早朝の出勤と下弦の月

20141015seta.jpg ■水曜日1限は、「地域社会論」の授業があります。授業の準備や資料の印刷等のため、早めに出勤します。とはいっても、始発で出勤というわけではありません。自宅を6時10分に出て、近鉄で京都まで行き、京都では7時10分の電車に乗るというパターンです。このパターンだと、7時50分までには大学に到着します。この時間帯ですと、さすがに学生の姿をキャンパスではみかけることはありません。授業開始が9時20分ですので、余裕をもって印刷等の準備ができます。とても気持ちの良いものですね。

■「台風一過」。今朝の空は、その言葉に相応しいスッキリとした秋らしい青空でした。写真は、瀬田キャンパス1号館を撮ったものです。建物の左上に、半月が見えました。月例表を見てみました。下弦の月の一日前でした。今晩の半月が下弦の月ということになります。この上弦、下弦、意外に難しいですね。上弦の月は満月に向かう時の半月で、下弦の月は満月が欠けてきて新月に向かう時の半月です。ということで、月はこれからどんどん新月に向かって細くなっていきます。まあ、早朝出勤すると、こういう写真も撮るだけの余裕があるというわけですね。
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■もっとも、がっかりするというか、シュン…とすることもありました。出勤の途中、バッテリーほぼ死にかけのiPhone5を外付けバッテリーにつないだ状態で、よくニュースを読みます。今日、気になったのは「大学進学率の地域差、20年で2倍 大都市集中で二極化」という記事でした。朝日新聞の記事です。以下は抜き書きです。

大都市と地方で高校生の大学進学率の差が広がっている。今春の文部科学省の調査から朝日新聞が算出すると、都道府県別で最上位と最下位の差は40ポイント。20年で2倍になった。家計状況と大学の都市集中が主因とみられる。住む場所の違いで高校生の進路が狭まりかねず、経済支援の充実などを求める意見がある。

都道府県別では東京の72・5%が最高で、次いで京都(65・4%)、神奈川(64・3%)、兵庫(61・7%)など。最低は鹿児島の32・1%で、低い順に岩手(38・4%)、青森(38・6%)など。40%未満は5県だった

「大学進学の機会」の著書がある小林雅之・東京大教授(教育社会学)は「選択は個人の自由だが、能力や意欲のある若者の進路が居住地の環境で限られるのは社会的損失だ。大学整備は専ら私学に依拠し、大都市集中につながった。その結果、私学の半数近くが定員割れで苦しむ一方、地方では多くの高校生が望んでも進学できないという矛盾も生じている。家計負担軽減には給付型奨学金の充実が急務。地方の短大や専門学校の活用も有効だ」と話す。

■これはかなり深刻な状況ですね。県民所得の低い地域は進学率も低い傾向にあります。私が以前勤務していた岩手県立大学です。岩手県の公立大学です。今から、10数年前のことですが、学生がこのようにいったことを記事を読みながら思い出しました。「私の親が、『とても仙台や東京の大学にやるだけの余裕は我が家にはない。県立大学に通学するのだったら許そう』といってくれたので、なんとか県立大学に入学できました。ありがたいです」。そのとき、公立大学の存在意義を強く感じました。しかし、東日本大震災に被災されたたことなども、進学にどのように影響しているのでしょうね。今日の朝日新聞の記事を読む限り、当時よりも状況はより深刻になっているのかなと思います。

京都のラーメン(3)本家 第一旭 たかばし本店

20141015daiichiasahi.jpg ■ひとつ前のエントリーで、「京都駅近くにある『本家 第一旭』に行きたくなり」と書きましたが、実際にも行ってきました。「本家 第一旭 たかばし本店」です。しっかり豚の旨味が主張しているスープに、中太のストレートの麺。普通でよかったと思いますが、まわりの人たちがみんな「特製ラーメン」を注文されていたので、私も「特製ラーメン」を注文しました。しかし、「通常ラーメンの2倍のチャーシューと麺が大盛りのがっつり系」なのだそうです。私のような胃袋の人間が注文するべきではありませんでした。味が特製なのかと思ったら、量が特製でした…。最後は、ちょっと辛くなりましたが、とりあえず完食しました。若いときのようにはいきませんね。

■この「本家 第一旭 たかばし本店」のお隣は、やはり有名な「新福菜館」です。こちらについては、「京都のラーメン(2)新福菜館」に書きました。いつもは、「新福菜館」の方に行列が多いように思いますが、今回は圧倒的に「第一旭」の方が長い行列でした。同じラーメンとはいっても、簡単比較できるものではありません。コンセプトといいますか、前提になっている考え方が違うんだろう…たぶん、そう思います。

【追記】■こういう、「しっかり」・「がっつり」系のラーメンは、だんだん身体が受付けにくくなってきました。残念ですけど…。

電気鉄道事業発祥地

20141014denkitetudo.jpg ■京都駅は、私にとって通勤のときに通過する場所です。自宅のある奈良から近鉄で京都駅まで行き、そこからJR京都駅まで歩き、こんど琵琶湖線に乗り換え瀬田駅までいく。京都駅は、そのようなルートの通過地点でしかありません。そのようなこともあり、駅構内の外に出ることはあまりありません。駅の周辺にある書店や居酒屋(ないしはパブ)に行くとき、あるいは近くにあるショッピングモールに買い物をしにいくとき以外は、駅の建物から外に出ることはありません。まして、京都駅から地下鉄に乗って繁華街である四条のあたりまでいくなんてもことも、県人会や同窓会等の特別な用事がない限りありません。つまり、京都駅は通過はしていますが、京都の街のことはあまり知らないのです。

