再会
▪︎先々週の土曜日の話しになります。「東京スカイツリー」に登ったあと、ずっとご無沙汰していた東京の友人のMさんとCさんに再会しました。特に、Cさんとは何年もお会いしていませんでした。上野駅の地下鉄銀座線の改札口で待ち合わせだったのですが、現れたCさんは、なんだか山荘の主人のようないでたち、そして立派のヒゲも蓄えておられれました。なんだかとっても迫力がありますね。
▪︎Mさん、Cさんとは、上野恩賜公園の近くの飲食店で昼食をとりました。 Cさんと私は酒飲みなので、昼間から生ビールをいただき、ご機嫌状態です。上の写真は、御徒町あたりを歩いているCさんと私です。写真家でもあるMさんが、撮ってくださいました。生ビールでご機嫌状態のまま、上野から御徒町へ、そして秋葉原まで歩きました。こうやって、あってくださる友人の皆さんが、あちこちにお住まいになっていることを、私自身はとても幸せなことだと思っています。
▪︎Mさん、Cさんとのお付き合いは、ブログがきっかけでした。お互いのブログにコメントを書き込むうちに、オフ会ということになり、これまでも何度もお会いしてきました。2006年から2010年頃までのことです。懐かしいですね。あの頃、私の周りではブログが全盛期でした。お2人と知り合いになり、墨田区の京島界隈もよく歩きました。その京島も、再開発がどんどん進むなかで、ずいぶん地域の雰囲気が変わってしまいました。複雑な気持ちです。
東京スカイツリー( 2 )
▪︎トップの写真、中央に高い高層マンションが見えます。しかし、「東京スカイツリー」の450mの展望台からだと、たいした高さに見えません。ここは、墨田区の京島と呼びれる地域です。線路が見えますが、京成電鉄と東武電鉄です。少し離れたところに確認できますが、大きな川があります。これは荒川です。私は、東京の友人たちと、この京島から荒川にかけてのエリアを何度か歩きした。大変、思い出深い地域です。それこそ、「虫の眼」でもって歩きました。今回は、「鳥の眼」でこの地域を眺めています。「虫の眼」と「鳥の眼」、その両方で見るからこそ理解できることがあります。「虫の眼」からだけでは、また「鳥の眼」だけからでは、理解できないことがあると思います。両方が大切だ、それが私のスタンスです。これは社会を考えるさいの視点の取り方について比喩的にもいっているわけです。荒川の向こう側は、江戸川区です。写真ではよく確認できませんが、さらに向こう側には江戸川が流れており、江戸川の左岸は千葉県です。千葉の松戸にも行ったことがあります。松戸に親しくさせていただいている方たちが多数お住まいなのです。その松戸を訪問したのも何年も前のことになります。懐かしいです。
▪︎左は東京タワーを撮ったものです。「東京タワー」にも登ったことがありますが、ずいぶん小さく見えますね。「東京タワー」は333m(「東京スカイツリー」は634m)、昭和33年(1958年)に竣工しました。私と「同い年」です。「東京スカイツリー」よりも「東京タワー」に共感を覚えるものですから、こんなに小さく見えることに少しがっかりしました。右側は、「東京スカイツリー」の南側の風景です。東京湾が見えます。小さくてわかりにくいですが、東京湾にポツンと何か建造物が見えます。これは、「東京湾アクアライン」の「風の塔」です。地下トンネルの換気のために設けられています。左の方には、「海ホタルPA」や「アクアブリッジ」のシルエットが確認できます。
▪︎左の写真をご覧ください。手前の方に流れてくるのは隅田川です。その向こう側に流れているのは荒川です。さらにずっとずっと向こうには、筑波山も確認できます。手前の隅田川沿いの地域は、南千住です。ここも京島ほどではありませんが、歩いたことがあります。酒飲みの方たちには有名な店なのですが、南千住の「大林」という居酒屋にも数回行きました。懐かしいです。関心のある方は、ぜひネットで調べてみてください。東京に関心があるとしても私のばあいは、隅田川、荒川、江戸川の流れる地域が中心になります。私は、東京の友人たちと「東京底湿地帯」と勝手に呼んでいました。このあたりには、いわゆる「海抜0m地帯」が広がっています(実際には、-2mだったりするのだそうです)。
