に「魔女」と呼ばれる老婆の下、過酷な日々が始まった。双子は、生きるための労働を覚え、聖書と辞書だけで学び、様々な“練習”を自らに課すことで肉体と精神を鍛えていく。
そして、目に映った真実だけを克明にノートに記す――。
両親と離れて別世界にやってきた双子の兄弟が、過酷な戦時下を、実体験を頼りに独自の世界観を獲得し、自らの信念に基づきサバイバルしていく。なんとしても強く生き抜く彼らのたくましさは、倫理の枠を超えて見るものを圧倒し、希望の光をも示してくれるだろう。
■『悪童日記』と、その後に執筆された『ふたりの証拠』と『第三の嘘』をあわせて、アゴダ・クリストフの三部作と言われています。すべて、翻訳されて文庫本にもなっています。読んでみようと思います。いろんな方達の感想をプログ記事等で読ませていただくと、この三部作をすべて読むことで、深く納得できる世界が見えてくるようなのです。まだ、読んでいないので、最初からわかってしまうと面白さも半減してしまいそうではありますが…。とはいえ、たとえそういう結末なのだな…と知ったとはいえ、これは読まないわけにはいきませんよね。
【追記】■もう1冊、まだ読んでいませんが、紹介しておこうと思います。『文盲』(L’analphabète) は、アゴダ・クリストフの「自伝」だそうです。amazonに掲載された出版社が提供した情報は以下の通りです。太字は、自分ために強調したものです。
世界的ベストセラー『悪童日記』の著者が初めて語る、壮絶なる半生。祖国ハンガリーを逃れ難民となり、母語ではない「敵語」で書くことを強いられた、亡命作家の苦悩と葛藤を描く。
「もし自分の国を離れていなかったら、わたしの人生はどんな人生になっていたのだろうか。もっと辛い、もっと貧しい人生になっていただろうと思う。けれども、こんなに孤独ではなく、こんなに心引き裂かれることもなかっただろう。幸せでさえあったかもしれない。
確かだと思うこと、それは、どこにいようと、どんな言語でであろうと、わたしはものを書いただろうということだ。」──本文より東欧とおぼしき土地で、厳しい戦況を残酷なたくましさで生き抜く双子の「ぼくら」──彼らとそれを取りまく容赦ない現実を、身震いするほど淡々とした文体で描いた世界的ベストセラー『悪童日記』(邦訳1991年)の衝撃は、今なおわたしたちの記憶に新しい。
その驚愕の物語設定や独得の文体はもとより、それがまったく無名のハンガリー人女性の処女作であったこと、小説が書かれたフランス語は〈難民〉だった彼女が20歳を超えてから身につけたものだということなど、著者本人についても大いに注目が集まった。
そんな彼女が、短いながら濃密な自伝を発表した。祖国ハンガリーを逃れ、異国の地で母語ではない〈敵語〉で書くことを強いられた、亡命作家の苦悩と葛藤が鋭い筆致で描かれ、「家族」「言語」「東欧」「難民」「書くということ」について、そして「幸福」について深く考えさせられる。そして、彼女の作品がまさに自身の壮絶な人生から絞り出されたものであることもわかる。
「もし自分の国を離れなかったら、わたしの人生はどんな人生になっていたのだろうか。もっと辛い、もっと貧しい人生になっていただろうと思う。けれども、こんなに孤独ではなく、こんなに心引き裂かれることもなかっただろう。幸せでさえあったかもしれない。確かだと思うこと、それは、どこにいようと、どんな言語でであろうと、わたしはものを書いただろうということだ。」(「国外亡命者たち」より)
チャイコフスキー交響曲第5番
■風邪をひいてしまい38℃の熱が出ていましたが、病院に処方してもらった薬で、やっと熱が下がりました。体調も安定してきたように思います。今回は、風邪がもとで、2日間の禁酒をせざるを得ませんでした。しかし、体調が戻ったので「もう、飲んでも良いでしょう〜」と自分で勝手に診断し、夕食では缶ビールをいただきました。美味しいですね〜。
■晩は、ひさしぶりに、テレビでNHK交響楽団の演奏を楽しみました。プログラムは、モーツァルトの交響曲 第40番と、チャイコフスキーの交響曲 第5番です。後者の「チャイ5」は、私が学生時代(学部4年生)に演奏した最後の曲です。懐かしかったですね〜。指揮者のブロムシュテットさんは、1927年生まれといいますから、87歳になります。ものすごく、お元気ですね。驚きます。亡くなった父親と同年齢とはとても思えません。番組では、演奏前にプロムシュテットさんの解説がありました。このようなことをおっしゃっていました。スコアには、作曲家がすべてにわたり細かく指示を書いている…というのですね。なぜそのスピードなのか、なぜこの音であって別の音でないのか。作曲家の意図を細かく検討していくと、その曲が深く理解できる…まあ、そのようなお話しでした。スコアという地層を掘り進む科学者のようでもあります。曲を、作曲者という主体の視点から構造的に理解しようとされている…そういうふうにいえるのかもしれません。
