初夏の深草
▪︎今日は、朝一番で深草キャンパスに向かいました。大学の執行部の会議で、研究部関連の報告をすることになっていたからです。私の報告時間は10分程度なのですが、大学の大切な会議ですので行かないわけにはいきません。ああ、社会学部のある瀬田キャンパスがもっと近くになあったらな〜…と思うのですが、これも仕方がありません。会議のあとは電車に乗って瀬田キャンパスに移動です。昼からは、「大津エンパワねっと」の運営会議、そしてその後は博士論文の草稿報告会があります。ごくわずかの時間ですが、息抜きもかねて、ちょっとした「まち歩き」をしてみました。テーマは、「初夏の深草」。初夏らしい風景をいろいろ探してみました。
▪︎写真を少し説明。トップは、琵琶湖疏水にかかる橋です。橋の名前は…、こんど調べておきます。なかなか、素敵な風景ですよね。しばらく眺めていると、ジョギングをしている人が通っていきました。「ちょっと、エエ感じかな」と思い、iPhone6で撮ってみました。縦横の歪みの問題があるのですが、けっこうiPhone6のカメラは優れていると思います。2段目の左、琵琶湖疏水沿いの樹木。右は、クリーニング店前の鉢植えの紫陽花です。鉢植えでも、ここまで立派になるなんですね。前を通る方たちの目を楽しませてくれます。ありがたいことです。そして、右の写真は、マツバギク。南アフリカ原産らしいですが、高温や乾燥に強く、大きい群落になるので、路地の花壇や石垣などにしばしば栽培されるそうです。この花に関しては、特に初夏は関係ないのかも…です。
シュテファン・ツヴァイクの『書痴メンデル』
▪︎以下は、facbookに投稿したものに、少しだけ加筆したものです。
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▪︎通勤の電車のなかで、学生時代の英語のN先生のことが、どういうわけか記憶の奥底から浮かび上がってきた。N先生は、厳しいことで有名だった。私のいた関学の社会学部には、英語のN先生、ドイツ語のH先生、フランス語のK先生が厳しいことで有名だった。3人あわせて「社会学部のNHK」と学生からは呼ばれていた(K先生は、噂ほど厳しいとも思わなかったが…)。
▪︎思い出したのは、N先生の授業で使われていた小説である。シュテファン・ツヴァイクの『書痴メンデル』。ツヴァイクはオーストリアのユダヤ人だから、原文はドイツ語だ。それを英訳したものがテキストに使われていたのだ。今時の大学だと、教養教育で使うテキストではないような気がするが、どうだろうか…。
▪︎大学2回生だった私たちが、英文の『書痴メンデル』をスラスラ読んでいたかというと、全然違う。ある意味、耐え難きを耐え、忍び難きを忍び、仕方なしに辞書を引きながら苦労して読んでいた。テキストは、書き込みでいっぱいだったように思う。
▪︎『書痴メンデル』のあらすじ。書痴。現在ではあまり使わない言葉だ。「読書ばかりしていて世事にうとい人。書物収集狂。ビブリオマニア」という意味だ。記憶のなかにある「あらすじ」。ヤーコブ・メンデルは、本に関することはすべてを知っている。どんな情報でも、彼に聞けばスラスラと出てくる。そういう人物だ。しかし、彼は、第一次世界大戦が起きていることを知らない。世の中大騒ぎなのに、自分の頭のなかの本の世界に埋没している。世の中からズレているのだ。ズレているので、本の問い合わせで敵国に手紙を送ってしまう。そのことからスパイと疑われて逮捕される。知識人に尊敬されていたメンデルだっだか、そこから彼はどんどん転落していく…。おそらくは、授業ではテキストを全部読み通していないと思う。後半のあらすじは、後付けの知識のようにも思う。
▪︎多くの読者は、メンデルのことを滑稽だと思いつつも、彼が転落していく人生を通して、生きることの深い哀しみを感じるだろう。小説を読み進めていくうちに、哀しみが自分の体に染み込んでくるような…、そんな感覚に陥るだろう。もちろん、大学2回生の私たちに、そのような話しなど理解できるはずもなかった。『書痴メンデル』、私たちはN先生から英語のテキストを読まされたが、優れた翻訳も出ているので、手にとってお読みいただければと思う。
