『アンソロジー 餃子』
■最近、気持ちに余裕がないせいか、街中を「ほっつき歩く」ということを長らくしていない。そんなことに気がつきました。ということで…というわけではないのですが、兵庫県の施設に入っている老母の介護・見舞の帰り、小一時間ほど梅田界隈を「ほっつき歩く」ことにしました。若い頃は、大阪の梅田や、神戸の三ノ宮や元町界隈を「ほっつき歩いて」いました。そういえば、若い頃、私はあの「植草甚一」に憧れていたよな…と思い出しました。といっても、若い学生の皆さんは、植草甚一のことをご存じないですよね。
■「ほっつき歩き」ながら、梅田の書籍店「紀伊國屋」にも立ち寄りました。たまたま偶然、「餃子」が登場するエッセイを集めた本を見つけました。アンソロジーとタイトルにも入っています。この本の表紙を眺めていると、「ユー、龍谷大学餃子研究会の会長じゃね!俺を買わないの?!買っちゃいなよ!!」という声が、この本から聞こえてきたような気がしました。ということで、迷わず購入しました。私、本当に、「龍谷大学餃子研究会」の会長なんです。本当なんですよ。まあ、この「龍谷大学餃子研究会」以外にも、「龍谷大学東九条粉もん研究会」とか、いろいろさせていただいています。後者の「龍谷大学東九条粉もん研究会」についても、このブログで近いうちにエントリーできるかと思います。
最近の「弁当男子」活動
■以前のエントリーの繰り返しになります。奈良から大津に転居したことから、通勤時間が1時間近く短縮されました。短縮されたことにより、出勤前に時間的余裕が生まれました。ということで、4月になってから、できる範囲でですが、自分のために弁当を作るようにしています。弁当は健康に良いことはもちろんですが、それ以上に精神衛生的にも良いのではないかと思っています。ということで、「弁当男子」を続けています。今週も毎朝つくりました。左上から順番に、月・火・水・木と作ってきましたが、赤・緑・黄といった彩を気にしているせいでしょうか、どれも同じような弁当にみえてしまます。
■健康や精神衛生上のため…ということなんですが、同時に、弁当を作ることが楽しいと思えなくてはいけません。100均のお店にいったときに、何度も使えるプラスチック製の楊枝、抗菌のバラン、繰り返し使えて電子レンジにも入れられるシリコン製のおかずカップ…お弁当づくりで盛り上がるためのものも購入してみました。あと、継続していくための工夫として、朝作った弁当をfacebookやinstgramに投稿しています。いろんな方たちから評価していただけると、弁当づくりを続けようと思う意欲がより持続するかも・・・と思っているからです。今日はinstgramのコメント欄で、このようなオカズはいかがとレシピを教えていただきました。
ビニール袋に、拍子木に切った人参、胡瓜、大根を入れて薄く塩を振る→出てきた水分を捨てる→空気を抜いた時野菜全体に味が回る程度の醤油、ごま油少々、あれば花椒(粉山椒でも)を入れて袋ごと揉む→翌朝からOK 皮をむいたピーナッツを入れても美味しいです。
■SNSで投稿していると、職場のなかにも「弁当男子」がおられることがわかってきました。半分冗談でしょうが、龍谷大学「弁当男子部」というのを作ろうというご意見をいただきました。まずは、ランチミーティングから・・・なのだそうです。
「龍谷大学淡水会歌」のCD
■龍谷大学はキャンパスが3つにわかれています。私の所属する社会学部は大津市の瀬田キャンパスにあります。先日、瀬田キャンパスの私のメールボックスに学内便が届いていました。学内便とは、3つに分かれているキャンパス間で書類等を送ることのできる仕組みです。同じキャンパス内だと自分で届ければよいのですが、他のキャンパスだとこの学内便を頼ることになります。毎日数回だと思いますが、学内便を運ぶために、キャンパス間を車が走っています。学内便の話しはともかく、何が届いていたのかというと、写真のCDでした。「龍谷大学淡水会歌」と書いてあります。先日、伝説の「通過儀礼」を無事に済ませ、晴れて入会を認めていただいた、あの「滋賀県人会」の歌が録音されていました。
