鳴門の第九100年 都内でフラッシュモブ
■日本の年末は、「第九」(ベートーベンの第九交響曲「合唱付き」)ということになります。確か、戦後の話だったと思いますが、どこかの楽団の団員のボーナス(餅代)を稼ぐために年末に始まった…と聞いたことがあります。どうなんでしょう。ということで調べてみました。すると、すぐにこんな記事が見つかりました。帝京科学大学の石橋裕子先生の解説です。以下に、引用してみます。
日本での初演は、1918年6月1日、徳島にあった捕虜収容所で、第一次世界大戦の青島攻略戦で捕虜となっていたドイツ人たちによって演奏されました。
太平洋戦争の敗戦後、どのオーケストラも財政難でした。そんな中、日本交響楽団(現NHK交響楽団)が1947年12月9、10、13日にレオニード・クロイツァー指揮で3夜も第9の演奏会を開催して観客を集めました。これを「その手があったか」と他のオーケストラが真似し、その後設立されたオーケストラも右へならえしたのが、「年末の第九」の始まりだといいます。つまり、「餅代稼ぎ」で演奏されていたのです。
「第九」には、オーケストラのほかにコーラスも参加するので、出演者の総人数がとても多いです。その出演者たちの知人が客として来れば、普段より多くの来場者が期待できます。コーラスもプロを雇ってしまうとコストはかさみますが、学生などのアマチュアに頼めば出演料もあまりかからず、オーケストラの収益はアップします。年末に演奏され始めた1940年代後半、「第九」はとても人気のある曲でした。第二次世界大戦直後の日本はとても貧しく、多くの人が苦労をしていたので、『歓喜の歌』の名前でも親しまれる前向きなイメージの「第九」のメロディが、日本人の心をとらえたのではないかと言われています。
■なるほど…です。で、3年前にアップされたYouTubeの動画を貼り付けます。
「全ての人々は兄弟になる」―。ベートーベン最後の交響曲「第九」は人類愛など、希望に満ちたメッセージを世界中に送り続けてきました。この第九を日本、そしてアジアで初めて奏でたのは、第1次世界大戦中のドイツ兵捕虜でした。1918年6月1日、場所は徳島県鳴門市の板東俘虜(ふりょ)収容所。敵国で、捕虜たちはなぜ第九を演奏できたのか。そこには心温まる〝奇跡〟のような史実があります。9月13日、そのことを伝えたくて、東京・二子玉川で鳴門の市民合唱団を含む関係者が、高らかに歓喜の歌声を響かせました。
指揮】平井秀明 【演奏】東京アカデミック管弦楽団
【合唱】 日本合唱協会、平井秀明オペラ合唱団、徳島『第九』合唱団、会津『第九』合唱団、公募有志 約80名
【阿波踊り】娯茶平(徳島)、飛鳥(東京 高円寺)約60名
【主催】徳島新聞社、福島民報社
■このフラッシュモブのイベントは、日本で初めて第九が演奏されたのは徳島県(鳴門)であり、鳴門の板東俘虜収容所の所長であった松江豊寿(1872年7月11日- 1956年)さんが福島県の会津若松の出身であったことを、広く知らせるために開催されたようです。wikipediaの情報ですが、松江豊寿さんは、「ドイツ人の俘虜達に人道に基づいた待遇で彼らに接し、可能な限り自由な様々な活動を許した。賊軍としての悲哀を味わった会津藩士の子弟に生まれた体験が、大きく彼の良心的な人格形成に影響したといわれる」…そうです。素敵ですね。今回、松江豊寿のことを初めて知りました。
■ところで、この動画の中では、第九の4楽章で徳島の阿波踊りが登場します。最初は、ちょっとびっくりしましたが、なかなか、どうして、不思議なものですね、面白いなと思ってしまいました。このイベントでは、最後に、福島県いわき市のフラダンスチームも参加されたようです。
上野耕平さんが来学
こんばんは。
本日は定期演奏会1部のゲストであるサックス奏者の上野耕平さんをお迎えして、合わせ練習を行いましたヽ(^o^) pic.twitter.com/dUPZ2P8qp9— 龍谷大学吹奏楽部 (@ryu_windmusic) December 9, 2019
