衣服のリサイクル

20150814recycle.jpg▪︎夏期休暇中に我が家の「断捨離」に励んでいます。といっても、まだ1日目ですが…。クロゼットのなかで、着ないままぶら下がっていた、昔のスーツやスラックスなど、「断捨離」することにしました。どうするのかといえば、衣服のリサイクルショップに引き取ってもらいました。ゴミ捨て用の大きなビニール袋に7袋。そのうちの4袋が、私が着ていたものです(残りは妻のもの…)。しかし、あらためて「断捨離」を決行してみて、わかりました。本当に、記憶にないような服まで、大事にクロゼットのなかにしまっていました。衣服に限らず、いろいろ「棚卸し」をして「断捨離」をしなくてはと思いました。なんといいますか、「断捨離」には変な力があるので、そこに引き込まれないようにもしなくては…と思います。「断捨離」自体が目的になってしまっては、意味がありません。また、そもそも「断捨離」しなくても良いようなライフスタイルを維持することが本当は大切なのだと思います。難しいところです。

▪︎さて、夫婦でリサイクルショップにもちこんだ衣服は、どのような経路でリサイクルされるのか、興味がありました。お店のなかには、男性、女性、子供向きの古着が売られていました。おそらくは、持ち込まれたもののうち、再びうることのできるやつは、店頭に売られることになるのでしょう。しかし、売られているのは、男性のばあい、Tシャツ、ポロシャツ、ジーンズ…といったカジュアルなものがほとんどでした。たしかに安いわけです。普段着、家のなかでの衣服であれば、わざわざ高い新品を買わずに、このようなリサイクルショップで売られているものですませる…というのもひとつの考え方かもしれません。

▪︎ところで、私がもちこんだスーツやスラックスなどは、店頭には向かわずカゴ台車のなかに「ドン!」と置かれました。これは、これからいろんな衣装と一緒に圧縮梱包され、船で海外に送られることになります。圧縮梱包する工場が、国内に2箇所あるのだそうです。海外に送られた衣服は、着るニーズのあるものは再び売られ、ニーズのないものは工業用の雑巾(ウエス)になり、ウールなどはフエルトなどに加工されるのだそうです。こういうシステムが私の着ていたスーツやスラックス、クリーニングもしてありましたが、どうなるんでしょうね〜。こういうふうに「どうなるんでしょうね〜」と思うところが、まだ「断捨離」初心者なのかもしれません。ところで、リサイクルショップに売った衣服の代金は、結局、1,300円程になりました。もちろん、重さでの買取です。

▪︎私がもちこんだリサイクルショップとは異なる、どちらかといえば高級衣料のリサイクルショップが、やはり自宅の近くにあります。お店のショーウインドウを拝見すると、なんだかブティックのような感じです。私が住んでいるのは都市郊外の住宅地です。あまり地域住民の横の「つながり」がありません。「買ったけど気に入らない衣服」、「少し流行遅れになってしまった衣服」、「高かったので捨てるにはもったいない衣服」などが、おそらくはクロゼットにぶらさがっている御宅がたくさんあるのだと思います。しかし、「つながり」がないから、お互いに譲り合うようなこともありません。そういうこともあって、この小さなブティックのようなリサイクルショップは、けっこう流行っているのです。「市場価値」は十分にありながらも、人の横の「つながり」がないために、それぞれの住宅のクロゼットや箪笥のなかに眠っている行き場のない「資源」(衣服)を掘り起こしているかのようです。しかも、利用者からすれば、自宅の近くにあって手軽に利用できるわけです。おそらくは、市街地ではなく、こういう郊外の住宅地のなかにあるというところが、強みなのだと思います。ここには、海外に送るリサイクルショップとはまた別の仕組みができあがっています。

【追記】▪︎この小さなブティックのようなリサイクルショップについて考えているとき、頭のなかに「都市鉱山」という言葉が浮かびました。都市で廃棄されるもののなかには、パソコンや携帯電話など、市場価値の高い、レアメタルなどの有用な資源が含まれています。その資源を、鉱山にみたてて、「都市鉱山」というのです。日本では、廃棄されたもののなかに眠っている鉱物資源を回収するリサイクルの仕組みが存在しています。たとえば、2013年に施工された「小型家電リサイクル法」などがそうでしょう。

