第6回「大津ジャズフェスティバル」

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■昨日は、第6回「大津ジャズフェスティバル」(OJF)でした。実行委員のMさんから、緊急にボランティアをしてもらえないかとの打診があり、土曜日だけボランティアをさせていただきました。私の担当場所は「大津祭曳山展示館前」でした。ひさしぶりの会場担当でしたが、なんとか無事にボランティアを終えることができました。ありがとうございました。第6回をむかえた「大津ジャズフェスティバル」、じつに立派に運営をされています。安定感がありますね。「大津祭曳山展示館前」の受付をしながら、昔のことを思い出しました。

■10月15日の京都新聞の1面のコラム「凡語」に、小山さんの事が書かれていました。

青い琵琶湖と秋空を背景にしたステージで、プロやアマチュアのミュージシャンが演奏し、多くのジャズファンが音楽を楽しむ。「世界一美しい」をうたい文句とする大津ジャズフェスティバルが18、19の両日、大津市の浜大津など湖岸一帯で開かれる▼市民の自主的な活動として2009年に始まり、今年で6回目となる。開催を言い出したのは、第3回まで実行委員長を務めた故小山清治さんだ▼大津市の市街地を歩き、シャッターが下りた商店の多さに驚いたのがきっかけだった。「好きなジャズでまちなかを盛り上げたい」と、仲間と立ち上がった▼数人しかスタッフが集まらない会議もあったが地道に賛同者を増やし、強いリーダーシップで初回を成功に導いた。その後、がんが見つかり、闘病の中で第3回を開いたが、一昨年春に54歳で亡くなった▼遺志を継いだスタッフたちの奮闘で、その後もイベントは盛大に続き、今年は約160組1100人が32会場で演奏する。プロも含めて全て無料で聴けるのが魅力の一つだ▼小山さんは運営を始めたころ、「とりあえず、第5回までは何とか続けたい」と話していた。今回、もうその回数を超える。故人が当初想像した以上に育ったフェス。今年は、どんな音色をまちなかに響かせてくれるのだろうか。 [京都新聞 2014年10月15日掲載]

■第1回の2009年の7月に、父親が1年間の闘病の末に亡くなりました。私はずっと看病等で週末は父のところにいっていたので、「大津ジャズフェスティバル」の実行委員会立ち上げには参加できましたが、その後、実行委員としては実質的に参加できないでいました(実行委員会が週末に開催されたため…)。ボランティアかなにかでお手伝いをしようと思っていましたが、小山さんは、わざわざ私に声をかけてくださいました。開催近くになって、再び実行委員になってほしいと呼んでくださったのでした。しかし、実際に実行委員会に参加してみるときちんと機能しているようにはとても思えませんでした。人はそれなりに集まっていましたが、必要な知恵をだし、きちんと動ける人があまりにも少なすぎました。人を動かす仕組みもありませんでした。また、私が知る限りですが、MCなどをしたいという人はいても、汗をかいて舞台裏の仕事等をする覚悟のある人が少なすぎました。上記のコラムのなかには、「初回を成功に導いた」とありますが、それは天国の小山さんも「ちょっと違うよ、それは…」とおっしゃるかもしれません。実際、第1回の運営は惨憺たるものがありました(あくまで個人的な見解ですが)。個人的な知り合いの街の皆さん、そして市役所の職員の方からも、厳しい評価をいただきました。

■しかし、このときの失敗を乗り越え、きちんと実行委員会を再構成し、準備をしっかりした第2回目以降からは、「大津ジャズフェスティバル」は軌道に乗り始めしまた。社会経験豊富な社会人の実行委員の方が増えて、実行委員会の組織を機動力をもたせるた形に再構成したことが大きかったと思います。ジャズフェスティパルの目指す方向性や運営の仕組みをめぐっては様々な議論(激論)が交わされましたが、結果として、現在のジャズフェスの原型ができあがったのが、この第2回目なのではないかと思います。そして私が参加できたのも、この第2回目までです。というのも、1人暮らしを始めた老母の生活介護や大学の地域連携事業等で忙しくなり、ジャズフェスティバルにエネルギーを注ぐだけの余裕が無くなってしまったからです。第6回「大津ジャズフェスティバル」は、冒頭にもかきましたが、第2回目以降の経験知やノウハウが蓄積され、多くの実行委員やボランティアの参加もあり、大変安定した運営のように思えました。素晴らしいですね。

■以下は、塩漬け状態になっている個人プログのなかの「大津ジャズフェスティバル」のエントリーです。忘れていたことを、いろいろ思い出します。この他にも、「ジャズフェスティバル」で検索すると、たくさんの記事がまだ出てくると思います。ジャズフェスの前史のような感じになりますが、私と小山さんとの出会いは、2008年でした。当時、大津市が主催していた地域SNSを通して出会いがありました。そして、6月には、龍谷大学社会学部で実施している地域連携型教育プログラム「大津エンパワねっと」と、中心市街地で地域づくりに取り組んでいる「大津まちなか元気回復委員会・企画部会」とのコラボレーションによる「町歩き」に、小山さんは参加されました。大津中心市街地の寂しい様子を目の当たりにし、「大津ジャズフェスティバル」の実施を決意されました。そのような話しも、以下のエントリーのなかに出てくるかもしれません。

2009/5/14「大津ジャズフェスティバル(その1)」
2009/5/14「大津ジャズフェスティバル(その2)」
2009/5/14「大津ジャズフェスティバル(その3)」
2009/5/14「大津ジャズフェスティバル(その4)」

■ところで、写真の説明をしていませんでしたね。ステージの背景は、「大津祭曳山展示資料館」です。ガラスを通して、なかに曳山の原寸大レプリカが置かれていることがわかります。「西王母山」です。この展示館がある丸屋町の曳山です。