▪︎写真左。中央に黒い細い帯のようなものがみえます。ここは、駅でいえば、王子、東十条、赤羽のあたりです。北区です。この地域も、よく歩きました。素敵な元気の良い商店街が健在でした。もし、東京に暮らすことがあれば、こういうところに住みたいなと思う場所でした。赤羽では飲みました。漫画「孤独のグルメ」で有名になった「まるます家」に行きました。懐かしいです。赤羽は台地の上に昭和30年代に開発された団地があり、台地の下には下町がひろがっています。ここもいろいろ勉強しました。思い出深い地域です。荒川の向こうには川口の街があります。若い学生の皆さんは、なんのことやら…でしょうが、吉永小百合が主演した「キューポラのある街」で有名です。赤羽、荒川、川口…。高度経済成長期、この川を挟んだ地域の関係は大変面白いものがあるのです。川口からすれば、赤羽は東京の入り口でもありました。川口の工場の女工さんたちが、休みに日に遊びにいく街でした。東京の一番北の入り口にあたる街でした。
▪︎真ん中の写真には、「上野恩賜公園」が見えます。この「上野恩賜公園」の左の方には、白い屋根のようなものが確認できます。これは、「東京ドーム」です。雲がなければ、おそらくは富士山も見えたのでしょうが、この日は、残念ながら確認できませんでした。右側の写真では、「両国国技館」が見えます。その横には「江戸東京博物館」も見えます。東日本大震災の後、東京の友人の皆さんと東京の街を歩くことがなくなりました。震災が、なにか私たちの意識を大きく変えてしまった感じがします。でも、またこの東京の街を歩くチャンスがやってくるのではと思っています。そうあってほしいと思います。
▪︎今回、「東京スカイツリー」に登って感じたことがもうひとつあります。災害の問題です。東京都では、各地域における地震に関する危険性を、建物の倒壊及び火災、災害時の避難や消火・救援活動のしやすさ(困難さ)を加味して、それぞれの地域の危険度の測定を行っています。詳しくは、東京都都市整備局の「地域危険度とは」のページご覧いただきたいと思います。ひとつの目安ではありますが(危険度が低いから安心というわけではないでしょう)、こうやって地図化してみると、直感的に理解できます。上の図がそうです。東京都都市整備局では、「災害時活動困難度を考慮した総合危険度の高い地域は、建物倒壊危険度、火災危険度ともに高かった荒川・隅田川沿いのいわゆる下町地域一帯に分布しています。具体的には、足立区から荒川区、葛飾区西部、墨田区、江東区北部に広がる地域で、また、品川区南西部や北区北部から豊島区北部に広がる地域でも危険度が高くなっています」と説明しています。「東京スカイツリー」のあるあたりや、京島もこの危険度の高い地域に入ります。もっとも、このような危険度が、実際の地域社会のなかで、具体的にはどのように機能するのか / 機能しているのかという点については、私にはよくわかりません。「防災」や「減災」に対する取り組みがどれほど進んでいるのか、また、社会学の古典的な概念でいえば、このような危険度の提示が地域社会に対してどのような「潜在的逆機能」を持っているのか(特に、社会的に弱い立場にある方達にとって)…ということも気になるところです。
東京スカイツリー( 1 )
▪︎先々週の金曜日になりますが、早稲田大学所沢キャンパスで最終講義を聴講したあと、東京で友人の皆さんにお会いしました。そして翌日、最近の東京のお上りさんや海外からの観光客の定番である、「東京スカイツリー」の登ってみることにしました。前の日に、浅草に近いホテルに宿泊していたことから、「東京スカイツリー」までは徒歩でいってみることにしました。
▪︎後でわかったのですが、スカイツリーの展望台から眺めたとき、地上からスカイツリーを眺めたときの、なんといいますか「距離感」が違うなと思いました。地上からは、どちらかといえばスイスツリーが「遠く」に見えるのですが、スカイツリーの展望第からは、「遠く」に見えた場所が、すぐ「下」に見えるのです。目の錯覚だろうと思いますが、不思議な感覚です。
▪︎「東京スカイツリー」には、「東京スカイツリー天望デッキ(350m)」と「東京スカイツリー天望回廊(450m)」の2つの展望台があります。それぞれ、350mまでは2,060円、450mまではさらに1,030円が必要です。私のときは30分程度並びましたか、それに加えてこの金額…。でもせっかく来たのだからとUターンせずに素直に入場料を払ってタワーに登りました。