■昨日は、龍谷大学吹奏楽部の第46回定期演奏会の1部で、ゲストとして演奏してくださるサックス奏者の上野耕平さんが来学され、部員と「合わせ練習」をおこないいました。当初、私も練習を見学させていただく予定でしたが、諸般の理由から残念がら行くことができませんでした。私が担当している2回生の基礎ゼミナールに吹奏楽部の部員がいますが、とても素晴らしい演奏で感動したと連絡をしてくれました。私も聞きたかったな〜。もちろん、本番ではしっかり聞かせていただきます。楽しみです。
■練習の後は、サックスパートの部員を中心に上野さんを囲んで食事会があったようですが、あとで聞いた話では、とても興奮されていたようです。みんな色紙やCDをもっと上野さんにサインをお願いしていたとのこと(笑)。部員の皆さんのお気持ち、わかりますよ。たぶん、サックスのケースにもサインして頂いたんでしょうね。いいですね〜。
日本の年次・性・年齢別人口ピラミッド
■「日本の年次・性・年齢別人口ピラミッド」という動画を偶然見つけました。1920年(大正9年)から2065年までの人口ピラミッドの変化がよく理解できます。こうやって刻々と変化していく人口ピラミッドを眺めていると、日本の将来に対してリアルな感覚を持つようになります。この動画がいつの時点でまとめられたものかわかりませんが、もちろん、将来のことは推計値になります。こうやって変化を見ていくと、日本の行末がどうなるのか、不安になります。
■動画の始まりである1920年(大正9年)頃は、人口ピラミッドは富士山のような形をしています。総人口は「55,963,000人」(5千5百96万3千人)。正確な数値はわかりませんが、戦前は平均余命が50歳以下になります。私は人口問題に関して深い知識をもっているわけではありませんが、衛生面での知識が普及する以前、水道や冷蔵庫が普及したり医療の発達する以前は、人は簡単に死んでいたのではないかと思います。子どが生まれたからといって、健やかに成長してくれるとは限りません。たくさん生まれるけれど、たくさん死んでいく…ということになるのかな。裾野の広がる人口ピラミッドの背景には、そのような社会の状況があります。私の母の場合、兄弟姉妹は4人生まれたわけですが、そのうち2人は小さい頃に亡くなっています。おそらくは、当時の一般の人びとの「死生観」も、今とは大きく異なっていたと思います。そのような「死生観」は、「人は簡単にあっという間に死んでいく」という感覚とともにあったと思います。
■1920年の大正時代から昭和時代に移行すると人口は増加していきます。人口ピラミッドも富士山のような形のまま増加していきます。しかし、その富士山が崩れる時があります。第二次世界大戦で、若い男性の国民が徴兵され戦死されたたからです。人口ピラミッドの男性の側、20歳から30歳までのところがえぐれるような形でへこみます。恐ろしいです。しかし、そのへこみも第二次世界大戦後には回復していきます。それと同時に、一番下の年齢層が急激に増加していきます。第一次ベビーブームです。
■この動画では、その後、1967年頃に総人口が1億人を超えます。1970年代に突入すると前半で再び一番下の年齢層が急激に増加します。第二次ベビーブームです。第一次ベビーブームの子どもの世代です。しかし、第一次ベビーブームほどではありません。第一次ベビーブームの頃、合計特殊出生率は「4.3」でしたが、第二次ベビーブームの頃は「2.14」になっています。とはいっても、このままいくと、次の世代で子どもが生まれると「第三次ベビーブーム」が起きてもおかしくありません。しかし、現実にはそうはなりませんでした。一貫して合計特殊出生率は減り続けました。第一次と第二次の間、高度経済成長の期間中で、一瞬ドスンと合計特殊出生率が減った年がありました。1966年です。合計特殊出生率は「1.58」になりました。なぜ減ったかというと、この年は歴でいう「丙午(ひのえうま)」にあたる年でした。「丙午に生まれた女性は気性が激しく夫の命を縮める」という迷信があったためです。今の学生の皆さんは信じられないかもしれませんが…。