■トップの写真は、「ORB」というバンドです。パンフレットには、「同じ会社で働いていた仲間が集まり、スタンダード・ジャズなどの演奏を楽しんでいる『おやじバンド』です」と自己紹介されています。定年退職をされた中までジャズを楽しまれているのですね。演奏ですが、これがまた素晴らしいのです。多くの人びとが会場の前で足を止めて、その演奏を楽しまれていました。

■3枚目の写真は、「幸バンド」です。男女のボーカルが印象的です。最後のステージということもあり、ベテラン…の風格が漂っています。迫力ありました。私の仕事は、会場の設営と撤収に加えて、パンフレット等の配布とともに、ステージが終わるたびに、募金をお願いすることでした。300円以上の募金をしていただくと、様々な種類が用意されたOJF特製のカンバッジを差し上げる仕組みになっています。たくさんの方達が募金をしてくださいました。市民の実行委員とボランティアが開催して、多くの市民が応援する…そして街に音楽と賑わいを生み出す、素敵だと思います。

第3回「おおつ未来まちづくり学生会議」

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20141017gakusei2.jpg ■17日(金)、瀬田キャンパスのREC棟の部屋に瀬田キャンパス「おおつ未来まちづくり学生会議」の面々が集まって、午前中からグループワークを実施しました。第1回目はテーマ設定とグループ分け。第2回は細長い大津市を分担して「まち歩き」、そして「まち歩き」で発見したことの整理。第3回は、次回の市役所での発表を前に、パワーポイントの作成…。タイトなスケジュールの中で、自分たちの気付きがうまく伝えられるよう「あーでもない、こーでもない」と頑張っています。

■私も作業の途中を時々のぞきにいきましたが、なかなか大変ですね〜。この日だけでは完成できず、あとは第4回まで各グループで作業を継続してもらうことになりました。頑張れ、学生諸君。

瀬田の紅葉

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■今日の午前中(1・2限)、「大津エンパワねっと」コースの「地域エンパワねっとⅠ」の全体授業でした。場所は、1号館6階の会議室です。普段、理工学部の教授会が開催されている部屋です。今日の全体授業のことは、以下をご覧いただきたいと思います。で、今日のエントリーは、瀬田キャンパスで一番高い建物からみえる風景について。

■過去の紅葉関係エントリー。
晩秋の瀬田キャンパス
紅葉の瀬田キャンパス
瀬田キャンパスの紅葉

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■紅葉をとった瀬田キャンパス1号館の会議しから、琵琶湖が見えました!! 龍谷大学に11年間勤務して、そのことを初めてしりました。左が会議室からの風景ですが、右はその琵琶湖のみえる一部を拡大したものです。

【追記】■facebookで、同じ写真を投稿したところ、親しくしていただいている事務職員の方から、以下のようなご説明をいただきました。「 瀬田開学当初に日建設計の方にききましたが設計において外部からは一切キャパスが見えない事を条件にされて中からは琵琶湖が見えて外からは見えないように唯一一号館からのみ琵琶湖が見えるよう工夫して設計されたとのことです」。

プロジェクション・マッピング@龍谷大学


■昨日の瀬田キャンパス、もう夕方で薄暗くなっていましたが、樹心館で「プロジェクション・マッピング」の調整をやっていました。

■まず、樹心館から説明しますが、この建物は1885(明治18)年に建築されたもので、もともとは大阪南警察署庁舎だった建物です。その建物が1908(明治41年)年、民間に払い下げられ購入した門徒の方が龍谷大に寄付し、大宮キャンパスに移築され、図書館、学友会事務所、宗務所として使われてきました。そして、1994年には瀬田キャンパスに移築されました。現在は、朝の勤行等のさいに礼拝堂として使われています。

■次に「プロジェクション・マッピング」ですが、「壁面や建物、家具などに映像を投影し、スクリーンとなる立体の凸凹と映像の融合で奥行きのあるアートを見せる技術」なのだそうです。この技術を使って、樹心館の歴史をみせようとする企画のようです。大学の広報の記事を引用します

8月30日(土)、瀬田キャンパス(滋賀県大津市)の礼拝堂「樹心館」にて、本学では初となるプロジェクション・マッピングが実施され、多くの方がその美しさに魅了されました。

今回のプロジェクション・マッピングは理工学部情報メディア学科3年生の倉地優輝さんと大塚健司さんの2名(指導教員:岡田至弘教授)が、多くの人にプロジェクション・マッピングの素晴らしさや驚き、そして感動を伝えたいという思いから自ら企画・制作し、実施したイベントとなります。当日は1885(明治18)年に建てられた擬洋風建築物である「樹心館」の様々な歴史がプロジェクション・マッピングで描写されました。

2人がプロジェクション・マッピング制作を始めたのは、実際にプロジェクション・マッピングを見て、その芸術性に驚き、魅了され、またその予備知識である動画編集やカメラが好きであったことがきっかけとなります。これまでは室内で、紙模型や立方体のオブジェクトを用いたプロジェクション・マッピングを行ってきましたが、今回の様な大規模なプロジェクション・マッピング制作は2人にとっては初めての試みであり、多くの時間を費やし試行錯誤の上、完成させた内容です。

今後2人は、今回の経験を活かし、人の動きに反応して映像が変化するなどのインタラクティブ(双方向)性のあるプロジェクション・マッピングや、プロジェクションなどの分野の研究に取り組んでいく予定です。

<参考>
樹心館の歴史
今から129年前の1885(明治18)年に、大阪南警察署庁舎として建築。それから23年後の1908(明治41)年3月、大阪南警察署の改築に伴って民間へ払い下げされ、龍谷大学大宮キャンパスの図書館として生まれ変わる。1936(昭和11)年、学友会事務所に用途を転換。1948(昭和23)年、宗務所(通称:グリーンハウス)として西本願寺へ移築。その後、1994(平成6)年に瀬田キャンパスの礼拝堂として移築し、名前を「樹心館」と改め現在に至る。