■ジャケットの写真は「一番丸」ですね。琵琶湖から流出する瀬田川をクルージングする観光船です。中のデータを拝見すると、歌っているのも、伴奏をしているのも、すべて知り合いの事務職員の方たちでした。手作りなのです。すごいですね~。とっても気合いを入れて県人会を運営されていることがわかります。しかも、お送りいただいたメールを拝見すると、年2回、ボーナスが支給されるおりに、県人会会費が引き落とされるのだそうです。財政基盤もしっかりしているわけですね。また、こうやって会費を徴収していると、県人会の個々の会員の自覚を促すことにもなりますし、多く会員が毎回楽しみに参加されるのではないかと思います。私は、職場の「奈良県人会」や「兵庫県人会」にも参加していますが、そちらの方は引き落としではありません。なるほど、このあたりで少し差がついているような気もします。それはともかく、せっかく入会させていただいたのですから歌を覚えないといけませんね。CDにつけていただいたメッセージの宛名。「月」に「力」3つではなくて、本当は、旧字体の「月」に「刀」3つなのだが、そのうちにこれも覚えていただこう。
滋賀県人会
■龍谷大学に就職して、すぐに、職場の「奈良県人会」に入会させていただきました。私の記憶では、数回、仕事の関係で欠席したように思いますが、それ以外はこの「奈良県人会」にずっと出席させていただいています。ただし、奈良は結婚して暮らすようになった所なのです。生まれたのが神戸ですから、「兵庫県人会」があったらなあとずっと思っていました。しかし、龍谷大学には「兵庫県人会」は存在していませんでした。であれば、作ればいいのだ…。そのような思いから、理工学部の塩見 洋一先生と「兵庫県人会」を立ち上げました。この「兵庫県人会」、なかなかユニークで、日帰りの旅行を実施したりしています。昨年の12月には、私は残念ながら出張で参加できませんでしたが、県人会の有志の皆さんが丹波篠山に「牡丹鍋」を楽しみに行きました。
■というわけで2つの職場の県人会に所属してきたのですが、さらにもう1つの県人会に参加することになりました。3月3日に滋賀県大津市に転居したことから、こんどは「滋賀県人会」にお誘いいただいたのです。一昨日、金曜日に「滋賀県人会」が開催され、晴れて入会が認められました。ありがとうございました。龍谷大学の中で、「滋賀県人会」は大変有名な存在です。参加人数も多いし、団結力も強いから…ということでしょうか(今回は、50名ほどの方たちが参加されていました)。また、新人が入会するときは、独特の「通過儀礼」があるからでもあります。年寄りですが新人である私も、いろいろ「噂」に聞いていたこの「通過儀礼」を、「介添人」の皆さんのお力も借りながら、無事に終えることができました。ということで、「奈良県人会」、「兵庫県人会」、そして「滋賀県人会」、3つの県人会に所属させていただくことになりました。
■今回、滋賀県人会からは4人の教員と1人の事務職員の方が「卒業」されました。退職されるのですが、退職とは言わずに「卒業」というようです。どうも現役は卒業するけれど、「滋賀県人会」の会員は継続するということのようです。実際、すでに退職された方達も、たくさん参加されていました。たくさんの方たちが「卒業」されることから、いろいろ楽しい出し物も用意されていました。現役の事務職員の皆さんが「ウクレレバンド」を結成して演奏されたのです。この日のために、密かに練習を積みかさねてきてこられていたのです。その中のお一人、時々、facebookの中でウクレレの練習について投稿されていたのですが、それは今回の「滋賀県人会」に向けての練習だったのです。やっと合点がいきました。アロハやムームーで衣装も統一しておられました。すごいです!!
