ズービン・メータ

2014111mehta.jpg ■昨晩は、リビングからマーラーの5番が聞こえてきました。NHK「クラシック音楽館」を妻が視ていました。昨晩は、ズービン・メータ指揮のイスラエル・フィルハーモニー管弦楽団。プログラムは、シューベルトの「交響曲 第6番 ハ長調 D.589」とマーラーの「交響曲 第5番 嬰ハ短調」でした。私がきがついたときは、すでにマーラーの5番が始まっていました。

■メータは1968年からイスラエルフィルの音楽監督を務めているそうです。非常に長い関係ですね。強い絆で結ばれているといわれています。シンフォニー全体の仕上がり具合に関しては、なんともいえませんが、豊かな弦楽器の響きにちょっと驚きました。素晴らしさは噂通りだなと思いました。また、アンコールは、マスカーニの「カヴァレリア・ルスティカーナ」間奏曲。これは私自身、思い出深い曲なので、グッときました〜。

■ところで、メータとイスラエルフィルによるマラーの5番を聞きながら、「あれっ…そういえば、メータのLPレコードをもっていたな」と思い出したのでした。すでに、LPレコードを聞くことのできるプレーヤーは、我が家にはありません。なんですが、LP自体はいまだにきちんと保管してありました。誇りかぶっていましたけど…。ジャケットは、若い頃のメータ。といいますか、このLPレコード自体を購入したのが、ずいぶん昔のことですので、当然、メータの髪の毛も黒々としています。中をあけると作曲家・音楽評論家の柴田南雄が解説を書いています。その日付は、1976年になっています。購入したのは1976年ではなく、もう少し後だと思います。価格は、4,000円。当時、超・貧乏だった私によく買えたな…と思うような価格です。


「カヴァレリア・ルスティカーナ」間奏曲(マスカーニ作曲)
■余韻に浸る間もなく、「ブラボー」!! とても日本的現象かもしれませんね。メータも、目を丸くしてびっくりしています。個人的には、この「プラボー」と叫んだ人も恥ずかしいだろうに…と思うわけですが、意外に本人は得意げだったりして…。この曲は、学生時代に何度も弾きました。しかし、私たち学生では、こんなに長くフレーズ感じとることや、同時に繊細かつダイナミックに演奏する事はできませんでした。今から思うと恥ずかしいです…。譜面づらは弾けるのですが、こんな風にはまった演奏できませんでした。まあ、あたりまえか(^^;;。

脇田ゼミ1期生

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■facebookのメッセージで、脇田ゼミ1期生(2006年春卒業)から連絡がはいりました。Oくんでした。龍大硬式テニス部が開催するテニス教室にアシスタントとして参加し、ひさしぶりに瀬田キャンパスにやってきた、そして新設のテニスコートにきて驚いた…とのことでした。彼は、現役時代、硬式テニス部で活躍していました。ということで、入試の仕事の合間(昼食の休憩時に)、Oくんに合いにテニスコートにいってきました。

■Oくんは、民間会社に入社したあと、救急隊員になり、現在はその救急業務の管理の仕事にあたっているとのことです。どんどん社会で活躍しているご様子、ゼミのせんせーとしてはとても嬉しいわけです。Oくんは1期生ですから、30歳超えておられます。すでに結婚もされ、お子さんもいらっしゃいます。ひさしぶりにあった彼は痩せていました。救急隊員のときは、もっと筋肉がついていたけれど、デスクワークになって細くなったのだそうです。

■トップの写真は、その1期生の卒業式のあと撮った写真です。2006年ですから8年前になります。みんなどんな感じになっているんでしょうね〜。今日のOくんは、学生のときよりもグッと精悍になっていました。私はといいますと、すっかり歳を取ってしまいました。現在では、髪は白髪がまじり、髭も真っ白です。顔も丸いな〜。