廃棄された携帯電話やパソコンの部品から希少資源を回収するなどの対策が進められており、都市鉱山という概念が再評価されている。

伊藤英夫展(一宮市三岸節子記念美術館)

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▪︎一宮市。名古屋市から岐阜市に向かう途中にあります。関西の人間は、濃尾平野の地理に詳しくないものですから…。なぜ、調べたのかというと、ここに「一宮市三岸節子記念美術館」があり、そこで、私が大好きな絵本、『けんかのきもち』の画家・伊藤秀男さんの展覧会が開催されているからです。今年の夏休みのプチ旅行に、行ってみようと思っています。ここだと近いし。

▪︎美術館の名前に、「三岸節子」という名前が入っています。三岸節子(1905〜1999)は、愛知県起町(後の尾西市。現・一宮市)出身の画家です。彼女を記念して開設された美術館です。特別展の「伊藤秀男展」と同時に、常設展では「三岸節子 鮮麗なる色彩」という展覧会が開催されています。お目当ては、特別展の「伊藤秀男展」でしたが、常設展の方も楽しみになってきました。

JR湖西線

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▪︎2つ前のエントリー「湖西の小河川」では、小鮎やハスをつかまえたことを書きました。この写真は、そのときに写したものです。最近、一眼レフカメラを持ちあらかなくなりました。ひとつは、歳をとって重いカメラをもつことが辛くなってきたから…でしょうが、もうひとつには、通常はiPhone6 plusで十分に事足りるようになってきたからです。iPhoneのカメラの性能がアップしたんですね。とはいえ、性能がアップしたとしてもiPhoneのカメラでは辛いなと思うことがあります。たとえば、今回のエントリーのような写真です。

▪︎何を撮ろうとしたのかといえば、JR湖西線を「特急サンダーバード」が走っていたので、景色と一緒に撮りました。しかし、どこに「サンダーバード」が走っているのか、よくわかりませんね。山裾を走っているんですけどね〜。大きくズームアップして琵琶湖と一緒に写したかったのですが、この距離だと、iPhone6では無理です。もちろん、一眼レフカメラをもっていませんでした。場所は、JR湖西線の北小松駅に近い、湖岸です。この写真では、半島のように見えますが、山裾が琵琶湖にまで迫っているようにみえるあたりを経由してJR湖西線は北上し「近江高島」駅に向かいます。写真の一番右、山裾が琵琶湖に迫っているところの、琵琶湖には「白髭神社」の鳥居が確認できます。ちょこっと…琵琶湖から突き出ているのが、鳥居です。この白髭神社の少し東の方には、伊吹山が見えるはずなのですが、「特急サンドーバード」を撮るときには見えませんでした。下の写真は、夕方近くになり、なんとか確認できた伊吹山です。ちょっと拡大してみました。ぼやっと、山の輪郭が確認できます。
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▪︎せっかくですので、以前、アップした白髭神社の写真もアップしておきます。
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安定同位体による魚の耳石の研究

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▪︎私は、30歳代の頃からずっと、自然科学分野の研究者と一緒に、環境(環境問題)に関わる様々な研究プロジェクトに取り組んできました。そのようなこともあり、私は、社会学の「業界」だけで仕事をされてきた多くの社会学研究者の皆さんとは、ずいぶん異なる研究経過を歩んできました。今日のエントリーも、そのようなことと関係しているのかもしれません。さて、この写真の機械ですが、「安定同位体」を測定する機械です。そうすると、「安定同位体」とはなにか…ということになりますね。「門前の小僧習わぬ経を読む」的な感じではありますので(多少は自分でも勉強しましたが…)、怪しいところが多々あるのですが、少しだけ説明をさせてください。