■いろいろ驚くべきことが多い「滋賀県人会」なのですが、一番驚いたのは県人会の歌があることです。「龍谷大学淡水会歌」といいます(琵琶湖のある滋賀県、ですから「淡水会」です)。作曲者を見ると、なんと、今回退職される事務職員のトップにおられるNさんなのです。上の写真は、その譜面です。音楽を楽しんでおられる皆さんであれば、譜面を見れは頭の中にメロディーが浮かんでくるかと思います。県人会の宴会の間に、この歌の最後の部分、「し〜が け〜んじ〜ん か〜い」の短いフレーズだけが、何度も繰り替えして歌われていました。この辺りも、「滋賀県人会」の素敵なところなのかなと思います。
小さな森のなかのピザレストラン
■元旦は母親の介護で慌ただしい1日になりましたが、お正月の2日目は、ゆっくりと自宅で過ごし身体を休めることができました。帰省している息子と一緒に、自宅の近くにある神社に初詣をしに行った後、いろいろ散歩をしてみることにしました。トップの写真は、その散歩の途中で歩いた道です。森の中の道です。このような森が住宅地の中に残っているのです。2枚目の写真は、GoogleEarthで見たものです。中央にあるのはため池です。どこまで史実なのか、私にはよくわからないのですが、推古天皇の時代に作られた4つのため池のうちの1つだという説があるそうです。「日本最古のため池の一つ」という説です。この地域のデコボコした微地形を見てみるともっとよくわかるのですが、この地域は丘陵地(西の京丘陵)で、ここから東側に少し離れたところにあった農村の里山でした。丘陵地は、全体として東に向かってなだらかに低くなっていきます。しかし、このため池の右側のあたりは堤になっており、そこからは急に地形は低くなります。落差があります。おそらく、その里山の中に雨水が流れてくる場所をうまく堰き止めて、このため池が作られたものなのではないかと思います。
■ため池の北側には近鉄が走っています。そのため、1950年頃から近鉄が住宅地としての開発を始めました。びっしりと戸建ての住宅が建ち、たくさんのマンションも建設されています。しかし、ため池の周りには、森が2つあります。北側は、1946年に当時の近鉄の社長が設立した美術館「大和文華館」の敷地の森です。大きな建物が確認できますね。トップの写真にある道は、そこではなく、南側の方の森になります。この森のため池側沿いに道が通っているのです。これらの森は、おそらくは(私の推測ですが)住宅地として近鉄が開発する以前にあった里山の雰囲気を残していると思います。
■この南側の森に隣接して、うちの子どもたちが卒業した小学校があります。GoogleEarthの画像でも、小学校の校庭が確認できますね。この校庭に隣接する森の中には、ポーイスカウトの活動基地があります。ドングリの実がなる樹が生い茂るとても素敵な森です。うちの子どもたちが小学校に通っている頃から、この森のことが気に入っていました。また同時に、どうしてこのような森が開発されずに残っているのかも気になっていました。ため池の北側の森は「大和文華館」の敷地なのですが、この南側の森はどなたの所有地なのか、どのような所有関係になっているのかが気になっていたのです。そのお気に入りの森の中に、数年前、ピザレストランができたという話しを小耳に挟みました。近くにあるのに、まだ一度も訪ねたことがありませんでした。そのようなことから、今日は息子と一緒にピザレストランを訪ねてみたのでした。