■以下は、このエントリーと同じ写真をアップしてfacebookに投稿したときの文章です。

2006年3月。私が龍谷大学社会学部に赴任して、最初に受け持ったゼミ生たちが、卒業しました。写真は、そのときのものです。脇田ゼミ1期生。なんでもそうですが、「最初」ってのは大切ですし、大変だと思います。よく私の指導についてきてくれました。

当時、私は公立大学から異動したばかりでした。異動するにあたって、「私立大学は人数が多くて大変だから、公立大学の時と同じように指導しているとあかんよ、わかっているよね…」、という年配の大学教員からのアドバイスもありましたが、そういうアドバイスは粉砕!! そういう「あんた達」の考えが日本の大学をダメにしてきたんとちゃうの…と、思いました。「公立大学と同じ教育の質を私立大学にも!!」と自分自身に気合いを入れて指導しました。

なかには、「せんせー、僕ら龍大生やし、無茶いうたらあかんわ」というやつもいましたが、むちゃくちや叱りとばしました。悲しいというか、腹が立つというか…(その学生は、名の知れた大企業に就職しましたが…)。しかし、そのとき、その学生が冗談でいった一言が、私をさらに奮い立たせたのでした。「なにをいうてんねん!!」。

すぐに「せんせー、無理…」という学生もいました。叱って、煽てて、とにかく1人でフィールドワークにいかせました。私のゼミは、それぞれが、1人でフィールドワークをして卒論を執筆することになっているのです。

もちろん、多くの学生は「たいへんやな〜」と思いつつも、とにかく頑張ることができる学生でした。いろいろです。ですが、とにくか最後は必死になって、取り組んでくれました。まあ、若干は…(^^;;。

龍大につとめて11年目になります。最初にそういう経験をさせてくれた1期生に、感謝です。その1期生と、年末に同窓会です。
楽しみにしています。

多重介護

20141116tajyukaigo.png ■視ることはできませんでしたが、11月10日のNHK「クローズアップ現代」は、「“多重介護”担い手たちの悲鳴」でした。非常に視たかったのですが、時間がありませんでした。以下のような内容です。

「実の親と義理の親」、「親と配偶者」など、1人で複数の家族を介護する“多重介護”。要介護者の増加と介護期間の長期化、そして少子化による介護者の減少を背景に急速に広がっている。しかし、要介護度が「2」以下だと施設への入所は難しい。また、「3」以上でも、特養ホームの費用が払えず、在宅で介護せざるをえない人も多い。医療や福祉も“多重介護”の負担を考慮して支える仕組みは少なく、事態は深刻化している。「日本ケアラー連盟」が4年前、全国2千人のケアラーを対象に初めて行った調査によると、実に25%が複数のケアを担っていた。「医療・介護は在宅で」という流れが進む中、どうすれば介護者の負担を減らすことができるのか。最新の調査から実態を浮き彫りにし、課題を検証する。

■NHKの「クローズアップ現代」では、放送した番組の内容を文字で読めるようにしたサービス「放送まるごとチェック」を行っています。「“多重介護”担い手たちの悲鳴」も、以下でご覧いただくことができます

■こうやっていつも番組を見逃しています。研究室には、17年程前に購入したテレビデオが1台ありますが、現状ではビデオテープを再生できるだけの機械になってしまっています。地上デジタル放送に対応していないからです。困りました…っていうか、買えばよいのですね。しかし、ずっとこれまで先送りにしてきました。やっと…です。「Panasonic DIGA ブルーレイディスクレコーダー 3TB HDD搭載ハイビジョン 4Kアップコンバート出力対応 DMR-BXT870」と「Panasonic プライベート・ビエラ ポータブル地上・BS・110度CSデジタルテレビ19v型 SV-PT19S1-K」が研究室に搬入されました。次は、これをどうセッティングするのか…ということですね。じっくり取り組む時間があるのかな…心配。