■で、第三次ベビーブームについてですが、第三次ブームが起きてもおかしくない2000年になっても、やはり合計特殊出生率は減り続けました。2000年の合計特殊出生率は、「1.57」です。「丙午」の「1.58」よりも低くなってしまったのです。「1.57ショック」と呼ばれています。未婚・晩婚化だけでなく、その背景にあるのは経済問題が重要です。細かな違いまで視野に入れると様々な主張があるようですが、ここでは、教育社会学者の舞田敏彦さんの解説をご紹介しておきます。「来なかった第3次ベビーブーム」です。
■動画に戻りましょう。2008年の1億2,808万人をピークに、日本の人口は減少に転じていきます。そして、2020年になると、つまり来年ですが、第一次ベビーブームの人たちが「70歳〜74歳」になり、第二次ベビーブームの人たちは「45歳〜49歳」になります。このあたりからは推計値です。当たり前と言えば当たり前ですが、第一次ベビーブームの世代の皆さんは、少しずつ人口が減っていきます。そして、2030年頃には消えていきます。お亡くなりになると考えられるからです。私はこの第一次ベビーブームの人たちよりも約10歳若い世代ですが、私の世代もやがて消えていきます。第二次ベビーブームの世代の皆さんはどうかというえば、2050年頃を境にピークが曖昧になりやがて消えていきます。この頃の人口ピラミッドは、棺桶のようです。棺桶といっても、日本の葬儀の際に用いられる棺桶ではなく、欧米の棺桶の形ですね。ホラー映画で、ドラキュラが眠っている棺桶と言えばわかりやすいかもしれません。
■動画は2065年まで、その続きはわかりません。2065年の人口は、「88,077,000人」、「8千800億77万人」です。これは一定の前提に基づいて推計された数値だと思いますが、現実には、環境問題や大災害の発生、あるいは世界的な経済破綻により、人口はもっと減少していくかもしれません。経済破綻、財政破綻から福祉や医療に関する行政サービスがどんどん低下すれば、今後も寿命が伸びていくとは限りません。
■私の孫は来年3歳になります。2065年、孫は48歳です。私は生きていれば107歳ですが、もちろん生きているはずもなく、平均寿命まで生きるとすれば2040年までには死んでいることでしょう(病気でもっと早くに死ぬよな気がします)。孫が本格的な高齢になったときに、はたして日本はどのような社会になっているのでしょうか。そもそも日本は存在できているのか。そのあたりも不安です。学生の皆さんの年齢は、2065年には60歳代半ばになっていますね。そのような先のことを考えても仕方がない…そう思う人も多いかと思います。確かに、私が学生の頃を思い返しても、同じように考えていたかもしれません。しかし、社会の状況は大きく変わってしまいました。備える必要があると思います。
最近の体調と
■この前の日曜日の晩のことになりますが、まためまいが起きてしまいました。メニエール病です。例によって、です。ストレス→背中・肩の凝り→首の強い凝り→血行とリンパの流れが悪化→頭痛(頭蓋骨の外側)→内耳に影響→難聴→めまい…という流れになります。月曜日は、耳鼻科で診察を受けました。家族に車で送り迎えをしてもらいました。いやはや、困ったものです。もっとも、突然にめまいが起きるわけではなく、耳鳴りや難聴等の前兆がありますので、まだ対応できます。歳をとると、いろいろ出てきますね〜。耳鼻科のお医者さんも、これで3回目。「あっ、また来たん」という感じでした。毎回、聴力検査して、薬を処方してもらうだけです。血行を良くする薬とめまいを止める薬です。
■再発したメニエール病についてfacebookに投稿したところ、多くの皆さんに、励ましやアドバイスのコメント・メッセージをいただくことができました。ありがとうございました。もう、おじいさんの部類の入る年齢になりましたが、この年でメニエール病になるとは思いませんでした。また、メニエール病って女性に多いと思っていましたが、私のようなおじいさんもなるんだなと、ちょっと驚きました。いただいたコメントでは、「一病息災」(まったく健康な人よりも、何か一つくらい軽い病気を持っている人の方が健康に気を使うので、かえって長生きするものだ)というお言葉もいただきました。可愛がっている初孫が成人した時に、一緒に呑みに行くことが人生の大事な目標なので、そこまで、なんとしてもしっかり生きていたいと思います。facebookを通して、身近な方達から、有名な方達まで、いろんな方達がメニエール病に悩んでこられたことを知ることになりました。みんな、「メニエル友」ですね。頑張りましょう。