■とても素敵な雰囲気でしょう。周囲の住宅地の雰囲気がこの森の中には伝わってきません。今回は、私と息子はすでに昼食をとっていました。お腹がいっぱいでした。ということで、2人でピザを1枚とデキャンタで赤ワインを注文することにしました。ピザは、カラスミとゴルゴンゾーラ(青カビのチーズ)のピザでした。とても美味しくいただきました。これは、また来ないといけないなと思いました。このピザレストランは、「642PIZZA」といいます。「642」と書いて、「ロッシーニ」と読むのだそうです。ロッシーニとは、オペラ「セビリアの理髪師」や「ウィリアム・テル」の作曲家として有名です。人気作家である村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』の中に登場する「泥棒かささぎ」の作曲者もロッシーニです。そのような話しはともかく、「ロッシーニ」と読むまではお聞きしたのですが、なぜ「ロッシーニ」なのかを聞き忘れてしまいました。
■私たち親子がテーブルに着いた頃から、次々にお客さんが入ってこられ、女性の店主さんが忙しく調理されるようになったことから、元々の関心であった「どうしてこのような森が開発されずに残っているのか」についてもお聞きすることができませんでした。このような住宅地の中に、これだけの森を開発せずに保全することは、大きな困難が伴っていると思います。あるいは、森に対する所有者の強い思いが存在しているのではないかなどとも勝手に推察しました。しかし、すでに書きましたが、ボーイスカウトの基地になっていますし、この森に隣接する幼稚園では、この森を教育に積極的に利用されているようです。とても素敵なことです。また、レストランでは様々なイベントも開催されているようです。外部の方たちとの連携もあるようです。このような開発の圧力が高い地域で、森の所有者と森の利用者が、どのような連携を行っているのか。また、外部との連携が(結果としてかもしれませんが)、この森の保全にどのようにつながっているのか。その辺りのところに私の関心はあるのですが、それは次回、この「642PIZZA」を訪れた時にチャンスがあればお聞きしてみようと思います。
【追記】公式サイト「642PIZZA」
■いろいろご苦労されて、開店されたご様子。公式サイトの「歴史」からわかりました。「642」についても、そこに説明がありました。
鯨のベーコン
■おひさしぶりです。ひさしぶりに、このブログを更新をします。大学の研究部の仕事、老母の介護、総合地球環境学研究所のプロジェクトの推進…いろんな「縛り」のなかでストレスをため込み、時間もつくれず、精神的な余裕もなく…なかなか更新をすることができませんでした。みなさんに、お伝えしたい話題は山ほどあるのですが…。このままだと、このブログは更新されないまま「塩漬け状態」になってしまうので、取り急ぎ、更新をしておくことにします。鯨のベーコンの話しです。
■昨日、水曜日は、学科会議、教授会、社会学研究科委員会、研究科専攻会議と、ずらずらっ…と会議が続きました。いささか疲れたこともあり、年上の同僚のHさんと共に、いつもの大津駅前の居酒屋「利やん」へいくことになりました。カウンターの席につくと、お店のマスターが、「ワッキーの顔を頭に浮かべながら市場で仕入れてきた」という鯨のベーコン、それをぜひ食べろと言ってきました。そう言われると、注文をせざるをえませんね。
■ここで、ちょっと昔話しになります。 私の父親は船舶の内燃機関関連の仕事をしていました(2009年に亡くなりました)。そのような仕事の関係からでしょうか、南氷洋から帰ってきた捕鯨船がドックで修理をするさい、父は捕鯨会社にしばしば出向いていました。そして捕鯨会社から帰るとき、新聞紙に包まれた鯨肉のブロックをお土産によく貰ってきていました。そのような日の晩の夕食は、鯨のステーキでした。幼いころの私は、ステーキといえば鯨の肉のことだと思っていました。この鯨のステーキ、当時の冷凍技術のレベルが低かったせいか、子どもにはとても臭かったように記憶しています(生姜を効かせた醤油ダレにつけこんで焼いてはいましたが…)。また、鯨肉の繊維が、乳歯の隙間によく挟まったのです。嫌いでした。ということで、「ステーキ」は嫌いな食べ物だったのです。もちろん、ビーフステーキの存在を知らなかっただけなのですが。