▪︎「東京スカイツリー」のある場所は、墨田区です。海抜よりも低い0メートル地帯です。こういう海抜の低いところに、どうやってこのタワーは建設されているのか、気になりました。すでに有名な話しなのかもしれませんが…。建設は大林組です。公式のページがありました。「東京スカイツリー建設プロジェクト|株式会社大林組 : GO! GO!」。ここにスカイツリーの建設技術について解説されています。最新の技術で建設されているのでしょうが、どうも強風に弱いようです。私がいったときも、1台のエレベーターの扉が風の影響で閉まらなくなっていました。職員の皆さんが、6人がかりで扉を閉めようと努力されていましたが…閉まりませんでした。職員といっても、お揃いのワンピースの制服と帽子の女性の皆さんですから…。なかなか大変ですね。私は果たして登れるのかな…と少し心配しましたが、無事に450mの展望台まで登ることができました。続きは、次のエントリーをご覧ください。
大学のホームページに「第4回 おおつ未来まちづくり学生会議」の記事
再投稿・金才賢先生と堀昭一さんの出会い
(異常が発生し、ご迷惑をおかけしております。とりあえずの対応でしのいでいます。本日投稿したエントリー「金才賢先生と堀昭一さんの出会い」ですが、私のデータ操作が悪かったためでしょうか、フリーズしてしまっています。そこで、1ページに表示できるエントリー数を減らし、問題が生じたエントリーをダミーのエントリーで次ページに移動させることにしました。このエントリーの本文、後で書きます)」
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■少し前のエントリー「金才賢先生(韓国・建国大学)の来日」にも書きましたが、これから滋賀の農産物を活かした石釜ピザの店を開店される「Ishigama」の堀昭一さんにも、金才賢先生とインタビューしていただきました。この写真は、堀さんにお許しいただき、堀さんがfacebookにアップされたものを転載させていただいています。facebookの投稿のなかで、堀さんは、次のように述べておられます。
昨日は、龍谷大学脇田先生からの、ご依頼を受けて
韓国からお越しの頂いた金教授のインタビューを受けて参りました。
『地域の中でどのような位置付けでありたいか』
『生産者との関係をどのように表現していきたいか』
普段から思い描いていることを、しっかりと言葉にすることがとても大切だと改めて気がつきました。
■「普段から思い描いていることを、しっかりと言葉にすることがとても大切だ」。私もその通りだと思います。言語化、概念化して自分たちの活動をきちんと説明できることが、「地域づくり」においてはとても大切だと思います。先日、3年生のゼミで読んでいる延藤安広先生の『まちの再生の述語集』には、冒頭の部分に、次のような4つのデザインに関する説明があります。
・状況にいかに「やたかなふくらみ」を与えるかという「戦略デザイン」
・人と人[code][code]・状況にいかに「やたかなふくらみ」を与えるかという「戦略デザイン」
・人と人のつながりをいかに仕掛けるかという「参加のデザイン」
・どんなモノを配慮しどんな親密な場所にしていくかという「空間のデザイン」
・「ヒト・モノ・コト・トキ」をいかに仕組むかの「マネジメント・デザイン」
■延藤先生が指摘されているこの4つの「デザイン」は、金才賢先生のインタビューでの堀さんに対する質問とも重なっています。ゼミの3年生にもいったのですが、自分たちがやっている「北船路米づくり研究会」の活動をこの4つのデザインの考え方に重ね合わせてみたときに、どういうふうに自己点検・評価できるのか。堀さんの言葉でいえば「しっかり言葉にする」ことをやってもらいたいと思うのです。話しを、この日のことに戻しましょう。
■金才賢先生は、堀さんにインタビューしたあと、「韓国にも、ピザ店を開店して地域の活性化の取り組む若者達がいますよ」と教えてくれました。「清風商会」というお店を古い伝統的な地域の市場のなかに開店させた若者たちの話しです。ピザ店がメインなのですが、それ以外にも、フットバスやシェアハウス・ゲストハウスの経営もされていすま。ところで、この若者たちは、ある韓国のシンクタンクで学んだ人たちです。韓国には、「希望製作所」というシンクタンクがあります。現在、ソウル特別市の市長であり、弁護士をされていた朴元淳さんが中心とり、2006年、市民が社会デザインの担い手となることを目指す市民参加型シンクタンク「希望製作所」(ヒマンチェジャクソ、The Hope Institute)を設立しました。ネーミングがいいですね。「希望製作所」です。この「希望製作所」でインターンをした若者が、自分の故郷である江華島に帰って、江華島の古い市場のなかで「清風商会」を開店したのです。「清風商会」の経営は、2人の若者がやっているわけですが、そのうちの1人、金土日さんの記事をみつけて、翻訳してみました。もちろん、「エキサイト翻訳」を駆使しての翻訳です。それを少し編集しました。ですから、必ずしも正確ではありません。しかし、大筋はわかると思います。大変興味深い活動だと私は思います。
