蓮如上人の犬塚の欅、そしてパン屋さん
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■蓮如上人は、浄土真宗本願寺派第8世宗主であり、「本願寺中興の祖」と呼ばれています。その蓮如上人ゆかりの場所が、大津駅の近くにあります。駅から少し北西に行ったところに、大きな病院があります。大津赤十字病院です。その向かいに、大きな欅の老巨木があります。樹齢600年以上、樹高20m、幹周8.3m。大津市指定の天然記念物です。この欅の樹には、以下のように伝承があります。
■室町時代、衰退していた浄土真宗を蓮如上人は教団として発展させましたが、そのことをよく思わない仏教勢力から命を狙われるようになります。京都から難を逃れて大津の地に入ったときにも、殺されそうになりました。蓮如上人が食事をとろうとした時、可愛がっていた愛犬がその食事を食べてしまいます。しかし、その食事には毒が入っていたのです。愛犬は、蓮如上人の身代りとなって死んでしまいました。蓮如上人は、愛犬の亡骸を埋め、そこに欅の樹を植えて弔ったというのです。その欅が、現在の老巨木なのです。「犬塚」の石碑も建てられています。
■4月1日のことですが、この犬塚の欅の老巨木の横にあるパン屋さんにいってきました。「ドライリバー」さんです。これまでも家族が買ってきたものを食べわたことがありますが、今回は甘いパンではなく、いわゆる調理パンと食パンを購入しました。噂通りの美味しさでした。今回いただいたのは、ハムとチーズを挟んて焼いたものと食パン。特に食パンは、パンの耳のあたりがめちゃくちゃ美味しくて、また購入したくなりました。ところで、レジで「どうしてドライリバーという店名なのか」と素朴な疑問からお尋ねしたところ、レジ担当の女性が大笑いをされました。店主さんのお名前が、干川さんだから…なのだそうです。今まで、何度も同じことをお客さんから尋ねられたことでしょうね。ドライリバーの袋には、お店と、お店の横にある蓮如上人の犬塚の欅が描かれています。とてもお洒落です。浄土真宗の宗門校である龍谷大学に勤務していることから、なんとなく嬉しくなりました。
「村の古地図-志賀地域を歩く-」展
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■最近、知りました!! 大津市歴史博物館では、3月4日から26日まで、「志賀町・大津市合併10周年」を記念して、「村の古地図-志賀地域を歩く-」展を開催しています。知らなかったな~。以下は、この企画展のサイトからの引用です。
平成28年3月で、志賀町と大津市が合併をして10年が経ちました。本展はそれを記念し、志賀地域にあたる和邇・木戸・小松学区各地域に残る、江戸時代から明治時代にかけての村や自然の景観を描き込んだ古地図を展示し、その移り変わりを紹介します。
私たちの眼の前にひろがる地域の景観は、人々が生活のために家や道を作り、山や川は開発や災害などで絶えず変化し続けてきました。志賀地域は、比良山系の山並みと琵琶湖の豊かな自然に包まれ、江戸時代においては、生業(農業や漁業など)を通じて密接に結びつき、また北国街道を通じて多くの人々が行き来していました。私たちは、かつての景観や人々の暮らしの様子を実際に見ることはできませんが、その時々に描かれた古地図からその一端をうかがい知ることができます。
志賀地域に残る共有資料(古文書・古地図)は、平成17年に刊行が終了した『志賀町史』編纂時に調査・整理され、現在では地元の歴史に関わる資料として、次世代に守り継ぐために、毎年の虫干しなどを行ないながら、大切に保管されています。この中で古地図をみてみると、江戸時代の検地に際して作成された絵図や、村々による山林や河川の共同管理、境界争いの際に領主(幕府や大名)から下された裁許絵図、さらには明治時代の地租改正に伴って作られた地籍図など、内容豊かな古地図が残されています。それら古地図の作成目的は、時代や状況により異なりますが、細部をよく眺めていくと、田畑や山林だけでなく、先人の暮らしに関わる生活空間や用水、道、寺院や神社の位置など、現在につながるかつての景観が描かれているのです。
■これは絶対に観に行かなくては!!