▪︎こんな細かなことも思い出した。小説のなかに、レジスターが出てきた。スーパーのレジにある、あの機械だ。ある学生が「レジスター」と訳したら、N先生は許さなかった。正しくは「金銭登録機」というのだと訂正をさせた。困惑したその学生。気の毒に思った私…。段落ごとに、順番に学生が翻訳をしていく。そういう授業だった。
▪︎N先生は、関学のあの「スパニッシュ・ミッション・スタイル」の明るいキャンパスが大嫌いだった。ご本人は、関学のご出身だったのだが。そのあたり、どうしてなのかわからない。能天気にテニスだスキーだと遊び惚けている学生たちに厳しかった。N先生のなかでは、「あるべき大学像」があったのかもしれない。
▪︎ところで、どうして通勤電車のなかで、N先生のことや、ツヴァイクの『書痴メンデル』のことを思い出したのか、自分でもよくわからない。N先生のことや、彼の授業が好きだったわけではないのだが、自分の記憶というよりも身体のなかに残っているのだ。不思議だ。大学改革が声高に叫ばれている。議論はいろいろだが、このような経験も、年をとってからも反芻することのできる経験が、今の大学には必要なのではないのか…と、ふと思ったのだ。
瀬田キャンパスに「カフェ」(2)
月曜日の授業
▪︎この4月から、研究部長の仕事をすることになり、授業は「月曜日の午前中」と「金曜日」に固めざるをえなくなっています。月曜日の午前中は、1限が「社会調査実習」、2限が「社会学演習ⅠA」(3年生ゼミ)になります。1限の「社会調査実習」は通年授業です。今年の実習のテーマは、「魚のゆりかご水田」です。夏休みには、「魚のゆりかご水田」に取り組んでいる農村集落を訪問し、聞き取り調査を行います。先週から、具体的なインタビューのさいの質問項目を、全員でいろいろ考えています。いわゆる社会調査でいうところの「半構造化インタビュー」です。事前に大まかな質問事項を決めておき、お話ししてくださる方のお話しの内容に応じて、さらに詳細に尋ねる簡易な質的調査法です。本当は、時間をかけて「非構造化されたインタビュー」も経験してもらいたいところですが、イタビュー調査を実際に経験する初心者の学生さんたちには、なかなか難しいところがあります。
▪︎授業では、4月から、基礎的なことを学んできました。滋賀県の農業のこと、琵琶湖と農業の関係、農業の近代化、陸と水との分断、琵琶湖総合開発…と、基本的な事柄に関して、講義を中心に行ってきました。その講義を前提に、こんどは時期区分を行い、それぞれの時期に関して質問項目をみんなで考えてみました。そして、インタビューの質問をひとつひとつ切り離し、同じ内容のものをグループ化していきました。これを、全員でブラッシュフップし、不足している点については追加してもらう予定です。私からも足らないところをサポートをしていきます。また、文献での調査でも補強します。
▪︎昨日は、先日、総合地球環境学研究所のPD研究員である浅野悟史さんから教わった「地理院地図」も使ってみました。調査地の航空写真を比較してみました。圃場整備、河川改修により、地域の様子が変化していることがわかります。はっきりわかるのは、特に、川岸や湖岸の様子が大きく変化しています。琵琶湖総合開発によって、陸と水がはっきり分離していることがわかりました。まあ、こんな感じで少しずつ準備を進めています。
▪︎2限が「社会学演習ⅠA」(3年生ゼミ)は、少しずつ大学のゼミに慣れてもらうことに時間をかけてきました。先週は、卒業論文に向けてのスケジュール、特に就職活動と並行しながらどうやって卒論の調査や研究を進めていくのか…ということについて説明しました。そのうえで、昨日から、毎回ゼミ生が4人ずつ、自分の問題意識や取り組む研究テーマに関して説明をしたうえで、各自が今読んでいる本を複数冊、レジュメをもとに紹介してもらうことを始めました。今日は1人病欠でしたので、仕方なく3人だけになりましたが、初回にしては、ずいぶんうまく紹介をしてくれました。紹介の仕方からは、しっかり読み込んできていることがよくわかりました(1名の学生だは準備不足でしたが…)。こうやって、お互いの研究テーマや問題意識を知ることで、卒論に向けて気合を入れていってほしいと思います。紹介してもらった本で、夏休みに書評文を書いてもらう予定です。