こんにちは。 「希望製作所」뿌리センター28期インターン金土日です。「希望製作所」のインターンを修了してすでに1年が過ぎました。「希望製作所」での4ヶ月という時間は、自分自身、これから何をしていくべきかについての方向性を、はっきりと捉えることのできた非常に大切な時間でした。
私は江華島(カンファド)で幸せな学生時代を送りました。ソウルにある大学に通う間にも、常に私の胸中には、いつか自分が暮らして地域に戻って何かしてみたいという強い想いがありました。多様な活動によって地域を再生し、コミュニティを活性化していくための仕事をする、뿌리センターのお手伝いをすることになったのも、私が暮らしてきた地域で、自らの人生を育みたいという私の欲求を満足させるためでした。
江華島(カンファド)で何かをしたいという漠然とした考えだけを持っていましたが、ルーツセンターでインターン生活をして地域活動事例に接しました。実際に活動に参加して多様な経験をしました。今私たちがしていることも、このルーツセンターで研修し、研究員の方達の後を付いて回って得たアイデアを活用し、そのアイデアに接木させたのです。 それでは今からルーツセンターで学んだことを基に、私が江華島(カンファド)でどんなことをしているのか紹介し、宣伝させていただこうと思います! ^^
インターンを終えた後、 강화풍물市場に文化観光型市場育成事業団ができたことを知りました。「江華島(カンファド)で地域活性化、市場活性化活動をすることができるとは!」と、嬉しくて浮き立った気持ちになり、すぐにその事業団に参加することにしました。江華島(カンファド)を感じることができる小さい旅行を企画して、市場全体で進める面白い遊び文化を作り、地域民を伝統市場に誘導するための祭りも企画しました。
また、青年たちの活動基盤になる青年モールを作る仕事にも参加しています。 青年たちが持続的に地域で活動をするためには青年モールと同じ基盤がなければならないと考えた末に参加しました。そこで、仁川(インチョン)で文化芸術活動をしていた友達、永らく商売をしていた友達、そして私が一緒に集まって「清風(チョンプン)商会」という名前のお店をつくり、市場で商売を始めました。 「清風(チョンプン)商会」は、現在の実行している取り組みだけでなく、計画中の事業についても色々あります。まず 강화풍물市場に「かまど食堂」を開いてかまどピザを焼いて売っています。
地域の伝統的な市場にどうしてピザなのか。私たちは、伝統な地域市場にピザ屋ができれば、地域の若者たちが市場のなかを探すだろうと考えてピザ屋を開いたのでした。4名全員、料理のできる青年ではありません。市場のお母さんたちが私たちに関心をもってくださり、彼女たちがアドバイスをくださったおかげで、ピザのメニューがひとつひとつ完成していきました。まだ数は少ないけれど、来店されるお客さんのアドバイスについても、ひとつひとつに耳を傾けて味をアップグレードしています。「かまど食堂」を再訪されたお客さんは「かまど食堂」の成長を自らのことのように喜んで応援してくださいます。「かまど食堂」は、青年たちの力だけで成長するのではなく、市場の商店の皆さんと江華島(カンファド)の市民が一緒に育てる食堂になっています。「安い価格と素敵なサービスで、市場を生き残るようにしよう!」という考えで商売をしてみると、「青年たちが他の皆さんに与えるだけでは滅びてしまう…」とたいへん心配して訪ねてくる方たちもいます。
江華島(カンファド)は他の地域に比べて、地域で活動する青年がいません。 ソウルと1時間の距離にあるため距離上で首都圏ですが、江華島(カンファド)だけを切り離して見れば、首都圏のイメージは探すことが難しく、よく言われる田舎っぽい雰囲気が漂っています。そのため、青年たちは江華島(カンファド)に留まることはなく、ソウルや仁川(インチョン)に出て行って活動をするので、他の地域に比べて青年の数がさらに少ない状況にあります。このような状況のためでしょうか、私たち青年が自発的に江華島(カンファド)で住み着いて活動していることを、江華島(カンファド)年配の方は好奇心が入り交じった良い目線で眺めて下さっています。
