龍谷大学深草キャンパス 課外活動施設(第2体育館〈仮称〉)起工式
■本日の午後、深草キャンパスの顕真館で、「龍谷大学深草キャンパス 課外活動施設(第2体育館〈仮称〉)起工式」が執り行われました。龍谷大学は浄土真宗本願寺派の宗門校であることから、起工式ももちろん仏式です。右の写真は起工式の次第です。「讃仏偈」の「偈」とは、讃歌の意味なのだそうです。阿弥陀如来の前身である法蔵菩薩がおっしゃったお言葉です。法蔵菩薩が師でもある世自在王仏を讃え、自ら世自在王仏のような仏に成りたいと述べ、仏と成るために様々な修行を実践し、すべての人びとを救うために浄土を建てることを誓う…そのような内容なのだと、以前、勉強して知りました。
■ところで、日本の社会では、多くのばあい起工式は神式で執り行われますね。私は、仏式の起工式は初めて参加させていただきました。仏式でも、神式と同じく、鍬入れの儀が行われました。盛砂に、鍬、鋤、鎌を入れる儀式です。このあたりの形式はいつ成立したのか、よくわかりません。キリスト教系の大学ではどうかと少し調べてみましたが、牧師が式を執り行い、神式と同様に盛砂に、鍬、鋤、鎌を入れる儀式を行っていました。おそらくはこのような儀式は神式が起源かと思いますが、そのような儀式が、仏教やキリスト教にどのように受容され、現在の形式におちついたのか。ちょっと、知りたいと思いました。
【追記】▪︎この起工式は、一般には地鎮祭と呼ばれてきました。この地鎮祭のなかで、盛砂に、鍬、鋤、鎌を入れる儀式は、「穿初め(うがちぞめ)の儀」と呼ばれています。神社本庁の公式サイトの説明は以下の通りです。
地鎮祭とは、建物の新築や土木工事の起工の際などに、その土地の神様を祀り、工事の無事進行・完了と土地・建造物が末長く安全堅固であることを祈願するために、おこなわれる祭りです。
一般には「じまつり」などとも呼ばれ、国土の守護神である大地主神(おおとこぬしのかみ)と、その地域の神様である産土神(うぶすなのかみ)、またその土地の神々である「此の地を宇志波伎坐(うしはきます)大神等」をお祀りします。
▪︎本文と同じ繰り返しになりますが、このような神道に起源を持つ「穿初め(うがちぞめ)の儀」が、仏教やキリスト教の起工式にも取り入れられていることです。どういう経緯でそのようなことになったのでしょうね〜。興味があります。私の推測ですが、建設業務にあたる関係者の皆さんが、建設中の安全祈願を願うささいに、この「穿初め(うがちぞめ)の儀」に強くこだわってこられたからではないか、と想像しています。そのような強い関係者の希望を、仏教やキリスト教の関係者は、どのように受け止めたのか。まあ、そのあたりのことですね。
▪︎「穿初め(うがちぞめ)の儀」では、施主である大学を代表して学長が、それから設計事務所の方と建設会社の執行役員の方が、それぞれ鍬・鋤・鎌を盛砂に入れる真似事をされました。そのさい「エイ、エイ、エイ」と3回叫ばれます。建築会社の執行役員の方の声が、一番大きく、力がこもっていて様になっていたような気がします。うちの学長は、声も少し控えめだったかな。
大宮キャンパス
▪︎昨日も深草で研究部の仕事でした。午前中は、今日開催される常任理事会(部局長会)の前段階の会議で、研究部関連の報告を行いました。そして、昼からは、校舎が重要文化財になっている大宮キャンパスに、研究部の部課長のお2人と向かいました。この4月に設立された「世界仏教文化研究センター」の会議に出席するためです。私自身は、この会議のメンバーではなくオブザーバーです。なんだかんだと、研究部の仕事は続きます…。