田中則夫先生

■水曜日は、午後から教授会、そして研究科委員会でした。研究科委員会を終えたあと、研究科長している関係で、教務課長と少し相談事をしていたのですが、そこに1人の先生が眼に涙を浮かべてやってこられました。「副学長の田中則夫先生が亡くなられました」と伝えてくださいました。田中先生は、今年の6月に末期の食道癌であることがわかり、それ以後、療養されていましたが、12日(水)の午後2時45分に、ご自宅でお亡くなりになったのでした。

■昨日は、田中則夫先生の告別式でした。田中先生とは、長く、深くおつきあいをさせていただいたわけではありません。4年前に研究科長に就任してからのお付き合いであり、それも全学の会議でお会いするときのお付き合いですから、あくまで仕事での関係ということになります。ただし、会議の場でいつも田中則夫先生のお人柄にふれてきたような気がします。とても誠実な方でした。普段のご様子は知的な紳士という印象でした。しかし、時に、理不尽な意見に対しては、はっきりとした口調で反論されました。副学長として大学の改革に懸命に取り組まれました。

■昨日の告別式では、たくさんの方が弔辞を捧げられました。一番最初は、赤松徹眞学長でした。弔辞を捧げられる赤松学長の背中しか拝見できませんでしたが、学長の声の調子からは、大変深く悲しまれていることが伝わってきました。告別式の最後に、喪主である奥様がご挨拶をされました。「研究・教育にも、学内行政にも、平和運動にも、いつも全力投入していました。そういう夫を大変誇りに思っています」。感動しました。先生のご専門は、国際法、海洋法でした。大変、学生思いの方でした。護憲運動や平和運動にも熱心に取り組んでこられました。田中先生は、ご自宅のリビングでご家族に見守られて安らかにお亡くなりになったとのことです。私は、奥様に抱きかかえられ、お子様たちにも手を握られ声をかけられながら亡くなった田中先生のことを想像しました。

■告別式では、心の窓を全開にして、告別式の「場」にあふれる多くの方達の哀しみと自分とを同期させました。とても悲しかった。涙があふれました。もともと涙もろいほうではありますが、このこときは一層悲しくなり、涙があふれました。告別式が終わり、最後のお別れをしました。棺のなかの田中先生は、会議でお会いしていたときとは異なり、一回り小さく見えました。「さようなら」。浄土に旅立たれた田中先生に最後のご挨拶をしました。田中先生のお好きだった「則天去私」という言葉の意味をかみしめながら、先生の棺を乗せた霊柩車をお見送りさせていただきました。

■告別式のあとは、1人で大津の街中をゆっくり歩きながら帰りました。長等の洋食「アケミ」に入りました。田中先生のこと、これからの大学のことをぼんやり考えながら熱燗2合を呑み、ロースとんかつ定食をいただきました。食事のあとは、街中をぷらぷら歩きながら知り合いの方と立ち話をしたり挨拶をしたり。そして、平井商店さんで「浅茅生」の「ひやおろし」を購入しました。奈良の自宅に帰宅したあと、亡くなった田中先生のこと、告別式の様子などを妻に説明しながら、熟成した「ひやおろし」を味わいました。

復活したメガネ

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■メガネ関連のアップが多くて申し訳ありません。本人にとっては、切実な問題でして…。こういうタイプの丸メガネって、なかなかないものですから。大変シンプルなチタンフレームです。大切に使います。

11月の全体授業「地域エンパワねっとⅠ」

20141114empower.jpg■今日は、地域連携型教育プログラム「大津エンパワねっと」コースの「地域エンパワねっとⅠ」の全体授業の日でした。それぞれ、地域に出て活動をして(まち歩き、地域の皆さんへのヒアリング、地域の会合への参加、資料収集…)、グループでこれからの活動方針やテーマについて話しあった結果を発表してもらいました。私が担当している中央地区(中央学区をはじめとする中心市街地エリア)のグループは、非常に悩みながらも、ぼんやりと自分たちが取り組むべきテーマが見えてきているのかな…という状況になりました(う〜ん…微妙ですけど)。以下は、私のメモです。メモですので、正確ではありません。すみません。私のコメントのようなものも一部含まれています。まだまだ学生たちの「課題探し」は、微妙な状況である…ということです。

