龍谷ミュージアム特別展「地獄絵ワンターランド」
▪︎土曜日の東京で研究集会のあと、懇親会が開かれました。少々飲みすぎました。東京に出張する前、研究集会に合わせて「国立歴史民俗博物館」の企画展「「1968年」-無数の問いの噴出の時代-」を観に行こうと思っていました。しかし、この企画展、始まるのは11日からだということが、東京に行ってから分かりました。それじゃということで、代わりに、以前から一度は行きたいと思っていた「目黒寄生虫館」に行こうかどうしようかと思案している時に、ふと頭に浮かんできた。「そうだ!京都行こう!我が大学の博物館、龍谷ミュージアムの特別展「地獄絵ワンダーランド」に行こう!」。
▪︎というわけで、やってきました「龍谷ミュージアム」。いつもよりも、たくさんの来館者が来られていました。ものすごく賑わっているではありませんか。びっくりしていると、たくさんの来館者を眺めらがら喜んでおられる木田先生(館長)が、笑顔で迎えてくださいました。木田先生とは、私が社会学研究科長として学内の会議である全学研究運営会議の場や、研究部長として部局長会議で報告するときなど、学内の仕事でいろいろお話しをさせていただきました。いろいろ教えていただきました。そんなこともあり、笑顔でお迎えくださったのです。
▪︎龍谷大学の教員ですから、もちろんこの特別展のことは知っていましたし、大変気になっていました。絶対行かなくちゃと思っていました。本当に、いろいろ工夫されている特別展です。驚いたことは、ミュージアムの方で、この特別展に合わせてTwitterのアカウトを取得し、地獄の閻魔大王が自らツイートするという設定で、次々と情報発信をされています。この特別展がとても面白いことを予感させるようなツイートです。入り口には、トップの写真のような顔出し看板もありました。木田先生から、「やってみてはどうですか」と促されました。ということで、昨日の懇親会で飲み過ぎたことを、閻魔大王の帳簿の中に下手な字で書き込みました。「昨晩のみすぎました〜」。私の白状した罪です。ということで、私の地獄行きが決定しました!!
▪︎さて、展示を観覧する前に、館長室で木田先生からいろいろご説明を受けました。この特別展の企画のポイントのようなことを、お聞かせいただきました。その上で、3階から順番に展示を見て行きました。私は博物館に解説のためのレシーバーがあるときは、必ず使用することにしています。展示に対する理解がより深まるからです。今回、レシーバーから聞こえてきた声の主は、プロの落語家さんでした。月亭天使さん。龍谷大学の卒業生です。落語家が、面白く展示解説をしてくださっているのです。こういうところにも、この特別展のユニークさがあります。素晴らしい。とにかく、いろいろ面白さを工夫してある特別展です。ぜひ、ご来場ください。特に、龍谷大学の関係者にはご覧になっていただきたいと思います。このミュージアムについて何か語るのならば、まずはこの特別展にいかないとね。
▪︎ところで、このような特別展の面白いアイデアって、どこから生まれてくるのでしょうね。ミュージアムの課長さんにお聞きしたところ、学芸員の皆さんと事務職員の皆さんが、アフター5に一緒に飲みながら楽しみながらアイデア出しをされているのだそうです。一般に、博物館では学芸員と事務職の間に溝があったりするのですが、「龍谷ミュージアム」って両者の仲がとても良い素敵な職場のようです。
命のお裾分け
▪︎先日伺った東近江の若い友人から、鹿肉のお裾分けが我が家に届きました。ありがとう!東近江の友人は、「SHARE WILD PROJECT 2017」という活動のメンバーです。この活動の詳しい説明については、過去のエントリー「『SHARE WILD PROJECT』という試み」をお読みいただければと思います。この鹿肉が我が家に届くまでのことを少し。