■さて、今日の出来事になります。メニエールの耳鳴りや目眩を薬で抑えていたけれど、京都の北にある総合地球環境学研究所で開催される会議はネット(zoomというやつ…)でなんとか対応させてもらいました。夕方はどうしてもリアルに会わないといけない会議があり、大津駅前の「カレンダー」へ。
現在申請中の特定非営利法人「琵琶故知新」の会議です。来年早々には、登記できるかなという段階になりました。公式サイトも立ち上げるので、いろいろ細かな事を打ち合わせ行いました。こういうことは、ネットではできないんです…私の場合。ということで、特定非営利法人「琵琶故知新」を設立するコアメンバーとは、リアルに月一で会って会議をすることになりました。また、毎週ネットの会議をするということにもなりました。情報弱者に成りかけているように思うので、果たしてついていけるかな…と心配です。
■まあそのようなこともあるのですが、写真を見ると、季節柄、サンタクロースのアルバイトができるような感じになっていますね。自分の様子を笑ってしまうな〜。
滋賀県連携龍谷講座 シリーズ:琵琶湖と人の様々な関わり 世界農業遺産認定を目指す「琵琶湖システム」
■今週の土曜日、滋賀県と龍谷大学の連携講座が龍谷大学大阪梅田キャンパスで開催されます。今年は、「琵琶湖と人の様々な関わり」というテーマで3つの講座が開講されています。私は、3回目、「世界農業遺産認定を目指す『琵琶湖システム』」の担当です。以前、滋賀県立琵琶湖博物館の設立に関わり、現在は、滋賀県による世界農業遺産申請のアドバイザーをさせていただいたことから、自分の経験も含めてお話をさせていただこうと思います。
■当日は、世界農業遺産申請の中心になって活躍された滋賀県職員の青田朋恵さんもお越しになります。私の話をフォローしていただく予定です。また、講演の最後には、滋賀県の世界農業遺産とも深く関係する滋賀県の郷土食「鮒寿司」を召し上がっていただこうと思います。一口ですけどね。ちょっとだけ、個人的にサプライズのことをするかも…。
滋賀県と龍谷大学との連携による連続講座 「びわ湖の日(※) 滋賀県提携龍谷講座in大阪」を開催 2019年10月19日(土)~12月7日(土)全3回
社会共生実習
■社会学部の地域連携事業の一環で、2007年度に文科省の「現代GP」に採択された「大津エンパワねっと」、その後は、社会学部独自の実習科目となり、現在に至っています。また、学部のカリキュラム改編の中では、この「大津エンパワねっと」を発展させる形で、2016年度から新たに地域連携型実習科目「社会共生実習」が始まりました。このカリキュラム改革の中で、「大津エンパワねっと」は「社会共生実習」という新たなプロジェクトの中でのひとつのプロジェクトになりました。この「社会共生実習」は、社会学部の全 3 学科、社会学科、コミュにマネジメント学科、現代福祉学科が共同で運営する共通科目の実習になります。3つの学科に所属する教員が多様なプロジェクトを提供しており、社会学部の学生は所属学科を問わず希望するプロジェクトに参加申し込みをすることができます。今年は、7つのプロジェクトが開設されています。「大津エンパワねっと」と同様に、「社会共生実習」でも他学科の教員に指導を受けるとともに、他学科の学生と一緒に学ぶことができます。
■このカリュラム改編により、少し遅くなりましたが、情報発信のやり方も変わりました。「大津エンパワねっと」の活動状況については、これまでの「大津エンパワねっと」のfacebook公式ページから新たに開設された「社会共生実習」公式ページに移管して情報発信を行うことになりました。また、twitterについても、これまでは私が個人的にアカウントをとって時折情報発信してきましたが、こちらも「社会共生実習」専用の公式アカウントを取得し7つのプロジェクトの活動状況をお知らせしています。トップの画像は、そのtwitterの画面です。最新のtweetも埋め込んでおきます。
