戦後史証言アーカイブス「津波研究50年」首藤伸夫先生のこと

20141014syuto.png ■まず、最近facebookにアップした記事を、加筆修正の上で転載します。

首藤伸夫先生は、津波研究の第一人者だ。

私は、1998年4月から2004年3月まで、6年間、岩手県立大学総合政策学部に勤務していた。所属は、地域政策講座だった。首藤先生には、そのとき同じ地域政策講座でお世話になった。東北大学を定年で退職されたあと、岩手県立大学に勤務されていた。

教員住宅もお隣同士だった。私は単身赴任だったが、インフルエンザにかかってしまったとき、正月、関西に帰省していて、岩手に戻ったら水道管がカチンコチンに凍っていたとき…、私生活の面でもいろいろ助けていただいた。

もちろん、首藤先生には、津波のことについても、教えていただいた。5〜6年前だろうか、東京で偶然にお会いした。そのとき、日本大学に勤務されていた。そして、今日は、首藤先生にネットでお会いすることになった。NHKの「戦後史証言アーカイブス」のなかで証言しておられた。あのとき、もっと先生からいろいろお話しを伺っておけばよかったと思う。まあ、人生とは、そういう後悔の連続だからと、最近は開き直ってしまうけど。先生の証言を聞きながら、昔の教わったことや、首藤ゼミの学生たちの研究内容についても思い出してきた。

「津波研究50年」(「番組名 戦後史証言プロジェクト 日本人は何をめざしてきたのか」 2013年度「地方から見た戦後」第6回 三陸・田老 大津波と“万里の長城”)。

■さて、インターネットに「戦後史詳言アーカイブス」を開設した目的を、NHKは次のように説明しています。

NHKでは、戦後の歩美の中で日本人が経験したことを、未来に伝えるため『戦後史詳言アーカイブス』を開設しました。『日本人は何をめざしていたのか』などの番組で取材した政財界人から一般市民にいたる幅広い証言を、未放送の部分も含めてインターネット上で公開していきます。

■首藤先生の証言。2013年度「地方から見た戦後」の第6回「三陸・田老 大津波と”万里の頂上”」に登場する8人のなかのお1人として証言されています。

大津波を二度体験した/三陸・宮古市田老住民/赤沼ヨシさん「96歳 巨大防潮堤の町に生きた」
大津波を二度体験した/三陸・宮古市田老住民/荒谷アイさん/「悲劇を忘れない 昭和8年大津波で家族7人失う」
元 運輸省防災課/久田安夫さん「津波対策に取り組んで いま思う「悔しさ」」
元 建設省土木研究所研究員 東北大学名誉教授/首藤伸夫さん「津波研究50年」
大津波を二度体験した/三陸・宮古市田老住民(現 青森在住)/田畑 ヨシさん「二度の大津波体験を紙芝居で伝える」
田老診療所 医師(東日本大震災当時)/黒田仁さん「津波の町で医療を守る」
岩手県釜石市唐丹町 花露辺町内会長/下村恵寿さん/「”防潮堤はいらない”」
元 田老町漁業協同組合/梶山亨治郎さん「田老のシンボルだった巨大 防潮堤建設の経緯」
三陸・宮古市田老住民 漁師/扇田文雄さん/「将来に抱く不安 それでも海を離れたくない」
宮古市危機管理課 元 田老町職員/山崎正幸さん/「心の中に防潮堤を『津波防災の町 宣言』」

■首藤先生の証言全体は、4つのチャプターから構成されています。各チャプターごとに、語りが「再生テキスト」として文字化されています。

[1]おばあさんに教わった
[2]「津波研究などムダ」と言われた
[3]津波対策のこれから(一)
[4]津波対策のこれから(二)

【[1]おばあさんに教わった】
■このチャプターでは、1960年のチリ津波の調査に入ったときのことが証言されています。先生が津波研究に入られた動機が語られています。東大工学部を卒業されて当時の建設省に入省されます。1957年のことです。まだ高度経済成長の入り口に日本がいた時代です。私自身は、そのときにまだ生まれていません。日本はまだ貧しく堤防や防潮堤をつくる…という発想はまだなかったようです。