▪︎先日、罠で捕獲された鹿を引き取り、夜中に解体して、早朝より皮剥と生肉の作業が行われました。私は、「SHARE WILD PROJECT 2017」のメンバーではないのでのですが、もし良ければ作業を見学できるかも…ということで、連絡をしてくださったのです。皮を剥いで枝肉にするまでは、「SHARE WILD PROJECT 2017」の代表であるウエノチシンさんがされるわけですが、余分な脂肪をとったり、料理しやすい形に精肉していく作業は、仲間のメンバー4名が取り組んだのだそうです。精肉された鹿肉は、真空パウチにします。背骨のすき身までミンチにするとのことです。通常、駆除された鹿は山の中に放置されるわけですが、この「SHARE WILD PROJECT 2017」の皆さんは、その捨てられ放置されてしまう鹿を引き取り、手間と時間をかけて精肉にして、命を最後まで大切にされているのです。もちろん、大変な作業ですが、楽しみながら、そしてしっかりとした理念を共有しながらの取り組みです。
▪︎過去のエントリーにも書きましたが、私が非常に興味深いと思ったことは、駆除された鹿の数だけ、山に苗木を植えていくことも同時にされている点です。
今年も廃棄される命があるのであれば、僕はその命を引き獲りに山に向かい、解体し、食べて、山に苗木を還しに行きます。そして、小さな食べられる森を創り続けます。
このプロジェクトは決して環境保護活動の為に始めたものではなく、あくまで一人の人間が野生の命と向き合い、自然の繋がりの中で生かされていることを忘れない為に始めたことです。
僕はこの山で当たり前のように繰り返される、獲った命を捨てるというあまりにも不自然な行為を次世代にまで繋いでいくつもりはありません。
SWPはとても原始的でシンプルな方法です。自然からの恵みを無駄にすることなく、奪い合うことなく、共に分かちあえる人と人、人と自然との関係性を取り戻していきます。
▪︎というわけで、東近江の友人家族も、今回の精肉作業参加されたようです。そして、過去にパウチして冷凍保存した鹿肉を我が家に送ってくださることになったのです。たくさん鹿肉が手に入ったので、おそらくはストック分を我が家に回してくださったのだと思います。ありがとう。大切にいただきます。我が家にも分かち合っていただき、本当に、感謝・感謝です。
▪︎いただいた鹿肉は、ロース肉の塊、モモ肉のハバキの部分、モモ肉の筋の部分です。鹿肉料理のレシピ、いろいろ検討してみます。
龍谷ミュージアム特別展「地獄絵ワンダーランド」の閻魔大王のツイート
■龍谷大学の博物館「龍谷ミュージアム」の特別展「地獄絵ワンダーランド」の公式ツイッターがとても面白いです。どなたがツイートしているんでしょうね〜。博物館の職員の方、学芸員の方だと思いますけど。「閻魔大王がつぶやいているため、やや上から目線ですが、ご容赦ください。」というのも面白い。この特別展、時間を見つけて近いうちに行こうと思っています。
■さて、実際の展示の構成ですが、以下の通りです。
龍谷ミュージアムのホームページの解説
展示構成
第1章:ようこそ地獄の世界へ
第2章:地獄の構成メンバー
第3章:ひろがる地獄のイメージ
第4章:地獄絵ワンダーランド
第5章:あこがれの浄土
■この特別展の解説には、次のように書かれています。
「日本では、平安時代に恵心僧都源信が『往生要集』を著したことを契機に、来世のイメージが形成され、地獄や六道の情景を表した美術が発展しました。本展は、日本の中世から現代にかけて描かれた地獄絵や、地獄をめぐる多彩な作品を通して、日本人が抱いてきた死生観・他界観の変遷と、その精神史を紹介するものです。
■この解説にある恵心僧都源信の『往生要集』、「来世のイメージが形成され」とあるように、日本人の死生観を考える上で重要な文献かと思いますが、私はまだ読んだことがありません。私には原文を読む力はないので、最新の現代語訳を読んでみたいと思います。梯信暁さんの現代語訳で『新訳 往生要集(上・下)』 が法蔵館から出版されています。大学の図書館にも入っていますが貸し出し中です…。高いけれど、購入してみましょうかね。