大災害時の大学対応 岩手県立大学総合政策学部「東日本大震災の危機対応記録」
■今から6年前、東日本大震災が発生した時、私は兵庫県の母親の家にいました。一人暮らしの母はすでに身体が弱っており、毎日ヘルパーさんに来ていただき、炊事や洗濯、そして母の身の回りの世話をしていただいていました。加えて、私自身も、ほぼ毎週母親のところに行っていました。ガソリンスタンドに灯油を買いに行き、屋外に設置された石油ファンヒーターのタンクに灯油を入れること、近くのスーパーで買い物をして来ること、神戸灘生協の個別配送の注文表を作成すること、このあたりが私の仕事でした。
■東日本大震災が発生した時、恐らくは買い物中だったように思います。母の家に帰ると、母がこう大きな声で言いました。「あんた、東北が大変なことになっているで」。母は視力をほとんど失っておりテレビを毎日「聞いて」過ごしていました。そのテレビには、岩手県の宮古市が津波に飲み込まれる様子が映されていました。言葉を失いました。翌日からは、岩手県の二戸市に行く予定でしたが、もちろんそのようなことは不可能になりました。
■私は龍谷大学に赴任する前、岩手県立大学総合政策学部に勤務していました。私が2004年に龍谷大学に異動した後も、2011年には半分ほどの教員が退職ないしは他大学に異動されていたように思います。知り合いの教員の方からは、学生の安否確認を必死になって取り組まれていることが伝わってきました。調べてみると、2016年3月に「「東日本大震災の危機対応記録 プロジェクト 報告書 東日本大震災時における岩手県立大学総合政策学部の 危機対応記録」が発行されており、PDFファイルでも読めるようになっていました。以下が、その目次です。「東日本大震災の危機対応記録」プロジェクトメンバーである、金子与止男、Tee Kian Heng、山田佳奈、島田直明、小井田伸雄、以上5名の先生方によって作成された報告書のようです。金子先生以外は、面識のある方達です。
目次
はじめに
第1章 東日本大震災時の危機対応の記録
第2章 総合政策学部における「教職員」の安否確認
第3章 総合政策学部における「学生」の安否確認作業の経緯と課題
1.在学生の安否確認はどのようにおこなわれたのか
2.安否未確認の学生数の推移
3.安否確認作業の「実施主体」としての学部地震災害対策本部の設置と役割
4.「入学予定者」の安否確認はどうあるべきなのか
第4章 学生に対する経済的措置に関する課題
1.岩手県立大学が発表した措置について
2.他大学の対応
3.他大学の経済支援措置を含め、見えた課題
おわりに
資料集目次
■東日本大震災のような大災害が関西で発生した場合、龍谷大学の教員としては自分はどう行動するのか。このことについては、いろいろ考えて来ましたが、一人だけではもちろん話しになりません。学部として、大学として、どのような対応して行くのか。私自身は、全く情報がありません。本学のどこかに、そのような情報があるのでしょうか。それも知りません。これでいいのだろうか…。ダメです。
■こ報告書の最後には、次のような課題も書かれています。
被災した新入学生としては、入学料が免除されても、生活費等の見込みがなけれ ば入学を躊躇すると思われる。在学生も、やはり授業料が免除されても、生活費等の見込 みがなければ退学を考えるかもしれない。生活費等の支援に関しては、今回のような大規 模災害では多くの団体が奨学金を出して、援助を行っているが、奨学金の申請や選考には 時間を要するため、奨学金が給付されるまでの期間の生活費等を確保する必要がある。よ って、入学を希望している被災地(災害救助法適用地域)の学生に対して、就学の機会を できる限り保証するという観点から、被災した学生が入学金と授業料が免除されるのみな らず生活費等の見込みが立つように、大学は経済的支援体制を整えておく必要がある。
【追記1】■災害と大学…で頭に浮かんでくるのは、内田樹さんのブログの以下の投稿です。「ばかばかしくてやってられるか」というタイプや、自分では目の前の状況に対して何もせず、「大学の瓦礫が片づいた頃にきれいな服を着て教員の仕事をするために現れ」、「震災経験から私たちは何を学ぶべきかとか、震災で傷ついた人々の心をどうやって癒したらよいのか、というようなことを教授会でしゃべる」ようなタイプの教員にだけはなりたくないものです。
「2005年01月18日 震災から10年」(1月17日)
【追記2】■学内にも、災害への対応策をきちんと考えておくことが必要だと思う教職員もおられるとは思いますが、私が知る限り、そのようなこときちんと検討してきたかどうか、よくわかりません。