■ところで、幼いころの私は鯨肉は嫌いでしたが、鯨のベーコンには大いに関心がありました。市場で売られている鯨のベーコンは、周りの赤い色も含めて妖しい魅力を放っていました。しかし、我が家では、この鯨のベーコンが食事に出ることはありませんでした。「ベーコンとは豚肉から作ったものなのだ。鯨のベーコンは代用品、偽物、紛い物だ」と食べさせてもらえなかったのです。鯨のベーコンは、レベルの低い食べ物…という扱いだったようにも記憶しています。鯨のステーキを、ステーキの代表みたいに言って子どもに信じさせていたくせにね…。まあ、そんなことも思い出しながら、昨晩は鯨のベーコンをいただきました。今や、ちょっとした高級品なんですけどね。
【追記】▪︎写真の鯨のベーコンですが、全体に赤っぽいものと、白っぽいものとがあります。赤いのは、着色してあります。鯨は脂分が多いので、見た目を鮮やかにして、食欲が増すようにと、昔から着色をしてきたようです。一方で、白いものは着色をしていないものです。こうやってお皿に「紅白」でベーコンを並べていただくと、めでたい感じになりますね。実際、様々なお祝いの場でも喜ばれてきたそうです。
差し入れ
▪︎写真は、昨晩の小佐治(滋賀県甲賀市甲賀町)でのフィールドステーションの開所式に、地元の農家のYさんが持参してくださったものです。左がドジョウの卵とじ(柳川風)、右はボテジャコ等の小魚を醤油で炊いたものです。どちらも、ぜんぜん泥臭くなく、非常に美味しかった。
▪︎小佐治は、丘陵地にある農村。たくさんの谷筋に水田が並んでいます。関東地域でいうところの谷地田です。かつて、そのような谷筋のいずれにも、その一番奥には溜池がありました。そのような溜池は大きなものは5つ、小さなものまで含めると100以上存在していました。無数の溜池に天水を確保して、用水として利用していのです。そのような溜池は、ちょっとした養魚の場として活用されることもありました。とても養殖とは呼べません。市場に出荷することを目的としたものでも、もちろんありません。植物学の世界では「半栽培」(中尾佐助)ということが言われるようですが、それと似ている。自分の溜池につかまえてきた魚をほうりこんでおいて、時々、餌をやる程度の世話をするだけなのです。粗放的管理という言い方もできるのでしょうが、そのような硬い言い方よりも、もっとストレートに「楽しみ」でもあったといったほうがピッタリきます。
▪︎昭和20年代から30年代前半にかけての時期を少年として過ごした人たちは、そのような養魚はしないにしても、多かれ少なかれ集落を流れる小さな河川で魚を獲って食べた経験をもっている。この「食べた」という点が、非常に重要だと思っています。繰り返しますが、「楽しみ」なのです。そのような経験は、若い年代になる従い聞かれなくなります。高度経済成長とともに小佐治のような山里の食生活もどんどん変化していく。それに加えて、河川改修が人びとと河川との関係を絶ってしまったからです。かつて、谷筋を流れる水田の用排水路と河川はつながっていました。段差がなく、魚たちが行き来できたのでは…と私たちの研究プロジェクトの生態学者は推測しています。現在は、河川改修が行われており、流量を確保するために川床が深くなり、用排水路とのあいだには段差が生まれてしまっています。これでは、魚は行き来できません。
▪︎昨晩の開所式は、非常に盛り上がった。集落の皆さんは、公民館から机や椅子を、そして隣組からバーベキューの道具を借りてきてくださいました。私は、焼きそば担当になり、熱い鉄板と格闘しました。燃料は薪です。谷筋の水田の奥にある森林にいくらでもこのような薪があります。小佐治の森林は民有林なのですが、間伐したあとの木材の切れ端が、たくさん転がっているのだそうです。もちろん、全国の山里と同様に、この小佐治でも森林の維持管理には苦労されています。もっとも、そのような苦労だけでなく「楽しみ」として森林と関わる人たちが生まれています。集落のなかでは少しずつ薪ストープを楽しむ人たちが増えているのです。そういう方たちがグループをつくり、薪割り機を使って、自分たちに必要な薪を毎年用意しています。ちなみに、私たちがフィールドステーションとしてお借りしている住宅にも、薪ストーブが設置されています。冬になる前に、地域の皆さんと一緒に薪を用意することになるのではないかと思います。