▪︎しかし、この大宮キャンパスは、いつ来ても気持ちが良いですね。「気持ちが引き締まります」。「大宮学舎」と呼んだほうが相応しいようにも思います。写真は、縦横の歪みが出ていますが、「気持ちが引き締まる」ということ意味が伝わるでしょうか。ここは、龍谷大学発祥の地でもあります。中央に見えるのは、本館です。国の重要文化材に登録されています。1879(明治12)年に竣工しました。その右は、校舎です。北黌(ほっこう)と呼ばれています。本館をはさんで南側には、南黌(なんこう)があります。こちらも国の重要文化財です。なにか「大学の精神」のようなものが濃厚に感じ取れるがゆえに「気持ちが引き締まる」のです。大宮キャンパスから深草キャンパスに戻るさい、一緒だった事務部長のTさんが、正門で講堂のある本館にむかって一礼されました。「なるほど…」と思い、私も、Tさんの一礼に習って頭を下げました。
【追記】(2015/07/15)■T部長に、どうして「正門で一礼」されるのかお聞きしてみました。「正門の講堂の中には、ご本尊である阿弥陀如来像が安置されているから」ということでした。なるほど。阿弥陀如来像を安置した講堂のある本館を囲むように、重要文化財である北黌(ほっこう)と南黌(なんこう)、そして西黌や西黌別館が配置されています。そのことが、この大宮キャンパスを聖なる空間に、清々しい空間にしているのでしょう。そして、それに加えて、そこにこの大学の「精神」のようなものが宿っているようにも思えるのです。出身者ではない者の、個人的な感想ですけれど。
素敵な理髪店
▪︎急に「飛蚊症」のような症状が現れました。糸くずのようなものが、目のなかに見えるのです。まわりの人たちから、一度、眼科で検診を受けたほうがよいと強く勧められたこともあり、月曜日、研究部の会議を早めに退席させていただき、大津市内の眼科にいってきました。結果ですが、生理的なもの、つまり加齢にともなう自然な現象で、病気が原因ではないので安心しなさいという診断でした。で、この糸くずのようなものはどうなるのか、消えないのだそうで。まあ、慣れるしかないとのこと…。ちょっとため息が出ますね。まわりの方たちにうかがうと、結構な人数の方たちが「飛蚊症」だということがわかりました。どの方も、最初は気になるけれど、次第に慣れてきて気にならなくなる…とのことでした。まあ、そういうものなんですかね…。ああ、しかし歳を取るとは困ったもので。
▪︎眼科からの帰り、お気に入りの建物にむかってみることにしました。理髪店です。木製の店名が少し剥がれていますが、「松本理髪館」と読めます。通常は左横書きでのところですが、こちらは旧時代の書き方で右横書きです。窓の大きさ。入り口の扉。壁の色。そして理髪店特有の可愛らしいサインポール。私の基準からすると、完璧です。とっても素晴らしい建物です。オシャレです。建物の前には、様々な鉢植えが並んでいます。その鉢植えが、また建物の魅力を引き出してくれているように思います。私は、この建物がとっても気に入っているのです。眺めていると、心が落ち着いてきます。もっとも、もうすでに廃業されています。最後の店主さんも、すでに亡くなられたと知人から聞かせてもらいました。子どもの頃から、この「松本理髪館」に通っておられたそうです。ちなみに、子どもの頃に髪を刈ってくださったのは、亡くなった店主さんのお父様とのことでした。こういう理髪店、街のなかからどんどん消えていっていますね。
ラジオ体操第3
▪︎瀬田キャンバスの書店の前を通ると、このポスターが貼ってありました。おそらく、前から貼ってあったと思いますが、私が気がついていなかっただけかも…です。
▪︎「ラジオ体操」といえば、「第1」と「第2」になるわけですが、昨年「ラジオ体操第3」が存在していたことが大きく報道されました。龍谷大学社会学部の安西将也先生と井上辰樹先生が復刻されたことで、一躍話題となりました。ことの始まりは、2013度から東近江市と龍谷大学が連携して始めた「こころとからだの健康教室」において、この「ラジオ体操第3」が取り入れられたことにあるそうです。資料が十分にないなか、安西先生と井上先生が、残された音源と動作の解説図を頼りに復刻されたのだそうです。そして、とうとう解説本も発売されるに至りました。DVD付きです!!