・学生の安否確認
・教職員の安否確認
・地域への対応
・校舎や施設の確認
・授業の再開はどうするか
・成績はどうするのか
・定期試験をどうするか
・入試をどうするか
・学生への経済的支援はどうするのか
・学生のキャリア支援はどうするか
・災害に備えた様々な物の備蓄
・その他諸々
■それぞれ、被害の深刻度に応じて優先順位も異なりますし、考えればきりがありませんが、あらかじめそれなりの備えは必要だといつも思っています。ということを、3月11日にエントリーするだけでは、ダメですね。本当に。
SHINOBI-TRAIN
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■昨日、湖西線の最寄駅にたっていると、いつもとはデザインの異なる電車がやってきました。「忍」の字が見えました。忍者の忍です。漢字の下には、「SHINOBI-TRAIN」。「しのびとれいん」、つまり「忍電車」ですね。なぜ、湖西線で「しのびとれいん」なのか・・・と疑問が出てきます。甲賀忍者のふるさとの地域を走る草津線ならばわかるのですが・・・。おそらく、草津線を走る電車は湖西線も走っているから・・・ではないかと思います。それはともかく、プチ鉄道ファンなものですから、このような電車に乗れることで心が躍りました。このデコレーション、電車のなかを見てわかりましたが、完全に草津線用のものですね。ということで調べてみました。
■こちらのサイトの記事によれば、以下のように紹介されています。「日本だけでなく世界でも特に知名度の高い忍者の里、甲賀市と伊賀市を結ぶJR草津線は、「甲賀の里忍術村」の最寄り駅である甲賀駅も含まれている。このたび、滋賀県と草津市、栗東市、甲賀市、湖南市、日野町、三重県伊賀市で組織される『JR草津線利用促進プロジェクトチーム』は、『忍者』という世界的なコンテンツをより活かすために『しのびとれいん』を企画した」。なかなか素敵なデザインですよね~。
■吊広告のところにも、まるで天井から手裏剣をもった甲賀忍者がいます。車内に忍び込んだかのようです。おもしろいですね~。記事によりますと、デザインは投票で決められたようです。複数のデザイン案に観光客が投票していったのですね。期間は10月22日から11月27日。「沿線地域と台湾など計11カ所のイベント会場などで実施」とあります。台湾まで!! 台湾からのインバウンド効果をねらっているのでしょうね。複数のデザイン案の中から、「国内外の計2019人から投票を得て、もっとも多い581票を獲得したのが今回採用された、忍者のシルエットに流線模様が施された躍動感溢れるデザイン」とのことです。2月25日にデビューしたそうですが、なかなかこの電車に出会うことはないと思います。そう思うと、通勤時にたまたま乗ることができてとてもラッキーだったわけですね。
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「平湖・柳平湖公園化対策委員会」合同会議
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■昨日は、朝から龍谷エクステンションセンターの「REC会議」に、昼過ぎからは「情報総合機構会議」に出席、その隙間に年度末に事務書類の作成等…。研究部長の仕事は3月31日までしっかり入っていますが、バタバタした日常も、あと1ヶ月ちょっとになりました。
■15時あたりで瀬田キャンパスでの仕事をとりあえず中断し、草津市の平湖・柳平湖という内湖のある農村集落、志那町に向かいました。総合地球環境学研究所の調査です。京都にある地球研の車に便乗させてもらうため、瀬田キャンパスからJR堅田駅まで移動し、そこから地球研の車で琵琶湖大橋を超え、草津市の志那町へと移動しました。ほぼ、琵琶湖の南湖を一周することになります。なんだかな〜…という移動パターンなのですが、仕方がありません。瀬田キャンパスから草津駅まではすぐなのですが、そこから湖岸の志那町までは、バスの本数も限られており、歩くにしてもかなり距離があるからです。
■志那町では、まず志那漁業協同組合を訪問し、組合長さんたちに、内湖で行う地球研の魚類相の調査に関してご説明させていただきました。内湖には漁業権が設定されているため漁協のご協力が必要なためです。漁協としても、私たちの調査に非常に関心を持っておられるようです。捕獲調査では、量的には、圧倒的に外来魚が多いわけですが、環境DNAという最新の手法を使って調べると、ウキゴリ、オイカワ、オオクチバス、カネヒラ、カマツカ、キンブナ、ギンブナ、ゲンゴロウブナ、コウライニゴイ、コイ、タモロコ、チチブ、トウヨシノボリ、どじょう、ナマズ、ニゴロブナ、ビワヨシノボリ、ブルーギル、ホンモロコ、ヤリタナゴといった様々な種類の魚が生息していることが確認されています。私たちのこの内湖での研究の目的を簡単に言えば、志那町のみなさんと協働しながら、魚を中心とした生き物の賑わいを豊かにしていくことにあります。