▪︎この世界は、様々な元素からできあがっています。元素の最小は原子ですし、その原子は、原子核と電子からできており、さらに原子核は陽子と中性子からできています(このあたりは私のばあい高校までの知識でも大丈夫です)。ところが、同じ元素でありながら(同じ性質をもちながら)、中性子の数が違うため、重さの違う原子がこの世の中には存在しているのです。これを「同位体」と呼んでいるそうです(このあたりにくると、私の時代の高校までの知識では、ちょっとあやしくなってきます)。さらにこの「同位体」は、放射能を出して別の元素に変化していく「放射性同位体」と、時間が経過しても安定したままの「安定同位体」にわけられます。自然界には、大変微量ではありますが、通常の原子とは重さの異なる「安定同位体」が存在しています。親しい研究者が、講演用のパワーポイントを使って私にこんなたとえ話をしてくれました。

▪︎「女子マラソンに野口みずき選手がいるでしょ(パワーポイントは、野口選手がアテネオリンピックでゴールする写真)。安定同位体の分析ってていうのは、フルマラソンにたとえれば、彼女の42.195kmの最後の数センチを測定しているようなものなのです。それほど微妙な量を測定できるのです」。う〜ん、わかったようなわからないような…。「重さ」を「長さ」に置き換えてあるわけですが、大変微妙なものでも測定できるだけの技術がすでに存在していて、それがバンバン研究に使われている…ということなのです。非常に微妙ではありますが、安定同位体は自然界のどこにでも存在しています。それぞれの場所で、通常よりも重い「安定同位体」が、極々わずかに存在しており、通常の重さのものとの比率を調べることで、いろいろなことがわかってきます。

▪︎安定同位体は、私たちも含めて、あらゆる生物に取り込まれます。そして、体の一部になります(また、排泄されます)。脊椎動物には「耳石」と呼ばれる平衡感覚を保つために必要な組織が存在していますが、魚にもこの「耳石」が存在しています。「耳石」は、木の年輪のような模様があり、この模様が1日1本ずつ増えていきます。当然のことながら、この「耳石」には、その魚が成長した水域の環境のなかにある「安定同位体」が取り込まれることになります。「耳石」のなかには、その魚が成長した過程が「安定同位体」という指標によって記録されることになります。ここまでは、いろんな魚で研究されているところですが、私たちのプロジェクトでは、琵琶湖のニゴロブナに関して、この方法を使って研究を進めています。

▪︎「魚のゆりかご水田」プロジェクトでは、ニゴロブナが水田に遡上し、水田で産卵します。水田で孵化した仔魚の「耳石」には、その水田の「安定同位体」の比率が「記録」されることになります。そして、6月の中干しと呼ばれる作業と同時に、成長した仔魚は水田から琵琶湖に泳いでいきます。そして数年後、琵琶湖で成長したニゴロブナは再び水田に産卵のために遡上してきます。そのさい、捕獲されたニゴロブナの「耳石」に記録されている「安定同位体」比と、その水田の水環境の「安定同位体」比とを比較し、両者が一致するかどうかを調べることで、ニゴロブナが自分の生まれ育った水田へどの程度回帰しているのかがわかります。興味深い結果が出たらなあと思っています。また、そのような研究結果を、「魚のゆりかご水田」プロジェクトを推進している地域社会にとっての意味、社会的努力が可視化されることの意味を考えていかねばなりません。

▪︎サイエンスは、ある意味、大変シンプルです。サイエンスでは、シンプルで力強いことが大切だと思います。それに対して、社会学は…。おそらく、自然科学分野の人たちからすると、社会学は大変わかりにくい学問領域かと思います。しかし、私たちの研究プロジェクトのように、流域全体の環境保全を「超学際 Transdisciplinarity」的に進めていく研究プロジェクトにおいては、自然科学だけでなく、社会科学や人文学との連携が不可欠な状況が生まれています。このあたりは、自然科学分野の方たちの方が、大変貪欲です。課題解決志向の科学的研究に積極的に取り組もうとされています。そのような「超学際 Transdisciplinarity」的研究領域で、自然科学との連携に積極的なのが環境経済学の分野の方たちかと思います。私が参加している地球研のプロジェクトでも、メンバー有志で、国の機関( JST科学技術振興機構)が進める「超学際 Transdisciplinarity」の研究分野に、新たに応募しました。環境問題に関連する環境科学の学問領域は、その編成自体が、どんどん変化しつつあります。おそらく、従来の社会学の立場からすれば、このような問題解決志向の「超学際 Transdisciplinarity」的研究は、新たな道具的理性として批判の対象になるのかもしまれせん。しかし、私自身は、巷に流布する批判の形式に安易に便乗することなく、もっと深く建設的な議論していく必要があります。

