50年ぶりの中山町
▪️広島の出張、現地解散になったので、少し寄り道をすることにしました。50年前に暮らしていた地域を訪ねてみることにしました。歩いてみると、いろんな記憶が甦ってきました。私は10代の後半に至るまで転園や転校が続いたのですが、なんとか小学校と中学校は広島の学校を卒業しました。私が卒業した小学校は広島市立中山小学校。かつて暮らしていた家から小学校まで記憶に残っている道を歩いてみました。私はこの広島市中山町に小学校5年生の3月から高校1年生の夏まで暮らしていました。1970年3月から1974年7月までです。
▪️広島市が全国で10番目となる政令指定都市に指定されるのは1980年です。その時から、中山町は東区中山町になりました。その頃から住所表記も変わったようです。私が暮らしていた当時は、住所表記に小字の地名がまだ残っていました。以下、私以外の皆さんには意味が無い文章かと思います。すみません。長々と書いていますが、つまらない文章ですので、どうかスルーなさってください。
▪️中山町は、広島市の市街地から峠をひとつ越えたところにありました。元々農村地帯です。1956年に広島市に編入される以前は安芸郡中山村でした。東西は山で、中央には単線の芸備線が走っていました。その芸備線に沿って川があり、その川に向かって東西の山裾に谷間がいくつもあるような地形でした。その谷間の傾斜地に水田が作られていました。そのようなわけで収穫量は高いわけではなく、逆に、農業的には厳しい地域でした。海外へ移民された方達も多数おられたようです。国土地理院の空中写真(1947年)を拝借して地名を付け加えています。
▪️そのような地域なのですが、広島という都市の郊外に位置していることから、高度経済成長期には、以前は農村の里山だった丘陵地が新興住宅地になりました。戸建て住宅からなる大規模な住宅団地が造成されたのです。その頃から、少しずつ地域の雰囲気も変わっていったのかもしれません。いわゆる、混住化ですね。私の暮らした家は、そのような新興住宅地にではなく、農家が農地を切り売りした土地に建てられていました。三軒の二階建て住宅と、二軒のやはり同じく二階建ての賃貸住宅、農家の立派なお宅が並ぶ谷筋の集落の一番奥に、この5軒の住宅が並んでいました。この集落の下方には棚田が並んでいました。
▪️私がそのような混住化した地域に暮らしたのは4年半ほどの期間ですが、子どもの時とはいっても12歳から16歳までの期間ですから、かなり記憶に残っています。今回は、広島駅の北側からバスに乗って中山町の、かつて暮らした場所の近くのバス停で降りました。そこには、昔の記憶にはない大きな高速道路(広島高速5号線)が建設中でした。山陽自動車道広島東ICと直結し、広島駅周辺市街地と広島空港との間の高速性・定時性を確保するとともに、広島市北東部地区の交通渋滞の緩和を図るために建設されているようです。
▪️じつは、事前にGoogleMapで調べて高速道路が建設中であることはわかっていたのですが、実際にその高速道路を下から眺めると、やはり何か違和感のような感情がありました。しかし、その高速道路を抜けてかつて暮らした家に近づいていくと、ほぼ記憶通りの風景が目の前に現れました。近づいていくと特徴のある住宅が目の前に現れました。これまで思い出すことはありませんでしたが、「ああ、そうだった。この家はよく覚えている」と急に記憶が蘇ってきたのです。記憶の奥底にある記憶と目の前の住宅が一致しました。ただ、人がお住まいになっているような雰囲気はありませんでした。
▪️そこから坂道を登っていくと、農家の立派な和風の建物の奥に、かつて暮らしていた住宅が現れました。ひょっとすると築後60年ほど経っているのかもしれません。我家が暮らしていた住宅、今も人が暮らしいることはわかりましたが、ずいぶん庭は荒れていました。ちょっと残念な気持ちになりましたが、私がとやかくいうことではありません。その住宅の向かいには、私が中学生の頃には、新婚のご夫婦が暮らしておられました。当時と同じご夫婦が今も暮らしておられるのかどうかわかりませんが、もしそうならば、70歳代後半のご年齢でしょう。