■冒頭に、昨日の夕方、樹心館で「プロジェクション・マッピング」の調整をやっていました…と書きましたが、今月末に行われる「龍谷祭」で実演されるのかもしれませんね。とろこで、こういう「プロジェクト・マッピング」の技術は、どの程度、まちづくり等のイベントに活用されているのでしょうね〜。すごく気になります。それぞれのまちの「履歴」を映像として映し出すこと、まちのなかのそれぞれの場所の「地霊」(ゲニウス・ロキ)を映像を通して浮かび上がらせることができるのではないか…と思うからです。アートという枠を超えて、もっといろんな展開ができるのではないかと思いました。おそらく、すでにいろんな試みが行われていると思うのですが、まだきちんと調べることかができていません。

龍大「SEAHORSE」の活躍

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■ここ数年のことになりますが、龍谷大学のアメリカンフットボール部「SEAHORSE」が、活躍しています。Div2に低迷した時期もありましたが、Div1に復活し、昨年はDiv1では3勝4杯の成績を残しました。なかでも、京都大学にもう少しで勝てるところまでいったことは確かな手応えとなったはずです(残り11秒で逆転されました)。そして今年は、とうとうその京大に14-9で勝利しました!! これは龍大「SEAHORSE」にとっては、創部以来の歴史的な快挙になります。龍大には、「RYUKOKU SPORTS+」というサイトがありますが、そこにはこのような記事が掲載されました

8月31日、EXPO FLASH FIELDにおいて関西学生アメリカンフットボールリーグDiv.1第1節京都大学戦が行われ、14―9と勝利を収めた。

試合は序盤、思うように敵陣へ攻め込めない時間が続く。そんな流れを断ち切るように藤本(法2)が抜け出し、独走。待望の先制TD(タッチダウン)を決める。一時は逆転を許したが、竹内(社4)から野間(営2)へパスがつながり、TD。再度リードを奪う。村田ヘッドコーチが「練習のときよりもはるかに良いパフォーマンスができたんじゃないかというくらい素晴らしかった」と称えたディフェンス陣が奮闘する。相手に許したTDは前半の1本だけ。粘り強く守り続ける。インターセプトをして攻撃権を奪い返す場面も数回見られた。

昨年は残り11秒で逆転され敗戦した相手。その悔しい経験から最後まで集中力を高め戦い続け、見事勝利を掴んだ。持田主将(文4)は「最高です。去年の雪辱を果たせました」と振り返った。創部以降初めて京大から白星を挙げ、新たな歴史を刻んだ龍大。リーグ初戦は最高の試合となった。

<村田ヘッドコーチのコメント>
「8月いっぱい京大のことだけを考えて練習してきました。これまで苦しいシーズンを続けてきたのですが、やっとここで努力の方向が試合の現場で発揮され、結果となってつながったことでチームとして達成感というものがあります。これを自信につけてさらにどん欲に勝利に向けて取り組んでもらいたいです」

■村田ヘッドコーチも指摘されているように、努力→成功体験(勝利)→工夫をして努力をして練習→レベルアップという良いスパイラルが生まれてきているように思います。さて、京都大学との試合は第1節でしたが、その後の第2節以降は強豪校が続きます。第2節が関大戦、第3節が立命館戦、ともに敗戦となりました。やはり上位3位の常連校は強いですね。敗戦であっても、そこから何かを集団として学び取ってほしいと思います。そのあたり、どうだったんでしょうね〜。私のような素人にはよくわかりません。そして、いよいよ第4節の関学戦です。関学は母校です。しかも、甲子園ボウルに連続出場している段違いに強いチームです。試合結果は…これが、凄い結果になりました。関学は、これまで同志社、神戸、近代を0点に完封してきました。その関学から、龍大は2TD(タッチダウン)奪うことになりました!!「RYUKOKU SPORTS+」の記事です

10月11日、神戸市立王子スタジアムにおいて関西学生アメリカンフットボールリーグDiv.1第4節関学戦が行われ、14-42で敗戦した。

前半残り3分、上田(済1)から井貝(法2)へのパスが繋がりTDを決める。今季無失点の関学から得点を奪ったことでチームも観客も湧き上がる。この勢いのまま追加点が欲しい龍大だったが、前半だけで関学に4TDも決められ7-28で後半へ。しかし龍大は諦めない。第4Q、徐々に敵陣に攻め込み得点のチャンスをうかがう龍大。エンドゾーン間際、竹内(社4)から田村(国4)へのパスでTDを決め、王者関学から2TD目を奪うことに成功した。結果は14-42で負けてはしまったものの、龍大SEAHORSEに確実に力がついてきていることを印象づけた試合であった。

リーグ戦も後半にさしかかり、選手たちにも徐々に疲れが出始める頃。しかし、Aクラス入りを果たすためには残りの3試合絶対に負けるわけにはいかない。関大、立命館大、関学という並みいる強豪たちから得点を奪ったということを自信に、まずは25日の同大戦で今季2勝目を挙げてもらいたい。

〈村田ヘッドコーチのコメント〉
「厳しい戦いになることは予想していたが、関学から2TDを奪った選手たちの頑張りを褒めてやりたいです。だんだんと疲れが出始める頃だが、気を引き締め残り3試合は絶対に勝ちたいと思います。」

■龍大は負けたわけですが、それでも、関学から2TDを奪ったということがどれだけ凄いことなのか、村田ヘッドコーチの「関学から2TDを奪った選手たちの頑張りを褒めてやりたい」というコメントからもわかります。残り3試合、近大、同志社、神戸との戦いをすべて勝利して、Div1のなかで安定した存在感を示せるようになってもらいたいと思います。「私が退職するまでには、甲子園ボウル出場をかけて関学と最終にもつれ込むようになるまでになってほしい…」これは私の夢です。


■【2014関西学生アメフトハイライト】龍谷大vs京都大

早朝の出勤と下弦の月

20141015seta.jpg ■水曜日1限は、「地域社会論」の授業があります。授業の準備や資料の印刷等のため、早めに出勤します。とはいっても、始発で出勤というわけではありません。自宅を6時10分に出て、近鉄で京都まで行き、京都では7時10分の電車に乗るというパターンです。このパターンだと、7時50分までには大学に到着します。この時間帯ですと、さすがに学生の姿をキャンパスではみかけることはありません。授業開始が9時20分ですので、余裕をもって印刷等の準備ができます。とても気持ちの良いものですね。