【追記】▪︎生物の体を構成しているのは、基本的に、水素(H)、炭素(C)、窒素(N)、酸素(O)、イオウ(S)といった元素です。これらの元素の「安定同位体」を用いた研究が、生態学や地球化学の分野で行われています。ところが、生物にとって同様に重要な元素リン(P)については、「安定同位体」がありません。しかし、私たちの研究プロジェクトでは、その代替的な方法として、「リン酸-酸素安定同位体」を用いた研究を進めようとしています。いろいろ困難な課題があるのですが、それについても見通しがたってきました。河川や湖沼等の淡水域の環境においても、リンの循環を把握できる方法に見通しがたってきたのです。言い方を変えれば、何に由来するリンであるのか、その起源を探ることができる(トレーサビリティ)技術が開発されようとしているのです。このような技術で明らかになる科学的事実は、社会科学分野の研究や、私たちの研究のキーワードである流域ガバナンスに活かされていくことになります。

湖西の小河川

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▪︎夏期休暇に入り、大学の研究部の仕事からも解放され、やっとこのサイトの名称に相応しい(?!)内容のエントリーが続くようになりました。なんだか本来の自分を取り戻しているようで嬉しいです。そのような状況になったところで、参加している総合地球環境学研究所の若い研究者(PD研究員)の浅野さんから、「湖西に、魚好きの家族と一緒に魚釣りにいくんですが、一緒に行きますか?」とお誘いを受けました。もちろん、学術的な調査などではなくて、純粋の息抜きに行きませんかというお誘いです。私自身は、魚釣りよりも、「魚好きの家族」の方に惹かれて、参加してみることにしました。

▪︎昨日、12日の朝9時。集合場所は、JR湖西線の北小松駅でした。そこからは、浅野さん以外の研究員、上原さん、石田さん、そして中一のお嬢さんとお母さんの親子ペア=「魚好きの家族」、合計6名で、北小松駅の比較的そばにある、小河川が注ぎ込む砂浜に移動しました。トップの写真は、その砂浜から撮ったものです。この日は、幸いにも「ぴーかん」の快晴ではなく、少し曇りがちな天気でした。8月の真夏真っ只中、私のようなおじさんの身体には優しい天気でした。写真は、南向きです。湖西の山々のシルエットが順番に確認できますね。琵琶湖の水温は「緩い」という感じでしたが、それに対して流入する小河川の水温はかやり「冷たい」感じがしました。湖西には、ほとんど平地がありません。山から流れてきた水はすぐに琵琶湖に注ぎ込むことになります。北小松には水泳場があります。そのような水泳場や私たちの目的地である砂浜の砂も、湖西の、このような小河川が山から運んできたものかと思います。花崗岩に由来するものでしょう。小河川を歩いてみると、足の裏が痛くなります。砂礫が、まだ磨かれていないのです。そのような砂礫の小河川に、琵琶湖から小鮎やハスが遡上していました。
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▪︎最初は、若い研究員の3人は、琵琶湖で釣りをしていたのですが、すぐに関心は小河川の方に移りました。「魚好きの家族」のうち、中一のお嬢さんも含めて、みんなでタモなどで魚を捕まえ始めました。また、追い詰めたハスを手づかみで捕まえていました。若い方たちは、動きが俊敏ですね。私などのおじさんには、とても魚を素手で掴むことなどできません。研究員の浅野さんが手で捕まえた魚は、コイ科の仲間の「ハス」です。魚食性の魚です。この魚の特徴は口にあります。口の形が横からみると「へ」の字型になっています。小鮎などを捕食するために、口が、このような形に適応したのではないか…といわれています。私自身は、琵琶湖から一歩小河川に入っていくと、こんな別世界が待っていることにちょっと感動しました。