▪️50年前は、ここが谷筋の一番奥で、その後ろは山林でした。ところが今は、さらにその奥に住宅開発が行われていて、整然とした街区に新しい戸建て住宅が並んでいました。その手前、私が暮らしていたところのあたりだけは、まるでタイムカプセルに保存されていたかのように50年前と変わっていませんでした。私が暮らしていた住宅に隣接する農家には、私よりも一つ年上のお嬢さんがお住まいでした。性別も学年も違うので、話をすることはありませんでしたが、農家のご夫婦には大変親切にしていただきました。よく記憶しているのは、年末の餅つきに呼んでくださったことです。懐かしいです。50年ぶりに訪ねていっても、怪しまれるだけでしょうから、外から眺めるだけでしたが、今はどなたがお住まいになっているのでしょうね。気になりました。
▪️その後、通学していた小学校に向かいました。記憶の中にある通学路は、ほぼ昔のままでした。通学路なんですが、そこは舗装はしてあるものの軽トラックが1台通過できるほどの狭い農道でした。今も、水田が耕作されているところは記憶している昔のままでした。ただ、その先に進むと農地も住宅化しているせいか、記憶にある道は残っていませんでした。農業排水路が暗渠化されて小さな道になっていたりして、記憶とまったく合致しませんでした。また、私が小学生の頃は、同じ間取りの平屋の賃貸住宅が並んでいました。その賃貸住宅の並ぶ土地を抜けて学校に通っていたのです。今は、そのような賃貸住宅はありません。仕方がないので別の道を探すことになりました。当時のことですが、小学校からの帰宅時、賃貸住宅の前で練炭で秋刀魚やタレに漬け込んだ鯨の肉を焼いておられたりしていました。なんだか、のんびりしていました。
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▪️ここまで来ると目の前に芸備線があります。私が中山小学校に転校したての頃は、まだ蒸気機関車が走っていました。C58という形式の蒸気機関車だったと思います。当時、蒸気機関車は全廃する直前でした(全廃は1975年)。もうじき消えていくということで、全国的にSLブームでした。私の周りの男の子たちの関心は、もっと大型のD51(デゴイチ)とかC62だったように思います。だから、C58については少し残念な気持ちもありました。それはともかく、この芸備線で強烈に記憶に残っているのは、私が勝手に「黄色い霧事件」と密かに呼んでいる出来事です。当時、客車にはトイレがついていましたが、汚物を貯めるタンクはついていなかったと思います。朝、通学路で一緒になった保健室の先生と一緒のこの芸備線のガードの下を潜ろうとした時、上を走っている客車から黄色い霧が散布されたのです。私は保健室の先生と一緒に「うわーっ」と驚きながらガードしたを通りすぎました。先生は、ハンカチを出して笑いながら拭いておられました。拭いても仕方がないのですが…。今だと考えられない感じでしょうか。私もそのまま学校に向かいました。
▪️芸備線のガードをくぐったところに、今では雑草が生えまくっていますが、私が小学生の頃は、ここに「拝み屋」さんの小さな家がありました。家といっても掘立小屋のような粗末な小さな建物でした。その建物の前には、記憶が曖昧ですが、家庭菜園と花壇があったかもしれまん。この「拝み屋」さんとは、民間の祈祷師のことです。当時小学生だった私からすると老婆でした。でも、今の私よりもお若いかもしれまん。時々、祈祷師の衣装(僧侶に近い装束)を身につけて出掛けておられました。お仕事があったのでしょうね。おそらく、この土地は当時は国鉄のものだったのではないでしょうか。どういうわけで、そこにお住まいになっておられたのか、その辺りの事情はよくわかりません。
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▪️芸備線のガードをくぐった後は、右に行くと小学校なのですが、まずは左にある小高い丘の上の神社に向かうことにしました。この神社でもよく同級生と一緒に遊びました。神社の社殿の下に潜り込んで、蟻地獄(ウスバカゲロウの幼虫)を観察したりしていました。社殿の下には、たくさんのすり鉢状になった蟻地獄があったのです。それから、近くにはドングリの実が成っていました。地面に落ちたドングリの実を集めて、いろんなことをして遊びました。今回、参拝してみたところ、社殿はずいぶん立派になっていました。蟻地獄のあった社殿の下もコンクリートで固められていました。ちょっと残念でした。