「SHARE WILD PROJECT」という試み
■東近江で、大変興味深い活動をされている若い方達のグループの皆さんと出会う機会がありました。「SHARE WILD PROJECT」という活動をされている皆さんです。代表のウエノチシンさんが、facebookで全てのみなさんに対して以下のような、呼びかけのメッセージを発信されていました。まずは、お読みいただければと思います。すでにメンバー募集は締め切られていますが、以下のメッセージにはこの活動の「精神」が表現されています。
< SHARE WILD PROJECT 2017 メンバー募集開始 >
山に植えた小さな苗木も芽吹きの季節を迎えた。
僕たちもそろそろ始める時期ではないだろうか。昨年度、僕の住む市で有害鳥獣とされ捕獲された鹿・イノシシの数は通算1000頭以上になりました。しかし、捕獲された野生獣は食肉として一般流通することはほとんどなく、猟師達の手によって山の中でそのまま廃棄処分されました。
野生獣用食肉処理及び販売の許可を持つ施設がこの地域には一棟もありません。
県内全体でも処理施設は指で数えるほど。家族が猟師でもない限り、日々の食卓に野生肉が並ぶことはほぼありません。
市の予算では今年も野生獣用食肉処理施設の建設は予定されていません。
有害鳥獣捕獲に対する猟師への報奨金制度は今年度もそのまま継続されるので、有害鳥獣は捕獲される度にまた山の中で廃棄されていくことになるのでしょう。このような事実は決してこの市だけの問題ではなく、全国規模で広がっています。
ごく一部の地域を除き、1998年からずっと野生の命は廃棄され続けてきました。世界中のありとあらゆる食材がスーパーマーケットやインターネットで簡単に手に入る一方、身近にある大切なものを日々捨ててしまっている僕らの暮らしは果たして豊かと言えるのだろうか。
貨幣資本主義社会は何かを売ることと買うことでほぼ成り立っているが、自然界は何億年も前からずっと与えることと与えられることの絶妙なバランスの中で成り立ってきた。
人間だけが自然の循環から抜け出し、自然をコントロールしようとした結果、自然界のその絶妙なバランスが一気に崩れ始め、様々な問題を生み出すことになってしまった。農業被害を食い止める、自然環境を守るという聖訓の影で野生獣の駆除を続け、そのまま廃棄していくことが僕らだけでなく、未来を生きる人たちにとって果たして最善の策なのだろうか。
僕は社会やコミュニティが抱えている問題を行政や企業だけに頼るのではなく、草の根的に一人ひとりが真摯にこの問題に取り組まなければ、この美しい自然も伝統的な狩猟文化も近い将来守ることができなくなると思います。
そして、それは山間部に生きるコミュニティだけでなく、街に住む僕たちの日々の暮らしにも大きく関わってきます。
野生的で良質なものを貪欲に探し、それを積極的に分かち合いながら共に生きていくことは持続可能な社会を実現させていく為に欠かせないことだと思い、数年前から準備を進めてきました。
そして、昨年の6月半ばに「SHARE WILD PROJECT」を発表し、支援を募り活動を始めました。僕は地元の猟友会に所属し、市からも有害鳥獣駆除員として年間登録されています。
しかし、積極的に自らの手で罠をかけ、捕獲するつもりはありません。その代わりに有害鳥獣として捕獲・廃棄される運命にある野生獣の命を猟師から引き獲ることに尽力しています。
自らの手でとどめを刺し、山から運びだし、解体・精肉し、その肉を食べて生きています。そして、一頭に対して一本ずつ小さな苗木を育て、捕獲された山に植樹しています。
昨年度は、有害廃棄獣30頭の命を引き獲り、30本の苗木を山に還し、20本の果樹苗木を庭と畑に植えました。
今年も廃棄される命があるのであれば、僕はその命を引き獲りに山に向かい、解体し、食べて、山に苗木を還しに行きます。そして、小さな食べられる森を創り続けます。このプロジェクトは決して環境保護活動の為に始めたものではなく、あくまで一人の人間が野生の命と向き合い、自然の繋がりの中で生かされていることを忘れない為に始めたことです。