■今回のN響の演奏では、ブロムシュテットさんが思うように演奏できたのでしょう。そのことが、演奏後のブロムシュテットさんの満足げな様子からよくわかりました。チャイコフスキーの曲では、しばしばメロドラマのようなロマンチックな演奏がみられます。しかし、ブロムシュテットさんの指揮は、ロマンチックな演奏でありながらも、スコアの分析にもとづく曲の解釈の「枠組み」があり、その「枠組み」のなかで適度に抑制されているように思えました。ベタベタしたところが、ありません。そのバランスの妙味は、87歳で現役の指揮者にしかできないことなのかもしれません。
■ところで、「チャイ5」と書きました。オケの世界では、曲名に関して業界用語がいろいろあります。「チャイ5」は「チャイコフスキーの交響曲第5番」のことです。だから、チャイコフスキーの交響曲4番のばあいは、「チャイ4」といいます。では、6番はどうかというと、こちらは「悲壮」タイトルがついています。ベートーベンだと、交響曲の3・5・6・9番は、それぞれ「英雄」・「運命」・「田園」・「第9」と呼ばれることが多いわけですが、その他は、「べー1」、「べー2」、「べー4」、「べー7(なな)」ということになります。私が学生時代に演奏した曲でいえば、ドボルザークの交響曲9番については良く知られるように「新世界」となりますが、8番は「ドボ8」といいます。「ブラ1」、「ブラ2」、「ブラ3」、「ブラ4」。これは、すべてブラームスの交響曲ですね。えっ…と思うものもあります。たとえば、「モツレク」です。モーツァルトの「レクイエム」です…。話しが脱線してしまいました。
■トップの写真は、私が4年生の12月に行われた「関西学院交響楽団 第60回 定期演奏会」の写真です。私にとっては、学部生時代最後の定期演奏会です。演奏しているのは「チャイ5」。指揮は、湯浅卓雄先生です。今日、自宅にあるMDに録音された演奏を聞いてみました。まあ当然なのですが、いかにも学生オーケストラ…です。特に弦楽器は、初心者から始めた人がほとんどなので、技術的なレベルでいえば、…いろいろ問題があります。いやお恥ずかしい…という感じなのですが、指揮者の湯浅先生は、そのような技術的なレベルであっても、私たち学生オケの良いところを引き出し、できるだけ良い演奏に曲全体をうまく組み立てようとされていることが伝わってきます。
■写真のなかには、現在も市民オーケストラで活躍されている人たちが多数います。羨ましいですね〜。また、音楽大学等からエキストラで来ていただいた方のなかには、その後、プロのオーケストラに入団された方もおられます。このブログで何度も書きましたが、私はといえば、28歳のときにそれまで続けてきた音楽活動を中止しました。それは、それでよかったと思っていますが、問題は、はたして楽器を再開できるのか…ということでしょうね。
【追記】■ブロムシュテットさんと東日本大震災・いわき市について。
ブロムシュテットのスピーチ〜いわき市民に語りかけた5分間(前編)
ブロムシュテットのスピーチ〜いわき市民に語りかけた5分間(後編)
「本文続きます」のこと
■時々、時間が足りず、「本文続きます」などと書いているばあいがあります。もっと書きたいことがあっても時間の関係で書けないときは、そうやって、あとで時間をみつけて書き足すようにしています。ところが、「老人力」がついてきているせいか、「本文続きます」のままにしているばあいがどうもあるようです。申し訳ありません。今朝も見つけました。10月10日の「町家キャンパスについて」というエントリーもそうでした。「学生の皆さんへ」で終わってしまっていました。しかし、何を書こうと思っていたのか、なかなか思い出せないのです。まだ「老人力」がつきはじめたばかりなので、「いつか思い出すやろ〜」とはいかず、しばし頭をひねっていました。なんとか思い出すことができました。「学生の皆さんへ」と書いていたのが、ヒントになりました。