■C01チーム「おでん」。まち歩きをして、気になるお店を何軒かみつけた。特色ねあるお店と、なにか一緒になにかできないかと思った。先輩の活動についても調べてみた。4期生「どんぐり」、5期生「わいるどもんきー」、6期生の「こけし。。「まちづくりカフェ」を手段として取り組んで来た先輩たちの活動に注目している。これを継承してみるのがよいのでは…と思っている。グループで話し合い、先生からもアドバイスをもらった。マンション住民の皆さんと元からお住まいの住民の方たちとの交流が少ないという話しも気になっている。これは、5期生「パズル」、6期生「メロン」の問題意識でもある。新しく来られた方たちに、「地元愛」を深めてほしいと思う。深めることで両者の交流の場が増えるのではないかと思う。先輩チームから、そして自治連合会の方から話しを聞いてみる。先輩からは、活動していたときの「つまづき」について教えてもらおうと思う。先輩はひとつのマンション自治会とだけ活動をしていたが、自分たちは、先輩の活動を継承しつつも、さらに一緒に活動できるマンション自治会を増やしていきたい。

■C02チーム「まりも」:まち歩きをしてみた。人が少ない。個々の商店は、店頭での商売以外にも、見えないところで商売をされていることや、シャッター降りていても、住宅としてお住まいのところもあることを知った。商店街の関係者にお話しを伺った。現在のお客さんは、地域になじみのある人たちだという。マンションの人たちは京都に出かける。イベントをして来客数は増えるが、その日限り。なんとかしたい。マンションの方たちにも親しんでいただける商店街にしたい。来年はアーケードが取り払われるかもしれない。それは商店街の発展でもあるかもしれないが、地域の思い出が消えていくことでもある。そのような街の記憶をどう考えたらよいのか。町家の保存についても、関係者に聞いた。空き家が増え、少しずつ取り壊されていっている。「エンパワ」の学生に、町家の保存に直接かかわることは難しいだろうとのことであった。ただし、からめていくことは可能とのことだった。いろいろチームで話しあったが、地域の人びとが商店街に愛着が持てるような活動がしたい。商店街の歴史、にぎわいの記憶。地域住民と一緒に、アーケードの改装について考えていけるような仕組みが。商店街の関係者からは、学生のアイデアがほしいといわれている。改装に関して、地域の方たち、新住民の方たちも関わることはできるのか。

■C03「A」:子どもが商店街にいないことに気がついた。子どもが地域を好きになるためには、街の中心にある商店街を好きになってもらうことが必要なのではと考えた。子どもの育成にかかわっている団体に相談した。一緒には活動できないが、協力できるといわれた。子どもと商店街をつなぐ活動。商店街の関係者は、最近になった引っ越して来た子育て世代に商店街に来てほしいといっている。昔は、「夜市」というイベントがよく開催され、子どもにも商店街は素敵な場所だった。商店街を子どもたちに知ってほしい。商店街のなかでの子育て教室、子どものあづかり活動。地域のニーズをさらに詳しくしりたい。

■C04「ぬりえ」:「鉄道」と「湖岸」をキーワードにまち歩きをした。反省点がある。地域の人たちに話しを聞いていないということ。「鉄道」、「湖」、「大津祭」をテーマにからめたいとおもっていたが、それは学生目線の考えでしかなかった。実際の、地域の人びとにとっての課題をみていない。私たちは、街中の青年層に興味をもった。一般に、青年層は、成長するにつれて地元への関心が低くなっていくが、この世代を対象にしたい。これから地元のために活動しようとする団体の方達と一緒に活動したい。まず話しを聞く。「大津発酵食の会」。地元の酒造会社、鮒寿司屋、漬物店の跡継ぎ世代による会。