僕はこの山で当たり前のように繰り返される、獲った命を捨てるというあまりにも不自然な行為を次世代にまで繋いでいくつもりはありません。
SWPはとても原始的でシンプルな方法です。自然からの恵みを無駄にすることなく、奪い合うことなく、共に分かちあえる人と人、人と自然との関係性を取り戻していきます。SWPは自然と共存する人間としての生き方を探る旅であり、僕らが生きたい未来をリアルに創造していく活動です。
メンバーそれぞれのバックグラウンドや経験、知識や興味を活かして、このプロジェクトの持つ潜在的ポテンシャルをさらに引き上げ、胞子を飛ばすように全国各地に野生の恵みを分かち合える文化を拡げていくことを目指します。
10年後、20年後、いつかこのプロジェクトが消えた後も、各地で自らの手で木を植え、野生の恵みを分かち合い、この小さな森が創られた物語を未来の子供たちに伝えてくれる人が残ると信じています。
■facebookで、滋賀県内にももっと野生獣用食肉処理施設ができないかなあと、ぼやいたところ、知り合いの方が、「SHARE WILD PROJECT」という活動があると教えてくれたのです。この活動に関わっている皆さんから、鹿の獣害問題、加えて、駆除された後にただ廃棄されてしまっていることについて、いろいろお話しをお聞かせいただきました。獣害問題と向き合いながら、命の乱獲を防ぐ代替案を模索されている若い皆さんの活動に強い関心を持ちました。お会いした日は、ウエノチシンさんが処理された鹿肉を美味しくいただきました。きちんと処理した鹿肉は、本当に美味しいです。ローストビーフならぬローストディアをいただきましたが、柔らかく、深い味わいのある肉でした。鹿のスネ肉のシチューもいただきました。どれもとっても美味しかった。命を最後まで大切にして味わい尽くすことの大切さも、実感しました。
「看取り」という死に方/石飛幸三/
■この動画の中に登場する医師・石飛幸三さんは、「胃ろう」の問題を厳しく批判されています。胃ろうをしても、胃が弱っているので食道に逆流して誤嚥性肺炎につながる。誤嚥性肺炎を防ぐことが、逆になっている…石飛さんはそう指摘されています。人生の終末において、少しずつ肉体が死に向かって弱っている時期に、どうして無理に治療を継続するのかという問題です。石飛さんは、『「平穏死」を受け入れるレッスン: 自分はしてほしくないのに、なぜ親に延命治療をするのですか?』、『平穏死という生きかた』、『家族と迎える「平穏死」–「看取り」で迷ったとき、大切にしたい6つのこと』等の著書も出版されています。これらの書籍のタイトルからもわかるように、肉体が自然に弱って死に向かっている人を、無理やり生かそうとする現代社会の医療や福祉のあり方を根本から批判されているのです。自然な状態で死を迎えることを見守る=「看取り」は、どうすれば可能なのでしょうか。石飛さんの著書はヒントを与えてくれそうです。
NHKドキュメンタリー「ありのままの最期 末期がんの“看取(みと)り医師” 死までの450日」
■昨日はよくテレビを視ました。普段はあまりテレビを視ないのですが、昨日は家族の勧めもあり、晩遅くに放映されたNHKのドキュメンタリー番組を視ることにしました。内容は、重いものでした。このような内容です。番組を紹介するサイトからの引用です。
始まりは2年前の12月。末期のすい臓がんで余命わずかと宣告された医師がいると聞き、取材に向かった。田中雅博さん(当時69)。医師として、僧侶として終末期の患者に穏やかな死を迎えさせてきた「看取りのスペシャリスト」だ。これまで千人以上を看取った田中さんの「究極の理想の死」を記録しようと始めた撮影。しかし、次々と想定外の出来事が…。看取りのスペシャリストが見せてくれたありのままの最期、450日の記録。