■こういう「本文続きます」のまま…になっているエントリー、他にもあるのではないかと思います。申し訳ありません。気がつきしだい。きちんと追加をしたいと思います。何かを追加すべきか忘れてしまっているばあいは、「本文続きます」をカットします。また、過去のエントリーに関して、後から追加したいなと思うものもあります。そのばあいは、【追記】として書き足しています。
権利だけの話しなのか…
■ちょっとした偶然から、2つの動画を視ることになりました。難しい。
米 29歳末期がん患者、「安楽死する」と公表
スイス 自殺幇助サービス(2010)
■「個人」の「権利」の問題に還元してしまうことに、死を「個」の問題に限定してしまうことに、どうもしっくりこないものを感じます。いろいろ書こうと思いましたが、まだまだ不勉強なので…。いいがげんなことを書いてしまうのではないかと思い、本文を書くこと、途中でやめて削除しました。
Super Typhoon Vongfong Seen From ISS
■いよいよ台風19号「ヴォンフォン」がやってきます。今回は、マカオが命名ということで、「Vongfong 」とは中国語ですかね。スズメバチの意味だそうです。それほど、強烈な台風です。どうしましょうか。弱りました。トップにあげたYouTubeの動画の一部は、国際宇宙ステーション(ISS)から撮影したものです。大きな「目玉」があいています。これが大きいほど、台風の勢力は強いのだそうです。1959年の伊勢湾台風クラスの強さだそうです。
■このような台風の襲来を前に、JR西日本のネット上での告知(12日23時52分現在)では、「京阪神地区の在来線各線区では、10月13日(月)の14時頃から順次列車の運転本数を減らし、16時頃から終日、全列車(特急・新快速・快速・普通)の運転を取りやめさせていただきます。ご利用のお客様には大変ご迷惑をおかけいたしますが、10月13日(月)のお出かけは控えて頂きますようにお願い申し上げます」とのことです。家を出るのを控えろ…とは。これは尋常ではありませんね。それほどの台風ということでしょうか。学生の皆さん、こういうときは、変に生真面目にならないようにしてください。大学のホームページや鉄道会社からの情報をこま目にチェックしてください。また、休講だからと街に遊びに出るようなことも控えたほうがよいと思います。
鉄道の日
■鉄道が好きです。しかし、鉄道で蘊蓄を傾けることができるような物知りではありません。鉄道の世界は大変奥深く、ものすごい「鉄の巨人」のような人たちがたくさんおられます。私は、マニア…ともいえない、ただの鉄道好きです。特に、「乗る」ことが好きです。一番素朴なタイプです。ですから、10月14日が「鉄道の日」ということさえ知りませんでした。「へ〜、そうなんか…」となるわけです。
■明治5年9月12日、現在の新暦でいえば1872年10月14日に、新橋駅・横浜駅との間を蒸気機関車が結んだのが日本の鉄道の始まりです。日本史を多少なりとも勉強された方達は、新橋・横浜はわかると思いますが、それが10月14日であることまでは知りませんよね。私もそうでした。そして、1921年(大正10年)10月14日に、つまり鉄道開業50年後、50周年を記念して東京駅の丸の内北口に鉄道博物館が開館したのだそうです。そのことを記念して、10月14日が「鉄道記念日」となりました。
■それでは、この「鉄道記念日」が「鉄道の日」に変わるのがいつかというと、1994年なのだそうです。当時の運輸省(現在の国土交通省)が「『鉄道記念日』のままではJRグループ色が強い」ということで、すべての鉄道事業者が祝う記念日となった…のだそうです。以上の話しは、すべてwikipediaの「鉄道の日」に教えてもらいました。
■ところで、冒頭に「鉄の巨人」と書きましたが、私の知り合いにも、そのような方が1人おられます。もう何年も前に、大津市のジャズバー(有名な「パーンの笛」)でお会いした経営コンサルタントの黒田一樹さんです。経営コンサルタントのお仕事の傍らで、世界をまたにかけて(お仕事の関係もありますが…)勢力的に鉄道研究家としての活動をなさっておられます。とうとう『乗らずに死ねるか!』という本を上梓されました。これは、すごい本です。タイトルですが、内藤陳さんの「読まずに死ねるか!」をパロった感じですが、どうなだろう。こんど黒田さんに聞いてみます。装丁も面白いですね。堅紙切符です。ハサミのあともありますね。今時の若い学生には、ピンとこないかもしれません。