▪︎こういう解説をネットでみつけました。
【ラジオ体操第3の特徴】
●第1、第2より複雑でダイナミックな11種類の動作で、第1運動から第16運動で構成
●第1、第2に比べ運動の強度が高い
●「動作が難しくて1回では覚えられない」「テンポが速い」ので、覚えられるといっそう楽しく、積極的に続けることができる
●生活習慣病やうつ病の予防に効果が期待できる運動強度の強い体操
①急激に心拍数をあげないで徐々に心拍数を上げていること
②第3運動から第16運動まで110拍/分から150拍/分の間の有酸素運動域の心拍数をキープしていること
③第12運動あたりから徐々にクールダウンし、身体に負担をかけないように、健康に配慮したプログラム構成となっていること
▪︎私のようなおじさんには、なかなかハードそうですが、健康にはとてもよさそうですね。
夕暮れの瀬田キャンバス
▪︎この4月から、自分の研究室で研究する余裕がほとんどありません。深草キャンパスでの研究部の仕事が多く、瀬田キャンパスにいることが極端に少なくなりました。しかも瀬田キャンパスにいたとしても、そのほとんどは授業や学生の指導にあてられます。深草に研究室があれば、もっと状況は異なっているのでしょうが、私のばあいは、瀬田と深草の2つのキャンパスを移動しなければなりません。その移動にも時間を取られてしまいます。なんとかしたいのですが、今のところ、その状況を改善する方法をみつけられていません。
▪︎ということで、昨日は土曜日でしたが、仕事をしに研究室に向かいました。晩は、帰省する息子をまじえて外食をする約束になっていたので、19時半前に研究室を出て瀬田キャンパスのバス停に向かいました。研究室のある2号館を出ると、外は、この写真のような美しい夕暮れになっていました。19時半頃でも、まだこの明るさがありました。夏至を過ぎたばかりですからね。この夕暮れですし、土曜日で誰もいませんから、辺りにはちょっと幻想的な雰囲気が漂っていました。昨日は、全国的にも美しい夕暮れを観察することができたようですね。皆さんは、夕暮れの美しさに気付かれましたか?この写真は、「iPhone6 plus」で撮りました。手軽な「道具」ですが、それなりに満足のいく写真を撮ることができます。
他人はどうあれ力
▪︎ヒビノケイコさんという方がおられます。「日々の稽古」というふうに聞こえます。ペンネームでしょうか。それとも、本名で、漢字は日比野恵子さん…だったりして。どうなんでしょう。それはともかく、ヒビノさんが出版された本をamazonで調べたところ、以下のようなプロフィールの方でした。
1982年大阪生まれ。京都精華大学芸術学部卒。山カフェ・自然派菓子工房ぽっちり堂オーナー。 四コマエッセイストとして執筆。
移住支援活動をする夫と全国での講座や田舎ツアーを行う。21歳の時、地に足がついた暮らしとそこから湧き出す表現を求め、京都郊外のお寺を借りて自給的な暮らしをスタート。
2006年出産を機に、さらに腰を据えて生きようと高知県の山奥へ移住し「自然派菓子工房ぽっちり堂ネット店」をopen。 「家庭×仕事×地域」のバランスを大切にアートを生かした経営を目指す。
山奥ながらも「わざわざ行きたいカフェ」として人気店に。50件以上のメディアや書籍で紹介される。コミュニティデザイナー山崎亮氏との出会いを機に講演活動をスタート。
2014年~作家活動を中心にすえ、新しい時代に必要な視点を地域から発信している。
▪︎とてもユニークのプロフィールの方ですね。すごく行動力もある方のように思います。ヒビノさんの『山カフェ日記~30代、移住8年。人生は自分でデザインする』を、一度読んでみようと思います。