この前は「清風(チョンプン)商会」の2番目事業である足浴カフェ(フットバス)「足漬けて」がオープンしました。足を漬けて旅行の開始と仕上げができる空間です。バスターミナルそばにあって、旅行客が行き来しやすい 강화풍물市場で、暖かい水に足を漬けて飲み物を楽しみながら旅行の始まるを楽しみ、旅行を終えて家に帰るばあいは、その前に旅行の疲労をとって旅行をふりかえるような空間になるでしょう。もちろん旅行客だけのための空間ではありません。 市場で商売をされているかたたちと江華郡(カンファグン)の人びとのための空間でもあります。市場での仕事は神経を使いとても疲れます。商売されている方たちが、一日の仕事を終えて足をお湯に漬ける、そういった一日の日課を近隣の商店の方たちと共有すると、商売をされる方たちの間の結束力を確かめることになります。江華島(カンファド)は歴史的文化的に多くの資源を有していますが、これらの資源がうまく活用されずにいます。「清風(チョンプン)商会」はこういう豊富な資源を活用できる方法を悩んでいます。
私を除いた残り三人の青年たちは、江華島(カンファド)で暮らしたことがないのですが、今は江華邑(カンファウプ)に家を得て一緒に生活しています。今後、私どもが暮らしている空間を改造してシェアハウスとゲストハウスを運営する計画です。江華島(カンファド)は、歴史のある場所だと呼ばれる程、韓国の歴史から除くことはできない重要な地域であり、そこに自然の海と山が組み合ったとても美しいところです。
江華島(カンファド)はソウル近郊に位置しているため、観客数が多いわけですが、観光客の大部分はペンション旅行や観光地だけさっとみて戻る場合が多いのです。それで私たちは、江華島(カンファド)に住んでいる青年と観光客が交流して、地域に関して話しを交わすことができるゲストハウスを運営することにしました。ペンションが並んでいる江華島(カンファド)には、外国人が一日二日泊まって旅行しにくるでしょう?このゲストハウスを活用した外国人観光客誘致は、地域に風変わりさを提供しますし、ごちゃごちゃした町商圏を活性化させる役割をはたすでしょう。ゲストハウスは朝鮮末期の哲宗が過ごしたヨンフングンがある路地にあります。ここは、江華島(カンファド)に住んでいる学生たちもしばしばやってくる路地です。今後は、ゲストハウスの周辺路地を中心に、地域内文化芸術家らと交流して文化芸術を共有することができるような場所にしていくつもりです。
私はこの頃本当に楽しいです! 正直にいって、まだ「清風(チョンプン)商会」の私たちは余裕があるような生活をするほどの金を儲けられていませんが、楽しく生きているということが私たちにとって最も重要なことなのです。私が育った江華島(カンファド)で、楽しい仕事できることを、本当に幸せなことだと思っています。
by뿌리センター28期インターン研究員・金土日
■できれば、堀さんたちと、ぜひこの韓国の「清風商会」を訪ねてみたいものです。以下の動画は、金土日さんと一緒に「清風商会」を経営されているCho Sunghyuさんです。少し、彼らの活動が理解できるかと思います。
白鬚神社
■昨日は、滋賀県庁の「つながり再生モデル事業」(琵琶湖環境部・琵琶湖政策課)の関係で、琵琶湖政策課や滋賀県立琵琶湖環境科学研究センターの皆さんと一緒に、高島市にある松の木内湖まででかけました。滋賀県庁の公用車ででかけたのですが、途中、白鬚神社で少しだけ時間をとっていただき、この写真を撮りました。
■iPhone5で撮ったわけですが、なかなか満足のいく出来に仕上がりました。写真を撮っているとき、とても清々しい気持ちになりました。最近は、いわゆるパワースポットとしても有名らしいのですが、なるほど…と思います。
第3回「おおつ未来まちづくり学生会議」
■17日(金)、瀬田キャンパスのREC棟の部屋に瀬田キャンパス「おおつ未来まちづくり学生会議」の面々が集まって、午前中からグループワークを実施しました。第1回目はテーマ設定とグループ分け。第2回は細長い大津市を分担して「まち歩き」、そして「まち歩き」で発見したことの整理。第3回は、次回の市役所での発表を前に、パワーポイントの作成…。タイトなスケジュールの中で、自分たちの気付きがうまく伝えられるよう「あーでもない、こーでもない」と頑張っています。
■私も作業の途中を時々のぞきにいきましたが、なかなか大変ですね〜。この日だけでは完成できず、あとは第4回まで各グループで作業を継続してもらうことになりました。頑張れ、学生諸君。
戦後史証言アーカイブス「津波研究50年」首藤伸夫先生のこと
■まず、最近facebookにアップした記事を、加筆修正の上で転載します。
首藤伸夫先生は、津波研究の第一人者だ。