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▪︎昼食は、若いみなさんが捕まえた魚を塩焼きにしていただきました。「魚好きの家族」のお嬢さんも、包丁でハスのお腹をさばいて塩焼きの下ごしらえをしておられました。素晴らしいですね〜。このお嬢さん、そして彼女のお母さんは魚が大好きです。食べるのはもちろんですが、小河川で「ガサ入れ」をするのが好きなのだそうです。「ガサ入れ」とは、通常、警察が証拠を確保するために建物等に立ち入ることを言います。しかし、「魚好き」(淡水魚愛好家)のあいだでは、「ガサ入れ」とは川岸の水生植物の生えているあたりにタモ網を「ガサガサ」と突っ込み、タナゴのような小さな魚を捕まえる行為のことをいいます。「魚好き家族」の親子のお2人は、この「ガサ入れ」が大好きなのです。

▪︎若い研究員の皆さんが、魚に夢中になっているあいだ、私はお母さんに少しだけライフヒストリーをうかがってみました。お母さんは、八日市の田園地帯のなかでお育ちになりました。学校の行き帰り、いつも気になっていたのが、水田の水路にいる魚たちのことでした。もちろん、典型的な女の子の遊びをしないわけではありませんでしたが、お母さんは、弟さんと一緒に、魚とりに出かけて遊んでいたといいます。お母さんの魚好きは、大人になって、ご結婚されてからも続きました(ここが素晴らしい…)。今では、お嬢さんと一緒にで「ガサ入れ」に出かけておられます。そうやっているうちに、「ガサ入れ」仲間も増えていきました。魚好きの「おっさん」たちです。そのような、魚にワクワクしている大人たちと一緒に過ごしていると、お嬢さんにもそれが伝わっていくことになりました。「文化」とは、こうやって伝承されていくものなのだと思います。

▪︎以前、「自然が大好き、魚が大好き」だという親子の皆さんにお話しを伺ったことがあります。あるお父さんは、こう語っておられました。「子どものときに滋賀県に家族でキャンプにいきました。手でつかんだ魚のヌルッとした感覚やそのときの匂いを、今でもありありと思い出すことができます。そのとき、めちゃくちゃ感動しました。その感動を子どもたちに伝えたくて、家族でアウトドアを楽しむようになりました」。そのような内容の話しでした。魚を手でつかんだときの経験が、このお父さんの「自然観」を形成するうえで大変重要な契機になっていることがわかりました。

▪︎こうやって遊びを通して、流域に「深くかかわっている」方たちがたくさんいればいるほど、流域の環境は保全されていく可能性が高まっていくことになる…、私はそう確信しています。もちろん遊びだけでなく、いろんな「アプローチ」から、そしていろんな「立場」から、「深くかかわっている」人びとが大勢いることが大切なのです。問題は、「深くかかわる」とはどういうことなのか…ということでしょう。それについては、また別の機会に述べたいと思います。

ぼてじゃこトラスト「滋賀の川遊び、雑魚捕り文化を次世代に繋げよう!!」

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◾︎「ぼてじゃこトラスト」主催のイベントです。「ぼてじゃこトラスト」設立20周年の記念イベントです。20周年、素晴らしいです。なかなかここまで活動を続けることはできません。「夏原グラント」の助成記念パーティーで、「ぼてじゃこトラスト」の武田さんや秋山さんとお話をしましたが、今後は、後継者をどのように育成していくのかが、課題となっているようです。私も、総合地球環境学研究所のPD研究員であるAくんと参加する予定です。基調講演の嘉田さん、「ホタルの学校」の荒井さん、旧知の皆さんが集まられます。