■「台風一過」。今朝の空は、その言葉に相応しいスッキリとした秋らしい青空でした。写真は、瀬田キャンパス1号館を撮ったものです。建物の左上に、半月が見えました。月例表を見てみました。下弦の月の一日前でした。今晩の半月が下弦の月ということになります。この上弦、下弦、意外に難しいですね。上弦の月は満月に向かう時の半月で、下弦の月は満月が欠けてきて新月に向かう時の半月です。ということで、月はこれからどんどん新月に向かって細くなっていきます。まあ、早朝出勤すると、こういう写真も撮るだけの余裕があるというわけですね。
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■もっとも、がっかりするというか、シュン…とすることもありました。出勤の途中、バッテリーほぼ死にかけのiPhone5を外付けバッテリーにつないだ状態で、よくニュースを読みます。今日、気になったのは「大学進学率の地域差、20年で2倍 大都市集中で二極化」という記事でした。朝日新聞の記事です。以下は抜き書きです。

大都市と地方で高校生の大学進学率の差が広がっている。今春の文部科学省の調査から朝日新聞が算出すると、都道府県別で最上位と最下位の差は40ポイント。20年で2倍になった。家計状況と大学の都市集中が主因とみられる。住む場所の違いで高校生の進路が狭まりかねず、経済支援の充実などを求める意見がある。

都道府県別では東京の72・5%が最高で、次いで京都(65・4%)、神奈川(64・3%)、兵庫(61・7%)など。最低は鹿児島の32・1%で、低い順に岩手(38・4%)、青森(38・6%)など。40%未満は5県だった

「大学進学の機会」の著書がある小林雅之・東京大教授(教育社会学)は「選択は個人の自由だが、能力や意欲のある若者の進路が居住地の環境で限られるのは社会的損失だ。大学整備は専ら私学に依拠し、大都市集中につながった。その結果、私学の半数近くが定員割れで苦しむ一方、地方では多くの高校生が望んでも進学できないという矛盾も生じている。家計負担軽減には給付型奨学金の充実が急務。地方の短大や専門学校の活用も有効だ」と話す。

■これはかなり深刻な状況ですね。県民所得の低い地域は進学率も低い傾向にあります。私が以前勤務していた岩手県立大学です。岩手県の公立大学です。今から、10数年前のことですが、学生がこのようにいったことを記事を読みながら思い出しました。「私の親が、『とても仙台や東京の大学にやるだけの余裕は我が家にはない。県立大学に通学するのだったら許そう』といってくれたので、なんとか県立大学に入学できました。ありがたいです」。そのとき、公立大学の存在意義を強く感じました。しかし、東日本大震災に被災されたたことなども、進学にどのように影響しているのでしょうね。今日の朝日新聞の記事を読む限り、当時よりも状況はより深刻になっているのかなと思います。

京都のラーメン(3)本家 第一旭 たかばし本店

20141015daiichiasahi.jpg ■ひとつ前のエントリーで、「京都駅近くにある『本家 第一旭』に行きたくなり」と書きましたが、実際にも行ってきました。「本家 第一旭 たかばし本店」です。しっかり豚の旨味が主張しているスープに、中太のストレートの麺。普通でよかったと思いますが、まわりの人たちがみんな「特製ラーメン」を注文されていたので、私も「特製ラーメン」を注文しました。しかし、「通常ラーメンの2倍のチャーシューと麺が大盛りのがっつり系」なのだそうです。私のような胃袋の人間が注文するべきではありませんでした。味が特製なのかと思ったら、量が特製でした…。最後は、ちょっと辛くなりましたが、とりあえず完食しました。若いときのようにはいきませんね。

■この「本家 第一旭 たかばし本店」のお隣は、やはり有名な「新福菜館」です。こちらについては、「京都のラーメン(2)新福菜館」に書きました。いつもは、「新福菜館」の方に行列が多いように思いますが、今回は圧倒的に「第一旭」の方が長い行列でした。同じラーメンとはいっても、簡単比較できるものではありません。コンセプトといいますか、前提になっている考え方が違うんだろう…たぶん、そう思います。

【追記】■こういう、「しっかり」・「がっつり」系のラーメンは、だんだん身体が受付けにくくなってきました。残念ですけど…。

電気鉄道事業発祥地

20141014denkitetudo.jpg ■京都駅は、私にとって通勤のときに通過する場所です。自宅のある奈良から近鉄で京都駅まで行き、そこからJR京都駅まで歩き、こんど琵琶湖線に乗り換え瀬田駅までいく。京都駅は、そのようなルートの通過地点でしかありません。そのようなこともあり、駅構内の外に出ることはあまりありません。駅の周辺にある書店や居酒屋(ないしはパブ)に行くとき、あるいは近くにあるショッピングモールに買い物をしにいくとき以外は、駅の建物から外に出ることはありません。まして、京都駅から地下鉄に乗って繁華街である四条のあたりまでいくなんてもことも、県人会や同窓会等の特別な用事がない限りありません。つまり、京都駅は通過はしていますが、京都の街のことはあまり知らないのです。

■先日のことになります。駅から少し離れたところにあるラーメン店に昼食をとりにいきました。京都駅ビル内の伊勢丹にも拉麺小路という場所があり、全国の有名店が出店されています。まあ、そこでも良かったのですが、その日は京都駅近くにある「本家 第一旭」に行きたくなり、テクテク歩いていたのです。すると、駅のすぐそばにこの写真の石碑がたっていることに気がつきました。何度も通っているはずなのですが、今回、このような石碑が建っていることに初めて気がつきました。「電気鉄道事業発祥の地」と書いてあります。帰宅してからも調べてみて、いろいろわかりました。京都市役所のホームページでは、この日本発の電機鉄道に関して詳しく解説していました。以下は、そこからの引用です。