■漁協では、50年ぶりに内湖にエリと呼ばれる定置漁具を設置されました。トップの画像がそのエリです。琵琶湖に建てられる大きなエリとは異なり、内湖のエリは小さなものです。今後は、漁協のエリ漁とも連携しながら、魚類相の調査を進めていくこができればと思っています。実は、この総合地球環境学研究所がこの内湖で調査をさせていただくにあたっては、ちょっとした「経緯」があります。以下の、関連エントリーをお読みいただければと思います。県の事業に委員として私が関わったことで、この志那町の皆さんとご縁をいただくことができました。
今日は滋賀県庁
平湖柳平湖の「つながり再生構築事業」の協議会
「つながり再生モデル構築事業」第4回協議会
魚の賑わい
取り戻せ!つながり再生モデル構築事業」について
■漁協でお話しをさせていただく前ですが、写真のような看板を志那町の集落の中で見つけました。「閘門」についての説明板です。琵琶湖総合開発によって堤防が建設される以前は、水位の高い内湖と水位の低い琵琶湖の間を船で行き来するために、このような閘門が設置されていました。現在では、圃場整備、河川改修、そして琵琶湖総合開発が終わり、内湖と共に農地の広がる風景が広がっていますが、元々は、田舟がなければ自分の水田には移動できないような地域でした。もちろん、今は軽トラックでの移動になりますが、かつて全て田舟での移動だったのです。1つ前のエントリー「圃場整備・河川改修・琵琶湖総合開発前の内湖の地図」にも書きましたが、そのような時代のことを、地球研の調査の一環としてお聞かせいただく予定です。農業のこと、漁撈のこと、その他の生き物のこと、遊び、水害、内湖で行われていた淡水真珠の養殖、地図を見ながら頭に浮かんでくる様々なエピソードまで、いろいろお話しをお聞きかせいただきたいと思っています。
■お話しをしていただく年代の方達は、おそらく70歳以上の方達が中心になろうかと思いますが、年齢の違い、また性別の違いで、記憶されていることの内容にも差異が出てくることでしょう。そのような差異も含めて、私には非常に興味深いものがあります。例えば、以前は、琵琶湖の藻を刈り取り肥料として使っていましたが、同様に、内湖の湖底に溜まった泥もすくって、その泥についても肥料として利用していたようです。これは、琵琶湖の湖岸の地域であれば、多かれ少なかれ聞き取りをすると出てくる話しなのですが、年齢が少し下がるだけで、そのような経験をしていない、あるいは知らないということがあるわけです。地域の環境を大きく改変する開発事業や、農業に関する技術革新等の近代化を人生のどのあたりで経験するのかによって、記憶に差異が生まれてくるのです。
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■晩の19時半からは、志那町の志那会館で、「平湖・柳平湖公園化対策委員会」合同会議が開催されました。志那町の皆さん、滋賀県(河川砂防課、琵琶湖政策課)、草津市(公園緑地課、農林水産課)、滋賀県大、立命館大の教員、そして私たち総合地球環境学研究所が出席しての合同会議になりました。志那町の皆さんの内訳は、平湖・柳平湖各組対策委員、対策委員三役、対策委員会専門部部長、副部長、真珠小委員会委員、町役、組長責任者、生産組合長、漁業組合長、老人クラブ会長。「オール志那町」という感じで、なんだか迫力がありますね。
■長年にわたって進めてきた内湖整備のハード事業は、最終段階を迎えています。「平湖・柳平湖公園化対策委員会」の委員長のFさんは、「これからはソフト事業」と会議を締めくくられましたた。私たち総合地球環境学研究所は、この最後の段階から参加させていただくわけですが、先祖代々、米と魚とともに生きて来られた皆さんと、魚の賑わいのある内湖を将来世代に残していくための多様なソフト事業に参加・参画していく予定になっています。
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■この画像は、志那町のあたりから、比良山系を眺めたものです。頂上には、「びわ湖バレイ」スキー場の灯が見えました。写真ではわかりませんが、強い風が比良山の方から吹いています。
圃場整備・河川改修・琵琶湖総合開発前の内湖の地図