「人間社会班」の会議

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▪︎ひとつ前のエントリーでも述べましたが、8日、参加している地球研の研究ブロジェクト「生物多様性が駆動する栄養循環と流域圏社会─生態システムの健全性」」の「人間社会班」の研究会議が開催されました。秋田県の八郎湖や、島根県の宍道湖で研究されているメンバーも集まりました。ここでは詳しくは説明しませんが、研究ブロジェクトの「大黒柱」と「梁」にあたる部分に関して議論を行いました。

▪︎愚痴っぽくなりますが、4月から大学の方では研究部長の役職に就いたことから、学内行政の激務に追われています。そのことを理由にしてはいけないのですが、なかなか地球研のプロジェクトの方に意識を集中させることができません。課題が山積しており、また突発的な案件に緊急に対応しなければならないからです。そのようなこともあり、「人間社会班」のリーダーとして、十分に責任を果たせていません。困りまくっています。大学の研究部長の任期は2年。まだ当分、この厳しい状況が続きます。苦しいです。

研究プロジェクトのポスター

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20150810eiyou5.jpg▪︎8月6・7日は、社会調査実習でした。「魚のゆりかご水田」プロジェクトの取り組みに関して、東近江市の栗見出在家の皆さんからお話しを伺いました。働きづめだったので、ここで少し休憩をしたかったのですが、すでに予定は詰まっていました。翌日の8日は、総合地球環境学研究所で、参加している研究ブロジェクト「生物多様性が駆動する栄養循環と流域圏社会─生態システムの健全性」」の「人間社会班」の研究会議が開催されました。

▪︎研究プロジェクトのコーナーにいくと(地球研には、プロジェクトごとの部屋はありません)、そこにたくさんのポスターがはってありました。私たちの研究プロジェクトの内容を紹介するポスターです。先月末に、地球研でオープンハウスが行われたときに作成されたものです。プロジェクト全体としての編集時間が十分でなく、まだまだ誤解を招くような表現や、足りない情報があるわけですが、全体としての雰囲気やデザインは…、まずまずでしょうか。若い研究員の皆さん、頑張ってください(ちなみにオープンハウスとは、大学でいうところのオープンキャンパスのようなものでしょうか…)。

▪︎ポスターを上から順番に紹介します。最上段左は、私たちのプロジェクトの概要です。そして、プロジェクトのメインフィールドである滋賀県野洲川流域の調査サイトで、どのような研究が行われているのかが、それぞれのポスターで説明しています。最後(下の写真)のポスターは、琵琶湖の南湖で繁茂し問題化している水草に関する研究です。

▪︎水草が繁茂し、それらが枯れて湖底で腐ると、琵琶湖の環境を悪化させます。滋賀県では、多額の費用を使ってこの水草を刈り取っています。また、刈り取った水草を乾燥熟成させて堆肥にし、希望者に配布しています。少し時代をさかのぼると、化学肥料が入る以前、湖岸の集落では水草を畑の堆肥として利用していました。陸地から流れ出た栄養分を吸収して成長した水草を、人間が刈り取り、堆肥にして再び陸地に戻していく、そのような人が関わることで生まれる「栄養循環の仕組み」が存在していたのです。しかし、そのような「栄養循環の仕組み」は、化学肥料の導入とともに消えていきました。プロジェクトでは、この水草堆肥の威力を科学的に明らかにするとともに、再び、水草を肥料として利用するためにはどのような仕組や条件が必要なのか、行政の皆さんと連携しながら模索しています。

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2015年度 社会調査実習(6)

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▪︎8月5日、東近江市立能登川博物館を見学したあとは、能登川駅の近くにあるNPO法人「子民家etokoro」を訪問しました。ここは、大きな古民家を活かした施設です。etokoro(エトコロ)の名前の由来は、絵(芸術)を通して子どもを育むという意味合いの絵と子、そして地域の人たちが協力し合いながら子どもを育むえーところ(良いところ)という思いをこめています。たいへんうまいネーミングです。そして、子どもや子育てと関係しているから、古民家ではなくて「子民家」なのでしょう。