■先日のことになります。駅から少し離れたところにあるラーメン店に昼食をとりにいきました。京都駅ビル内の伊勢丹にも拉麺小路という場所があり、全国の有名店が出店されています。まあ、そこでも良かったのですが、その日は京都駅近くにある「本家 第一旭」に行きたくなり、テクテク歩いていたのです。すると、駅のすぐそばにこの写真の石碑がたっていることに気がつきました。何度も通っているはずなのですが、今回、このような石碑が建っていることに初めて気がつきました。「電気鉄道事業発祥の地」と書いてあります。帰宅してからも調べてみて、いろいろわかりました。京都市役所のホームページでは、この日本発の電機鉄道に関して詳しく解説していました。以下は、そこからの引用です。

日本初の市街路面電車
明治28(1895)年2月1日から昭和53(1978)年9月30日までの83年間,路面電車が京都市内を縦横に走っていました。明治28(1895)年,民営の京都電気鉄道会社(京電<きょうでん>)が東洞院(ひがしのとういん)塩小路(しおこうじ)下るの七条停車場(しちじょうていしゃじょう,京都駅)と伏見町(ふしみちょう)下油掛(しもあぶらかけ)間の営業を開始。京都に日本初の路面電車が誕生しました。明治45(1912)年6月,京都市営電車の営業が開始され,京電との激しい客取り合戦が繰り広げられましたが,大正7(1918)年7月,京都市が京電を買収し,競合区間の路線が統一されました。大正中期から昭和初期までは,市電の黄金時代が続きました。
昭和30年代の後半(1959~1964)から,市電と競合する市バスや会社バスが増加し,更に自動車も多く走りはじめ,路線の自由がきかない市電経営は行き詰まりを見せました。
昭和45(1970)年3月31日,日本最古の路面電車路線だった伏見線(塩小路高倉<しおこうじたかくら>と中書島<ちゅうしょじま>間)と稲荷線(勧進橋<かんじんばし>と稲荷間)が廃止されたのを皮切りに,路線が次々と廃止され,昭和53(1978)年9月30日,残る外郭線(北大路・西大路・九条・東山・七条・河原町の各線)すべてが廃止され,京都の路面電車の歴史に終止符が打たれました

先走りの少年
京電開業の6か月後の明治28(1895)年8月,雑踏や街角,橋上では電車の先五間(約9メートル)以内を先行し,昼は旗,夜は提灯をもち「電車がきまっせえ。あぶのおっせえ」と叫びながら線路を走る告知人がいました。告知人は,12歳から15歳の少年で構成されていて,先走りと呼ばれました。告知人制度は,府令第六十七号電気鉄道取締規制によるもので,仕事は危険な上に汗とほこりにまみれての重労働で,少年が電車にひかれる事故が相次いだため,告知人制度は廃止されました。

疏水止まれば電車も止まる
京電は琵琶湖疏水(びわこそすい)による水力発電によって電力が供給されたため,疏水の流れが止まると,京電も休業となりました。京電の定期休業日は,元旦,毎月1日と15日の疏水藻刈日。その他,水利事務所の機械故障や琵琶湖の増水などによって,たびたび電車の走行が止まりました。明治32(1899)年,東九条村(ひがしくじょうむら,現南区東九条東山王町)に石炭による火力発電所が開設され,その発電により輸送能力が一気に向上しました。

■素朴に「電車に乗るのが楽しい…」と思うだけの幼稚な鉄道愛好家なので、こういう歴史的な事実関係についてはまったく知りませんでした。京都の路面電車と琵琶湖疎水の関係については受験勉強のときに得た知識として知っていましたが、「先走りの少年」がいたなんてことも…知りませんでした。しかも、「電車がきまっせえ。あぶのおっせえ」と叫びながらというのが、京都らしい。ただし、少年が電車にひかれる事故が相次いだため…というのは、悲惨というか、なんとも言いようがありません…。解説では、路面電車が全面的に廃止になったのが昭和53(1978)年だといいます。私が二十歳のときです。当時、神戸に住んでいましたが、廃止寸前の頃に、一度だけ乗ったような記憶があります。今から思えば、市電を無くしてしまうなんて…もったいない話しですね。電車、自転車、人の歩行を優先るす街になっていれば…と思わずにはいられません。

■ところで、「電気鉄道事業発祥の地」の石碑の碑文ですが、以下の通りです。
———————–
電気鉄道事業発祥の地
日本最初の電気鉄道はこの地に発祥した。即ち明治二十八年二月一日 京都電気鉄道 株式会社は 東洞院通り七条下る鉄道踏切 南側から伏見下油掛通りまで 六キロの間 に軌道を敷き 電車の運転を始めた。この成功を機として 我が国電気鉄道事業 は漸次全国に広がり 今日の新幹線電車にまで発展することになったのである。よってその八十周年にあたり 先人の偉業 を讃えてこの記念碑を建てる。 昭和五十年二月一日