■以下が、目次です。鉄道に対する独自の視点、それからこれが大切ですが鉄道に対する「愛」に満ちあふれています。これまでも、東京や大阪で、鉄道に関する講演会も何度もなさっておられます。ファンも多数。すごい方です。人にもプレゼントしたいと思い、2冊も買ってしまいました。この点にいては、黒田さんに喜んでもらえるかな。
第1章 通勤電車篇――日常に息づく知性と技術
最後にして最高の俺様電車/京急800形 普通
劇場路線に立つ千両役者/京阪800系 京津線普通
標準化車両におけるDNA/西武20000系 池袋線急行
マルーンの到達点に感じ入る/阪急7000系 神戸線特急
意志あるところに道は拓ける/東京メトロ9000系 目黒線直通急行
名車の熟成と底力/京成3700系 アクセス特急第2章 JR特急篇――風情と利便性のあいだ
交響曲・孤高の振り子特急/JR東日本E351系1000番台 特急スーパーあずさ
長距離走者の孤独/JR東海383系 特急しなの九号
リゾート感と使い勝手の妙/JR北海道183系気動車5200番台「流氷特急オホーツクの風」
20年物の余韻/JR東日本251系電車 特急「スーパービュー踊り子」
ディーゼル特急、驚異の60分/JR四国2000系気動車 特急「うずしお九号」
ゆったり?速く?/JR西日本381系電車 特急やくも九号第3章 インターシティ篇――デッドヒートに磨かれて
最西端のスプリンター/西鉄8000系天神大牟田線特急
見た目も実力もいぶし銀/山陽5000系 直通特急
目を凝らせ、息を呑め/JR東日本E721系電車 仙山線快速
空港アクセスの優等生/JR北海道 721系電車 快速「エアポート」第4章 私鉄特急篇――百花繚乱プレミアム
渾身の世界観/小田急50000系VSE スーパーはこね13号
輝く天の河/名鉄1000系パノラマSuper 本線快速特急
純喫茶、臨港線、連絡船/南海10000系 特急サザン9号
リニューアルのあり方とは/近鉄26000系 さくらライナー
飴色に沈む時間/東武300系 特急「尾瀬夜行」第5章 地方私鉄篇――遙かなる時空間へ
雷鳥、気高く/富山地方鉄道14760系 特急うなづき
ほら、あの夜景を見に行こう/神戸電鉄1000系列 有馬・三田線 急行
旅は距離の絶対値を問うものに非ず/大井川鐵道クハ600形 井川線 普通
窓を開ければ蝉時雨/小湊鐵道キハ200 普通
目を閉じれば甦るあの日/琴電1070形 琴平線普通
「一枚のキップから」再び/秩父鉄道5000系 普通〈コラム〉
戦後電車史概論その1 1950年代、1960年代
戦後電車史概論その2 1970年代、1980年代
戦後電車史概論その3 1990年代、21世紀用語集
안도현 (アン・ドヒョン)の詩
■韓国の知人がFacebookで、「스며드는 것 」という詩を紹介していました(正確にいうと、韓国のテレビ番組のなかにこの詩が登場していた)。안도현(アン・ドヒョン)という1961年生まれの韓国の詩人の詩でした。ハングルが読めないので、正確な意味あいはわかりませんが(ネットの翻訳機能を駆使して、おぼろげながらの理解)、カンジャケジャン(간장게장)という料理に関する詩です。カンジャケジャンとは、新鮮な生のワタリガニを漬け込み醤油ダレに漬けて熟成させた料理です。といっても、「美味しい」詩ではありません。料理にされるワタリガニの母親の詩なのです。カンジャケジャンにされるワタリガニは、卵を身体に抱えたメスの蟹が材料になります。卵が詰まっていて肉が硬く、しっかりと味を楽しむことができるからなのだそうです。しかし、「殺される」側のワタリガニの母子にとっては、これは凄惨で残酷な話しになります。
■詩のなかでは、漬け込み醤油ダレが身体にしみ込んでしだいに聞こえなくなってしまうのですが、完全に聞こえなくなってしまう前に(死んでしまう前に)、子どもたち(卵)に母親が語りかける…そのような悲しい詩らしいのです。最後に、残された力で、子ども(卵)たちにを安心させるために、夕方になってきたし灯りを消して寝ましょうと語るのですが、それは醤油の中に入れられたため周りが真っ暗になったことを夕方に、そしてしだいに死んでいくことを睡眠に例えた…というのが、私の友人の解釈です。視点を変化させると、「美味しい」から「悲しい」に大転換してしまう。この詩の題名は、「스며드는 것」(おそらくは「しみ込んでくること」なのかな…)。はっ…としました。アン・ドヒョンという人は、どういう詩人なのか。詩については、知識や見識をまったく持ち合わせていないため、よくわかりません。