日本初の市街路面電車
明治28(1895)年2月1日から昭和53(1978)年9月30日までの83年間,路面電車が京都市内を縦横に走っていました。明治28(1895)年,民営の京都電気鉄道会社(京電<きょうでん>)が東洞院(ひがしのとういん)塩小路(しおこうじ)下るの七条停車場(しちじょうていしゃじょう,京都駅)と伏見町(ふしみちょう)下油掛(しもあぶらかけ)間の営業を開始。京都に日本初の路面電車が誕生しました。明治45(1912)年6月,京都市営電車の営業が開始され,京電との激しい客取り合戦が繰り広げられましたが,大正7(1918)年7月,京都市が京電を買収し,競合区間の路線が統一されました。大正中期から昭和初期までは,市電の黄金時代が続きました。
昭和30年代の後半(1959~1964)から,市電と競合する市バスや会社バスが増加し,更に自動車も多く走りはじめ,路線の自由がきかない市電経営は行き詰まりを見せました。
昭和45(1970)年3月31日,日本最古の路面電車路線だった伏見線(塩小路高倉<しおこうじたかくら>と中書島<ちゅうしょじま>間)と稲荷線(勧進橋<かんじんばし>と稲荷間)が廃止されたのを皮切りに,路線が次々と廃止され,昭和53(1978)年9月30日,残る外郭線(北大路・西大路・九条・東山・七条・河原町の各線)すべてが廃止され,京都の路面電車の歴史に終止符が打たれました

先走りの少年
京電開業の6か月後の明治28(1895)年8月,雑踏や街角,橋上では電車の先五間(約9メートル)以内を先行し,昼は旗,夜は提灯をもち「電車がきまっせえ。あぶのおっせえ」と叫びながら線路を走る告知人がいました。告知人は,12歳から15歳の少年で構成されていて,先走りと呼ばれました。告知人制度は,府令第六十七号電気鉄道取締規制によるもので,仕事は危険な上に汗とほこりにまみれての重労働で,少年が電車にひかれる事故が相次いだため,告知人制度は廃止されました。

疏水止まれば電車も止まる
京電は琵琶湖疏水(びわこそすい)による水力発電によって電力が供給されたため,疏水の流れが止まると,京電も休業となりました。京電の定期休業日は,元旦,毎月1日と15日の疏水藻刈日。その他,水利事務所の機械故障や琵琶湖の増水などによって,たびたび電車の走行が止まりました。明治32(1899)年,東九条村(ひがしくじょうむら,現南区東九条東山王町)に石炭による火力発電所が開設され,その発電により輸送能力が一気に向上しました。

■素朴に「電車に乗るのが楽しい…」と思うだけの幼稚な鉄道愛好家なので、こういう歴史的な事実関係についてはまったく知りませんでした。京都の路面電車と琵琶湖疎水の関係については受験勉強のときに得た知識として知っていましたが、「先走りの少年」がいたなんてことも…知りませんでした。しかも、「電車がきまっせえ。あぶのおっせえ」と叫びながらというのが、京都らしい。ただし、少年が電車にひかれる事故が相次いだため…というのは、悲惨というか、なんとも言いようがありません…。解説では、路面電車が全面的に廃止になったのが昭和53(1978)年だといいます。私が二十歳のときです。当時、神戸に住んでいましたが、廃止寸前の頃に、一度だけ乗ったような記憶があります。今から思えば、市電を無くしてしまうなんて…もったいない話しですね。電車、自転車、人の歩行を優先るす街になっていれば…と思わずにはいられません。

■ところで、「電気鉄道事業発祥の地」の石碑の碑文ですが、以下の通りです。
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電気鉄道事業発祥の地
日本最初の電気鉄道はこの地に発祥した。即ち明治二十八年二月一日 京都電気鉄道 株式会社は 東洞院通り七条下る鉄道踏切 南側から伏見下油掛通りまで 六キロの間 に軌道を敷き 電車の運転を始めた。この成功を機として 我が国電気鉄道事業 は漸次全国に広がり 今日の新幹線電車にまで発展することになったのである。よってその八十周年にあたり 先人の偉業 を讃えてこの記念碑を建てる。 昭和五十年二月一日

日本国有鉄道
京都市交通局
関西電力株式会社
阪急電鉄株式会社
京阪電気鉄道株式会社
近畿日本鉄道株式会社
阪神電気鉄道株式会社
南海電気鉄道株式会社
京福電気鉄道株式会社
鉄道友の会京都支部
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■関西の鉄道関係の企業がずらりとならんでいますね。阪神、南海なんて鉄道会社は京都とは関係ないはずですが、鉄道会社のとっては重要な「発祥の地」ということで、ここに名前があがっているのでしょう。ちなみに最後の「鉄道友の会」ですが、1953年(昭和28年)11月14日に創立された全国規模の鉄道愛好者団体です。広く鉄道知識を普及し、鉄道趣味を通じて会員相互の親睦を深め、鉄道を愛護し、その発展に寄与することを目的として設立されています。この「発祥の地」の石碑は、伏見区にも建てられているのだそうです。こちらも、チャンスがあれば見学したいと思っています。

戦後史証言アーカイブス「津波研究50年」首藤伸夫先生のこと

20141014syuto.png ■まず、最近facebookにアップした記事を、加筆修正の上で転載します。

首藤伸夫先生は、津波研究の第一人者だ。

私は、1998年4月から2004年3月まで、6年間、岩手県立大学総合政策学部に勤務していた。所属は、地域政策講座だった。首藤先生には、そのとき同じ地域政策講座でお世話になった。東北大学を定年で退職されたあと、岩手県立大学に勤務されていた。

教員住宅もお隣同士だった。私は単身赴任だったが、インフルエンザにかかってしまったとき、正月、関西に帰省していて、岩手に戻ったら水道管がカチンコチンに凍っていたとき…、私生活の面でもいろいろ助けていただいた。