2019年度「大学と地域をつなぐ特別講義Ⅱ」を開講しました!今年度の「特別講義Ⅱ」のポイントは、【 地域活動をされている方 × エンパワ生 】のコラボレーション。
↓詳細はこちら↓https://t.co/BiSONufoPZ#龍谷大学#龍谷大学社会学部#社会学部#地域連携#社会共生実習#大津市 #エンパワ pic.twitter.com/0CgMII06DF— 龍谷大学 社会共生実習|公式 (@r_coexistence) November 28, 2019
■「社会共生実習」の詳しい情報については、社会学部ホームページの中にあるページをご覧ください。このページから過年度の活動報告書をお読みいただけます。以下にもリンクを貼り付けておきます。
西日本代表校決定戦〜Western Japan Bowl〜立命館大学vs関西学院大学ゲームハイライト
■母校・関西学院大学アメリカンフットボール部ファイターズ、全日本大学選手権西日本代表決定戦ウエスタンジャパンボウルで、立命館大学パンサーズを21-10で破り、甲子園ボウル出場を決めました。ファィターズの皆さん、おめでとうございます。卒業生として、大変嬉しいです。
■関学は、立命館にリーグ戦では負けたわけですが、今回は、きちんと積み重ねたきた練習の成果を本番の試合でも発揮できたのではないかと思います。今年のリーグ戦では、鳥内監督はいつも自分のチームの試合内容に厳しいことを言っておられたように思いますが、最後は良い結果になりました。一方、立命館は、その逆なのかなと思いました。うまく発揮できなかったのではないかと思います。私はアメリカンフットボールについて全く素人なので、間違ったことを言っているかもしれませんが…。母校を応援していたわけですが、少し残念な気持ちもあります。立命館にもっと力を出してもらいたかった…というのが本音です。その時々の様々な事情があるとは思いますが、本番の試合で全力をきちんと出し切ることって本当に難しいですね。
■立命館大学は、この2015年から2度リーグ優勝していますが、全国8連盟のリーグ代表校によるトーナメント戦で東日本代表校と西日本代表校をそれぞれ決定する方式に仕組みが変わっていることから、2015年に甲子園ボウルに出場して以降は、毎年関学に破れています。つまり来年度は、チームの中に、甲子園ボウル経験者がいなくなるということです。これはチームにとって、とても大きな出来事かと思います。
■今年の関西アメリカンフットボールのリーグ戦、神戸大学の活躍がとても印象に残りました。神戸大学は、2017年には2部に降格しましたが、昨年は復活し、今年は大活躍しています。アメリカンフットボールに限らず、学生スポーツの記録を見ていると、様々な浮き沈みがありますね。ちなみに、我が龍谷大学は、これから入れ替え戦です。本当に頑張って欲しいと思います。おそらく、応援にいきます。12月14日(土)王子スタジアムで14時から、2部1位の大学との対戦になります。龍谷大学の関係者の皆さん、応援いたしましょう。
■大学スポーツにはそのような浮き沈みがあるわけですが、そのような中で、ずっと関学は優勝を争うポジションに居続けています。すごいことだと思います。その関学を率いてこられた鳥内秀晃監督は、今シーズンで監督を勇退されます。1992年に監督に就任されてから27年になります。私は浪人したので学年は違いますが、鳥内さんと同い年です。鳥内さんは、学生主体、学生本位でいつもチームのことを考えておられるわけではありますが、最後、甲子園ボウル優勝で勇退していただきたいと思います。鳥内監督に関連する記事は山のようにありますが、以下の記事は、学生スポーツだけでなく、全ての大学の課外活動に関わる人たちにとって、参考になる記事なのかと思います。私も大学の課外活動に関わっていますが、とても参考になるなと思いました。
【育てる】来季勇退の関学大アメフト部・鳥内秀晃監督「体罰がないから強い」
佐渡裕さんと龍大吹奏楽部のこと
前回の練習は佐渡裕先生の御来団でした!