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■午前中、滋賀県庁の琵琶湖環境部琵琶湖政策課の職員の方と一緒に、草津用水土地改良区事務所を訪問しました。明日、一緒に訪問する予定担っている滋賀県草津市志那町の昔の地図を拝見するためです。もちろん、現在の地図ではありません。圃場整備事業を行う以前の時代の地図です。上の画像いただければご理解いただけると思いますが、いわゆる「青焼」の地図です。今の若い方達には、「青焼」といってもよくわかりないと思います。でも、説明するのは面倒臭いので、ご自身でお調べください。
■琵琶湖の湖岸に面した志那町の圃場整備は昭和47年(1977年)から始まりました。この「青焼」の地図では、圃場整備事業が行われる直前のこの地域の様子がわかります。時間が経過しているので、地図も劣化し変色していますが、よくよく見ると、地域内に大小様々な水路が走っていることがわかります。もちろん、巨大国家プロジェクトである琵琶湖総合開発(1972年〜1997年)が行われる前になります。志那町にある平湖・柳平湖という内湖も、複数の水路で琵琶湖とつながっていました。当時は、閘門が設置されていました。琵琶湖と内湖の水面の高さが異なるためです。船で琵琶湖と内湖とを行き来するために設置されていたのです。内湖の周辺だけでなく、琵琶湖から離れた所にも、水路が走っていました。
■以前、志那町の皆さんに、田舟を使った農業や魚とり(おかずとり)のことなど、いろいろ聞かせていただいたので、地図をじっと眺めていると、地図の中に陸と水が入り混じった「水っぽい」世界が浮かび上がってきました。土地改良区事務所では、同様の地図が草津市役所にもあるお聞きしました。そこで、すぐに草津市役所の都市計画課を訪問しました。そして、突然の訪問でしたが、河川改修や圃場整備事業以前の都市計画の白地図を見せていただきました。昭和41年のものです。こちらの地図も、非常に素晴らしかったです。ワクワクしました。
■これから、この志那町の内湖の環境再生と志那町の地域づくりがセットになったような事業に参加・参画していくことになっています。明日は、私が参加している総合地球環境学研究所のプロジェクトのメンバー、滋賀県、草津市、滋賀県大、立命館の教員が参加する会議に出席します。この事業のなかで、この地図を活用して、人びとの個々人の記憶の中に眠っている「水っぽい」世界を「見える化」して(一種のアクションリサーチ)、若い世代の皆さんも含めた地域全体の財産として共有できるようになれば…と思っています。詳しいことは、またお伝えできるかと思います。
日本生態学会での学会発表
■昨年に引き続き、共同研究者の谷内茂雄さんが、3月に開催される日本生態学会で学会発表を行います。もちろん、私は日本生態学会の学会員ではありませんが、共同研究者として名前を連ねています。今回の発表の基本にある考え方は、これまで谷内さんと一緒に取り組んできた、総合地球環境学研究所での2つの研究プロジェクトをベースにしているからです。1
■1つは「琵琶湖-淀川水系における流域管理モデルの構築」です。このプロジェクトでは、「階層化された流域管理」という考え方をもとにしています。2009年に『流域環境学 流域ガバナンスの理論と実践』(和田英太郎監修/谷内茂雄・脇田健一・原雄一・中野孝教・陀安一郎・田中拓弥編、京都大学学術出版会)にその研究成果をまとめることができました。2つめは、現在、取り組んでいる「生物多様性が駆動する栄養循環と流域圏社会-生態システムの健全性」です。この2つめのプロジェクトでは、流域内のコミュニティにおける地域再生活動を支援しつつ、それらの活動が結果として生物多様性や流域内の物質循環を結びついていく道筋を探っています。ここでは、「階層化」という言葉は使っていませんが、以上の2つのプロジェクトは、流域のもつ空間スケールが流域内部のステークホルダー間のコミュニケーションを阻害するという点を問題にしています。
■谷内さんは数理生態学者なので、私とは研究のアプローチが違うわけですが、上記のような問題意識を共有しながら共同研究を進めています。以下は、「講演要旨」です。
日本生態学会第64回全国大会 (2017年3月、東京) 講演要旨
ESJ64 Abstract一般講演(口頭発表) I01-06 (Oral presentation)
地域再生が流域スケールの生態系再生を促進するメカニズム
*谷内茂雄(京大・生態研), 脇田健一(龍谷大・社会)