日本国有鉄道
京都市交通局
関西電力株式会社
阪急電鉄株式会社
京阪電気鉄道株式会社
近畿日本鉄道株式会社
阪神電気鉄道株式会社
南海電気鉄道株式会社
京福電気鉄道株式会社
鉄道友の会京都支部
———————–
■関西の鉄道関係の企業がずらりとならんでいますね。阪神、南海なんて鉄道会社は京都とは関係ないはずですが、鉄道会社のとっては重要な「発祥の地」ということで、ここに名前があがっているのでしょう。ちなみに最後の「鉄道友の会」ですが、1953年(昭和28年)11月14日に創立された全国規模の鉄道愛好者団体です。広く鉄道知識を普及し、鉄道趣味を通じて会員相互の親睦を深め、鉄道を愛護し、その発展に寄与することを目的として設立されています。この「発祥の地」の石碑は、伏見区にも建てられているのだそうです。こちらも、チャンスがあれば見学したいと思っています。

戦後史証言アーカイブス「津波研究50年」首藤伸夫先生のこと

20141014syuto.png ■まず、最近facebookにアップした記事を、加筆修正の上で転載します。

首藤伸夫先生は、津波研究の第一人者だ。

私は、1998年4月から2004年3月まで、6年間、岩手県立大学総合政策学部に勤務していた。所属は、地域政策講座だった。首藤先生には、そのとき同じ地域政策講座でお世話になった。東北大学を定年で退職されたあと、岩手県立大学に勤務されていた。

教員住宅もお隣同士だった。私は単身赴任だったが、インフルエンザにかかってしまったとき、正月、関西に帰省していて、岩手に戻ったら水道管がカチンコチンに凍っていたとき…、私生活の面でもいろいろ助けていただいた。

もちろん、首藤先生には、津波のことについても、教えていただいた。5〜6年前だろうか、東京で偶然にお会いした。そのとき、日本大学に勤務されていた。そして、今日は、首藤先生にネットでお会いすることになった。NHKの「戦後史証言アーカイブス」のなかで証言しておられた。あのとき、もっと先生からいろいろお話しを伺っておけばよかったと思う。まあ、人生とは、そういう後悔の連続だからと、最近は開き直ってしまうけど。先生の証言を聞きながら、昔の教わったことや、首藤ゼミの学生たちの研究内容についても思い出してきた。

「津波研究50年」(「番組名 戦後史証言プロジェクト 日本人は何をめざしてきたのか」 2013年度「地方から見た戦後」第6回 三陸・田老 大津波と“万里の長城”)。

■さて、インターネットに「戦後史詳言アーカイブス」を開設した目的を、NHKは次のように説明しています。

NHKでは、戦後の歩美の中で日本人が経験したことを、未来に伝えるため『戦後史詳言アーカイブス』を開設しました。『日本人は何をめざしていたのか』などの番組で取材した政財界人から一般市民にいたる幅広い証言を、未放送の部分も含めてインターネット上で公開していきます。

■首藤先生の証言。2013年度「地方から見た戦後」の第6回「三陸・田老 大津波と”万里の頂上”」に登場する8人のなかのお1人として証言されています。

大津波を二度体験した/三陸・宮古市田老住民/赤沼ヨシさん「96歳 巨大防潮堤の町に生きた」
大津波を二度体験した/三陸・宮古市田老住民/荒谷アイさん/「悲劇を忘れない 昭和8年大津波で家族7人失う」
元 運輸省防災課/久田安夫さん「津波対策に取り組んで いま思う「悔しさ」」
元 建設省土木研究所研究員 東北大学名誉教授/首藤伸夫さん「津波研究50年」
大津波を二度体験した/三陸・宮古市田老住民(現 青森在住)/田畑 ヨシさん「二度の大津波体験を紙芝居で伝える」
田老診療所 医師(東日本大震災当時)/黒田仁さん「津波の町で医療を守る」
岩手県釜石市唐丹町 花露辺町内会長/下村恵寿さん/「”防潮堤はいらない”」
元 田老町漁業協同組合/梶山亨治郎さん「田老のシンボルだった巨大 防潮堤建設の経緯」
三陸・宮古市田老住民 漁師/扇田文雄さん/「将来に抱く不安 それでも海を離れたくない」
宮古市危機管理課 元 田老町職員/山崎正幸さん/「心の中に防潮堤を『津波防災の町 宣言』」

■首藤先生の証言全体は、4つのチャプターから構成されています。各チャプターごとに、語りが「再生テキスト」として文字化されています。

[1]おばあさんに教わった
[2]「津波研究などムダ」と言われた
[3]津波対策のこれから(一)
[4]津波対策のこれから(二)

【[1]おばあさんに教わった】
■このチャプターでは、1960年のチリ津波の調査に入ったときのことが証言されています。先生が津波研究に入られた動機が語られています。東大工学部を卒業されて当時の建設省に入省されます。1957年のことです。まだ高度経済成長の入り口に日本がいた時代です。私自身は、そのときにまだ生まれていません。日本はまだ貧しく堤防や防潮堤をつくる…という発想はまだなかったようです。