私は、1998年4月から2004年3月まで、6年間、岩手県立大学総合政策学部に勤務していた。所属は、地域政策講座だった。首藤先生には、そのとき同じ地域政策講座でお世話になった。東北大学を定年で退職されたあと、岩手県立大学に勤務されていた。
教員住宅もお隣同士だった。私は単身赴任だったが、インフルエンザにかかってしまったとき、正月、関西に帰省していて、岩手に戻ったら水道管がカチンコチンに凍っていたとき…、私生活の面でもいろいろ助けていただいた。
もちろん、首藤先生には、津波のことについても、教えていただいた。5〜6年前だろうか、東京で偶然にお会いした。そのとき、日本大学に勤務されていた。そして、今日は、首藤先生にネットでお会いすることになった。NHKの「戦後史証言アーカイブス」のなかで証言しておられた。あのとき、もっと先生からいろいろお話しを伺っておけばよかったと思う。まあ、人生とは、そういう後悔の連続だからと、最近は開き直ってしまうけど。先生の証言を聞きながら、昔の教わったことや、首藤ゼミの学生たちの研究内容についても思い出してきた。
「津波研究50年」(「番組名 戦後史証言プロジェクト 日本人は何をめざしてきたのか」 2013年度「地方から見た戦後」第6回 三陸・田老 大津波と“万里の長城”)。
■さて、インターネットに「戦後史詳言アーカイブス」を開設した目的を、NHKは次のように説明しています。
NHKでは、戦後の歩美の中で日本人が経験したことを、未来に伝えるため『戦後史詳言アーカイブス』を開設しました。『日本人は何をめざしていたのか』などの番組で取材した政財界人から一般市民にいたる幅広い証言を、未放送の部分も含めてインターネット上で公開していきます。
■首藤先生の証言。2013年度「地方から見た戦後」の第6回「三陸・田老 大津波と”万里の頂上”」に登場する8人のなかのお1人として証言されています。
大津波を二度体験した/三陸・宮古市田老住民/赤沼ヨシさん「96歳 巨大防潮堤の町に生きた」
大津波を二度体験した/三陸・宮古市田老住民/荒谷アイさん/「悲劇を忘れない 昭和8年大津波で家族7人失う」
元 運輸省防災課/久田安夫さん「津波対策に取り組んで いま思う「悔しさ」」
元 建設省土木研究所研究員 東北大学名誉教授/首藤伸夫さん「津波研究50年」
大津波を二度体験した/三陸・宮古市田老住民(現 青森在住)/田畑 ヨシさん「二度の大津波体験を紙芝居で伝える」
田老診療所 医師(東日本大震災当時)/黒田仁さん「津波の町で医療を守る」
岩手県釜石市唐丹町 花露辺町内会長/下村恵寿さん/「”防潮堤はいらない”」
元 田老町漁業協同組合/梶山亨治郎さん「田老のシンボルだった巨大 防潮堤建設の経緯」
三陸・宮古市田老住民 漁師/扇田文雄さん/「将来に抱く不安 それでも海を離れたくない」
宮古市危機管理課 元 田老町職員/山崎正幸さん/「心の中に防潮堤を『津波防災の町 宣言』」
■首藤先生の証言全体は、4つのチャプターから構成されています。各チャプターごとに、語りが「再生テキスト」として文字化されています。
[1]おばあさんに教わった
[2]「津波研究などムダ」と言われた
[3]津波対策のこれから(一)
[4]津波対策のこれから(二)
【[1]おばあさんに教わった】
■このチャプターでは、1960年のチリ津波の調査に入ったときのことが証言されています。先生が津波研究に入られた動機が語られています。東大工学部を卒業されて当時の建設省に入省されます。1957年のことです。まだ高度経済成長の入り口に日本がいた時代です。私自身は、そのときにまだ生まれていません。日本はまだ貧しく堤防や防潮堤をつくる…という発想はまだなかったようです。
始まりはね、やっぱりチリ津波なんですよ。釜石のすぐ近くに両石っていうところがあって。そこでね、2階屋の1階がめちゃくちゃになって、2階はちゃんと残っている。後片付けに忙しいおばあさんのところに近寄って行ってね、「おばあさん大変ですね」って言ったらね、そのおばあさんがまたね、にこっと笑ってね、こんなに被害にあっているのにあんなきれいな笑顔ができるのかっていうぐらいににこっと笑ってね。「あんたね、こんなものは津波じゃないよ、昭和や明治の津波に比べたら」と、こうおっしゃったのね。(中略)昭和や明治の津波に比べたらこんなもの津波じゃないよと言ったので。それで昭和や明治の津波っていうのがどんなものだったのかという事を一生懸命文献を探しては読んでいた。そうしたらだんだんね、そのものすごさが分かってきた。