(画像:ウイキメディアコモンズ)
■ネットで調べてみました。アン・ドヒョンさんには、「練炭一枚」という詩があります。韓国の教科書にも取り上げられている詩のようです。この詩についても、素敵だなと思いました。韓国語・ハングルの会話学校のサイトで紹介されていました(こちらです)。ただし紹介されている方は、「日本語で訳しましたが、詩人が選んだ単語のニュアンスをそのまま活かすことが完璧にはできませんでした。なので、今回の和訳は私がこの詩を読みながら感じた私の感想や解釈が影響されていると思います」とも書かれています。これも大切な点ですね。
<연탄 한 장>
안도현또 다른 말도 많고 많지만
삶이란
나 아닌 그 누군가에게
기꺼이 연탄 한 장이 되는 것방구들 선득선득 해지는 날부터
이듬해 봄까지
조선팔도 거리에서 제일 아름다운 것은
연탄차가 부릉부릉
힘쓰며 언덕길 오르는 거라네
해야 할 일이 무엇인가를 알고 있다는 듯이
연탄은, 일단 제 몸에 불이 옮겨 붙었다 하면
하염없이 뜨거워 지는 것 매일 따스한 밥과 국물 퍼먹으면서도 몰랐네
온 몸으로 사랑하고 나면 한덩이 재로 쓸쓸하게 남는게 두려워
여태껏 나는 그 누구에게 연탄 한장도 되지 못하였네생각하면
삶이란
나를 산산히 으깨는 일
눈 내려 세상이 미끄러운 어느 이른 아침에
나 아닌 그 누가 마음 놓고 걸어갈
그 길을 만들 줄도 몰랐었네, 나는
<練炭一枚>
アン・ドヒョン他の言葉も多くて多いけど
人生とは
自分ではない誰かのために
喜んで練炭一枚になること床がひやっとしてくる日から
来年の春まで
朝鮮八道の道で最も美しいのは
練炭車がブルンブルンと
頑張って丘を上がることなんだよ
やるべきことが何か知っているように
練炭は、まず自分に火を移し燃えると
限りなく熱くなること
毎日温かいご飯とお汁をがつがつ食べながらも知らなかった
全身で愛した後は
一塊の灰として寂しく残ることが怖くて
今まで私は誰に対しても練炭一枚にもなれなかったね。思ってみれば
人生とは
自分を
粉々に砕くこと雪が降り世の中がつるつるしたある朝っぱらに
自分ではないある人が安心して歩いていく
その道を作ることもできなかった、私は
■私は、このアン・ドヒョンの詩を読みながら、以前このブログで書いた「黒子に徹する潔さ」のことを思い出しました。このエントリーのなかでは、後半部分に内田樹さんの文献を引用しています。その後半部分をここに転載します。
■こんなことを書いていると、先日読了した、内田樹(うちだ・たつる)先生の『村上春樹にご用心』のことを思い出してしまいました。この本、内田さんが運営しているブログで村上春樹について言及しているエントリーもとにつくられたようです。amazonでのレビューの評価、極端にわかれています。私は楽しんで読みました。この本は、村上春樹について語ってはいますが、村上春樹の作品論として読んではだめでしょうね。村上ファンでありレヴィナスの研究者である内田さんが、村上作品を通して、自らの思想を語っているわけですから。内田さんの本が持っている面白さとは、難しい表現であれやこれやと蘊蓄をたれるのではなく(衒学的でなく)、シンプルかつクリアな視点から、森羅万象をサクサク解き明かしていく、まあそんな感じですかね、私のばあい。この『村上春樹にご用心』も、そうです(もちろん、このは内田さんの「読み」であって、別の「読み」が可能であることはいうまでもありません)。
■物語、父の不在(真理や神の不在)、身体、死者とのコミュニケーション、批評家と春樹…キーワード的に見れば論点はいろいろあるのですが、内田さんのいいたいことはひとつ。なぜ、村上春樹は世界中で読まれるのか。本の帯には、こう書いてあります。「ウチダ先生、村上春樹はなぜ世界中で読まれるんですか? それはね、雪かき仕事の大切さを知っているからだよ」。村上春樹に影響を与え、彼自身も翻訳をした『キャッチャー・イン・ザ・ライ』(サリンジャー)で主人公のホールデンがいうところの「ライ麦畑のキャッチャー」と雪かき仕事って同じことです。ちょっとだけ、引用してみます。