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▪️社殿の横には、「中山稲生神社の沿革」という説明板が設置されていました。その沿革の最後の段落には、2003年に中学生の火遊びが原因で消失したため、再建されたとあります。そういうことでしたか。また広島市に合併される以前の中山村の歴代村長と中山小学校の歴代校長の顕彰碑が建てられていました。村長と校長の顕彰碑、何か時代を感じます。そこには、私が小学生だった時の校長先生のお名前もありました。長野幸雄先生です。顕彰碑の長野先生のお顔を拝見しながら、先生から伺ったことを思い出しました。長野先生は戦時中、海軍の兵隊でした。なんの軍艦だったか忘れましたが、沈没して救出されるまでの話を今でも記憶しているのです。疲れて眠ってしまうと海に沈んでしまうので、眠らないようにナイフで自分の体に傷をつけて痛みで眠らないようにした…そのような話だったように記憶しています。
▪️神社を参拝した後は、小学校に向かいました。校門の近くには、給食の調理室があり、良い香りが漂ってきていました。校舎も、増築されていました。ネット上にある情報を確認すると、1・4・5・6年は3クラス、2・3年は4クラスもあります。また、「昭和40年ごろから新興住宅地として発展してきたが,児童数もその影響を受けて増加の一途をたどった。その後児童数はやや減少ぎみであったが,最近は,学区内に団地ができたり,マンションが建設されたりして児童数が増えている」という説明もありました。私が在籍していた頃は、各学年は2クラス程度でした。1クラスあたりの人数はわかりませんが、増築が必要なほど児童数が増えているのではないでしょうか。私が小学生の頃は、マンションなどもちろん建設されていません。典型的な都市郊外の混住化した地域でした。
▪️当時、私の家族のような転勤族は、「旅の人」と言われていました。また、どこかに転居していく人たち、一時的にここに暮らしている人たち…という意味でしょう。私は、広島市立中山小学校、そして広島市立二葉中学校を卒業した後、高校は広島市内にある広島県立皆実高等学校に入学しました。しかし、在籍したのは高一の一学期という短い期間でしかありませんでした。父親の転勤で、その後は編入試験を受けて兵庫県立兵庫高等学校に転校しました。実際に「旅の人」だったわけです。この「旅の人」という言い方には、なにか少しネガティブな響きもありますが、私自身は、暮らしていた地域の皆さんにとても親切にしていただきました。もし、編入試験に落ちていたら、そのまま皆実高校に通っていたら自分の人生はどうなっていただろう…おそらく大きく変わっていたに違いないと思います。
▪️長々と駄文を連ねてしまいました。つまらない投稿で申し訳ありません。さて、卒業生とはいえ、中山小学校を訪ねるわけにもいかずに、怪しまれないように母校の横をゆっくり歩いて通り過ぎ、そのあとは、再び市街地にバスで戻って行きました。大変短い時間でしかありませんが、記憶の奥底に眠っていた50年前のことを思い出すことができて満足しました。
創立記念日に「地域エンパワねっと」の「まち歩き」
▪️昨日は創立記念日でした。大学の本部のある深草キャンパスには多くの教職員の皆さんが集まって式典を開催されました。私はといえば、「地域エンパワねっと・大津中央」(龍谷大学社会学部社会共生実習)の「まち歩き」を行いました。履修している学生さんたちの都合がどうしても昨日しか合わなかったのです。創立記念の式典、とても大切なことはわかっているのですが、昨日は、教育の方を優先させていただきました。
▪️先週は1名の学生さんと2人で「まち歩き」でした。これは、1週間前にしか日程が合いませんでした。昨日は、残りの12人の皆さんとの「まち歩き」になりました。歩いた距離は3.2kmちょっとです。大した距離ではありません。ただ、立ち止まっての説明や解説もするので、時間としては3時間半ほどかけて、じっくり「まち歩き」を行うことになりました。今日は、気温も高く、普段運動をしていない学生さんたちにとっては、けっこう体力を使うことになったのかもしれません。お疲れ様でした。