河川生態系や湖沼生態系の再生には、水循環と物質循環の自然な単位である流域を空間単位にとる流域管理が有効とされる。しかし、生態系には多様な人が生活しているのが普通であり、生態系を管理する空間スケールが大きくなるほど、その中に含まれる人とコミュニティ(地域社会)の多様性は増してくる。たとえば、流域を流れる河川の上流と下流に位置するコミュニティでは、基盤となる生態系が大きく異なる。流域管理の主な困難のひとつは、流域スケールでの流域管理課題と流域内の多様なコミュニティが抱える課題の違い(ミスマッチ)から生まれる。いかにこのミスマッチを克服するかは、流域管理に限らず、大スケールの生態系管理に共通する大きな課題である。
本講演では、まず流域のひとつのコミュニティが地域の生物多様性(地域の生き物・自然)の再生をおこなう活動を通じて、コミュニティ自体の活力や豊かさを回復する(地域再生)とともに、コミュニティスケールの生態系再生(物質循環など生態系機能の再生)を促進するメカニズムについて、琵琶湖流域における取り組みとともに紹介する。しかし、コミュニティスケールにおける生態系再生が、そのまま流域スケールの生態系再生につながるわけではない。その過程では、流域内の多様なコミュニティが推進する再生活動と、より大きなスケールで流域管理を推進する多様な主体(市町村や都道府県、国、NPOなど)との相互作用がうまく育っていく必要がある。発表では、このようなシナリオを成り立たせるガバナンスのモデルについて論じる。
中津川の「栗きんとん」と「平田国学」
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■この前の土曜日と日曜日、ひとつ前のエントリーでも報告しましたように、岐阜県の中津川市に出張してきました。帰りに、中津川市の蛭川の老舗の和菓子屋、創業百有余年の「菓舗ひとつばたご」さんで、職場の皆さんからリクエストのあった「栗きんとん」を購入しました。職場の皆さんへのお土産だったのですが、どういうわけか私にもひとつお裾分けしていただきました。いつも思うことですが、中津川の「栗きんとん」は上品な味わいです。お店の中は、ひな祭りの飾りつけがされていましたが、その後ろには書が飾ってありました。「栗は栗の味で」。地元の書家の作品とのことでしたが、中津川の「栗きんとん」にぴったりの書ですね。
■ところで、中津川は「栗きんとん」の発祥の地なのだそうです。中津川の中心市街地からは、立派な山が見えます。2,91メートル恵那山です。この恵那山の山裾に栗がたくさん収穫されてきたようで、その栗を使った和菓子でとても有名です。「栗きんとん」もそのような和菓子の代表です。中津川は、中山道の46番目の宿場町です。京の都と江戸との間を多くの人びとが行き来しました。そのような人の行き来のなかで、京や江戸の様々文化が中津川にも届けられました。そのような文化を受け止めたのが、この土地の豪商たちです。そのような文化のひとつとして、豪商たちは「茶の湯」を楽しみました。中津川の和菓子文化はそのような「茶の湯」とともに発展してきたと聞いています。
■もちろん中山道が中津川にもたらしたものは「茶の湯」だけではありません。幕末期の中津川の豪商たちは、こぞって平田国学に入門し、来るべ理想の社会を実現するために、当時の政治状況を把握するための情報ネットワークを築き上げたというのです(理想は実現しませんでしたが…)。中山道とともに情報が行き交ったのです。日本の幕末期を考えるうえで、中津川はとても重要な地域だったのです。そのことを島崎藤村は『夜明け前』で描写しています。また、最近みつけた本ですが、『歴史のなかの「夜明け前」 平田国学の幕末維新』(著・宮地正人、吉川弘文堂)でも解説されているようなので、実際に読んでみようと思っています。地域づくり・まちづくりのお手伝いをするために、中津川に通ってきましたが、すぐに関西に戻らねばならず、じっくりこの地域のことを勉強してきませんでした。今更なんですが、今からでも・・・とも思っています。そのうえで、こんどは「仕事」ではなく、個人の「楽しみ」として中津川の歴史探訪をしてみたいなあと思っています。
京阪電鉄石山坂本線の4駅の駅名が…
■京阪電車が、大津市内を走る京阪石山坂本線の駅名を変更すると発表されました。びっくりししました。以下が、発表された内容です。PDFファイルで読むことができます。これを読むと、大津市の「観光交流基本計画」と連動しているようです。文書中では賛同とありますから、たぶんそうなのでしょう。実際に「大津市第2期観光交流基本計画策定に関する懇話会」の委員には、京阪電気鉄道株式会社の役員さんも入っておられますし。