▪︎私たちは、ここの集会室を使わせていただき、この「子民家etokoro」の管理人でもあり友人でもあるIさんのご一家と夕食をとりました。Iさんの奥様の指導のもと、学生たちが料理のお手伝いをしました。学生たちは、古民家を活かした「エコトロ」の魅力を十分に楽しめたようです。この日は、能登川駅前のホテルに宿泊し、翌日は草津市にある滋賀県立琵琶湖博物館に行きました(私は溜まっていた疲れも手伝ってか、「バタンキュー」(学生の皆さんは理解できない言葉でしょうが)状態で、ベットに倒れこみ朝まで爆睡しました)。トップの写真は、滋賀県立琵琶湖博物館のエントランスです。むこうには、琵琶湖の南湖がみえます。ところで、博物館の展示は、もうじきリニューアルされます。この博物館が開館して以来の展示は、もうじき無くなってしまいます。少し名残惜しさを感じながら、学生たちに展示の解説をしました。

▪︎ところで、なぜ琵琶湖博物館の展示を学生たちに観覧させたのか…それには理由があります。琵琶湖の周囲の地域では、米をつくりながら、同時に、水田や水路、そしてそれらにつながる水辺空間で魚を獲るような生業や生活が、弥生時代からずっと続いてきました。このような地域のことを「魚米の郷」と呼んだりします。「魚米の郷」は、東南アジアや揚子江流域から日本列島にいたるまで、アジアのかなりの広いエリアに存在しています(滋賀県では、農家が行う漁撈活動を「おかずとり」と呼んできました)。「魚米の郷」とは、生態系と生業・生活が一体となったシステム、言い換えれば「生態・文化複合体」(高谷好一先生)なのです。学生たちには、琵琶湖博物館の展示を通じてこの「生態文化複合体」の存在を実感してほしかったのですが…はたして実感できたかどうか…。

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▪︎午後は、大津駅前にある「町家キャンパス龍龍」に移動しました。「町家キャンパス龍龍」では、滋賀県庁農政水産部農村振興課の職員であるHさんにお願いをして、「魚のゆりかご水田」プロジェクトに関して、政策論的な立場からお話しいただきました。Hさんによれば、滋賀県の農村整備は、次の3つの段階を経てきました。1960年代から70年代にかけての「生産環境」整備の時代、1980年代から1990年代にかけての「生活環境」整備の時代を経て、その後の「自然環境」を保全する時代へと移行してきました。

▪︎「自然環境」を保全する時代に関して、もう少し具体的にみてみましょう。1996年には「みずすまし構想」(水・物質循環、自然との共生、住民参加…等を重視した農村整備、農業の生産性を維持しながら、環境に調和した脳器用の推進と琵琶湖の環境保全を図る)が策定されました。2000年には「マザーレイク21計画」(琵琶湖総合保全整備計画)が策定され、さらには2003年には「環境こだわり農業推進条例」(減農薬・減化学肥料による環境と調和のとれた脳器用生産の推進)が制定されました。そのような流れとともに、「魚のゆりかご水田」プロジェクトは展開してきました。2001〜2002年には、魚の「水田での繁殖能力が確認」されました。2002〜2003年には「一筆排水口」が開発され、2004〜2005年には「排水路堰上げ式水田魚道の開発効果の確認」(遡上実績、副次的効果)が行われています。2006年には、「魚のゆりかご水田環境直接支払いパイロット事業」が行われ、2007年からは「世代をつなぐ農村まるごと保全向上対策」のなかで「魚のゆりかご水田」プロジェクトは滋賀県下に広がっていくことになります。

▪︎ところで、Hさんの説明に、1人の学生が質問をしました。「自然環境」の保全の次の段階には、どういう時代がやってくると思われるか…という質問でした。しばらく時間をおいたあと、Hさんは、「心の時代でしょうか」とお答えになりました。農村整備の背後にある考え方が、物質的・経済的な幸福追求から、より精神的な幸福追求へとシフトしている、そういうふうに解釈することができるのかもしれません。