総合地球環境学研究所で打合わせ
▪︎今日も、深草キャンバスに直行。午前中は例によって研究部の仕事で…いろいろ…ありました。協議、打合せ、会議。事務職員の皆さんには申し訳ありませんでしたが、午後からは、溜まりに溜まっている、研究プロジェクトの仕事をするために、総合地球環境学研究所に移動しました。深草キャンバスの最寄りの駅は、市営地下鉄の「くいな橋」駅。そこから終点の「国際会館」駅まで移動し、そこからはバスになります。京都の南から北に移動するわけですが、地下鉄のおかげでスムースに移動できます。
▪︎地球研では、PD研究員の浅野さんと、溜まりに溜まっていた案件の打合せをしました。浅野さんは、6月から奥田プロジェクト「生物多様性が駆動する栄養循環と流域圏社会─生態システムの健全性」に雇用されることになった若手研究者です。とても優秀な人で、「打てば響く」ような感じで打合せが進みました。プロジェクトの重点サイトである甲賀市甲賀町小佐治での調査の進め方、社会科学系担当者の研究会の日程調整、さらには8月に滋賀県が主催して開催される「マザーレイクフォーラム」への参加…いろいろ仕事を進めることができました。午前中は大学の「研究部」の仕事でしたが、午後からは自分の「研究プロジェクト」の仕事に集中できました。なんだか、本来の自分を取り戻したような気分です。
▪︎写真は打合せ中の様子です。リーダーの奥田さんは、この日開催されていた国際シンポジウムに出席されていましたが、休憩時間にやってきてくれました。テーブルの中央に広げてあるのは、小佐治の地図です。すでに、この地図は、地理情報システムに取り込まれています。これから調査で得られる様々なデータを、地理情報システムの上で整理していくことになります。地域の住民や農家の皆さんとの協働作業でもあります。そのような協働作業から、予想もしない「発見」が生まれてくることを期待しています。楽しみです。
▪︎浅野さんは、この地理情報システムに詳しい方です。昨日はいろいろ教えてもらいました。ずいぶん昔、当時参加していたプロジェクトで地理情報システムを使っていたことがあるのですが、技術はどんどん進歩しています。専門家だけの技術ではなく、多くの人びとがスマートフォン等を使って気軽に利用することができるようになってきています。たとえば、多くの皆さんが参加して自らの記憶や体験を、地理情報システムに保存していくと、それはアーカイブとして機能するようになります。そのようなアーカイブに多くの人びとが参加することで、様々な多様な記憶や体験が蓄積されていきます。そして、相互に連関していくことのなかで、新しい「社会的価値」がその内側から生み出されていくように思います。浅野さんからは、まず「Hiroshima Archive」のことを教えてもらいました。
▪︎まずは、イメージを掴むために、以下の動画をご覧ください。
▪︎「Hiroshima Archive」の公式サイトには、以下のように説明されています。
はじめに
被爆から66年が経ち、あと数十年のうちに、被爆者のいない未来がやってきます。それは、最も強く平和を願い、核兵器のない世界を切望した人々がいなくなることを意味しています。「ヒロシマ・アーカイブ」は、2010年に公開された「ナガサキ・アーカイブ」のミッションを受け継ぎ、被爆者の体験と想いを未来の地球に遺していくために、66年間にわたって蓄積されてきた大量の資料と、最先端のインターネット技術を融合して制作されました。多元的デジタルアーカイブズ