世界で活躍される先生のご指導は本当に刺激が多く、本番がより一層楽しみになりました!
今日の練習を生かして更にレベルアップできるよう次の御来団に向けて練習していきます🎻🎺
チケット販売中です!ぜひお越しください! pic.twitter.com/awjpXU9awF— 【公式】関西学院交響楽団 (@kwanorche) November 29, 2019
■40年前に所属していた母校のオーケストラ、関西学院交響楽団に、佐渡裕さんが指導にこられたようです。次の定期演奏会のチケットは予約済みです。おそらくホールは満員になるでしょうね。ちなみに、部長をしている龍谷大学吹奏楽部が、初めて全日本吹奏楽コンクールに出場した時の指揮者も佐渡裕さんでした。1986年のことです。佐渡さんに、初めて関西学院交響楽団を指揮していただいたのは、その翌年、1987年になります。世界に飛躍する前、新進気鋭の指揮者として注目され始めた頃かな。
■昨年、龍谷大学吹奏楽部は50周年を迎えました。その記念誌に佐渡さんがメッセージを寄せておられます。その一部を以下に引用してみます。
龍大での1番の思い出は、やっとの思いで関西大会を勝ち上がったものの、初全国では全く歯がたたず、結果発表の後、尼崎のアルカイックホール横の川沿いで、みんなで抱き合って悔し涙を流したことでしょうか…。いや、あれは悔しさだけではなく、半年間自分達が持っていた最高の力を出し切ったことへの達成感でもありました。
■佐渡さんが指揮をされた全国吹奏楽コンクールは、1986年、尼崎のアルカイックホールで開催されました。この時にコンクールに出場された部員が、現在、4人いる吹奏楽部の副部長のお1人です。この後のことですが、龍谷大学吹奏楽部ではトレーナーをされていた若林義人先生が1988年から指揮をすることとなり、1992年には音楽監督に就任されました。そして、その年の全国コンクールで初の金賞を受賞しました。その後、着実に音楽的実力を蓄積しながら、全国コンクール21回出場、金賞を11回、銀賞を10回を受賞する大学吹奏楽界を代表する全国バンドのひとつになりました。
「環びわ湖大学地域交流フェスタ2019」(彦根市)
■滋賀県内の大学と自治体から構成される一般社団法人環びわ湖大学・地域コンソーシアムでは、毎年度、滋賀県内の地域の課題解決に大学と地域が連携して取り組む活動、および滋賀の魅力を学生が発信する活動を支援しており、今年度は16プロジェクトに取り組んでいます。昨日は、環びわ湖大学・地域コンソーシアムが主催して、それらの活動を報告する「環びわ湖大学地域交流フェスタ2019」が開催されました。私も、今年度は、コンソーシアムの「大学地域連携課題解決支援事業選考委員会委員」という仕事をさせていただいていることから、お誘いいただきました。
■午前中は、滋賀県内の学生の皆さんの15の活動報告が行われました。報告を行ったチームは、東近江市×びわこ学院大学(2チーム)、滋賀県×びわこ学院大学、甲賀市×立命館大学、草津市×立命館大学(2チーム)、東近江市×龍谷大学、大津市×龍谷大学、草津市×龍谷大学、彦根市×聖泉大学、東近江市×聖泉大学、彦根市×びわこ成蹊スポーツ大学、長浜市×長浜バイオ大学(2チーム)です。学生の皆さんたちは、それぞれ、大学での学びを活かした取り組みをされているように思いました。この15チームのうちの1チームに、昨年、社会学部の「大津エンパワねっと」を履修している知り合いの学生が参加していました。午前中の最後は、学生の皆さんが製作したSDG’sに関する動画を拝見しました。