■社会学をやっていると、「おばあさん」のきれいな笑顔の意味、「昭和や明治の津波」の経験が、「おばあさん」の人生のなかでどのように位置づけられていたのか、突然不幸を受け止める力、それは何にもとづいているのか…そのようなことも気になってきますが、それはともかく。先生の関心は、「こんなものは津波じゃないよ、昭和や明治の津波に比べたら」という、そのものすごい津波の実態を知ろうというところから始まります。そして、それをどう防げばよいのかということにつながっていきます。
【[2]「津波研究などムダ」と言われた】
■このチャプターでは、「津波は防潮堤で防げる」という「過信」がひろがっていく時代について証言されています。「チリ津波特別措置法」により、「津波対策」=「構造物をつくること」…という社会的な発想が社会に定着していくのです。「こんなものは津波じゃないよ、昭和や明治の津波に比べたら」という古老の経験は活かされることはありません。あちこちに防潮堤が建設されました。1968年の十勝沖地震津波が、チリ津波よりほんのわずかだけど小さかったことが、かえって「過信」を生み出すことになりました。1980年代に入り建設省の河川局と水産庁が津波対策の再検討を始めたとき、先生は幹事長を務められたようですが、そのとき「予報」、「避難」、「構造物」の3本立てで津波対策を進めようとされました。ハードだけでなく、ソフトも含めて総合的な政策を進めなければならないという立場ですね。しかし、このような考え方に対しては、縦割り行政組織のなかにいる官僚たちから強い反発があったというのです。「津波は防潮堤で防げる」という「過信」がひろがっていく時代に、ソフト対策に対する抵抗は相当根強いものだったのです。古老の経験に耳を傾けることはありませんでした。
【[3]津波対策のこれから(一)】
■「チュウボー」という言葉が出てきます。「中防」=「中央防災会議」です。その「中防」が津波に関して提示した方針、「千年に一回程度襲ってくる最大級のレベル2の津波は、防潮堤を越えることを想定、手段を尽くした総合的な対策を立て」、「百年に1回程度のレベル1の津波は、基本的に防潮堤で防ぐ」という方針についても、それはすでに1993年の北海道南西沖地震の頃には、「頻度の高い津波は構造物で、それ以外はソフト対策とかね、町を津波に強いものにするという思想はずっとあった」というのです。先生は、こうも語っておられます。「とにかく人間はね、地球の事を何も知らないんですよ。だから今だってL2だほら何だとかって言って、1000年に1回なんて言っていますけどね、明日もっと大きいのが来てあとで調べたら1万5000年に1回のだったなんて事になっちゃ、ね。そういう事ってあり得るっていう事を考えて対策をするという、それが根本の考え方にないとダメですね」。ここには、限定された時空間の、限られた経験にもとづいて社会的に「わかったこと」にしてしまう傾向、別の言い方をすれば「蓋をしてしまう」傾向が垣間みえます。
■「津波対策っていうのは結局発生する頻度がそんなにないものだから、やっぱりいろんな部署ででも住民の間ででもとにかく忘れられてしまうっていう事がね。いちばんの難問題なんですよ。これをどうして繋いでいくかね」ということもおっしゃっています。世代を超えて「社会的な負の記憶」をどのように継承していくのかと言い換えることができるのかもしれません。もうひとつ、巨大な防潮堤のような構造物をつくっても、それらが劣化していく問題が視野に入っていないことも指摘されています。巨大な構造物を維持していくのには相当な社会的費用が必要です。そのような費用が担保できないのであれば、かえって巨大な構造物は危ないかもしれないというのです。「昔に比べてね、何かこう、行政がやってくれるからそれに従っていれば大丈夫だっていう気持ちがちょっと強くなりすぎているんじゃないんですかね」という指摘も、大切なご指摘だと思いました。
【[4]津波対策のこれから(二)】
■どのような津波の防災が必要なのか。たとえば巨大な防潮堤を拒否する地域がありますが、先生ははっきりこう言っておられます。「住民が責任を持っていろいろな情報を元にね、住民が責任を持ってそういう選択をするっていうのがね。それがいちばんいいことです。住民がそれを自分の責任で自分の子どもや孫にきちんと繋いでいくね、そうなきゃいかんと思います」。少し長くなりますが、以下をご覧ください。