「ヒロシマ・アーカイブ」は、広島平和記念資料館、広島女学院同窓会、八王子被爆者の会をはじめとする提供元から得られたすべての資料を、デジタル地球儀「Google Earth」上に重層表示した「多元的デジタル・アーカイブズ」です。1945年当時の体験談、写真、地図、その他の資料を、2010年の航空写真、立体地形、そして建物モデルと重ねあわせ、時空を越えて俯瞰的に閲覧することができます。このことにより、被爆の実相に対する多面的・総合的な理解を促すことを企図しています。記憶のコミュニティ
私たちは、地元の高校生や全国のボランティアと連携して証言の収集活動をすすめ、集合的記憶の醸成をとおした「記録のコミュニティ」を生成しました。さらに、Twitterなどのソーシャルメディアを用いてオンラインコミュニティを形成し、平和と核廃絶に向けたメッセージを世界中から募り、デジタルアーカイブズに包含していきます。このようにして、過去の記憶と現在のメッセージを実空間/Web空間で共有し、未来の物語を紡いでいくためのプラットフォームとなることを目指しています。311を越えて
2011年3月11日、東日本大震災が発生し、「ヒロシマ・アーカイブ」制作メンバーのうちひとりは仙台で被災しました。人々が住みなれたまちを地震と津波が破壊しつくし、原子力発電所事故が放射性物質禍を引きおこし、これまで過ごしてきた日常は終わりを告げました。311以降、66年前のヒロシマを語り継ぐこのプロジェクトのミッションも変容しています。過去の悲劇を当事者として学び、自らのことばで未来に伝える。私たちが制作したアーカイブズが、多くの人々に利用していただけることを願っています。
▪︎今から15年ほど前のことになりますが、以下の論文を書きました。「『体験と記憶』のなかにある『場所』-『弱い語り』を支える調査」『社会学年報』No.30(東北社会学会)。この論文に書いたことを、進歩した地理情報システムの技術を念頭に、再考する時期にきているように思いました。基本の発想は変わっていないと思いますが、現段階においてさらに深めて考えてみたいと思っています。
▪︎打合せが終了した後、地球研の別のプロジェクト(「地域環境知形成による新たなコモンズの創生と持続可能な管理」)の共同リーダーである菊池直樹さん、PD研究員の浅野さんと私の3人で、夕食を一緒にとることにしました。府立植物園に隣接しているイタリアンレストランです。とても素敵なレストランでした。研究のこと、環境社会学会のこと、様々な(?!)議論をすることができました。有意義な時間を過ごすことができました。若い浅野さんも、いろいろ勉強になったのではないかと思います。写真は、デザートのケーキを写す菊池さんです。なんだか、かわいらしい〜。私の方は、バーボンウイスキーを楽しみました。
認知症の母を3年間撮り続けた写真集『DIARY 母と庭の肖像』山崎弘義さんインタビュー
▪︎このブログで、写真家・山崎弘義さんの写真集『DIARY 母と庭の肖像』を紹介しました。「『母と庭の肖像』(山崎弘義・著、大隅書店)」というエントリーです。今日は、ご紹介するのは、その山崎さんと山崎さんの写真集をとりあけだ「認知症ONLINE」というネットの記事です。以下は、その記事からの引用です。
葛藤の連続
写真の横には、山崎さんが当時記していた日記の一文が並びます。ある日の日記にはこう記されています。ヘルパーTさんの連絡ノートに書かれていた言葉。“トイレも自分で行かれ、家の中動き回っています。足腰丈夫になるため、よい事と思います。”今の私はそれについていけない。」
当時、家中をあちこち歩きまわる母を骨折させてはいけないと追いかけ、ティッシュペーパーを食べようとするのを止め、精神的にも、肉体的にも休めない日々が続いていた山崎さん。「ある日、喘息が出たのをきっかけに、母の足腰が一気に弱まったんです。正直、ホッとした部分もありました」本来、求めるべき親の健康を心から願えない自分自信に罪悪感があったといいます。また、別の日の日記にはこうあります。