■C05「みんと」:まち歩きをした。中央学区の「さよならの集い」の実行委員会に参加した。「子育連」の月例会にも参加した。どのような人がイベントに参加しているのか。宣伝方法。月例会等。イベントは開催しているが、中高生の参加率が低いらしい。関係者は、どうにかしたいといっている。そうするためには、地域の方達とのつながり。中高生を対象とした活動をしていきたい。中高生に地元を好きになってもらいたい。

■以上は、中央地区の5チームの報告です。この中央学区の報告に先立ち、瀬田東学区で取り組む報告もありました。メモはパソコンでとりました。最初は、きばってメモをとっていましたが、しだいに力つきでメモの分量が減ってしまっています…。写真は、今日の「エンパワ」の全体授業中に、各チームの報告を聞いてコメント(講評)をしているところです。エンパワ事務局の職員の方が撮ってくださいました。なんだか、柄の悪そうなおっさんが写っています。実態そのものかもしれませんが…。表情といい、肩の傾き方といい…。反省です。

ゼミOB来訪

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■昨日は、いろいろありました。午前中は、1人の社会人の方が大学院進学のことで相談に来られました。お仕事に関連することで研究をしたいとお考えのようで、いろいろお話しをお聞かせいただきました。興味深くお聞きしていると、「おおつ未来まちづくり学生会議」のメンバーが「期日が迫った報告会のパワーポイントの内容を確認してください…」と研究室にやってきました。それが終わったら、受託研究の事務処理です。購入した書籍や物品の整理と書類作成、そして研究部にいって検収を受ける作業等…ドタバタと続きました。昨日は寒かったのですが、キャンパスを動き回ったので、ちょっと汗をかいてしまいました。昼食を摂る時間もありませんでした。そのあとは、卒論の指導があったので慌てて研究室に戻ってくると、「せんせー!!」と呼びかける人がいました。振り返ると、ゼミのOBである卒業生のYくんでした。彼は、脇田ゼミ7期生、2012年の春に卒業しました。

■いや〜嬉しいですね。事前に連絡をもらっていなかったので、ちょっとびっくりです。Yくん、休暇がとれたので遊びに来てくれたのでした。7月にも突然卒業生のOGがやってきてくれましたが(こちらのエントリー)、「せんせー」といわれる仕事をしている人たちには、こういうサプライズはとても嬉しいものです。7月のOG来訪のさいには、申し訳ないですが十分に時間をとることができませんでした。昨日は、卒論の指導がおわると時間がとれました。ということで、Yくんには、卒論指導の場にもいてもらって、その後は、京都の伏見で呑むことにしました。いつもだと、大津駅前の居酒屋「利やん」ということになるのですが、伏見です。なぜ伏見かというと、2つ前のエントリーにもアップしたように、伏見の眼鏡店に行く必要があったからです。

■Yくんとは、伏見桃山にある月桂冠がやっている日本酒レストラン「京の台所 月の蔵人」にいくことにしました。なんといいますか、観光客向けのレストランなのかもしれませんが、それなりに美味しくいただきました。2人で日本酒をかなりいただきました。燗酒と冷酒とであわせて七合ぐらい呑んだでしょうか。月桂冠が経営されているので、タケノコの粕漬けなんてのもいただきました。美味しかったですね〜。酒とアテ、そしてYくんとの話しを楽しみながら、仕事のこと、学生時代のこと、同級生のこと…いろいろ話しを聞かせてもらいました。また、最近、考えることの多い学生の指導等や「北船路米づくり研究会」についても、いろいろ意見を聞かせてもらいました。Yくんたちは、「研究会」の1期生なのです。「月の蔵人」のあとは、近鉄・桃山御陵前のガード下のバールに。梯子酒です。ちょっと嬉しかったのは、「ここぐらいは、僕が出します。社会人ですから」といって支払いをしてくれました。話しをしているときの内容もそうですが、こういうちょっとしたことで学生の成長を感じます。嬉しくもあります。息子の成長を喜ぶ父親の気持ちに似ています。次回は、もう1人別のYくんも一緒に、大津駅前の居酒屋「利やん」で呑むことになりました。