▪︎今日は、そのヒビノさんのブログの記事を紹介しようと思います。学生の皆さんにとって、とても大切な指摘をされているからです。「ヒビノケイコの日々。人生は自分でデザインする。」というブログの「大学生は「他人はどうあれ力」を身に付けよう。ポーズをとらず、素直にガンガン物事に向かう子を育てたい」というエントリーです。冒頭には、こう書かれています。「最近、色々な大学での講座や、大学生に関わることが多くて、その中で感じることがあります。とにかく学生さんの差が激しいってこと。やる気があり一生懸命物事にむきあって突き進んでいく子と、なんとなく周りに流されて、ポーズをとってるうちに卒業しそうな子」。多くの大学教員の皆さんが感じていることかもしれません。
▪︎ポーズをとる…とは、どういうことなのてしょうか。このような例でヒビノさんは説明しています。
例えば、発表のプレゼンを見ていても、意識一つで全くありようが違う。自分にしか意識がいっていない子は、リサーチも考察も行動も深くやっていない時点で発表の舞台にたっちゃう。そして、ダルそう、テキトウ、まとまってない話をきかせる、かっこつけてる、なめてる・・・というような態度をとってしまう。聴いている方にとっても結構大変だし、先生も「ちゃんと話なさい」と小学生に言うようなことしかアドバイスできなくなります。
反対に、ちゃんとリサーチ、考察、行動、思索をし、発表も工夫して話す子もいます。ちょっと何かが抜けてても、下手でも、やっぱり熱量をかけてきている子は一目でわかるもの。背筋を正して話をききたくなるし、先生も掘り下げたアドバイスをどんどんしたくなる。だからどんどん伸びていく。
両者の違いは、
・主観だけで自分のことにしか意識が向いていない
・客観性も持ち合わせていて相手のことも考えてる、の差。
そして、「相手は、時間とエネルギーをかけて聴いてくれている」という意識があるかないか。
「他人の目を気にしない力」ってすごく大事なんじゃないかな。これも多くの学生さんをみていて思うこと。
「他人がどうしてるか?どんな姿勢で態度でやってるか?」を気にして合わせてると、実は学外に出たとき、自分までレベルの低い状態に染まっていたことに気がつきます。
▪︎プレゼンがうまくいかなかったときのことを恐れる。自分だけが頑張っていると周りから見られるのは嫌だ。だから「ポーズ」をとって、あるいは周りの「ポーズ」と同調することで、なんとか自分を守ろうとする…ということなのでしょうね。「ポーズ」を取り続けることで、その場その場の自分はなんとか守れるけれど、結局、自分を成長させていくチャンスを失ってしまのではないか、それでよいのか…というわけですね。以下は、ヒビノさんがまとめたポイントです。
■大学生。これがぎりぎりのチャンスと思って姿勢を変えよう
1、自分のちっちゃいプライドにこもらず、相手のこともみえる客観性を持つ
2、ちょっと下手でもいいから、とにかく熱量をかけてやりきる
3、かけた熱量に対応して、アドバイスの質はかわる
4、姿勢のいい子と悪い子の差が大きい。だから逆に、いい子は今めっちゃ得で引き上げられます。
▪︎このヒビノさんのエントリーでは書かれていませんが、私が気になっていいることがあります。それは、関心があるわけでもないのに、「なくとなく」「とりあえず…」と、様々な資格取得の講座やインターンシップに参加して、疲れて果てている学生の皆さんのことです。いろいろ経験することは大切ですが、ただ将来に対する不安を少しでも減らすためだけに参加しているのであれば、時間がもったいないような気がします。エネルギーが分散して、けっきょく、どれも中途半端になっていないか、とても気がかりです。「周りが参加しているので…自分も参加しないと…」といった不安に襲われる。そういう気持ちを聞かせてもらったこともあります。このような場合にも、「他人の目を気にしない力」が必要になるのかもしれません。