もちろん、首藤先生には、津波のことについても、教えていただいた。5〜6年前だろうか、東京で偶然にお会いした。そのとき、日本大学に勤務されていた。そして、今日は、首藤先生にネットでお会いすることになった。NHKの「戦後史証言アーカイブス」のなかで証言しておられた。あのとき、もっと先生からいろいろお話しを伺っておけばよかったと思う。まあ、人生とは、そういう後悔の連続だからと、最近は開き直ってしまうけど。先生の証言を聞きながら、昔の教わったことや、首藤ゼミの学生たちの研究内容についても思い出してきた。

「津波研究50年」(「番組名 戦後史証言プロジェクト 日本人は何をめざしてきたのか」 2013年度「地方から見た戦後」第6回 三陸・田老 大津波と“万里の長城”)。

■さて、インターネットに「戦後史詳言アーカイブス」を開設した目的を、NHKは次のように説明しています。

NHKでは、戦後の歩美の中で日本人が経験したことを、未来に伝えるため『戦後史詳言アーカイブス』を開設しました。『日本人は何をめざしていたのか』などの番組で取材した政財界人から一般市民にいたる幅広い証言を、未放送の部分も含めてインターネット上で公開していきます。

■首藤先生の証言。2013年度「地方から見た戦後」の第6回「三陸・田老 大津波と”万里の頂上”」に登場する8人のなかのお1人として証言されています。

大津波を二度体験した/三陸・宮古市田老住民/赤沼ヨシさん「96歳 巨大防潮堤の町に生きた」
大津波を二度体験した/三陸・宮古市田老住民/荒谷アイさん/「悲劇を忘れない 昭和8年大津波で家族7人失う」
元 運輸省防災課/久田安夫さん「津波対策に取り組んで いま思う「悔しさ」」
元 建設省土木研究所研究員 東北大学名誉教授/首藤伸夫さん「津波研究50年」
大津波を二度体験した/三陸・宮古市田老住民(現 青森在住)/田畑 ヨシさん「二度の大津波体験を紙芝居で伝える」
田老診療所 医師(東日本大震災当時)/黒田仁さん「津波の町で医療を守る」
岩手県釜石市唐丹町 花露辺町内会長/下村恵寿さん/「”防潮堤はいらない”」
元 田老町漁業協同組合/梶山亨治郎さん「田老のシンボルだった巨大 防潮堤建設の経緯」
三陸・宮古市田老住民 漁師/扇田文雄さん/「将来に抱く不安 それでも海を離れたくない」
宮古市危機管理課 元 田老町職員/山崎正幸さん/「心の中に防潮堤を『津波防災の町 宣言』」

■首藤先生の証言全体は、4つのチャプターから構成されています。各チャプターごとに、語りが「再生テキスト」として文字化されています。

[1]おばあさんに教わった
[2]「津波研究などムダ」と言われた
[3]津波対策のこれから(一)
[4]津波対策のこれから(二)

【[1]おばあさんに教わった】
■このチャプターでは、1960年のチリ津波の調査に入ったときのことが証言されています。先生が津波研究に入られた動機が語られています。東大工学部を卒業されて当時の建設省に入省されます。1957年のことです。まだ高度経済成長の入り口に日本がいた時代です。私自身は、そのときにまだ生まれていません。日本はまだ貧しく堤防や防潮堤をつくる…という発想はまだなかったようです。

始まりはね、やっぱりチリ津波なんですよ。釜石のすぐ近くに両石っていうところがあって。そこでね、2階屋の1階がめちゃくちゃになって、2階はちゃんと残っている。後片付けに忙しいおばあさんのところに近寄って行ってね、「おばあさん大変ですね」って言ったらね、そのおばあさんがまたね、にこっと笑ってね、こんなに被害にあっているのにあんなきれいな笑顔ができるのかっていうぐらいににこっと笑ってね。「あんたね、こんなものは津波じゃないよ、昭和や明治の津波に比べたら」と、こうおっしゃったのね。(中略)昭和や明治の津波に比べたらこんなもの津波じゃないよと言ったので。それで昭和や明治の津波っていうのがどんなものだったのかという事を一生懸命文献を探しては読んでいた。そうしたらだんだんね、そのものすごさが分かってきた。

■社会学をやっていると、「おばあさん」のきれいな笑顔の意味、「昭和や明治の津波」の経験が、「おばあさん」の人生のなかでどのように位置づけられていたのか、突然不幸を受け止める力、それは何にもとづいているのか…そのようなことも気になってきますが、それはともかく。先生の関心は、「こんなものは津波じゃないよ、昭和や明治の津波に比べたら」という、そのものすごい津波の実態を知ろうというところから始まります。そして、それをどう防げばよいのかということにつながっていきます。

【[2]「津波研究などムダ」と言われた】
■このチャプターでは、「津波は防潮堤で防げる」という「過信」がひろがっていく時代について証言されています。「チリ津波特別措置法」により、「津波対策」=「構造物をつくること」…という社会的な発想が社会に定着していくのです。「こんなものは津波じゃないよ、昭和や明治の津波に比べたら」という古老の経験は活かされることはありません。あちこちに防潮堤が建設されました。1968年の十勝沖地震津波が、チリ津波よりほんのわずかだけど小さかったことが、かえって「過信」を生み出すことになりました。1980年代に入り建設省の河川局と水産庁が津波対策の再検討を始めたとき、先生は幹事長を務められたようですが、そのとき「予報」、「避難」、「構造物」の3本立てで津波対策を進めようとされました。ハードだけでなく、ソフトも含めて総合的な政策を進めなければならないという立場ですね。しかし、このような考え方に対しては、縦割り行政組織のなかにいる官僚たちから強い反発があったというのです。「津波は防潮堤で防げる」という「過信」がひろがっていく時代に、ソフト対策に対する抵抗は相当根強いものだったのです。古老の経験に耳を傾けることはありませんでした。