今年度、ンソーシアムでは、県内13大学から選出された学生によるSDGsや持続可能な社会を実現する活動をテーマにした動画コンテンツ制作事業を実施しました。今回は4つの動画を拝見しました。そのうちの1つの制作に関わった学生も知り合いでした。内容は、私も活動の支援に関わっている「学生まちづくりLAB(ラボラトリー)」に関連するものでした。印象にしかすぎないのかもしれませんが、こういった地域連携に熱心な学生は、大変意欲があり、複数のプロジェクトに関わる人がけっこう多いように思います。個人的な意見ですが、こういった志向を持った、地域課題に関心を持った学生がもっと増えて欲しいなあと思っています。
■午後は13時までポスターセッションがありました。複数の大学の学生の皆さんからお話を伺うことができました。1時間を挟んで14時からは、企業と学生の皆さんが本音で「働きやすい環境づくり」等のテーマについて、グループに分かれて意見交換するワークショップが行われました。彦根市の企画です。講師の方の講演の後、短い時間でしたがワークショップが行われました。時間が短かったせいか、私には、午前中の活動報告とのテーマ的なつながりがよくわからない感じもありましたし、学生の皆さんにも少し戸惑いがあるように感じましたが、能力の高い方達が集まっているせいでしょう、きちんとグループごとにワークショップの結果をまとめて報告されました。
■滋賀県内に14の大学・キャンパス・学舎があります。長浜バイオ大学、滋賀文教短期大学、滋賀大学(彦根キャンパス)、滋賀県立大学、聖泉大学、びわこ学院大学・短期大学部、立命館大学(びわこ・くさつキャンパス) 、滋賀医科大学、龍谷大学(瀬田学舎)、放送大学(滋賀学習センター)、滋賀大学(大津キャンパス)、滋賀短期大学、成安造形大学、びわこ成蹊スポーツ大学です。これだけの大学で、毎年、どれほどの学生が卒業していくのか私は正確な数字を知りません。しかし、かなりの学生が卒業していくわけです。おそらく、その多くは滋賀県外に就職していくのではないかと思います。私個人としては、今回のコンソーシアムの事業はもちろんのこと、それぞれの大学で取り組まれている地域連携の活動を通して滋賀県の地域社会のことを深く知り、滋賀で働き・活躍して、滋賀に暮らす、そのような学生がもっとたくさん生まれて欲しいと思っています。また、卒業時は県外に出ても、いずれ滋賀県に帰って活躍する人が増えて欲しいと思っています。
琵琶湖八珍と滋賀の地酒・純米吟醸「北船路」
■滋賀県民にとって地元のテレビ局は、BBCになります。「British Broadcasting Corporation」=「英国放送協会」ではなくて、「Biwako Broadcasting Co., Ltd.」=「びわ湖放送」です。この「ぴわ湖放送」の放送の中に短い番組があります。「あってくれてありがとう!」と言いたい小さな滋賀の企業やお店を応援する番組です。その中に、時々、寄せていただく「からっ風」が登場していました。琵琶湖八珍と呼ばれる琵琶湖の湖魚の料理が提供されています。この放送には登場しませんが、私のゼミの卒業生たちがプロデュースした純米吟醸「北船路」(平井商店・大津市)も飲むことができます。
■以前の投稿もご覧いただければと思います。「ビワマスと北船路」。
■琵琶湖八珍とは、琵琶湖で漁獲されるビワマス、コアユ、ハス、ホンモロコ、ニゴロブナ、スジエビ、ゴリ、イサザの8種類のことです。太文字アンダーラインのついたところを読んでみてください。「ビワコハホンニスゴイ」=「琵琶湖はほんに凄い」になります。