▪️一昨日は吹奏楽部の「新入生歓迎会」、昨日は「地域エンパワねっと・大津中央」の「まち歩き」。土日とも仕事が入ってしまいました。歳をとると、休み無しというのは疲れが抜けなくなります。
2023年度龍谷大学吹奏楽部「新入生歓迎会」
▪️一昨日の土曜日は、龍谷大学吹奏楽部の「新入生歓迎会」でした。このTwitterの集合写真は、最後に撮ったものです。なんだか、首がたくさん並んでいる感じになっていますね、仕方ありません。細かくご覧になった方に説明しますけど、最前列の右端のカップル、2人とも部員なんですが、赤いワンピースを着ている方の方は、余興で、盛り上げるために女装されています。スーツを着た男性と共に司会進行をされました。最初、私は、そのことがよくわかりませんでした。背の高い女子部員がおられるのだなあと思っていたので、びっくりしました。
▪️2023年度は、1回生が60人、2回生が1人、合わせて61 人の方達が吹奏楽部に入部されました。先輩たちの歓迎の企画もよく練られていて、「新入生歓迎会」は大いに盛り上がりました。このような楽しい雰囲気をペースに、210名の部員の皆さんの心がきちんと繋がってくれると良いなあと思います。子どもの歌ですけど、「1年生になったら〜♫」という歌があります。あの歌の歌詞に「友だち100人できるかな」というところがあります。でも、吹奏楽部は200人を超えています。普通、200人超えるような規模だと顔は知っているけれど名前がわからない…という感じになるし、話をすることもないかと思います。でも、ここは気合いで、全員と何か話をすることができるような関係になって欲しいと思います。
▪️お互いに、ちょっと労り、励まし、支え合うような関係、難しいとは思うけれど、頑張ってそんな関係が溢れる吹奏楽部にして欲しいと思います。
こんにちは!
昨日、瀬田キャンパス8号館にて、58期新入生歓迎会を行いました。レクリエーションを通して、新入生と交流することができました🎶
本年度も龍谷大学吹奏楽部をよろしくお願いいたします! pic.twitter.com/8bYHnDTc49— 龍谷大学吹奏楽部 (@ryu_windmusic) May 21, 2023
現地実習の「しおり」と「質問リスト」の作成
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■火曜日の木曜日の2講次は、1回生のための「社会学入門演習」です。今年は2クラス、10組と1組を担当しています。すでに以前の投稿でも説明いたしましたが、「社会学入門演習で日帰りで「現地実習」を実施することになっています。コロナ禍以前、「現地実習」は1泊2日だったのですが、現在は、よほどの理由が無い限り日帰りで実施することになっています。で、今年度、私が担当する2クラスはどこに伺うのかというと、高島市の中山間地域を訪問し、そこで地域の課題に取り組んでおられる移住者の方たちからお話を伺う予定にしています。
■一昨年度と昨年度、高島市から委託を受けて中山間地域の活性化について委託研究に取り組みました。また、昨年の秋に高島市で開催され「全国棚田(千枚田)サミット」でも、他の龍谷大学の教員の皆さん2人と一緒に、3つの分科会のコーディネーターを務めました。そのような経験のなかで、中山間地域に移住されてきた方達の存在に注目するようになりました。ということで、今回の「社会学入門演習」でも1回生の皆さんと、移住者の皆さんにお話を伺わせていただくことをお願いしたのです。そのコーディネートについても、地元のNPOにお願いをいたしました。
■この現地実習は来月なのですが、それまでにきちんと事前学習を行うことにしました。その事前学習も、5つのグループにわかれてグループごと課題に取り組むスタイルにしました。このグループワークの課題ですが、①現地実習の「しおり」を作成することと、②現地実習の際、移住者の方達への質問リスト作り、この2つになります。「しおり」って、修学旅行のときなどに配布されたあの「しおり」です。お話を伺う移住者の方達ごとに、事前に関連する情報をネットで検索して、情報を抽出し整理して「しおり」にレイアウトしていくようにお願いしました。手書きのイラストとか加えるなど、「現地実習」を「やらさせる、仕方のない」経験ではなく、「自分たち自身の成長につながる楽しい」経験になるように、自分たちの手で気持ちを盛り上げていってほしいと思っています。このような「しおり」に事前学習で情報を整理していくと、さらに移住されてきた方達にいろいろ伺いたいことが出てくるのではないかと思います。それは「質問リスト」の方にきちんとまとめるようにとお願いをしてあります。