京阪電気鉄道株式会社(本社:大阪市中央区、社長:加藤好文)では、大津市が策定を進めている第2期観光交流基本計画(平成29年度~)の中心的な考え方である「オンリーワンのびわ湖を活用した地域の活性化」に賛同し、びわ湖、比叡山などを訪れる観光のお客さまのよりスムーズなご移動や、沿線のお客さまの乗換利用促進を目的として、平成30年3月より、大津市内の4駅の駅名を変更します。
今回、駅名を変更するのは、①「浜大津」 ②「別所」 ③「皇子山」 ④「坂本」の4駅です。
それぞれ、①びわ湖大津観光の玄関口であることから「びわ湖浜大津」
②大津市役所に隣接していることから「大津市役所前」
③JR湖西線「大津京」との連絡駅であることから「京阪大津京」
④比叡山観光の拠点であることから「坂本比叡山口」とします。
京阪グループでは、中期経営計画「創生果敢」(平成27~29年度)の主軸戦略の一つとして「観光創造」を掲げており、びわ湖~京都・岡崎エリアの観光活性化や比叡山を含むびわ湖淀川水系を「水の路」として観光ルート化し“人の流れ”の創出に取り組んでいます。今回の駅名変更を契機として、大津線の利便性(京阪山科駅、京阪石山駅、京阪膳所駅、皇子山駅でJR線と乗り換えが可能)や魅力的な観光資源が沿線に数多く存在することをあらためて発信し、観光客のさらなる誘致を図ってまいります。詳細は別紙のとおりです。
■黒字のところは、私が強調したものです。「観光のお客さま」と「沿線のお客さま」のためにということになっています。たしかに、琵琶湖観光や比叡山観光に関心のある人には、「浜大津」や「坂本」駅よりも「びわ湖浜大津」駅や「坂本比叡山口」のほうがイメージが湧きやすいかもしれません。市役所に用事のある人は、「別所」駅よりも「大津市役所前」駅の方が便利でしょう。さらにJR「大津京」駅のほうが、「皇子山」駅よりも連絡はわかりやすいかもしれません。しかし、唐突感を否めません。地名と同じく駅名についても、名前を変更することにそれなりの覚悟がいるように思います。利便性だけじゃないと思うのです。駅名は地名とは違います。地名の変更ほどの深刻さはないかもしれません 。しかし、それに準じるぐらいの覚悟がいるんじゃないのかな、と思うわけです。
■私は、利便性に加えて、歴史性を意識する必要があるように思うわけです。最近、旧町名を復活させる活動をしている地域があります。1962年年5月10日に施行された「住居表示に関する法律」(住居表示法)よって消えてしまった町名を復活させるためです。金沢市の主計町(かずえまち)がその口火を切ったといわれています。大津市では、実際には住所表記を元に戻したわけではありませんが、琺瑯看板に旧町名を記して、街角の町家に張り付けています。大津市の中心市街地では、大津祭の曳山の巡航が行われます。13基ある曳山は、江戸時代から続くの旧町名に暮らす人びとが担っています。郵便物は住居表示によって届けられるわけですが、人びとのなかでは、まだ旧町名がしっかり生きています。歴史を生きておられるのです。琺瑯看板による地名表記は、そのような生きられた土地の歴史を「見える化」する試みなのだと思います。
■「旧町名復活」の取り組みが何故行われているのかといえば、旧町名・地名と結びついたその土地の歴史は、そこに暮らす人びとのアイデンティティの一部でもあるからです。「たかだか名前じゃないか」と思われるかもしれませんが、名前は大きい存在です。話しが飛躍するように感じられるかもしれませんが、歌舞伎や落語等にみられる襲名を思い出してみてください。襲名とは、かつての有名な歌舞伎俳優や噺家たちの歴史と誇りを背負うことであり、そのことに見合う実力に基づく芸を披露することが期待されているわけです。地名も、土地の歴史を背負っています。地名の由来、すなわち土地のルーツと、ここに暮らしてきた人たちによって意味づけられてきた思い出を背負っているのです。
■そのように考えたとき、今回の駅名変更は私には唐突に感じられるのです。この話題をfacebookに投稿したところ、様々なご意見をいただきました。変更を「是」とするという方もおられますが、少なくとも私の周りの皆さんは少し頭のなかに疑問符が浮かんだようでした。下のご意見は、その代表的なものです。駅名を変更するにしても、もっと変更していくプロセスを大切にしなくてはいけないのではないか、そのように思うわけです。たくさんの観光客がやってきて大津に金を落としてくれる・・・そこにばかり目を奪われると、長い時間のなかで静かに実感できる土地の記憶という問題を、いつのまにか忘れてしまうのではないかと思うのです。これは、都市の品格の問題でもあります。