守られた場所で本当に生活が成り立っていくという事とね、兼ね合わせですね。それを選ばにゃいかん。それはそれの最終決断は住民しかできないでしょう。だからその大きな構造物をつくる、いや、それはちょっと小さくしておいて、その代わりの手立てとして例えば高地移転するとかね、いろんなものの組み合わせがそこの集落の生活をつなぐという事との兼ね合わせでね。だから生活ができて、しかも安全であるという組み合わせ。どういう組み合わせを住民がよしとして取るかね。それをやってないと結局は大きいものをつくってあげたから大丈夫だろう、安全だろうって言って、つくってあげた方は俺はできる限りの事をしたと思っていても、そこで生活が成り立たなきゃみんなどこかに行っちゃいますよね。そうしたらせっかくつくったものが結局は役立たずになりますわな。だから最終的には住民がきちんとした情報のもとに判断をして、それを行政が助けてあげるという姿勢じゃないとね。防災対策なんて長続きしませんね。
■行政によるパターナリズムを批判し(同時に公共事業のあり方についても)、地域住民による自治を強調されています。そのうえで、やはり「いちばん難しいのがそういうものを何十年もそういう知恵をつないでいくっていう事ですね。これが難しい」と語っておられます。ここでも、世代を超えた「社会的な負の記憶」の継承していくことの困難性を語っておられるのです。「社会的な負の記憶」が忘却されていくとき、津波の被害にあいやすい場所に老人福祉施設や病院等が建設されるようになる…これは、私が岩手県立大学に勤務していたときに、首藤ゼミの学生の調査から学んだことです。今回も、先生は、以下のように語っておられます。「事あるごとに重要施設とか弱者施設っていうのは、安全な方に安全な方に持って行くっていうのが原則だけど、それをやっぱり長い時間たつとね、忘れてしまうんですよ。それがいちばん問題。だから皮肉な事を言うと、あなた方は今一生懸命こうやっているけど、同じ熱意で15年後ね、これから15年何もないときに同じ熱意でやれますかっていう事」。
■首藤先生の津波研究の始まりは、チリ津波で被害を受けた釜石の「おばあさん」との出会いでした。大学を卒業して建設省に入省した青年官僚だった先生も、80歳になっておられますが、とてもそのようにはみえません。じつに矍鑠(かくしゃく)とされています。ひょっとすると、釜石の「おばあさん」よりも年上になられたのかもしれません。社会的忘却にどのように抗して、「社会的な負の記憶」を継承していくのか。「おばあさん」から受け継いだ教訓を、NHKの若い取材スタッフに、そしてアーカイブスを視る人たちに、世代を超えて継承しようと、語っておられるように思えました。
【追記】首藤伸夫先生のご講演。2011/09/25 首藤伸夫東北大名誉教授 講演『津波とともに50年』。一般の人びとにもわかりやすく、ご自身のこれまでの研究経緯を説明されています。ぜひ、ご覧いただければと思います。
生物多様性タウンミーティングの開催
■生物多様性に関するタウンミーティングが滋賀県の6箇所で開催されます。滋賀県庁・琵琶湖環境部・自然保護課の「滋賀生物多様性地域戦略策定に係る専門家会議委員」のメンバーというこもあり、滋賀県立琵琶湖博物館の中井さんのお手伝いのような感じで、ファシリテーターをやります。中井さんは、昔の同僚、そして生物多様性の専門家です。「生き物の賑わい」にご関心のある皆様、ぜひご参加ください。
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滋賀県では、自然のめぐみを守り、将来にわたってりようできるよう、(仮称)滋賀県生物多様性地域戦略の策定を進めているところです。
今回、県内にお住まいのみなさまから、地域の自然の特徴や、暮らしとの関わり等について、具体的なお話を伺うため、県内6地域においてタウンミーティングを開催することとしましたのでお知らせします。
1.開催日時および開催場所:
①大津 …平成26年10月23日(木曜日)18時30分-20時30分 @コラボしが21
②甲賀 …平成26年10月21日(火曜日)19時-21時 @碧水ホール
③東近江…平成26年10月15日(水曜日)19時-21時 @八日市商工会議所
④彦根 …平成26年10月16日(木曜日)19時-21時 @彦根勤労福祉会館
⑤長浜 …平成26年10月22日(水曜日)18時-20時 @長浜文化芸術会館
⑥高島 …平成26年10月26日(日曜日)15時-17時 @高島市観光物産プラザ
2.内容:
○生物多様性とは何かについてご説明します
○生物多様性地域戦略の概要について御説明します
○みなさんの地域の生物多様性に関する御意見を伺います
申し込み不要、どなたでもご参加いただけます!