■学生の皆さんに聞いてみたところ、こういったグループワーク、そしてアクティブラーニングは大学に入学して初めて行うことのようです。ほとんどは、入学したばかりで、講義を受講するタイプの授業なのだそうです。この「社会学入門演習」の経験が、大学での学びの感覚を掴むきっかけになってくれればなあと思っています。
「地域エンパワねっと」で「まち歩き」
■「地域エンパワねっと・大津中央」(龍谷大学社会学部・社会共生実習)、今年度は13人の学生の皆さんが履修しています。2回生と3回生が中心ですが、なんと4回生の男子学生も1人います。コロナ禍と同時に大学に入学したことから、「地域エンパワねっと」のような、地域の皆さんとの協働によって実習に取り組む経験がなかなかできなかったようです。卒業に必要な単位を十分に取得してはいるのですが、あえて「地域エンパワねっと」で色々経験をしてから卒業したかったのです。その4回生は、私のゼミの学生で、しかも吹奏楽部の幹部でもあります。卒業論文も吹奏楽部の活動も大変だとは思いますが、頑張って最後まで「地域エンパワねっと」に取り組んで欲しいと思います。
■さて、今日はその4回生と一緒に大津の街を歩きました。いわゆる「まち歩き」というやつです。残りの12人とは、次の日曜日に歩きます。4回生くんは、来週はどうしても日程の調整ができなかったのです。先生1人、学生1人。教員の私の側から言うのもなんですが、贅沢ですよね。ST比(学生と教員の比率、1 : 1)、マックスです。
■今日は4回生の彼に「まち歩き」をしながら大津の街の歴史や現状について、じっくり説明することができました。朝9時にスタートして12時前に終了しました。途中立ち止まって説明することが多いので、歩いた距離は3.4km程度ですが、まあまあ良い運動にもなりました。もし、この地域を徹底的に「まち歩き」したらやはり最低1日、朝から夕方までかかるのではないかと思います。
■2004年から龍谷大学で勤務していますが、それ以来、このエリアを徹底的に歩き回ってきました。最近は、少しサボっているかもしれません。だから、時々、知らない間に建物が消えていて更地になっていたりして驚くことがあります。今日も、ジャズバー「パーンの笛」の入っていた小さなビルが、そしてそのビルが建っていた一角の土地が更地になっていることに気がつきました。おそらく、またマンションが建設されるのでしょうね。
■個人的な本音を言えば、大津駅前の界隈がマンションを中心とした住宅地へと少しずつ変わっていくことについては、少し残念な気持ちがあります。でも、このトレンドを変えることはなかなか難しいのかなとも思います。そのような条件の中で、どうやれば「ここに暮らすことが楽しい」まちにしていけるのか、ポイントはその辺りにあるのではないかと思っています。
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先輩たちの体験をデータベース化できないか。
アヤメ、ショウブ、カキツバタ
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■今日は朝早く目が覚めました。すぐに雨戸を開けてお日様を浴び、続いて熱いシャワーを浴びて、すっきした上で庭に出ました。そして、気になっている花の様子を観察しました。写真ですが。ここは我が家の裏庭です。あまり日が当たりません。ここにジャーマンアイリスが植えてあります。別名、ドイツアヤメです。これはアヤメなので、乾いた土地に生えます。
■睡蓮鉢に植えてあるのは、キショウブでしょうか。蕾が黄色になり膨らんできました。もうじき開花しそうです。ショウブの仲間は、湿地に生えてくるのだそうです。ということは、我が家に無いのはカキツバタということになりますね。カキツバタは、水中から生えてくるようです。ということは、もしカキツバタを育てるのならば、もう一つ睡蓮鉢が必要になるということですね。