歴史ある名前の地を訪ね歩いてもらう仕掛けをするべきです。石坂線沿線は鎌倉の江ノ電沿線よりもうんと歴史が深く、多くの人を魅了するアイテムがたくさんあると思うのですが、単に名前を変えただけで人に来てもらおうとする安易さがあきません。
「別所(大津市役所前)駅」みたいな感じで、残せないのかなと思います。行政府の執行権だけで、地域名称を変えるのはどうなのかなと思いました。少なくとも公募みたいな手順が必要に思います。
今日は滋賀県庁
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■昨日は大津市役所でしたが、今日は滋賀県庁です。琵琶湖環境部のいくつかの課に用事がありました。県庁は昼からでしたので、昼食は大津駅前の「ラーメンひばり」へ。いつもこのお店では「汁なし担担麺」を注文しているのですが、今日はラーメンにしました。「まろやか魚介・全部のせ」。まろやかな鶏スープと魚介のダブルスープ。全部のせなので、味玉と肉増し。美味しくいただきました。こちらのラーメンは、「全部のせ」といっても、私のようなおじさんでも大丈夫な量です。しかも、仕事が細かいというか、ここのラーメンはとても繊細です。見た目も美しい。濃醇な鶏のスープの安定した味をベースに魚介の出汁から作ったスープがアクセントを加えます。そのスープが、細麺によく合います。
■腹ごしらえをした後、琵琶湖環境部へ。なんといいますか、ちょっとアウェーな雰囲気を感じつつ?!、そういう職場の雰囲気の中で、総合地球環境学研究所の研究プロジェクトに関連する案件の相談を、長年お付き合いのある職員Mさんにさせていただきました。お忙しい中、貴重な時間をとっていただきました。もっとも、Mさんは途中で部長室に行く用務が発生されたようで、相談は一時中断。定時退庁の後に、時間をとってくださることになりました。ありがとうございます。そのあとは、別の課で、琵琶湖環境部が所管されている「マザーレイク学術フォーラム」や「滋賀県ヨシ群落保全審議会」関連の書類を提出し、平湖・柳平湖での春からの調査に関する打ち合わせを若手職員の方と一緒に行いました。この調査も、総合地球環境学研究所の研究プロジェクト関連の調査です。現在、平湖・柳平湖の環境再生のお手伝いをしていますが、圃場整備や河川改修、そして琵琶湖総合開発が行われる以前の平湖・柳平湖の環境は、今とは全く異なっていました。そのことを、「つながり再生構築事業」に関わる中で、地元の皆さんにいろいろお話しをお聞かせいただきました。
・暮らしが内湖とともにあったこの地域の文化を次世代に継承していくために、身の丈にあった(自分たちで維持管理ができる)ビオトープがつくりたい。
・ 昔は、農作業にいくときに必ず内湖を通った。今は、暮らしと切り離された遠い存在になってしまっている。ビオトープは集落のそばにつくりたい。
・ 現在、内湖の維持管理の作業が大変。維持管理することが、少しでも集落にとって経済的プラスになるような仕組みをつくりたい。/
・かつては、内湖に釣にくる人たちを対象に、駐車場やマッチの販売等をしてこずかいを稼いでいた。励みになっていた。
・ラムサール条約の関係で、全国から子どもたちがやってきて、田舟に乗ったり、淡水真珠やイケチョウガイをみてとても感動していた。このような感動を地元の子どもたちにも味合わせたい。
・ 50歳ぐらいから下の人たちは、田舟の艪をこいだ経験がない。河川改修、圃場整備等で、水路で移動することがなくなってしまったから。艪こぎの競争とかできたら、盛り上がるのでは。田舟を使った遊びもできたらいい。
・夢を実現していくためにも、ひとつひとつ取り組みの成果や効果を確認していく必要があるのでは。
■総合地球環境学研究所の私たちの研究プロジェクトでは、このような地元の皆さんの思いを実現するために、何ができるのか、いろいろ検討をしていますが、そのうちの一つして、かつての内湖の水辺環境がどのように認識されていたのか、その水辺環境をどのように利用・活用していたのか、年配の皆さんの「体験と記憶」の中にある内湖に関する語りを、圃場整備や琵琶湖総合開発前に測量された地図に落として行く…そのような調査です。そのような一人一人の内にある内湖にある「体験と記憶」を「見える化」し、地域で共有できるような地域資源にして行くことがこの調査の目的です。春から始まるこの調査の進捗状況、そのうちにこのブログでお知らせすることができるのではないかと思っています。
【追加】■トップの写真ですが、本文とは特に関係ありません。浜大津港から撮った比良山です。iPhoneのカメラでは小さくした写りませんが、肉眼ではもっと大きく見えます。