母の行動にもついていけなくなる。3度ほど無理やり母を抱えてトイレに連れて行ったら、母は「邪険にするなよ」と泣きそうに言う。
淡々と語られる日記の一文から、当時の山崎さんの追い詰められた精神状態、それに呼応するように具合を悪くする母・いくさんの様子が伝わってきます。「在宅介護を続けようか迷う瞬間はあった」という山崎さん。それでも在宅介護を続けたのは、母・いくさんにとって山崎さんが一人息子であり、父の介護で苦労を共にした同志であり、唯一無二の存在だったことを実感していたからだといいます。
▪︎「親の健康を心から願えない自分自信に罪悪感があった」という部分、現在、介護をされている多くの皆さんは、この山崎さんのお気持ちが痛いほどよくわかるのではないかと思います。お母様から「邪険にするなよ」と泣きそうに言われたときの、とても辛い気持ちも…。インタビューで山崎さんは、「日々のやりきれない想いを、作品として消化させた」とおっしゃっています。ああ、なるほどと思いました。お母様の写真を撮ることで、意識のうえでは、息子-母親関係とは異なる関係にスライドしていくのかもしれません。いったんはスライドさせることで、介護の現場で渦巻くマイナスのスパイラルに巻き込まれず、なんかと「本来」の息子-母親関係を維持することができたのかもしれません。また、山崎さんは、「父の介護で苦労を共にした同志であり、唯一無二の存在だったことを実感していた」とも語っておられます。介護の現場で渦巻くマイナスのスパイラルに沈んでいきそうなご自身を、在宅介護にお母様と一緒に協力して取り組んだという経験を思い出すことで、なんとか「軌道修正」できたのではないか…と想像するのです。皆さんも、ぜひ、『DIARY 母と庭の肖像』をご覧ください。
深草キャンバスのスターバックス
▪︎今日は…といいますか、今日もですね、深草キャンバスに朝一番で出かけました。8時45分から、約束していた新聞記者の方から小一時間程インタビューを受けました。テーマは琵琶湖に関連することですが、狭い意味での自分の専門領域でもないテーマであることから、なんだか的外れなことを言ってしまうのではと心配していましたが、とりあえず記者さんに納得していただけたようで安心しました。
▪︎そのあとは、研究部で事務部長さんと打ち合わせをしました。そして、大学執行部が出席する会議で報告を行い、昼には瀬田キャンパスに戻りました。このキャンパス間移動というのが、なかなか大変です。まだ、研究部長になってから2ヶ月半ですが、どうしたものかとまだ思案しています。うまく時間を使えるようにならないと…。昼からは、所属する社会学部社会学科の学科会議、研究倫理に関するe-ラーニングの講習会、教授会があるからです。写真は、深草キャンパス内にある「スターバックス龍谷大学店」に行った時に撮ったものです。今日の仕事を始めるにあたり、コーヒーで気持ちを引き締めました!!
島田叡さんのこと
▪︎私は神戸市の出身です。高校は、神戸市長田区にある兵庫県立兵庫高等学校を卒業しました。神戸新聞に、母校と関係の深い方の記事が掲載されました。島田叡(あきら)さんです。兵庫高校の前身は旧制の神戸二中になりますが、島田さんはこの二中の卒業生です。以下は、新聞記事からの引用です。
神戸市出身で、沖縄県最後の官選知事として沖縄戦に散った島田叡(あきら)氏(1901~1945年)の顕彰碑が沖縄県民の募金で建立され、命日とされる6月26日、那覇市の奥武山(おうのやま)公園内で除幕される。除幕式には、井戸敏三知事ら兵庫県代表団も出席し、いまも沖縄県民に慕われる「島守」の事跡をしのぶ。
島田氏は旧制神戸二中(現兵庫高)、東京帝国大をへて旧内務省に入った。45年1月に沖縄県知事として赴任し、米軍上陸を前に県民の疎開や食糧確保に奔走。米軍の砲撃の下でも壕(ごう)を転々として執務を続け、本島南部で消息を絶った。