始まりはね、やっぱりチリ津波なんですよ。釜石のすぐ近くに両石っていうところがあって。そこでね、2階屋の1階がめちゃくちゃになって、2階はちゃんと残っている。後片付けに忙しいおばあさんのところに近寄って行ってね、「おばあさん大変ですね」って言ったらね、そのおばあさんがまたね、にこっと笑ってね、こんなに被害にあっているのにあんなきれいな笑顔ができるのかっていうぐらいににこっと笑ってね。「あんたね、こんなものは津波じゃないよ、昭和や明治の津波に比べたら」と、こうおっしゃったのね。(中略)昭和や明治の津波に比べたらこんなもの津波じゃないよと言ったので。それで昭和や明治の津波っていうのがどんなものだったのかという事を一生懸命文献を探しては読んでいた。そうしたらだんだんね、そのものすごさが分かってきた。

■社会学をやっていると、「おばあさん」のきれいな笑顔の意味、「昭和や明治の津波」の経験が、「おばあさん」の人生のなかでどのように位置づけられていたのか、突然不幸を受け止める力、それは何にもとづいているのか…そのようなことも気になってきますが、それはともかく。先生の関心は、「こんなものは津波じゃないよ、昭和や明治の津波に比べたら」という、そのものすごい津波の実態を知ろうというところから始まります。そして、それをどう防げばよいのかということにつながっていきます。

【[2]「津波研究などムダ」と言われた】
■このチャプターでは、「津波は防潮堤で防げる」という「過信」がひろがっていく時代について証言されています。「チリ津波特別措置法」により、「津波対策」=「構造物をつくること」…という社会的な発想が社会に定着していくのです。「こんなものは津波じゃないよ、昭和や明治の津波に比べたら」という古老の経験は活かされることはありません。あちこちに防潮堤が建設されました。1968年の十勝沖地震津波が、チリ津波よりほんのわずかだけど小さかったことが、かえって「過信」を生み出すことになりました。1980年代に入り建設省の河川局と水産庁が津波対策の再検討を始めたとき、先生は幹事長を務められたようですが、そのとき「予報」、「避難」、「構造物」の3本立てで津波対策を進めようとされました。ハードだけでなく、ソフトも含めて総合的な政策を進めなければならないという立場ですね。しかし、このような考え方に対しては、縦割り行政組織のなかにいる官僚たちから強い反発があったというのです。「津波は防潮堤で防げる」という「過信」がひろがっていく時代に、ソフト対策に対する抵抗は相当根強いものだったのです。古老の経験に耳を傾けることはありませんでした。

【[3]津波対策のこれから(一)】
■「チュウボー」という言葉が出てきます。「中防」=「中央防災会議」です。その「中防」が津波に関して提示した方針、「千年に一回程度襲ってくる最大級のレベル2の津波は、防潮堤を越えることを想定、手段を尽くした総合的な対策を立て」、「百年に1回程度のレベル1の津波は、基本的に防潮堤で防ぐ」という方針についても、それはすでに1993年の北海道南西沖地震の頃には、「頻度の高い津波は構造物で、それ以外はソフト対策とかね、町を津波に強いものにするという思想はずっとあった」というのです。先生は、こうも語っておられます。「とにかく人間はね、地球の事を何も知らないんですよ。だから今だってL2だほら何だとかって言って、1000年に1回なんて言っていますけどね、明日もっと大きいのが来てあとで調べたら1万5000年に1回のだったなんて事になっちゃ、ね。そういう事ってあり得るっていう事を考えて対策をするという、それが根本の考え方にないとダメですね」。ここには、限定された時空間の、限られた経験にもとづいて社会的に「わかったこと」にしてしまう傾向、別の言い方をすれば「蓋をしてしまう」傾向が垣間みえます。

■「津波対策っていうのは結局発生する頻度がそんなにないものだから、やっぱりいろんな部署ででも住民の間ででもとにかく忘れられてしまうっていう事がね。いちばんの難問題なんですよ。これをどうして繋いでいくかね」ということもおっしゃっています。世代を超えて「社会的な負の記憶」をどのように継承していくのかと言い換えることができるのかもしれません。もうひとつ、巨大な防潮堤のような構造物をつくっても、それらが劣化していく問題が視野に入っていないことも指摘されています。巨大な構造物を維持していくのには相当な社会的費用が必要です。そのような費用が担保できないのであれば、かえって巨大な構造物は危ないかもしれないというのです。「昔に比べてね、何かこう、行政がやってくれるからそれに従っていれば大丈夫だっていう気持ちがちょっと強くなりすぎているんじゃないんですかね」という指摘も、大切なご指摘だと思いました。

【[4]津波対策のこれから(二)】
■どのような津波の防災が必要なのか。たとえば巨大な防潮堤を拒否する地域がありますが、先生ははっきりこう言っておられます。「住民が責任を持っていろいろな情報を元にね、住民が責任を持ってそういう選択をするっていうのがね。それがいちばんいいことです。住民がそれを自分の責任で自分の子どもや孫にきちんと繋いでいくね、そうなきゃいかんと思います」。少し長くなりますが、以下をご覧ください。

守られた場所で本当に生活が成り立っていくという事とね、兼ね合わせですね。それを選ばにゃいかん。それはそれの最終決断は住民しかできないでしょう。だからその大きな構造物をつくる、いや、それはちょっと小さくしておいて、その代わりの手立てとして例えば高地移転するとかね、いろんなものの組み合わせがそこの集落の生活をつなぐという事との兼ね合わせでね。だから生活ができて、しかも安全であるという組み合わせ。どういう組み合わせを住民がよしとして取るかね。それをやってないと結局は大きいものをつくってあげたから大丈夫だろう、安全だろうって言って、つくってあげた方は俺はできる限りの事をしたと思っていても、そこで生活が成り立たなきゃみんなどこかに行っちゃいますよね。そうしたらせっかくつくったものが結局は役立たずになりますわな。だから最終的には住民がきちんとした情報のもとに判断をして、それを行政が助けてあげるという姿勢じゃないとね。防災対策なんて長続きしませんね。