▪︎今回、Hさんからは、「魚のゆりかご水田」プロジェクトの背景に関して、マクロな政策論的な視点からお話しいただきました。栗見出在家では、地域固有の歴史や課題との関連から、いわばミクロな視点から「魚のゆりかご水田」プロジェクトのお話しを伺いました。学生たちには、この両者の視点が現場のなかでどのように連関しているのかを考察してほしいと思います。

2015年度 社会調査実習(5)

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▪︎8月6日の社会調査実習の続きです。栗見出在家でお話しを伺ったあと、私たちは、東近江市立能登川博物館に移動しました。能登川博物館の学芸員の方に、収蔵庫に収められている漁具や農具を見せていただきたいとお願いをしてあったからです。民具以外にも、大切な資料を見せていただきました。それは、栗見出在家の地図です。地図といっても現在のものではありません。明治時代のものです。「近江国神崎郡出在家村地券取調地引全図」という地図です。栗見出在家自治会が所有し、現在は博物館に保管されています。「地券」という言葉が入っています。土地一筆ごとに税金を確定するために、土地所有者に交付した証書のことを「地券」といいます。これらの地図は、税金を徴収するための基礎資料として作成されたのです。詳しくは、専門的な書籍をお読みください。

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▪︎ところで、私がこの地図をみて驚いたことがあります。それは、この地図に「水の世界」が大きく広がっていたからです。少し説明しましょう。学生たちがたっている側は、琵琶湖になります。むかって右側をご覧ください。愛知川が琵琶湖にむかって流れていることがわかります。そして愛知川河口付近の左岸に、栗見出在家の集落が描かれています。ビンク色の場所が、宅地になります。赤いところは、道。黄色が水田。緑が畑。水色が水路やクリーク、そして川や琵琶湖になります。それ以外にも、藪、葦(ヨシ)、砂州(地図では寄洲と表記されています)なども描かれています。この地図で大きな面積を占めるのは、ピンク色の宅地、黄色の水田、そして水色の水路やクリーク、琵琶湖です。栗見出在家が、水郷地帯であったことがよくわかります。それぞれの家から田舟で農作業にむかったということもよくわかります。この地図は、明治6年頃に作製されたもののようです。この地図からは、もともと栗見出在家が三角州であったことがよくわかります。陸地にっなていない水のある空間のことを「水界」と呼べば、まだかなりの面積を「水界」が占めています。明治期以降も、盛んに土地改良が行われ、水田の面積を増やしていったようです。

20150807kurimi21.jpg▪︎このような「水界」がある環境での生業は、容易に想像できますが、半農半漁ということになります。明治13年に刊行された『滋賀県物産誌』によれば、農家は68軒あり、漁業や商業も営まれていたと書かれているそうです。明治7年の「魚漁税納証」という書類によれば、イサザやモロコを獲る網、四手網、かがり火漁の漁船、貝挽きの網、投網、漬柴漁の道具、竹筒漁、エリ漁…様々な漁具に税金がかけられています。これは推測にしか過ぎませんが、竹製のモンドリやタツべなど小規模な漁具については、さらに日常的に使われていたのではないかと思います。

▪︎また、このような漁撈活動以外には、採藻泥も活発に行わていました。江戸時代、栗見出在家は三角州に開発されました。この地域の土地は基本的には砂交じりの土なのです。砂があると肥料分の持ちがよくありません。そのようなこともあり、琵琶湖や内湖の底にある水草や泥を採取して、水田に肥料としてすき込んでいたのです。この地域では、このような藻泥のことを「ゴミ」と呼んでおられます。冬場、この「ゴミ」採りの作業が盛んに行われていたと栗見出在家の皆さんからお聞きしました。博物館では、その「ゴミ採り」の道具を見せていただきました。横に学生が立っています。彼の身長は170mです。目算では、この学生の2.5倍ほどの長さがあります。4mほどの長さがあるのではないかと思います。この道具を使って、船の上から、藻泥掻きを行ったのです。

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