■「人の最期は難しい…」と、改めて思いました。健康な時に、どれだけ「こういう最期を迎えるぞ」と思っていても、そんなふうに最期を迎えることは難しいということを、田中雅博さんは自らNHKに取材させていたわけですね。見事な最期ではなく、その真逆の最期を。しかし、人生の、この最期の時は、故人のものだけでないのですね。「人の死」とは、周りの人びと(親密圏)との関係の問題でもあるわけです。
■番組を通して、田中雅博さんの最期を拝見させていただきながら、亡き父のことを思いました。父のことは、というか父との最期の段階での関係については毎日のように考えるわけですが、私も田中雅博さんと同じく、父からいろいろ学びました。父の最期も、見事とは真逆でした。番組の中で、田中雅博さんが「先生(先に生まれた人)ではなく、先死(先に亡くなる方)から学ぶ」と仰っておられました。そして、自らの死をテレビ番組を通して多くの方達に示されました。私も、父から学びました。人間にとって、そして周りの人びとにとって、「最期」がどれだけ大切かということを、改めて深く考えることになりました。
龍谷ミュージアム秋季特別展「地獄絵ワンターランド」
■龍谷ミュージアムの秋季特別展「地獄絵ワンターランド」が、9月23日~11月12日の期間に開催されます。以下は、この特別展の概要説明です。龍谷ミュージアムの公式サイトからの転載です。
約2500年前、釈迦はこの世を生死輪廻りんねが繰り返される”迷い”の世界と見ました。日本では、平安時代に恵心僧都源信が『往生要集』を著したことを契機に、来世のイメージが形成され、地獄や六道の情景を表した美術が発展しました。
本展は、日本の中世から現代にかけて描かれた地獄絵や、地獄をめぐる多彩な作品を通して、日本人が抱いてきた死生観・他界観の変遷と、その精神史を紹介するものです。とくに近世の作例の中には”たのしい地獄”と形容すべき、素朴でユーモアにあふれた魅力的な地獄絵もあります。本展ではこうした死への恐怖を超越した造形にも注目し、あらためて、日本人にとって「地獄」とはいかなる存在であったかを考えます。
■「日本人にとって「地獄」とはいかなる存在であったか」。とても、楽しみです。あわせて、浄土真宗にとって地獄とは、どのように捉えられているのか、その辺りのことを知るチャンスにできればと思っています。
鎌田東二さん「この時代にこそ考えるべき死生観」
■上智大学グリーフケア研究所特任教授の鎌田東二さんは、ここで改めて説明する必要もないほど有名な方ですね。今年の6月には、上智大学グリーフケア研究所と龍谷大学世界仏教文化研究センターが主催する「グリーフケア講座」で講師を務めていただきました。さて、その鎌田さんのインタビュー記事をネットで偶然見つけました。
「この時代にこそ考えるべき死生観――SNSやブログは生きる支えになる?」
■記事の中で鎌田さんは、「血縁・地縁が薄くなって『無縁社会』が一般化しています。少子高齢化、老老介護、孤独死も増え続けている。そういう流れが加速する今、日本人は改めて死んだらどこへ行くのかに思い巡らせ、死生観を考え直すべき」と述べています。そして、34歳で亡くなった市川海老蔵さんの妻・小林麻央さんのブログのことを取り上げます。小林さんは、ブログを通じて不特定多数の方たちに「前向きな闘病をつづって」きたわけですが、この様な姿勢は、国学者である平田篤胤の「死後の魂の行方を突き詰めて考え、きちんとした死生観を持ち、『安心をつくるべき』」という主張とも結びつくと、鎌田さんは考えます。鎌田さんは、小林さんのブログから「『安心をつくる』という姿勢が感じ」とっていたからです。
■私は未読ですが、鎌田さんは著書『日本人は死んだらどこへ行くのか』の中では、「SNSでの『縁の結び直し』」が紹介されているそうです。小林さんの場合も、SNSを通じたたくさんの方たちとの交流が「安心」につながり、生きる支えにもなりました。その様なSNSを通じてのコミュケーションで死の向こうに行くための力を得ることができるのです。鎌田さんは、自分自身の死を、「死」→「史」→「詩」と展開させていくことで力を得ることができると述べておられます。
