안도현 (アン・ドヒョン)の詩

20141012rentan.jpg ■韓国の知人がFacebookで、「스며드는 것 」という詩を紹介していました(正確にいうと、韓国のテレビ番組のなかにこの詩が登場していた)。안도현(アン・ドヒョン)という1961年生まれの韓国の詩人の詩でした。ハングルが読めないので、正確な意味あいはわかりませんが(ネットの翻訳機能を駆使して、おぼろげながらの理解)、カンジャケジャン(간장게장)という料理に関する詩です。カンジャケジャンとは、新鮮な生のワタリガニを漬け込み醤油ダレに漬けて熟成させた料理です。といっても、「美味しい」詩ではありません。料理にされるワタリガニの母親の詩なのです。カンジャケジャンにされるワタリガニは、卵を身体に抱えたメスの蟹が材料になります。卵が詰まっていて肉が硬く、しっかりと味を楽しむことができるからなのだそうです。しかし、「殺される」側のワタリガニの母子にとっては、これは凄惨で残酷な話しになります。

■詩のなかでは、漬け込み醤油ダレが身体にしみ込んでしだいに聞こえなくなってしまうのですが、完全に聞こえなくなってしまう前に(死んでしまう前に)、子どもたち(卵)に母親が語りかける…そのような悲しい詩らしいのです。最後に、残された力で、子ども(卵)たちにを安心させるために、夕方になってきたし灯りを消して寝ましょうと語るのですが、それは醤油の中に入れられたため周りが真っ暗になったことを夕方に、そしてしだいに死んでいくことを睡眠に例えた…というのが、私の友人の解釈です。視点を変化させると、「美味しい」から「悲しい」に大転換してしまう。この詩の題名は、「스며드는 것」(おそらくは「しみ込んでくること」なのかな…)。はっ…としました。アン・ドヒョンという人は、どういう詩人なのか。詩については、知識や見識をまったく持ち合わせていないため、よくわかりません。
(画像:ウイキメディアコモンズ

■ネットで調べてみました。アン・ドヒョンさんには、「練炭一枚」という詩があります。韓国の教科書にも取り上げられている詩のようです。この詩についても、素敵だなと思いました。韓国語・ハングルの会話学校のサイトで紹介されていました(こちらです)。ただし紹介されている方は、「日本語で訳しましたが、詩人が選んだ単語のニュアンスをそのまま活かすことが完璧にはできませんでした。なので、今回の和訳は私がこの詩を読みながら感じた私の感想や解釈が影響されていると思います」とも書かれています。これも大切な点ですね。

<연탄 한 장>
     안도현

또 다른 말도 많고 많지만
삶이란
나 아닌 그 누군가에게
기꺼이 연탄 한 장이 되는 것

방구들 선득선득 해지는 날부터
이듬해 봄까지
조선팔도 거리에서 제일 아름다운 것은
연탄차가 부릉부릉
힘쓰며 언덕길 오르는 거라네
해야 할 일이 무엇인가를 알고 있다는 듯이
연탄은, 일단 제 몸에 불이 옮겨 붙었다 하면
하염없이 뜨거워 지는 것 매일 따스한 밥과 국물 퍼먹으면서도 몰랐네
온 몸으로 사랑하고 나면 한덩이 재로 쓸쓸하게 남는게 두려워
여태껏 나는 그 누구에게 연탄 한장도 되지 못하였네

생각하면
삶이란
나를 산산히 으깨는 일
눈 내려 세상이 미끄러운 어느 이른 아침에
나 아닌 그 누가 마음 놓고 걸어갈
그 길을 만들 줄도 몰랐었네, 나는

<練炭一枚>
        アン・ドヒョン

他の言葉も多くて多いけど
人生とは
自分ではない誰かのために
喜んで練炭一枚になること

床がひやっとしてくる日から
来年の春まで
朝鮮八道の道で最も美しいのは
練炭車がブルンブルンと
頑張って丘を上がることなんだよ
やるべきことが何か知っているように
練炭は、まず自分に火を移し燃えると
限りなく熱くなること
毎日温かいご飯とお汁をがつがつ食べながらも知らなかった
全身で愛した後は
一塊の灰として寂しく残ることが怖くて
今まで私は誰に対しても練炭一枚にもなれなかったね。

思ってみれば
人生とは
自分を
粉々に砕くこと

雪が降り世の中がつるつるしたある朝っぱらに
自分ではないある人が安心して歩いていく
その道を作ることもできなかった、私は

■私は、このアン・ドヒョンの詩を読みながら、以前このブログで書いた「黒子に徹する潔さ」のことを思い出しました。このエントリーのなかでは、後半部分に内田樹さんの文献を引用しています。その後半部分をここに転載します。