京都のラーメン(5) 中華そば 萬福 京都駅前店
▪︎水曜日のことになります。深草キャンパスでの会議を終え、瀬田キャンパスの会議に移動する途中、京都駅前(少しだけ歩きますが…)の「中華そば 萬福」にいってみました。写真の「特製ラーメン」の薄切りチャーシューの方を頼んでみました(厚切りチャーシューもあるみたい…)。メニューの写真をみたとき、はたしてこの「量」を食べられるのか…と心配しましたが、店主さんがや「大丈夫、大丈夫」とおっしゃるので注文することにしました。この九条ネギの下にモヤシも入っています。さらにその下にある麺とモヤシと九条ネギを一緒にいただくわけですね。満足いたしました。あまり「肉食系」ではないのですが、この薄切りチャーシューは問題なくいただくことができました。店主さんが最後に、笑顔とともに「ほらね、大丈夫やったでしょ。ありがとうございました」と見送ってくださいました。そういえば、こちらの「中華そば 萬福」さん、以前は、深草キャンパスの近くにありました。
京都駅の売店(駅弁)
▪︎写真だけにしようかと思いましたが、文書も付け足しておきます。これは、JR京都駅30番線、関西空港に向かう特急「はるか」の乗り場の近くにあります。なぜ、こういう駅弁屋さんを撮ったのか…と質問されても、困ります。撮りたかったから撮った…としか、言いようがありません。写真って、そういうものですから。
▪︎この写真をfacebookにも投稿しました。すると、知り合いのNさんが、「撮り方にmasa-izmを感じます。わかる人だけ限定なコメントですが、、、」とコメントをしてくださいました。masaさんは、親しくさせていただいている東京在住の写真家です。「Kai-Wai散策」というブログを運営されています。masaさんから、見よう見まねでいろいろ教えていただきました。少し写真の撮り方に気を使うようになりました。このような写真の撮り方は、masaさんの影響が確かに大きいと思います。
初夏の深草
▪︎今日は、朝一番で深草キャンパスに向かいました。大学の執行部の会議で、研究部関連の報告をすることになっていたからです。私の報告時間は10分程度なのですが、大学の大切な会議ですので行かないわけにはいきません。ああ、社会学部のある瀬田キャンパスがもっと近くになあったらな〜…と思うのですが、これも仕方がありません。会議のあとは電車に乗って瀬田キャンパスに移動です。昼からは、「大津エンパワねっと」の運営会議、そしてその後は博士論文の草稿報告会があります。ごくわずかの時間ですが、息抜きもかねて、ちょっとした「まち歩き」をしてみました。テーマは、「初夏の深草」。初夏らしい風景をいろいろ探してみました。
▪︎写真を少し説明。トップは、琵琶湖疏水にかかる橋です。橋の名前は…、こんど調べておきます。なかなか、素敵な風景ですよね。しばらく眺めていると、ジョギングをしている人が通っていきました。「ちょっと、エエ感じかな」と思い、iPhone6で撮ってみました。縦横の歪みの問題があるのですが、けっこうiPhone6のカメラは優れていると思います。2段目の左、琵琶湖疏水沿いの樹木。右は、クリーニング店前の鉢植えの紫陽花です。鉢植えでも、ここまで立派になるなんですね。前を通る方たちの目を楽しませてくれます。ありがたいことです。そして、右の写真は、マツバギク。南アフリカ原産らしいですが、高温や乾燥に強く、大きい群落になるので、路地の花壇や石垣などにしばしば栽培されるそうです。この花に関しては、特に初夏は関係ないのかも…です。