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世の中には、「誰かがやらなくてはならないのなら、私がやる」というふうに考える人と、「誰かがやらなくてはならないんだから、誰かがやるだろう」というふうに考える人の二種類がいる。「キャッチャー」は第一の種類の人間が引き受ける仕事である。ときどき、「あ、オレがやります」と手を挙げてくれる人がいれば、人間的秩序はそこそこ保たれる。
そういう人が必ずいたので、人間世界の秩序はこれまでも保たれてきたし、これからもそういう人は必ずいるだろうから、人間世界の秩序は引き続き保たれるはずである。
でも、自分の努力にはつねに正当な評価や代償や栄誉が与えられるべきだと思っている人間は「キャッチャー」や「センチネル」の仕事には向かない。適正を論じる以前に、彼らは世の中には「そんな仕事」が存在するということさえ想像できないからである。(29~30頁、センチネル:見守る人)
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「センチネル」たちの仕事は、『ダンス・ダンス・ダンス』で「文化的雪かき」と呼ばれた仕事に似ている。誰もやりたがらないけれど誰かがやらないとあとで他の人たちが困るような仕事を、特別な対価や賞賛を期待せず、黙って引き受けること。そのような、「雪かき仕事」を黙々と積み重ねているものの日常的な努力によって、「超越的に邪悪なもの」の浸潤はかろうじて食い止められる。政治的激情や詩的法悦やエロス的恍惚は「邪悪なもの」の対立項ではなく、しばしばその共犯者である。この宇宙的スケールの神話と日時用生活のディティールをシームレスに接合させた力業に村上文学の最大の魅力はある。それを世界各国語の読者とともに享受できることを私は深く喜びとする。(10~11頁)
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■最後の引用のなかで、太字で強調したところ、これは私個人によるものです。あらためて引用をした部分を読みながら太字で強調してみました。「超越的に邪悪なもの」の共犯者は、日常世界のなかに突如としてあらわれます。時には、自分自身がその共犯者になっているかもしれません。そのことをいつも心に念じておく必要があろうかと思います。ここでもう一度、アン・ドヒョンの詩に戻ります。内田さんは、村上春樹の作品に関して「宇宙的スケールの神話と日時用生活のディティールをシームレスに接合させた」と書いておられますが、私はアン・ドヒョンの詩のなかにもそれに近いものを感じとりました。たまたま偶然なのかもしれませんが、アン・ドヒョンの詩の最後にも「雪かき仕事」が登場しています。なにげない日常生活のなかで、この世の中を支えようとする人びと。それは「贈与的精神」をもった人びとであり、「贈与する人びと」であるわけですが、そのような人びとにアン・ドヒョンも村上春樹(そして内田さんも)は共感し、文学という仕事をとおして支えようとしているのかなと思います。
風邪とアイス
■数日前から喉が痛くなってきました。季節の変り目で風邪をひいてしまったのかな…と思っていると、昨日の午後から体調を崩してしまいました。どうも身体がだるく熱っぽいのです。そして、ちょっとフラフラする。4年生の指導とゼミをすませて帰宅しました。熱をはかってみると、38℃ありました。熱が少々高くても大丈夫な人もいますが、私はあまり熱に強くありません。
■今日は朝から、かかりつけの病院にいって診察していただき、風邪薬をいたただきました。それ飲んで寝ていると、喉の痛みはやわらぎ、熱も下がってきました。よく効きました。薬を飲むためには、食事をとらないといけません。唾液を飲み込むのでさえ喉に痛みを感じます。そういうこともあって、あまり食欲はないのですが、とりあえず少しお腹のなかに入れてました。そして、どういうわけか冷凍庫に「ハッピーターン」のアイスクリームも入っていたので、それもいただきました。
■最近、この「ハッピーターン」のアイスがちょっとした話題になっていますね。株式会社・明治(ラクトアイス)と、亀田製菓株式会社(ハッピーターン)の共同開発したものです。先月の29日から発売されています。ということで調べてみました。明治のプレスリリース記事からの引用です。特長は、以下の2点にあるようです。
①ハッピーターンのおいしさの秘密「ハッピーパウダー」をそのまま混ぜ込みました!