■こんなことを書いていると、先日読了した、内田樹(うちだ・たつる)先生の『村上春樹にご用心』のことを思い出してしまいました。この本、内田さんが運営しているブログで村上春樹について言及しているエントリーもとにつくられたようです。amazonでのレビューの評価、極端にわかれています。私は楽しんで読みました。この本は、村上春樹について語ってはいますが、村上春樹の作品論として読んではだめでしょうね。村上ファンでありレヴィナスの研究者である内田さんが、村上作品を通して、自らの思想を語っているわけですから。内田さんの本が持っている面白さとは、難しい表現であれやこれやと蘊蓄をたれるのではなく(衒学的でなく)、シンプルかつクリアな視点から、森羅万象をサクサク解き明かしていく、まあそんな感じですかね、私のばあい。この『村上春樹にご用心』も、そうです(もちろん、このは内田さんの「読み」であって、別の「読み」が可能であることはいうまでもありません)。
■物語、父の不在(真理や神の不在)、身体、死者とのコミュニケーション、批評家と春樹…キーワード的に見れば論点はいろいろあるのですが、内田さんのいいたいことはひとつ。なぜ、村上春樹は世界中で読まれるのか。本の帯には、こう書いてあります。「ウチダ先生、村上春樹はなぜ世界中で読まれるんですか? それはね、雪かき仕事の大切さを知っているからだよ」。村上春樹に影響を与え、彼自身も翻訳をした『キャッチャー・イン・ザ・ライ』(サリンジャー)で主人公のホールデンがいうところの「ライ麦畑のキャッチャー」と雪かき仕事って同じことです。ちょっとだけ、引用してみます。
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 世の中には、「誰かがやらなくてはならないのなら、私がやる」というふうに考える人と、「誰かがやらなくてはならないんだから、誰かがやるだろう」というふうに考える人の二種類がいる。「キャッチャー」は第一の種類の人間が引き受ける仕事である。ときどき、「あ、オレがやります」と手を挙げてくれる人がいれば、人間的秩序はそこそこ保たれる。
 そういう人が必ずいたので、人間世界の秩序はこれまでも保たれてきたし、これからもそういう人は必ずいるだろうから、人間世界の秩序は引き続き保たれるはずである。
 でも、自分の努力にはつねに正当な評価や代償や栄誉が与えられるべきだと思っている人間は「キャッチャー」や「センチネル」の仕事には向かない。適正を論じる以前に、彼らは世の中には「そんな仕事」が存在するということさえ想像できないからである。(29~30頁、センチネル:見守る人)
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「センチネル」たちの仕事は、『ダンス・ダンス・ダンス』で「文化的雪かき」と呼ばれた仕事に似ている。誰もやりたがらないけれど誰かがやらないとあとで他の人たちが困るような仕事を、特別な対価や賞賛を期待せず、黙って引き受けること。そのような、「雪かき仕事」を黙々と積み重ねているものの日常的な努力によって、「超越的に邪悪なもの」の浸潤はかろうじて食い止められる。政治的激情や詩的法悦やエロス的恍惚は「邪悪なもの」の対立項ではなく、しばしばその共犯者である。この宇宙的スケールの神話と日時用生活のディティールをシームレスに接合させた力業に村上文学の最大の魅力はある。それを世界各国語の読者とともに享受できることを私は深く喜びとする。(10~11頁)
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■最後の引用のなかで、太字で強調したところ、これは私個人によるものです。あらためて引用をした部分を読みながら太字で強調してみました。「超越的に邪悪なもの」の共犯者は、日常世界のなかに突如としてあらわれます。時には、自分自身がその共犯者になっているかもしれません。そのことをいつも心に念じておく必要があろうかと思います。ここでもう一度、アン・ドヒョンの詩に戻ります。内田さんは、村上春樹の作品に関して「宇宙的スケールの神話と日時用生活のディティールをシームレスに接合させた」と書いておられますが、私はアン・ドヒョンの詩のなかにもそれに近いものを感じとりました。たまたま偶然なのかもしれませんが、アン・ドヒョンの詩の最後にも「雪かき仕事」が登場しています。なにげない日常生活のなかで、この世の中を支えようとする人びと。それは「贈与的精神」をもった人びとであり、「贈与する人びと」であるわけですが、そのような人びとにアン・ドヒョンも村上春樹(そして内田さんも)は共感し、文学という仕事をとおして支えようとしているのかなと思います。

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