シュテファン・ツヴァイクの『書痴メンデル』
▪︎以下は、facbookに投稿したものに、少しだけ加筆したものです。
———————-
▪︎通勤の電車のなかで、学生時代の英語のN先生のことが、どういうわけか記憶の奥底から浮かび上がってきた。N先生は、厳しいことで有名だった。私のいた関学の社会学部には、英語のN先生、ドイツ語のH先生、フランス語のK先生が厳しいことで有名だった。3人あわせて「社会学部のNHK」と学生からは呼ばれていた(K先生は、噂ほど厳しいとも思わなかったが…)。
▪︎思い出したのは、N先生の授業で使われていた小説である。シュテファン・ツヴァイクの『書痴メンデル』。ツヴァイクはオーストリアのユダヤ人だから、原文はドイツ語だ。それを英訳したものがテキストに使われていたのだ。今時の大学だと、教養教育で使うテキストではないような気がするが、どうだろうか…。
▪︎大学2回生だった私たちが、英文の『書痴メンデル』をスラスラ読んでいたかというと、全然違う。ある意味、耐え難きを耐え、忍び難きを忍び、仕方なしに辞書を引きながら苦労して読んでいた。テキストは、書き込みでいっぱいだったように思う。
▪︎『書痴メンデル』のあらすじ。書痴。現在ではあまり使わない言葉だ。「読書ばかりしていて世事にうとい人。書物収集狂。ビブリオマニア」という意味だ。記憶のなかにある「あらすじ」。ヤーコブ・メンデルは、本に関することはすべてを知っている。どんな情報でも、彼に聞けばスラスラと出てくる。そういう人物だ。しかし、彼は、第一次世界大戦が起きていることを知らない。世の中大騒ぎなのに、自分の頭のなかの本の世界に埋没している。世の中からズレているのだ。ズレているので、本の問い合わせで敵国に手紙を送ってしまう。そのことからスパイと疑われて逮捕される。知識人に尊敬されていたメンデルだっだか、そこから彼はどんどん転落していく…。おそらくは、授業ではテキストを全部読み通していないと思う。後半のあらすじは、後付けの知識のようにも思う。
▪︎多くの読者は、メンデルのことを滑稽だと思いつつも、彼が転落していく人生を通して、生きることの深い哀しみを感じるだろう。小説を読み進めていくうちに、哀しみが自分の体に染み込んでくるような…、そんな感覚に陥るだろう。もちろん、大学2回生の私たちに、そのような話しなど理解できるはずもなかった。『書痴メンデル』、私たちはN先生から英語のテキストを読まされたが、優れた翻訳も出ているので、手にとってお読みいただければと思う。
▪︎こんな細かなことも思い出した。小説のなかに、レジスターが出てきた。スーパーのレジにある、あの機械だ。ある学生が「レジスター」と訳したら、N先生は許さなかった。正しくは「金銭登録機」というのだと訂正をさせた。困惑したその学生。気の毒に思った私…。段落ごとに、順番に学生が翻訳をしていく。そういう授業だった。
▪︎N先生は、関学のあの「スパニッシュ・ミッション・スタイル」の明るいキャンパスが大嫌いだった。ご本人は、関学のご出身だったのだが。そのあたり、どうしてなのかわからない。能天気にテニスだスキーだと遊び惚けている学生たちに厳しかった。N先生のなかでは、「あるべき大学像」があったのかもしれない。
▪︎ところで、どうして通勤電車のなかで、N先生のことや、ツヴァイクの『書痴メンデル』のことを思い出したのか、自分でもよくわからない。N先生のことや、彼の授業が好きだったわけではないのだが、自分の記憶というよりも身体のなかに残っているのだ。不思議だ。大学改革が声高に叫ばれている。議論はいろいろだが、このような経験も、年をとってからも反芻することのできる経験が、今の大学には必要なのではないのか…と、ふと思ったのだ。