没後70年を前に、慰霊碑は沖縄県民の有志が期成会を設立し、募金を呼び掛けたところ、主に県内から600万円近くが集まった。顕彰碑は高さ3メートルで、「琉球」を象徴する石灰岩の台座に、「希望」をイメージしたステンレスの球体を組み合わせる。
期成会会長で元沖縄県副知事の嘉数昇明(かかずのりあき)さん(73)は「碑に沖縄県民の『島田さんを忘れない』という思いが結集された。島田さんからもらった兵庫との交流の新たなスタートにしたい」と話す。
除幕式には、兵庫県から井戸知事や久元喜造・神戸市長、沖縄県人会兵庫県本部や兵庫高同窓会「武陽会」関係者ら計50人の代表団が参加し、沖縄県関係者らとの交流会も開かれる。
▪︎現在の兵庫高校の校舎は、私たちの頃とは違っています。建て替えられています。私たちが学んだ校舎は、戦前、旧制神戸二中の時代からの建物でした。いろいろ思い出すのですが、学校の敷地の西側、野球のバックネットの裏側にあった斜面に、島田叡さんの慰霊碑が建てられていました。「合掌の碑」と呼ばれています。両手を合わせて合掌したようなデザインの慰霊碑です。現在、この慰霊碑は、沖縄に向かって建てられています。私たちの時はどうだったのか…記憶が定かではありません。慰霊碑には、こう書かれています。神戸二中の後輩である、竹中郁さんの詩だそうです。
「このグラウンド
このユーカリプタス
みな目の底に収めて
島田叡は沖縄へ赴いた
一九四五年六月下浣
摩文仁岳の近くで
かれもこれも砕け散った」
▪︎現在、この「合掌の碑」の横には、島田さんの座右の銘であった「断而敢行、鬼神避之」 の碑が建てられています。「断じて敢行すれば、鬼神もこれを避く」。私たちのときは、どうだったのか…情けないことに、このことも記憶がありません。兵庫高校に在学していたとき、島田叡さんがどういう方なのか、詳しくは知りませんでした。授業のさいにも、ほとんど説明がなかったように思います。
▪︎wikipediaには、こうありますね。「沖縄への米軍上陸は必至と見られていたため、後任者の人選は難航していた。沖縄に米軍が上陸すれば、知事の身にも危険が及ぶため、周囲の者はみな止めたが、島田は『誰かが、どうしても行かなならんとあれば、言われた俺が断るわけにはいかんやないか。俺は死にたくないから、誰か代わりに行って死んでくれ、とは言えん。』として、日本刀と青酸カリを懐中に忍ばせながら、死を覚悟して沖縄へ飛んだ」。「北部への県民疎開や、食料の分散確保など、喫緊の問題を迅速に処理していった」。死を覚悟して沖縄に赴き、沖縄県民の皆さんのために尽力された島田さん。享年、43歳でした。新聞記事には、いまも沖縄県民の皆さんに「島守」として慕われていると書かれています。夏の高校野球の沖縄県大会で優勝した高校には、「島田杯」が贈られています。
龍谷大学吹奏楽部サクソフォン四重奏(TV出演)
▪︎同僚の方のfacebookのページで、この動画の存在を知りました。登場しているのは、龍谷大学吹奏楽部のサキソフォン四重奏の皆さん。3月に行われた「全日本アンサンブルコンテスト」で金賞を獲得した方たちです。この動画は、NHK京都放送局のローカルニュース番組のなかの「京のキラ星」に出演したときのものです。
▪︎演奏しているのは、アラン・ベルノー作曲、『サクソフォン四重奏より第4楽章』第4楽章。そして、Superflyの『愛をこめて花束を』です。アラン・ベルノーってどういう作曲家なのか、私はよく知りませんでした。少しだけ、調べてみました。1932年生まれの、音楽家の両親をもつフランスの作曲家のようです。若いころは、パリのコンセルバトワールで作曲を勉強をし、数々の作曲コンクールでその才能を認められるようになりました。室内楽から交響曲まで、さらには映画やテレビ番組の音楽まで手がけてきた作曲家のようです。
▪︎2曲目の曲は、Superflyの『愛をこめて花束を』です。Superflyって…これも知りません。でも、サビのメロディーは、私のようなおじさんでも知っていますね。印象に残っています。日本の音楽ユニットなんですね。オリジナルは、以下の動画をどうぞ。