小倉時代
■少し前のことですが、連休中、母親の家で自分が少年の時のアルバムをみつけました。そして、「篠崎バイオリン教室」のこと…をエントリーしました。今回もアルバムの写真に関するエントリーです。
■写真は、通学前の私です。たぶん、小4の頃だと思います。当時は、北九州市小倉区の城野団地に住んでいた。日本住宅公団(現在のUR)が開発した団地です。その団地から、私は私立の小学校に通っていました。小倉区に隣接する戸畑区の明治学園小学校。カトリック系の私立の学校に通っていました。ですから、写真では制服を着ています。バスで1時間以上かけて通学していたように記憶しています。今も1時間40分かけて奈良の自宅から大津瀬田のキャンパスまで通勤していますが、考えてみれば、このような遠距離通勤のルーツはこの時代にあるのか…という気になります(実際のところは関係ありませんが…)。
■この私立の学校には、親の意向で通うことになりました(もっとも、両親ともクリスチャンではありませんが…)。親の意向とはいえ、宗教的な様々な経験ができたことは、自分の人生にプラスだったのではないかと思います。この小学校は、私のような庶民の倅から、制服を着たおかかえ運転手のベンツで通学する大病院の令嬢や、地方財閥の御曹子まで、いろんな階層の子どもたちが通っていました。そのような「社会」を日常的に経験することも、自分としては良かったのではないかと思っています。
■住んでいた小倉の城野団地は、3DK。6畳、4.5畳×2、小さなキッチンの間取りでした。今から思うとかなり狭いわけですが、当時、庶民の暮らしはこんなもんだったと思います。おそらく40平米程ではないでしょうか。写真は部屋の中、そして自宅の窓から撮ったものです。おそらくは、フイルムが残ったから、父がもったいないと撮ったのだろうと思います。窓からの写真には、団地に隣接する三郎丸の聾学校(現在の福岡県立小倉聴覚特別支援学校)が写っています。時々、こちらの学校の生徒さんに散髪をしていただきました。理髪の技術を身につける実習のような位置づけだったと思います。近くには、元々米軍基地だった自衛隊基地(松本清張の小説で知られる)がありました。鉄条網で囲まれて、中には歩哨の自衛隊員が銃をもって歩いていました。ドキドキしながら、近所の子どもたちとそばによって話しかけたこともありました…。近くには民族学校もありました。そこでは、赤いネッカチーフをまいた少年少女たちが、左右に腕をふりながら並んで行進の練習をしていました。そのときは、素朴に、自分たちの運動会の練習とはずいぶん違うなあと思いました。まだ、帰還事業が行われていました。少し離れたところには、廃線になった線路がありました。かつて炭鉱につながっていた線路です。石炭を満載した貨車が走っていたのでしょう。私の少年の時には、すでにエネルギーは石油が中心になっていました。そういう時代でした。私が小倉に住んだのは、1964年4月から1968年3月までことです。
【追記】■本文に、「地方財閥の御曹子まで…」と書きました。これは本当のことです。クラスメートの1人がその地方財閥の次男でした。彼の自宅は、学校の近くにありました。大きなお屋敷でした。子どもたちが、軟式庭球のボールで、ちょっとした野球ができるほどの広さの庭がありました。庭というよりも、庭園ですね。植木や芝の手入れも細かく行き届いていました。遊びにいったとき、お屋敷の大きな正面玄関ではなく、キッチンのある裏口から入りました。裏口といっても、普通の家の玄関ぐらいはありました。基本的に欧米風のつくりになっていました。キッチンにある裏口に置かれたマットの上で靴をぬぎました。段差がありません。キッチンもちょっとした家庭科教室程の広さがありました。お手伝いさんが働いておられました。そのままスリッパに履き替えてお屋敷のなかを案内してもらいました。
■大きな広間のようなリビングには暖炉がありました。その暖炉の前で、クラスメートの兄姉の皆さんと一緒にゲームをしました。そのゲームは、アメリカ製のボードゲームでした。ボードに書かれている文字は英語で、小学生の私にはさっぱり意味がわかりませんでした。おそらくは、人生ゲームのようなものではなかったかと思います。書けばきりがないのですが、「こんな大きなお家に住んでいる子どもも、世の中にはいるんだな…」と団地に暮らしていた私は心の底からびっくりしました。現在、そのお屋敷に、クラスメートの家族は住んでいません。結婚式場になっています。どうしているのかな、そのクラスメートは。