死生観も含めて人生のふり返りが「史」になります。だけど、ふり返るだけでは収まらなくて、物語が必要になってくる。物語は「詩」です。ですから、「死」を前にして「史」がふり返られて、「詩」として言霊になったら…本人も周りも救われる気持ちになる。
また、死で力を奪われるのではなく、力を得ることもできます。平田篤胤は37歳で31歳の愛妻を亡くします。それだけでなく、長男と次男も亡くしている。しかし、愛する妻と子供の死が、彼のその後の生き方につながったんです。人の死は悲しいことですが、それ以上に、その後の人生の支えとなる何かを残してくれることもあるんです。
■記事の中では、「臨床宗教師」についても書かれています。龍谷大学大学院 実践真宗学研究科では、2014年4月に東北大学大学院 文学研究科実践宗教学寄附講座に創設された「臨床宗教師研修」に学び、上智大学グリーフケア研究所の協力を得て、2014年度から本学においても「臨床宗教師研修」を実施しています。詳しくは、以下をご覧ください。
「街が背負う悲しみ」とそこで暮らす私たちの心~「脱線事故があった街・尼崎」にいるということ~
■2月5日のエントリーは「ちょっとお寺で新年会」 でした。尼崎の塚口にある西正寺で開催されたイベントを報告しました。西正寺の副住職である中平了悟さんにfacebookで、このブログのエントリーのことをご紹介いただき、私のブログとしては画期的なことなのですが、100名を超える皆さんにお読みいただけました。ありがとうございました。さて、今日のエントリーも、西正寺関連のものです。中平さんが企画されている「テラからはじまるこれからのハナシ。」vol.04です。今回のテーマは、「街が背負う悲しみ」とそこで暮らす私たちの心~・・・」です。以下、中平さんのfacebookからの引用です。
次回のテラハについて、すこしお話をしたいと思います。
テラハでは、「JRの脱線事故」という出来事そのものよりも、
「あの現場という場所」そして、そこに関わる私たち自身の心や、「尼崎」という街について、考えたいと思っています。
それは、すこし、複雑な話かもしれません。それは、主催者の私自身の思いを語るとすこしご理解いただけるかも知れません。私自身は、あの事故で被害を受けた知人がいるわけではありません。あの現場に、足繁く追悼に足を運んでいるわけでもありません。しかし、平日の通勤や、檀家さんのおうちへのお参りの際など、日常的にあの踏切をとおり、あのマンション(だった場所)の前を通過しています。そのたびに、あの事故のことを思い出し、あそこへ足を運ばれている方、人生が変わった方がいたことを思わずにはいられません。24時間、絶え間なく交代して警備を続けている人の姿にも、考えさせられるものがあります。
4月25日には、尼崎駅で、たくさんの黒い服を着た方、花を持たれた方と出会います。あるいは、その頃には、一列になってその事故の現場へ足を運ばれる方たちを見かけることがあります。
「あの事故の関係者ですか?」と問われれば、私は「いえ、そうではありません」と答えます。ただ、「近所に住んでいる者」に過ぎません。しかし、近所に住んでいるという点において、事故の現場、人が追悼に訪れる場所と共に暮らしているという点において、さまざまな思いをかかえて生活し、あの場所を目にしてきました。その意味で、「当事者ではないけれども、影響を受けているという意味においては、当事者ならざるをえない」という曖昧な立場にあるのではないかと思います。すこし、話が変わりますが、22年前の「阪神淡路大震災」における、私の立場にもかさなる点があります。京都などの神戸からすこし離れた地に行き、「尼崎出身です」というと、「地震大丈夫だった?」と聞かれますが、「たいしたことありませんよ」と答えていました。長田をはじめとした神戸、あるいは尼崎でも武庫川にちかい西側に比べて、比較的被害は軽いものでした。しかしそれでも、家はかなり傷み、本堂はすこし傾き、鐘楼と敷地の壁は倒壊して、結構な被害がありました。しかし、「地震でかなり大きな被害があった」ということは、なにか心にひっかかるものがあって「神戸ほどではないんです」等といっていたように思います。「阪神大震災」というと、神戸の街のイメージがどうしてもあり、私の住む地域は、震災被害の「周辺」に位置していたといえるのかもしれません。それ故に、典型的な「震災」という言葉でくくってしまうことについての違和感、あるいは、より甚大な被害のある方に対する「申し訳なさ」みたいなものがあったのかもしれません。