伏見のタバコ屋

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■iPhone5で撮った写真です。ボケボケですが、ちょっと懐かしい雰囲気が気になったもので、撮らせていただきました。

復活・丸メガネ

20141113wakita.jpg ■少し前のエントリーでアップしていますが、愛用の丸メガネのツルが折れてしまいました。その理由、そして何故「丸メガネ」なのかということについては、「愛用の丸メガネが…」をお読みください。

■さて、当然のことながら、メガネのツルが折れてしまうとかけることができません。仕方がないので、読書やパソコンを使うときの、「中・近距離」のメガネをかけて過ごしてきました。私は、普段、この「中・近距離」のメガネと、「遠・中距離」のメガネの両方を使っていました。2つとも「遠近両用メガネ」を使用しています。けっこうな値段がします。そこで、ツルが折れてしまった「遠・中距離」のレンズを再使用できないか…と思ったのでした。

■実際、すごく不便なんです。たとえば、「中・近距離」のメガネでは、会議をしていても出席されている方達の顔の表情が見えません。これでは、たとえば司会をするにもすごくやりにくい…と思いました。その他の仕事にも、いろいろ支障をきたします。時間がとれたので、愛用のメガネを買った京都伏見区の眼鏡店まででかけることにしました。ずいぶん前に開発されたモデルらしいので、はたしてこのフレームが残っているのか…とても不安でしたが、なんとかメガネ復活しました!ギリギリのセーフ!残り2つだけ、同じモデルのフレームが残っていました。

亥の子(いのこ)

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■昨晩、facebookの投稿で、野洲市(旧・中主町)で「亥の子」という行事が伝承されていることを知りました。投稿された方がお住まいの地域にある4〜5集落で、伝承されているのです。

■そもそも「亥の子」は、古代日本に中国から伝わったものです。私自身は、そのことを、岩手大学で開催された劉暁峰先生(清華大学人文社会科学研究院歴史系)の講演で初めて知りました。劉先生は、次のように説明されました。「秦王朝から漢の初期まで使われた旧暦の十月を正月とする暦法が存在し、日本でも中国から伝わった『亥の子(いのこ)』の行事が行なわれているようだが、その行事はこの暦法と関係している」。この「亥の子」について、『日本民俗学辞典』では次のように説明しています。「旧暦十月のおもに初亥の日に行われる年中行事の一つ。西日本の農村によくみられるもので、収穫儀礼と結びついた伝承が多い。(中略)イノコヅキ(亥の子搗き)とも称して、瀬戸内海沿岸部などでは、ゴウリン(郷臨)石などという石につけた数本の縄を子供たち全員で持ち、地搗きをしながら廻る。…」。

■私は、子どものときに、この「亥の子」を経験しています。小学校6年生(1970年)のとき、私は広島市の東部にある農村地域(混住化していましたが)に暮らしていました。そのときに「亥の子」を経験したのです。写真の少年は、私です。私は神主・禰宜のような格好をしています。地域にあるお宅を1軒1軒まわり、まず家の入り口でお祓いをします。そのあと、後についてきた子どもたちと、「亥の子石」についた縄をもって、地面を搗きます。そのとき、「い~のこ、いのこ、い~のこ餅ついて~、繁盛せ~、繁盛せ~」と歌うのです。このあたりは、地域によっていろんなはパターンがあるようです。

■私が体験した広島の「亥の子」のばあいは「亥の子石」でしたが、地域によっては「藁鉄砲」(藁束を硬く縛ったもの)で子どもたちが地面をたたくこともあようです。冒頭の野洲市のばあいも、「藁鉄砲」とのことです。

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