「『信用なき助けあい』はなぜ成り立つのか」という記事
『チョンキンマンションのボスは知っている アングラ経済の人類学』の著者・小川さやかさんの記事。「偶然性や不確実性を認めるからこそ、人は助けあうことができるのではないでしょうか」。https://t.co/hZrZ18kuGl
— 脇田健一 (@wakkyken) May 28, 2021
■私は、小川さやかさんという人類学者のことを、『チョンキンマンションのボスは知っている アングラ経済の人類学』というユニークなタイトルの本を通して知りました。小川さんは、アフリカのタンザニアで、現地のコミュニティに入り込み、自ら路上で古着を売る路上販売をしながら、「それまでほとんど知られていなかった現地の路上商人たちの生活や商売の仕組みを明らかに」されました。その後、小川さんは、2016年10月からの半年間香港に滞在し、香港のチョンキンマンション(重慶大厦)にある安宿で暮らす、タンザニア人のコミュニティで参与観察を行いました。その時の調査から、この『チョンキンマンションのボスは知っている アングラ経済の人類学』は生まれました。
■さて、小川さんは、この記事の中で、私たちが暮らしている近代社会は世界の偶然性や不確実性を排除する方向で進化してきたと述べています。そのような社会では、個々人が被る不利益は、自己責任ということになりがちです。彼女は、「未来が予測できるのであれば、あなたがいま困窮しているのはその予測をあなたが怠ったからであり、つまりは自己責任だからです。近年の生活保護受給者たたきなどは、まさにこの理屈ではないでしょうか」とも述べておられます。しかし、このような私たちが慣れきった社会と、小川さんがフィールドワークをしてきたタンザニアの人びとの社会とは、根本のところで異なっています。タンザニアは、小川さんによれば「未来を予測できない社会」なのです。
経済面においても政治面においても不安定なタンザニアでは、将来の予測を立てることが難しく、私たちの常識では考えられない不条理な事態に遭遇することが多々あります。小さいときからそうした世界を生きていると、他人のした事や置かれている状況について、簡単にその人のせいだとは言えなくなるのではないでしょうか。リスクを予測し、将来に備えて最大限の準備をしていても、どうにもないことがある。そのことを、彼らは身をもって経験してきているのです。
■このような予測不可能で不安定な社会では、偶然性や不確実性が排除された(そう思っているだけかもしれませんが…)社会とは異なる生き方が必要になってきます。それは「他人への『貸し』をすぐには取り立てない…」ということです。すぐに取り立てないことで、自分の周りに、自分を守っていくためのネットワークを維持することができる、様々な力を持っている多様な人たちとつながりをゆるくキープしておくことができるわけです。それは、人生の保険=セーフティネットになるというのです。何かこのような人生の保険は、かつてマルセル・モースが『贈与論」の中で述べたこととかなり近いものであるような気がします。
タンザニアの友人たちは、この社会で生きていくためには、他人への「貸し」をすぐには取り立てないことだと言います。たとえば誰かに1万円を貸して翌月に取り立てたら、貸し借りはそれでチャラになります。しかし私が取り立てなければ(あるいは貸したことを忘れていたら)、その相手が大会社の社長になり、1万円が100万円になって返ってくるかもしれません。もちろん詐欺師になっているかもしれませんが、そういう知り合いがいるのも悪くはないものです。誰かに親切にしてあげた見返りは、必要となるとき――たとえば携帯を盗られるとか――が来るまで放置しておいた方がいい。取り立てていない貸しは、彼らにとって人生の保険なのです。
目の前に困っている者がいれば――その原因にかかわらず――ムリのない範囲で助け、貸しをつくっておく。そうすることで他の人も「あいつはいいやつだ」と言ってフォロワーになってくれるかもしれない。そこには国家も保険会社もありませんが、ある種のセーフティネットがたしかに機能しているのです。
■では、これは私たちの世界とは異なる世界の話なのでしょうか。小川さんはそうではないと言います。新型コロナの感染拡大で、私たちは「未来は予測できる」という世界観が幻想だったことを思い知りました。「この世界は相変わらず、偶然性と不確実性に満ちている」のです。そのような状況は、安定した世界に慣れきった私たちにを大変不安にさせるわけですが、小川さんは、「一方で、偶然性や不確実性を認めるからこそ、人は助けあうことができるのではないでしょうか」と述べておられます。重要なご指摘かと思います。
■ひょっとすると、相手は自分を騙しているのかもしれない。だから、タンザニア人のコミュニティの皆さんは、小川さんに対して、「誰も信用するな」と言います。相手に対する信用はない。けれども、その点も含めて相手を理解し(引き受け)、できる範囲で困っている人を助ける。それは、自分の「人生の保険」になるかもしれないのだから(ならないかもしれないし)。この小川さんの主張を、「利他」という概念と重ねてみるとどのように理解できるのでしょうか。「利他」についてよく知る人は、これは合理的利他主義だというかもしれません。よく「情けは人のためならず」(他人を助けることが、結果として自分に返ってくる)と言ったりしますが、この記事からすると、困っている人のためだけど、長期的に見れば、それは自分のためでもある…ということになります。そもそも、「人生の保険」としてのセーフティネットですから。でも、合理的利他主義と言い切って良いのでしょうか。そう単純に言い切ることもできないように思います。