【[3]津波対策のこれから(一)】
■「チュウボー」という言葉が出てきます。「中防」=「中央防災会議」です。その「中防」が津波に関して提示した方針、「千年に一回程度襲ってくる最大級のレベル2の津波は、防潮堤を越えることを想定、手段を尽くした総合的な対策を立て」、「百年に1回程度のレベル1の津波は、基本的に防潮堤で防ぐ」という方針についても、それはすでに1993年の北海道南西沖地震の頃には、「頻度の高い津波は構造物で、それ以外はソフト対策とかね、町を津波に強いものにするという思想はずっとあった」というのです。先生は、こうも語っておられます。「とにかく人間はね、地球の事を何も知らないんですよ。だから今だってL2だほら何だとかって言って、1000年に1回なんて言っていますけどね、明日もっと大きいのが来てあとで調べたら1万5000年に1回のだったなんて事になっちゃ、ね。そういう事ってあり得るっていう事を考えて対策をするという、それが根本の考え方にないとダメですね」。ここには、限定された時空間の、限られた経験にもとづいて社会的に「わかったこと」にしてしまう傾向、別の言い方をすれば「蓋をしてしまう」傾向が垣間みえます。

■「津波対策っていうのは結局発生する頻度がそんなにないものだから、やっぱりいろんな部署ででも住民の間ででもとにかく忘れられてしまうっていう事がね。いちばんの難問題なんですよ。これをどうして繋いでいくかね」ということもおっしゃっています。世代を超えて「社会的な負の記憶」をどのように継承していくのかと言い換えることができるのかもしれません。もうひとつ、巨大な防潮堤のような構造物をつくっても、それらが劣化していく問題が視野に入っていないことも指摘されています。巨大な構造物を維持していくのには相当な社会的費用が必要です。そのような費用が担保できないのであれば、かえって巨大な構造物は危ないかもしれないというのです。「昔に比べてね、何かこう、行政がやってくれるからそれに従っていれば大丈夫だっていう気持ちがちょっと強くなりすぎているんじゃないんですかね」という指摘も、大切なご指摘だと思いました。

【[4]津波対策のこれから(二)】
■どのような津波の防災が必要なのか。たとえば巨大な防潮堤を拒否する地域がありますが、先生ははっきりこう言っておられます。「住民が責任を持っていろいろな情報を元にね、住民が責任を持ってそういう選択をするっていうのがね。それがいちばんいいことです。住民がそれを自分の責任で自分の子どもや孫にきちんと繋いでいくね、そうなきゃいかんと思います」。少し長くなりますが、以下をご覧ください。

守られた場所で本当に生活が成り立っていくという事とね、兼ね合わせですね。それを選ばにゃいかん。それはそれの最終決断は住民しかできないでしょう。だからその大きな構造物をつくる、いや、それはちょっと小さくしておいて、その代わりの手立てとして例えば高地移転するとかね、いろんなものの組み合わせがそこの集落の生活をつなぐという事との兼ね合わせでね。だから生活ができて、しかも安全であるという組み合わせ。どういう組み合わせを住民がよしとして取るかね。それをやってないと結局は大きいものをつくってあげたから大丈夫だろう、安全だろうって言って、つくってあげた方は俺はできる限りの事をしたと思っていても、そこで生活が成り立たなきゃみんなどこかに行っちゃいますよね。そうしたらせっかくつくったものが結局は役立たずになりますわな。だから最終的には住民がきちんとした情報のもとに判断をして、それを行政が助けてあげるという姿勢じゃないとね。防災対策なんて長続きしませんね。

■行政によるパターナリズムを批判し(同時に公共事業のあり方についても)、地域住民による自治を強調されています。そのうえで、やはり「いちばん難しいのがそういうものを何十年もそういう知恵をつないでいくっていう事ですね。これが難しい」と語っておられます。ここでも、世代を超えた「社会的な負の記憶」の継承していくことの困難性を語っておられるのです。「社会的な負の記憶」が忘却されていくとき、津波の被害にあいやすい場所に老人福祉施設や病院等が建設されるようになる…これは、私が岩手県立大学に勤務していたときに、首藤ゼミの学生の調査から学んだことです。今回も、先生は、以下のように語っておられます。「事あるごとに重要施設とか弱者施設っていうのは、安全な方に安全な方に持って行くっていうのが原則だけど、それをやっぱり長い時間たつとね、忘れてしまうんですよ。それがいちばん問題。だから皮肉な事を言うと、あなた方は今一生懸命こうやっているけど、同じ熱意で15年後ね、これから15年何もないときに同じ熱意でやれますかっていう事」。

■首藤先生の津波研究の始まりは、チリ津波で被害を受けた釜石の「おばあさん」との出会いでした。大学を卒業して建設省に入省した青年官僚だった先生も、80歳になっておられますが、とてもそのようにはみえません。じつに矍鑠(かくしゃく)とされています。ひょっとすると、釜石の「おばあさん」よりも年上になられたのかもしれません。社会的忘却にどのように抗して、「社会的な負の記憶」を継承していくのか。「おばあさん」から受け継いだ教訓を、NHKの若い取材スタッフに、そしてアーカイブスを視る人たちに、世代を超えて継承しようと、語っておられるように思えました。

【追記】首藤伸夫先生のご講演。2011/09/25 首藤伸夫東北大名誉教授 講演『津波とともに50年』。一般の人びとにもわかりやすく、ご自身のこれまでの研究経緯を説明されています。ぜひ、ご覧いただければと思います。

『悪童日記』(アゴダ・クリストフ)

20141013akudo2.jpg ■この本は、アゴダ・クリストフ(1935-2011)という作家の『悪童日記』という小説です。自宅の書架にある『悪童日記』の奥付には、1991年初版発行、1994年17版発行となっています。今から23年前に翻訳出版された小説です(購入したのは20年前)。原作は1986年です。原題は「Le Grand Cahier」。「大きな帳面」という意味です。主人公である双子の兄弟が書いた日記、という形式で作品は書かれています。「大きな帳面」が、日記なのです。