■行政によるパターナリズムを批判し(同時に公共事業のあり方についても)、地域住民による自治を強調されています。そのうえで、やはり「いちばん難しいのがそういうものを何十年もそういう知恵をつないでいくっていう事ですね。これが難しい」と語っておられます。ここでも、世代を超えた「社会的な負の記憶」の継承していくことの困難性を語っておられるのです。「社会的な負の記憶」が忘却されていくとき、津波の被害にあいやすい場所に老人福祉施設や病院等が建設されるようになる…これは、私が岩手県立大学に勤務していたときに、首藤ゼミの学生の調査から学んだことです。今回も、先生は、以下のように語っておられます。「事あるごとに重要施設とか弱者施設っていうのは、安全な方に安全な方に持って行くっていうのが原則だけど、それをやっぱり長い時間たつとね、忘れてしまうんですよ。それがいちばん問題。だから皮肉な事を言うと、あなた方は今一生懸命こうやっているけど、同じ熱意で15年後ね、これから15年何もないときに同じ熱意でやれますかっていう事」。

■首藤先生の津波研究の始まりは、チリ津波で被害を受けた釜石の「おばあさん」との出会いでした。大学を卒業して建設省に入省した青年官僚だった先生も、80歳になっておられますが、とてもそのようにはみえません。じつに矍鑠(かくしゃく)とされています。ひょっとすると、釜石の「おばあさん」よりも年上になられたのかもしれません。社会的忘却にどのように抗して、「社会的な負の記憶」を継承していくのか。「おばあさん」から受け継いだ教訓を、NHKの若い取材スタッフに、そしてアーカイブスを視る人たちに、世代を超えて継承しようと、語っておられるように思えました。

【追記】首藤伸夫先生のご講演。2011/09/25 首藤伸夫東北大名誉教授 講演『津波とともに50年』。一般の人びとにもわかりやすく、ご自身のこれまでの研究経緯を説明されています。ぜひ、ご覧いただければと思います。

『悪童日記』(アゴダ・クリストフ)

20141013akudo2.jpg ■この本は、アゴダ・クリストフ(1935-2011)という作家の『悪童日記』という小説です。自宅の書架にある『悪童日記』の奥付には、1991年初版発行、1994年17版発行となっています。今から23年前に翻訳出版された小説です(購入したのは20年前)。原作は1986年です。原題は「Le Grand Cahier」。「大きな帳面」という意味です。主人公である双子の兄弟が書いた日記、という形式で作品は書かれています。「大きな帳面」が、日記なのです。

■この『悪童日記』、世界的なベストセラーになりました。作者のアゴダ・クリストフは、1956年のハンガリー動乱のさいに西側に亡命し、フランス語圏のスイスに住みながら創作活動をしてきたのだそうです(世界史をまなんだことのない学生の皆さんだと、ハンガリー動乱といってもよくわかりませんよね。ここでは説明できませんので、各自で調べてみてください)。この『悪童日記』は、彼女にとって初めての小説で、しかもフランス語で書かれました。生きることが厳しい母国の状況から逃れ、異国の地に暮らし、母国語以外の言語で小説を書いたわけです。小説家としてのデビューは51歳のときでした。彼女自身、自らの自伝なかで、フランス語で創作活動をすればするほど自分の母国語であるハンガリー語を「殺し続けることになる」と述べているようです。言語というものは、人間にとって、大変大きな存在基盤です。自己を形づくっている基盤です。『悪童日記』を創作することは、大変な苦労だったと思います。といいますか、異国の地で異国の言葉で書き続けることが…といったほうがよいかもしれまれん。しかし、そのような言語的なハンディキャップが、むしろ独特の文体を生み出すことにもつながっているのです。

20141013akudo1.png■ところで、なぜ昔読んだこの小説を自宅の書架からひっぱりだしてきたかというと、この小説が映画化され、10月3日より、全国各地の映画館で上映されているからです。新聞や雑誌等でも、この映画の評判を時々読みます。やはり行ってみたくなるではありませんか。芸術の秋は、いろんなところで素敵な展覧会をやっていますし、困りました。時間が足りません。とりあえず、映画の公式サイトをみてみました。すると、動画が自動的にたちあがりました。背景に流れる曲は、ベートーベンの交響曲7番の2楽章です。どうして、この曲が選ばれているかわかりませんが、深い哀しみを表現したかのような第2楽章とこの『悪童日記』とは、どこかで共振しあうように思います。

■映画のあらすじですが、原作にかなり忠実なようです。映画の公式サイトでは、次のように紹介されています。

第2次世界大戦末期、双子の「僕ら」は、小さな町の祖母の農園に疎開する。粗野で不潔で、人々に「魔女」と呼ばれる老婆の下、過酷な日々が始まった。双子は、生きるための労働を覚え、聖書と辞書だけで学び、様々な“練習”を自らに課すことで肉体と精神を鍛えていく。
そして、目に映った真実だけを克明にノートに記す――。
両親と離れて別世界にやってきた双子の兄弟が、過酷な戦時下を、実体験を頼りに独自の世界観を獲得し、自らの信念に基づきサバイバルしていく。なんとしても強く生き抜く彼らのたくましさは、倫理の枠を超えて見るものを圧倒し、希望の光をも示してくれるだろう。