つまりJRの脱線事故にしても、阪神大震災にしても、テレビや、メディアで提示されるような、その中心にいるような「当事者性」(あるいはそのイメージ)と隔たりがあるがゆえに、かえってそのものとの距離を私たちは正しく捉えていなかったのではないか、「わたしたちなりの関わり」ということについて、言葉をもたずにここまで来てしまったのではないか、という思いがしてならないのです。その意味で、地域にあるあの事故現場は、わたしたちにとっては、いったいなんで、どのような関わり方ができるのだろうか。(あるいは震災を初めとして「当事者」として関わることをすこしさけていたような、曖昧な関わりをしてきた事柄もふくめて)、そのような曖昧な関わりについて目を向けてみたいと思うのです。
「尼崎」という街が抱える「悲しみ」の場所を通じて、私たちなりの関わりのあり方を、私たち自身の言葉で語り、考える、そんな時間が持てたらとおもっています。
■黒字で太くしたところがポイントかなと思います。たまたま、私が昨年度から指導していた社会人大学院生の方の修士論文は、阪神淡路大震災による家族との死別を経験した遺族へのインタビューをもとにしていました。その修士論文のなかに記述された「当事者」の方達の苦悩や悲しみの問題が、西正寺でのこのイベントとも関連してくるかなと思っています。誤解を受けるかもしれませんが、「当事者」の方達の苦悩や悲しみを理解することは困難です。「理解しました」といった途端に「当事者」の方から「そうではない。わかっていない」と否定されることになるからです。「理解しました」という発言自体が「当事者」を苦しめてしまうことにもなります。
◼︎指導した社会人院生の方の修士論文に記述された「当事者」の語りを読みながら、いろいろ考えました。被災者とそうでない人たちとの間にある絶望的なまでの溝や断絶、そしてそのような溝や断絶に取り囲まれながらも、震災後の20年という時間のなかで、どのように苦悩や悲しみを受容し、家族の死と共生していったのか、そのあたりの記述は読み応えがありました。その上で、今回の西正寺のイベントは、「当事者」の存在を気にかけながらも、「当事者」とは自分ではいえない人たちは、その苦悩や悲しみにどう向き合えばよいのか…ということになります。現代社会は、家族を失う苦悩や悲しみを、個人で背負わざるを得ないような社会になってしまいました(死の「私化」)。「他者」にたいして、その苦悩や悲しみを「開いて」いくことは可能なのでしょうか。可能とすれば、それはどういうことなのでしょうか。あるいは、「他者」と「当事者」は、どのような形で共に生きることができるのでしょうか。そのあたりが、私には気になるわけです。
■今回はグリーフケアの専門家である山本佳世子さん(人と防災未来嘱託研究員)がゲスト=「Teller」です。中平さんは聞き役=「Tera」の人。最後の「Tera」の人は洒落ですね!!
【追記】■このイベントは夕方から始まりますが、その前に「龍谷大学アジア仏教文化研究センター」(BARC)が主催する「玄奘三蔵の説話と美術」という学術講演会に参加しようと思っています。こちらも、また別途紹介したいと思います。たぶん、「BARC」の学術講演会を途中で抜けさせていただき、尼崎に移動することになろうかと思います。先日、尼崎のまちづくりに関わっておられる皆さんと知り合いになりましたが、また再会できるといいなあと思っています。