②「あまじょっぱい」濃厚な味を、つめたーいアイスで再現!
■私自身は、全国的にも人気のある「ハッピーターン」のことが、それほど好きでありません。学生との雑談のなかで、「あの白い粉が美味しいやんな〜。あれだけ食べたいわ」という学生もいました。2009年には「ハッピーパウダー」の量を通常の2倍にした「ハッピーパウダー200%ハッピーターン」がコンビニで発売されていたそうですね。このハッピーパウダー「砂糖・塩・アミノ酸・タンパク加水分解物でできている」ということらしいのですが、基本的には秘密のようです。そのハッピーパウダーがそのまま混ぜ込んであるというのです。たしかに、不思議な味です。「あまじょっぱい」です。
■私は、よく知らないのですが、というよりも敬遠してしまいましたが、「がりがり君」というキャンディにも「ポタージュ味」というものがありましたね。あれも、やはり「あまじょっぱい」のでしょうか。この「ハッピーターン」のアイスにも、なにか似たような発想を感じます。普通の味覚だと、話題にはならないのでしょうかね。
最近の卒論指導の状況について
【ゼミの4年生の皆さんへ】
■少しずつ、私の卒論指導にも、エンジンがかかってきました。今日は、午後から4人の個人面談をしましたが、素敵な調査報告がたくさん聞けました。こういうのって、嬉しいです。皆さんが調査をして、研究室にきて、素敵な報告をしてくれるようになってきたので、私の指導も細かくなっていきます。そうすると、さらに焦点化された調査になっていくわけですね。聞取りの内容が鋭くなってきました。卒論の課題もシャープになってきています。ゼミ生と調査地の皆さんとの調査を通しての関係と、指導を通しての学生と私の関係とが巧く噛み合って、少しずつ力強く研究が進んでいる証拠です。まだ足踏み状態の人は、ここで踏ん張らなくてはいけません。いつ踏ん張るの「今でしょ!」です(もう、古いネタですが…)。はやく、前に進むようにしてください。
■本音を言えば、どうしてもっと早くからやってくれないのか…ということになるのですが、今はとにかく息をぬかずに必死になって調査をしてください。研究が進捗している人たちは、おそらくすごく卒論の調査や文献を読み込むことが楽しくなってきているに違いありません。その感覚を忘れないようにしてほしいと思います。よろしくお願いいたします。
■業務連絡っぽくなりますが、卒業論文の題目届用紙を10月24日(金)のゼミのときに提出してください。題目の主題・副題は、薄く鉛筆で書いてください。私と簡単な面談をしたうえで、「よし、これでいこう!!」とGOサインを出しますから、そのとき上からボールペンで清書して、鉛筆の方はきれいに消しゴムで消してください。なお、修正が必要になったときのために、印鑑を必ず持参してください。
【ゼミ生の以外の皆さんへ】
■私のゼミでは、全員、フィールドワークにもどづき卒業論文を執筆することになっています。そのことを前提に、ゼミを決めてくれています。ゼミの運営方針については、以下のページをご覧いただければと思います。
ゼミナール