▪︎これから、開所したフィルードステーションを基地として、この小佐治の暮らしに関していろいろお話しを伺っていく予定になっています。
meijiの「カルミン」
▪︎昨日、母のために買い物に出かけたとき、スーパーでmeijiの「カルミン」をみつけました。「カルミン」は、1921年から製造販売されているお菓子です。硬い言い方をすると、炭酸カルシウムが配合された白色のミント錠菓…ということになるようです。この「カルミン」、私のような年代の人たちにとっては、懐かしいお菓子です。遠足やピクニックのお供といえば、この「カルミン」でした。
▪︎じつは、このお菓子、今年度末で生産が中止されます。ロングセラーではありますが、さすがに時代にあわなくなってきたのか、売れ行きがかなり低迷しているようです。このことがニュースになるや、あちこちで「カルミン」が飛ぶように売れていると聞いています。きっと大人の方たちが「大人買い」しておられるのでしょう。昨日、スーパーでみたときも、棚におかれた「カルミン」の数は、左右の他のお菓子に比べてかなり数が少ない状況でした。
▪︎買ったあと、一粒食べてみました。以前食べたのは…、記憶がありません。おそらく30年以上は経過していると思います。炭酸カルシウムが配合されているので、スーッとするのかなと思っていましたが、かなり穏やかな感じでした。現在、他社の人気のある商品、たとえば「FRISK」なんかだと、かなり強いミントの刺激があります。また、その清涼感も長持ちします。このような味の違いにも、時代の移り変わりを感じます。
▪︎私のような年代の人たちにとってみれば、「カルミン」以外では、中野の「都こんぶ」も懐かしいものです。しかし、「都こんぶ」は現在でも現役です。あと「ボンタンアメ」とか…。こうやって昔を懐かしむことが多くなるって、自分自身がけっこう歳をとり、人生そのものがどんどんセピア色になり、歴史家している…ということなのでしょうね。
チキンラーメン
▪︎ひとつ前のエントリーにも書きましたが、昨日は、1日会議の日でした。午前中は深草キャンパスで研究部の執行部会議、午後は大宮キャンパスで「世界仏教文化研究センター」の会議。再び、深草キャンパスに戻って別の会議。そのあいだに、別の案件も発生してその対処…。もう、完全に「お仕事モード」に復帰しております。というわけで、キャンパス移動に時間がかかってしまい昼食をゆっくりと摂っている余裕がありませんでした。仕方がないので、大宮キャンパスの生協でカップラーメンを購入し、それですませました。たまたま手に取ったものは、チキンラーメンでした。蓋をあけると、そこには「57回目の誕生日」とあります。チキンラーメンは、同級生だったんですね。まあ、そういうわけでちょっと「小汚いもの」写真をお見せしましたが、ご容赦ください。
▪︎ついでにちょっと気になって、その他の「同級生」も調べてみました。簡単なんです。wikipeddiaで「1958年」と入力して調べただけです。スバル360(富士重工の軽自動車)、東京タワー、ファンタ(ジュースの…)、近鉄のビスターカー( 2階建て電車)、スーパーカブ、缶入りビール(アサヒの…)、三菱鉛筆ユニ、聖徳太子の一万円札、特急こだま(国鉄…)。スバル360、聖徳太子の一万円札、特急こだま…以外は、同級生、頑張っていますね。しかし、こうやって「同級生」を振り返ると、「思えば遠くへ来たものだ」(海援隊の楽曲)という気持ちになりますね〜。