始まりはね、やっぱりチリ津波なんですよ。釜石のすぐ近くに両石っていうところがあって。そこでね、2階屋の1階がめちゃくちゃになって、2階はちゃんと残っている。後片付けに忙しいおばあさんのところに近寄って行ってね、「おばあさん大変ですね」って言ったらね、そのおばあさんがまたね、にこっと笑ってね、こんなに被害にあっているのにあんなきれいな笑顔ができるのかっていうぐらいににこっと笑ってね。「あんたね、こんなものは津波じゃないよ、昭和や明治の津波に比べたら」と、こうおっしゃったのね。(中略)昭和や明治の津波に比べたらこんなもの津波じゃないよと言ったので。それで昭和や明治の津波っていうのがどんなものだったのかという事を一生懸命文献を探しては読んでいた。そうしたらだんだんね、そのものすごさが分かってきた。

■社会学をやっていると、「おばあさん」のきれいな笑顔の意味、「昭和や明治の津波」の経験が、「おばあさん」の人生のなかでどのように位置づけられていたのか、突然不幸を受け止める力、それは何にもとづいているのか…そのようなことも気になってきますが、それはともかく。先生の関心は、「こんなものは津波じゃないよ、昭和や明治の津波に比べたら」という、そのものすごい津波の実態を知ろうというところから始まります。そして、それをどう防げばよいのかということにつながっていきます。

【[2]「津波研究などムダ」と言われた】
■このチャプターでは、「津波は防潮堤で防げる」という「過信」がひろがっていく時代について証言されています。「チリ津波特別措置法」により、「津波対策」=「構造物をつくること」…という社会的な発想が社会に定着していくのです。「こんなものは津波じゃないよ、昭和や明治の津波に比べたら」という古老の経験は活かされることはありません。あちこちに防潮堤が建設されました。1968年の十勝沖地震津波が、チリ津波よりほんのわずかだけど小さかったことが、かえって「過信」を生み出すことになりました。1980年代に入り建設省の河川局と水産庁が津波対策の再検討を始めたとき、先生は幹事長を務められたようですが、そのとき「予報」、「避難」、「構造物」の3本立てで津波対策を進めようとされました。ハードだけでなく、ソフトも含めて総合的な政策を進めなければならないという立場ですね。しかし、このような考え方に対しては、縦割り行政組織のなかにいる官僚たちから強い反発があったというのです。「津波は防潮堤で防げる」という「過信」がひろがっていく時代に、ソフト対策に対する抵抗は相当根強いものだったのです。古老の経験に耳を傾けることはありませんでした。

【[3]津波対策のこれから(一)】
■「チュウボー」という言葉が出てきます。「中防」=「中央防災会議」です。その「中防」が津波に関して提示した方針、「千年に一回程度襲ってくる最大級のレベル2の津波は、防潮堤を越えることを想定、手段を尽くした総合的な対策を立て」、「百年に1回程度のレベル1の津波は、基本的に防潮堤で防ぐ」という方針についても、それはすでに1993年の北海道南西沖地震の頃には、「頻度の高い津波は構造物で、それ以外はソフト対策とかね、町を津波に強いものにするという思想はずっとあった」というのです。先生は、こうも語っておられます。「とにかく人間はね、地球の事を何も知らないんですよ。だから今だってL2だほら何だとかって言って、1000年に1回なんて言っていますけどね、明日もっと大きいのが来てあとで調べたら1万5000年に1回のだったなんて事になっちゃ、ね。そういう事ってあり得るっていう事を考えて対策をするという、それが根本の考え方にないとダメですね」。ここには、限定された時空間の、限られた経験にもとづいて社会的に「わかったこと」にしてしまう傾向、別の言い方をすれば「蓋をしてしまう」傾向が垣間みえます。