20141013kristof2.jpeg20141013kristof1.jpeg ■『悪童日記』と、その後に執筆された『ふたりの証拠』『第三の嘘』をあわせて、アゴダ・クリストフの三部作と言われています。すべて、翻訳されて文庫本にもなっています。読んでみようと思います。いろんな方達の感想をプログ記事等で読ませていただくと、この三部作をすべて読むことで、深く納得できる世界が見えてくるようなのです。まだ、読んでいないので、最初からわかってしまうと面白さも半減してしまいそうではありますが…。とはいえ、たとえそういう結末なのだな…と知ったとはいえ、これは読まないわけにはいきませんよね。

20141013kristof3.jpeg 【追記】■もう1冊、まだ読んでいませんが、紹介しておこうと思います。『文盲』(L’analphabète) は、アゴダ・クリストフの「自伝」だそうです。amazonに掲載された出版社が提供した情報は以下の通りです。太字は、自分ために強調したものです。

世界的ベストセラー『悪童日記』の著者が初めて語る、壮絶なる半生。祖国ハンガリーを逃れ難民となり、母語ではない「敵語」で書くことを強いられた、亡命作家の苦悩と葛藤を描く。

「もし自分の国を離れていなかったら、わたしの人生はどんな人生になっていたのだろうか。もっと辛い、もっと貧しい人生になっていただろうと思う。けれども、こんなに孤独ではなく、こんなに心引き裂かれることもなかっただろう。幸せでさえあったかもしれない。
確かだと思うこと、それは、どこにいようと、どんな言語でであろうと、わたしはものを書いただろうということだ。」──本文より

東欧とおぼしき土地で、厳しい戦況を残酷なたくましさで生き抜く双子の「ぼくら」──彼らとそれを取りまく容赦ない現実を、身震いするほど淡々とした文体で描いた世界的ベストセラー『悪童日記』(邦訳1991年)の衝撃は、今なおわたしたちの記憶に新しい。

その驚愕の物語設定や独得の文体はもとより、それがまったく無名のハンガリー人女性の処女作であったこと、小説が書かれたフランス語は〈難民〉だった彼女が20歳を超えてから身につけたものだということなど、著者本人についても大いに注目が集まった。

そんな彼女が、短いながら濃密な自伝を発表した。祖国ハンガリーを逃れ、異国の地で母語ではない〈敵語〉で書くことを強いられた、亡命作家の苦悩と葛藤が鋭い筆致で描かれ、「家族」「言語」「東欧」「難民」「書くということ」について、そして「幸福」について深く考えさせられる。そして、彼女の作品がまさに自身の壮絶な人生から絞り出されたものであることもわかる

「もし自分の国を離れなかったら、わたしの人生はどんな人生になっていたのだろうか。もっと辛い、もっと貧しい人生になっていただろうと思う。けれども、こんなに孤独ではなく、こんなに心引き裂かれることもなかっただろう。幸せでさえあったかもしれない。確かだと思うこと、それは、どこにいようと、どんな言語でであろうと、わたしはものを書いただろうということだ。」(「国外亡命者たち」より)

チャイコフスキー交響曲第5番

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■風邪をひいてしまい38℃の熱が出ていましたが、病院に処方してもらった薬で、やっと熱が下がりました。体調も安定してきたように思います。今回は、風邪がもとで、2日間の禁酒をせざるを得ませんでした。しかし、体調が戻ったので「もう、飲んでも良いでしょう〜」と自分で勝手に診断し、夕食では缶ビールをいただきました。美味しいですね〜。

■晩は、ひさしぶりに、テレビでNHK交響楽団の演奏を楽しみました。プログラムは、モーツァルトの交響曲 第40番と、チャイコフスキーの交響曲 第5番です。後者の「チャイ5」は、私が学生時代(学部4年生)に演奏した最後の曲です。懐かしかったですね〜。指揮者のブロムシュテットさんは、1927年生まれといいますから、87歳になります。ものすごく、お元気ですね。驚きます。亡くなった父親と同年齢とはとても思えません。番組では、演奏前にプロムシュテットさんの解説がありました。このようなことをおっしゃっていました。スコアには、作曲家がすべてにわたり細かく指示を書いている…というのですね。なぜそのスピードなのか、なぜこの音であって別の音でないのか。作曲家の意図を細かく検討していくと、その曲が深く理解できる…まあ、そのようなお話しでした。スコアという地層を掘り進む科学者のようでもあります。曲を、作曲者という主体の視点から構造的に理解しようとされている…そういうふうにいえるのかもしれません。

■今回のN響の演奏では、ブロムシュテットさんが思うように演奏できたのでしょう。そのことが、演奏後のブロムシュテットさんの満足げな様子からよくわかりました。チャイコフスキーの曲では、しばしばメロドラマのようなロマンチックな演奏がみられます。しかし、ブロムシュテットさんの指揮は、ロマンチックな演奏でありながらも、スコアの分析にもとづく曲の解釈の「枠組み」があり、その「枠組み」のなかで適度に抑制されているように思えました。ベタベタしたところが、ありません。そのバランスの妙味は、87歳で現役の指揮者にしかできないことなのかもしれません。