■この『悪童日記』、世界的なベストセラーになりました。作者のアゴダ・クリストフは、1956年のハンガリー動乱のさいに西側に亡命し、フランス語圏のスイスに住みながら創作活動をしてきたのだそうです(世界史をまなんだことのない学生の皆さんだと、ハンガリー動乱といってもよくわかりませんよね。ここでは説明できませんので、各自で調べてみてください)。この『悪童日記』は、彼女にとって初めての小説で、しかもフランス語で書かれました。生きることが厳しい母国の状況から逃れ、異国の地に暮らし、母国語以外の言語で小説を書いたわけです。小説家としてのデビューは51歳のときでした。彼女自身、自らの自伝なかで、フランス語で創作活動をすればするほど自分の母国語であるハンガリー語を「殺し続けることになる」と述べているようです。言語というものは、人間にとって、大変大きな存在基盤です。自己を形づくっている基盤です。『悪童日記』を創作することは、大変な苦労だったと思います。といいますか、異国の地で異国の言葉で書き続けることが…といったほうがよいかもしれまれん。しかし、そのような言語的なハンディキャップが、むしろ独特の文体を生み出すことにもつながっているのです。

20141013akudo1.png■ところで、なぜ昔読んだこの小説を自宅の書架からひっぱりだしてきたかというと、この小説が映画化され、10月3日より、全国各地の映画館で上映されているからです。新聞や雑誌等でも、この映画の評判を時々読みます。やはり行ってみたくなるではありませんか。芸術の秋は、いろんなところで素敵な展覧会をやっていますし、困りました。時間が足りません。とりあえず、映画の公式サイトをみてみました。すると、動画が自動的にたちあがりました。背景に流れる曲は、ベートーベンの交響曲7番の2楽章です。どうして、この曲が選ばれているかわかりませんが、深い哀しみを表現したかのような第2楽章とこの『悪童日記』とは、どこかで共振しあうように思います。

■映画のあらすじですが、原作にかなり忠実なようです。映画の公式サイトでは、次のように紹介されています。

第2次世界大戦末期、双子の「僕ら」は、小さな町の祖母の農園に疎開する。粗野で不潔で、人々に「魔女」と呼ばれる老婆の下、過酷な日々が始まった。双子は、生きるための労働を覚え、聖書と辞書だけで学び、様々な“練習”を自らに課すことで肉体と精神を鍛えていく。
そして、目に映った真実だけを克明にノートに記す――。
両親と離れて別世界にやってきた双子の兄弟が、過酷な戦時下を、実体験を頼りに独自の世界観を獲得し、自らの信念に基づきサバイバルしていく。なんとしても強く生き抜く彼らのたくましさは、倫理の枠を超えて見るものを圧倒し、希望の光をも示してくれるだろう。

20141013kristof2.jpeg20141013kristof1.jpeg ■『悪童日記』と、その後に執筆された『ふたりの証拠』『第三の嘘』をあわせて、アゴダ・クリストフの三部作と言われています。すべて、翻訳されて文庫本にもなっています。読んでみようと思います。いろんな方達の感想をプログ記事等で読ませていただくと、この三部作をすべて読むことで、深く納得できる世界が見えてくるようなのです。まだ、読んでいないので、最初からわかってしまうと面白さも半減してしまいそうではありますが…。とはいえ、たとえそういう結末なのだな…と知ったとはいえ、これは読まないわけにはいきませんよね。

20141013kristof3.jpeg 【追記】■もう1冊、まだ読んでいませんが、紹介しておこうと思います。『文盲』(L’analphabète) は、アゴダ・クリストフの「自伝」だそうです。amazonに掲載された出版社が提供した情報は以下の通りです。太字は、自分ために強調したものです。

世界的ベストセラー『悪童日記』の著者が初めて語る、壮絶なる半生。祖国ハンガリーを逃れ難民となり、母語ではない「敵語」で書くことを強いられた、亡命作家の苦悩と葛藤を描く。

「もし自分の国を離れていなかったら、わたしの人生はどんな人生になっていたのだろうか。もっと辛い、もっと貧しい人生になっていただろうと思う。けれども、こんなに孤独ではなく、こんなに心引き裂かれることもなかっただろう。幸せでさえあったかもしれない。
確かだと思うこと、それは、どこにいようと、どんな言語でであろうと、わたしはものを書いただろうということだ。」──本文より

東欧とおぼしき土地で、厳しい戦況を残酷なたくましさで生き抜く双子の「ぼくら」──彼らとそれを取りまく容赦ない現実を、身震いするほど淡々とした文体で描いた世界的ベストセラー『悪童日記』(邦訳1991年)の衝撃は、今なおわたしたちの記憶に新しい。

その驚愕の物語設定や独得の文体はもとより、それがまったく無名のハンガリー人女性の処女作であったこと、小説が書かれたフランス語は〈難民〉だった彼女が20歳を超えてから身につけたものだということなど、著者本人についても大いに注目が集まった。

そんな彼女が、短いながら濃密な自伝を発表した。祖国ハンガリーを逃れ、異国の地で母語ではない〈敵語〉で書くことを強いられた、亡命作家の苦悩と葛藤が鋭い筆致で描かれ、「家族」「言語」「東欧」「難民」「書くということ」について、そして「幸福」について深く考えさせられる。そして、彼女の作品がまさに自身の壮絶な人生から絞り出されたものであることもわかる

「もし自分の国を離れなかったら、わたしの人生はどんな人生になっていたのだろうか。もっと辛い、もっと貧しい人生になっていただろうと思う。けれども、こんなに孤独ではなく、こんなに心引き裂かれることもなかっただろう。幸せでさえあったかもしれない。確かだと思うこと、それは、どこにいようと、どんな言語でであろうと、わたしはものを書いただろうということだ。」(「国外亡命者たち」より)

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