■「津波対策っていうのは結局発生する頻度がそんなにないものだから、やっぱりいろんな部署ででも住民の間ででもとにかく忘れられてしまうっていう事がね。いちばんの難問題なんですよ。これをどうして繋いでいくかね」ということもおっしゃっています。世代を超えて「社会的な負の記憶」をどのように継承していくのかと言い換えることができるのかもしれません。もうひとつ、巨大な防潮堤のような構造物をつくっても、それらが劣化していく問題が視野に入っていないことも指摘されています。巨大な構造物を維持していくのには相当な社会的費用が必要です。そのような費用が担保できないのであれば、かえって巨大な構造物は危ないかもしれないというのです。「昔に比べてね、何かこう、行政がやってくれるからそれに従っていれば大丈夫だっていう気持ちがちょっと強くなりすぎているんじゃないんですかね」という指摘も、大切なご指摘だと思いました。

【[4]津波対策のこれから(二)】
■どのような津波の防災が必要なのか。たとえば巨大な防潮堤を拒否する地域がありますが、先生ははっきりこう言っておられます。「住民が責任を持っていろいろな情報を元にね、住民が責任を持ってそういう選択をするっていうのがね。それがいちばんいいことです。住民がそれを自分の責任で自分の子どもや孫にきちんと繋いでいくね、そうなきゃいかんと思います」。少し長くなりますが、以下をご覧ください。

守られた場所で本当に生活が成り立っていくという事とね、兼ね合わせですね。それを選ばにゃいかん。それはそれの最終決断は住民しかできないでしょう。だからその大きな構造物をつくる、いや、それはちょっと小さくしておいて、その代わりの手立てとして例えば高地移転するとかね、いろんなものの組み合わせがそこの集落の生活をつなぐという事との兼ね合わせでね。だから生活ができて、しかも安全であるという組み合わせ。どういう組み合わせを住民がよしとして取るかね。それをやってないと結局は大きいものをつくってあげたから大丈夫だろう、安全だろうって言って、つくってあげた方は俺はできる限りの事をしたと思っていても、そこで生活が成り立たなきゃみんなどこかに行っちゃいますよね。そうしたらせっかくつくったものが結局は役立たずになりますわな。だから最終的には住民がきちんとした情報のもとに判断をして、それを行政が助けてあげるという姿勢じゃないとね。防災対策なんて長続きしませんね。

■行政によるパターナリズムを批判し(同時に公共事業のあり方についても)、地域住民による自治を強調されています。そのうえで、やはり「いちばん難しいのがそういうものを何十年もそういう知恵をつないでいくっていう事ですね。これが難しい」と語っておられます。ここでも、世代を超えた「社会的な負の記憶」の継承していくことの困難性を語っておられるのです。「社会的な負の記憶」が忘却されていくとき、津波の被害にあいやすい場所に老人福祉施設や病院等が建設されるようになる…これは、私が岩手県立大学に勤務していたときに、首藤ゼミの学生の調査から学んだことです。今回も、先生は、以下のように語っておられます。「事あるごとに重要施設とか弱者施設っていうのは、安全な方に安全な方に持って行くっていうのが原則だけど、それをやっぱり長い時間たつとね、忘れてしまうんですよ。それがいちばん問題。だから皮肉な事を言うと、あなた方は今一生懸命こうやっているけど、同じ熱意で15年後ね、これから15年何もないときに同じ熱意でやれますかっていう事」。

■首藤先生の津波研究の始まりは、チリ津波で被害を受けた釜石の「おばあさん」との出会いでした。大学を卒業して建設省に入省した青年官僚だった先生も、80歳になっておられますが、とてもそのようにはみえません。じつに矍鑠(かくしゃく)とされています。ひょっとすると、釜石の「おばあさん」よりも年上になられたのかもしれません。社会的忘却にどのように抗して、「社会的な負の記憶」を継承していくのか。「おばあさん」から受け継いだ教訓を、NHKの若い取材スタッフに、そしてアーカイブスを視る人たちに、世代を超えて継承しようと、語っておられるように思えました。

【追記】首藤伸夫先生のご講演。2011/09/25 首藤伸夫東北大名誉教授 講演『津波とともに50年』。一般の人びとにもわかりやすく、ご自身のこれまでの研究経緯を説明されています。ぜひ、ご覧いただければと思います。

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