■ところで、「チャイ5」と書きました。オケの世界では、曲名に関して業界用語がいろいろあります。「チャイ5」は「チャイコフスキーの交響曲第5番」のことです。だから、チャイコフスキーの交響曲4番のばあいは、「チャイ4」といいます。では、6番はどうかというと、こちらは「悲壮」タイトルがついています。ベートーベンだと、交響曲の3・5・6・9番は、それぞれ「英雄」・「運命」・「田園」・「第9」と呼ばれることが多いわけですが、その他は、「べー1」、「べー2」、「べー4」、「べー7(なな)」ということになります。私が学生時代に演奏した曲でいえば、ドボルザークの交響曲9番については良く知られるように「新世界」となりますが、8番は「ドボ8」といいます。「ブラ1」、「ブラ2」、「ブラ3」、「ブラ4」。これは、すべてブラームスの交響曲ですね。えっ…と思うものもあります。たとえば、「モツレク」です。モーツァルトの「レクイエム」です…。話しが脱線してしまいました。

■トップの写真は、私が4年生の12月に行われた「関西学院交響楽団 第60回 定期演奏会」の写真です。私にとっては、学部生時代最後の定期演奏会です。演奏しているのは「チャイ5」。指揮は、湯浅卓雄先生です。今日、自宅にあるMDに録音された演奏を聞いてみました。まあ当然なのですが、いかにも学生オーケストラ…です。特に弦楽器は、初心者から始めた人がほとんどなので、技術的なレベルでいえば、…いろいろ問題があります。いやお恥ずかしい…という感じなのですが、指揮者の湯浅先生は、そのような技術的なレベルであっても、私たち学生オケの良いところを引き出し、できるだけ良い演奏に曲全体をうまく組み立てようとされていることが伝わってきます。

■写真のなかには、現在も市民オーケストラで活躍されている人たちが多数います。羨ましいですね〜。また、音楽大学等からエキストラで来ていただいた方のなかには、その後、プロのオーケストラに入団された方もおられます。このブログで何度も書きましたが、私はといえば、28歳のときにそれまで続けてきた音楽活動を中止しました。それは、それでよかったと思っていますが、問題は、はたして楽器を再開できるのか…ということでしょうね。

【追記】■ブロムシュテットさんと東日本大震災・いわき市について。
ブロムシュテットのスピーチ〜いわき市民に語りかけた5分間(前編)
ブロムシュテットのスピーチ〜いわき市民に語りかけた5分間(後編)

「本文続きます」のこと

■時々、時間が足りず、「本文続きます」などと書いているばあいがあります。もっと書きたいことがあっても時間の関係で書けないときは、そうやって、あとで時間をみつけて書き足すようにしています。ところが、「老人力」がついてきているせいか、「本文続きます」のままにしているばあいがどうもあるようです。申し訳ありません。今朝も見つけました。10月10日の「町家キャンパスについて」というエントリーもそうでした。「学生の皆さんへ」で終わってしまっていました。しかし、何を書こうと思っていたのか、なかなか思い出せないのです。まだ「老人力」がつきはじめたばかりなので、「いつか思い出すやろ〜」とはいかず、しばし頭をひねっていました。なんとか思い出すことができました。「学生の皆さんへ」と書いていたのが、ヒントになりました。

■こういう「本文続きます」のまま…になっているエントリー、他にもあるのではないかと思います。申し訳ありません。気がつきしだい。きちんと追加をしたいと思います。何かを追加すべきか忘れてしまっているばあいは、「本文続きます」をカットします。また、過去のエントリーに関して、後から追加したいなと思うものもあります。そのばあいは、【追記】として書き足しています。

権利だけの話しなのか…

■ちょっとした偶然から、2つの動画を視ることになりました。難しい。
米 29歳末期がん患者、「安楽死する」と公表
スイス 自殺幇助サービス(2010)

■「個人」の「権利」の問題に還元してしまうことに、死を「個」の問題に限定してしまうことに、どうもしっくりこないものを感じます。いろいろ書こうと思いましたが、まだまだ不勉強なので…。いいがげんなことを書いてしまうのではないかと思い、本文を書くこと、途中でやめて削除しました。

Super Typhoon Vongfong Seen From ISS

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■いよいよ台風19号「ヴォンフォン」がやってきます。今回は、マカオが命名ということで、「Vongfong 」とは中国語ですかね。スズメバチの意味だそうです。それほど、強烈な台風です。どうしましょうか。弱りました。トップにあげたYouTubeの動画の一部は、国際宇宙ステーション(ISS)から撮影したものです。大きな「目玉」があいています。これが大きいほど、台風の勢力は強いのだそうです。1959年の伊勢湾台風クラスの強さだそうです。

■このような台風の襲来を前に、JR西日本のネット上での告知(12日23時52分現在)では、「京阪神地区の在来線各線区では、10月13日(月)の14時頃から順次列車の運転本数を減らし、16時頃から終日、全列車(特急・新快速・快速・普通)の運転を取りやめさせていただきます。ご利用のお客様には大変ご迷惑をおかけいたしますが、10月13日(月)のお出かけは控えて頂きますようにお願い申し上げます」とのことです。家を出るのを控えろ…とは。これは尋常ではありませんね。それほどの台風ということでしょうか。学生の皆さん、こういうときは、変に生真面目にならないようにしてください。大学のホームページや鉄道会社からの情報をこま目にチェックしてください。また、休講だからと街に遊びに出るようなことも控えたほうがよいと思います。