■この3種類の見分け方なんですが、すぐに忘れてしまいます。こちらの解説がわかりやすいです。
ややこしい「あやめ」の仲間
これでスッキリさせましょう!なまえ |花びら /生える場所
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アヤメ |模様あり/乾燥地
ハナショウブ|黄色い線/湿った場所
カキツバタ |白い線 /水の中 pic.twitter.com/ZalmiegK0R— 自然ガイドのくますけ|自然ネタを日々配信中 (@kumasuke902) May 7, 2023
発熱
■2020年度のコロナ感染拡大以来、風邪をひくことがなくなりました。新型コロナに感染しないように、きちんとマスクをしていましたし、丁寧に手洗い等も実践してきたので、結果として、風邪を引くこともなかったのかなと思います。発熱することも全くありませんでした。これ、あくまで素人の考えなんですが。ところがです。一昨日から発熱してしまいました。といっても、37.5℃程度なので、微熱ですね。「なんや、たいしたことないやん」と言われそうですね。ただ、私自身は、発熱に強くなく、この程度ででもしんどくてぐたっときてしまいます。滅多にないことなのですが、38℃レベルまで熱が上がると生きている心地がしません。
■今日はようやく発熱もおさまり、シャキッと起床できました。義理の両親のお世話の関係で、我が家は昨日から私一人なのですが、今朝は、一番にシャワーを浴びて、ゴミ出しをして、庭に水を撒き、弁当を作って、朝食を食べて、風邪薬と持病の薬を飲んで出勤しました。このことをfacebookに投稿したところ、さっそくコメントをいただきました。「年を取ると、発熱するエネルギーも減少するようで、結構しんどくてもあまり熱は上がらない気がします」、「睡眠にもエネルギーがいるので、若い頃のように「いくらでも寝られる!」ではなくなるのでは!?」。
■こちらのインターネットの解説を拝見すると、同じような指摘をされています。
発熱は、細菌やウイルスに対する免疫反応の一つです。若い人では、これらの感染症の重症度に比例して高い熱が出るのが一般的です。しかし、高齢者では免疫反応が低下していることが多く、それほど熱が高くなくても、感染症が進んでいる場合があることが理由の一つと考えられます。高齢者で熱が出た場合は、かぜなどの呼吸器感染症でも肺炎に進行していたり、高熱を発する腎盂腎炎などの尿路感染症だったりすることがよくあるのです。
こうした病気を早く発見するには、ふだんから体温に注意を払っていることが大切です。少し高いだけの場合も油断せず、家族が顔色や食欲、その他の症状などにも目を向けて、病気のサインを見逃さないようにしましょう。
■なるほど…。先日、前期高齢者になったばかりですが、今回の発熱のことも簡単に考えないようにしないといけませんね。もし、微熱でも継続するようであれば、ちょっと考えないといけないかな…と思いました。とはいえ、薬のせいかもしれませんが、熱が下がり、しかも気持ちも良くなって通勤しました。気持ちよくなって…というのも薬のせいですね。
■今日の出勤のお供はファドでした。ファドとは、ポルトガルに生まれた民族歌謡のことです。ポルトガル語についてはわからないのですが、まあそんな気分になったのです。ポルトガルにも、また行くことができたらいいなと思います。ポルトガルに行ったのは1999年10月のことです。今から24年前のことです。行った年は分かりましたが、月まで記憶していませんでした。ポルトガルに行ったのとは科研費による調査でした。その科研費による調査研究の成果は、『文化遺産の社会学 ルーヴル美術館から原爆ドームまで』(荻野昌弘編,新曜社)にまとめられています。この本の中に調査に行った時の記録も残っていました。残念ながら、もう出版されていません。amazonでは古書として入手可能です。最初から値段の高い本でしたが、今はびっくりするような値段になっています。おそらくですが、今でも、買い求めて読んでくださる人がおられるのでしょうね。