鉄道の日

20141012tetudo.jpg ■鉄道が好きです。しかし、鉄道で蘊蓄を傾けることができるような物知りではありません。鉄道の世界は大変奥深く、ものすごい「鉄の巨人」のような人たちがたくさんおられます。私は、マニア…ともいえない、ただの鉄道好きです。特に、「乗る」ことが好きです。一番素朴なタイプです。ですから、10月14日が「鉄道の日」ということさえ知りませんでした。「へ〜、そうなんか…」となるわけです。

■明治5年9月12日、現在の新暦でいえば1872年10月14日に、新橋駅・横浜駅との間を蒸気機関車が結んだのが日本の鉄道の始まりです。日本史を多少なりとも勉強された方達は、新橋・横浜はわかると思いますが、それが10月14日であることまでは知りませんよね。私もそうでした。そして、1921年(大正10年)10月14日に、つまり鉄道開業50年後、50周年を記念して東京駅の丸の内北口に鉄道博物館が開館したのだそうです。そのことを記念して、10月14日が「鉄道記念日」となりました。

■それでは、この「鉄道記念日」が「鉄道の日」に変わるのがいつかというと、1994年なのだそうです。当時の運輸省(現在の国土交通省)が「『鉄道記念日』のままではJRグループ色が強い」ということで、すべての鉄道事業者が祝う記念日となった…のだそうです。以上の話しは、すべてwikipediaの「鉄道の日」に教えてもらいました。

norazuni_jacket ■ところで、冒頭に「鉄の巨人」と書きましたが、私の知り合いにも、そのような方が1人おられます。もう何年も前に、大津市のジャズバー(有名な「パーンの笛」)でお会いした経営コンサルタントの黒田一樹さんです。経営コンサルタントのお仕事の傍らで、世界をまたにかけて(お仕事の関係もありますが…)勢力的に鉄道研究家としての活動をなさっておられます。とうとう『乗らずに死ねるか!』という本を上梓されました。これは、すごい本です。タイトルですが、内藤陳さんの「読まずに死ねるか!」をパロった感じですが、どうなだろう。こんど黒田さんに聞いてみます。装丁も面白いですね。堅紙切符です。ハサミのあともありますね。今時の若い学生には、ピンとこないかもしれません。

■以下が、目次です。鉄道に対する独自の視点、それからこれが大切ですが鉄道に対する「愛」に満ちあふれています。これまでも、東京や大阪で、鉄道に関する講演会も何度もなさっておられます。ファンも多数。すごい方です。人にもプレゼントしたいと思い、2冊も買ってしまいました。この点にいては、黒田さんに喜んでもらえるかな。

第1章 通勤電車篇――日常に息づく知性と技術

最後にして最高の俺様電車/京急800形 普通
劇場路線に立つ千両役者/京阪800系 京津線普通
標準化車両におけるDNA/西武20000系 池袋線急行
マルーンの到達点に感じ入る/阪急7000系 神戸線特急
意志あるところに道は拓ける/東京メトロ9000系 目黒線直通急行
名車の熟成と底力/京成3700系 アクセス特急

第2章 JR特急篇――風情と利便性のあいだ
交響曲・孤高の振り子特急/JR東日本E351系1000番台 特急スーパーあずさ
長距離走者の孤独/JR東海383系 特急しなの九号
リゾート感と使い勝手の妙/JR北海道183系気動車5200番台「流氷特急オホーツクの風」
20年物の余韻/JR東日本251系電車 特急「スーパービュー踊り子」
ディーゼル特急、驚異の60分/JR四国2000系気動車 特急「うずしお九号」
ゆったり?速く?/JR西日本381系電車 特急やくも九号

第3章 インターシティ篇――デッドヒートに磨かれて

最西端のスプリンター/西鉄8000系天神大牟田線特急
見た目も実力もいぶし銀/山陽5000系 直通特急
目を凝らせ、息を呑め/JR東日本E721系電車 仙山線快速
空港アクセスの優等生/JR北海道 721系電車 快速「エアポート」

第4章 私鉄特急篇――百花繚乱プレミアム

渾身の世界観/小田急50000系VSE スーパーはこね13号
輝く天の河/名鉄1000系パノラマSuper 本線快速特急
純喫茶、臨港線、連絡船/南海10000系 特急サザン9号
リニューアルのあり方とは/近鉄26000系 さくらライナー
飴色に沈む時間/東武300系 特急「尾瀬夜行」

第5章 地方私鉄篇――遙かなる時空間へ

雷鳥、気高く/富山地方鉄道14760系 特急うなづき
ほら、あの夜景を見に行こう/神戸電鉄1000系列 有馬・三田線 急行
旅は距離の絶対値を問うものに非ず/大井川鐵道クハ600形 井川線 普通
窓を開ければ蝉時雨/小湊鐵道キハ200 普通
目を閉じれば甦るあの日/琴電1070形 琴平線普通
「一枚のキップから」再び/秩父鉄道5000系 普通 

〈コラム〉
戦後電車史概論その1 1950年代、1960年代
戦後電車史概論その2 1970年代、1980年代
戦後電車史概論その3 1990年代、21世紀

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