「純米無ろ過生原酒 北船路」

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■昨日は、第54回「北船路野菜市」でした。野菜市を開催している丸屋町商店街にある「平井商店」さんで、新酒の「純米無ろ過生原酒 北船路」4合瓶を2本購入。これは、すでに卒業しましたが、研究会の学生たちがプロデューした日本酒です。瓶のラベルの「北船路」の文字、デザイン、すべて学生たちが制作したものです。この新酒を夕食時にいただきました。キャップを開けるとプシュっと音がしました。生酒ですね〜。菌が生きてます。この季節ならではの美味しさ‼︎ 今年の酒米は、北船路集落の農事組合法人「福谷の郷」さんが生産された山田錦です。

■facebookのお友達の皆さんも、ぜひ丸屋町商店街の「平井商店」さんでお買い求めください。飲食店の経営者の皆様、問屋さんにご注文ください。お店のすぐ近くの滋賀県庁のお友達の皆様、中央学区、そして中心市街地のお友達の皆様、よろしくお願いいたします。ちょっと離れているけれど、大津市役所の皆さんも「大津の酒」です、よろしくお願いいたします。龍谷大学のお友達の皆様には、私の方から改めて注文をとらせていただきます。直接、お店に注文される場合は、以下のリンク先をお読みください。このリンク先には「北船路」は掲載されていませんが、直接、電話でご注文ください。
平井商店

■お酒とは関係ありませんが、写真の私、額に2つの凹みがありますが、これは「デコ眼鏡」をしていたせいです…。左腕の袖もな…。すみません、みっともない写真で。

第54回「龍谷大学・北船路野菜市」最終回

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■第54回北船路野菜市、終了しました。本日で最終回となりました。2010年から7年に渡り活動してきました。来年度は、私自身が学内の国内長期研究員になり研究に専念するため(授業や教授会等の会議や学内行政が全て免除されます)、ゼミ生がい無くなります。そのことを念頭に、今年度から研究会をサークル化しましたがこれも先行きが見えず、1年間活動を停止して2018年度から新たに出直すことになりました。お世話になった皆様、ありがとうございました。

■拙い学生の活動ではありましたが、2011年から始めたこの「北船路野菜市」の開催以外にも、日本酒のプロデュース、農村都市交流イベント「かかし祭」の開催等、村づくりの活動にも一定貢献できたかなと思っています。この6年間の間に、北船路の集落では、さらに外部の農業関係のNPO「スモールファーマーズ」さんとも協働組しながら村づくりに取り組まれるようになりました。2018年度からは、北船路の集落、NPOの皆さんと連携しながら、新ためて活動をスタートさせたいと思います。どうか、よろしくおねがいいたします。

■「北船路米づくり研究会」の活動は、ゼミ活動の一環として取り組んできました。トップの写真に写っている学生たちに加えて3〜4名の学生たちが、先輩から引き継いできたこの活動を責任を持って最後までやり遂げてくれました(写真の真ん中は、私たちを指導してくださった農家の吹野藤代次さんです)。あくまで学生の「やる気」(主体性)に基づいて活動しているので、強制ではありません。もちろん、この活動に取り組んだからといって、単位が出るわけでも評価されるわけでもありません。活動に不参加だからといって、学生の評価が変わるわけではありません。

■学生たちは、なぜこの活動を継続してきたのか。「就職活動の時に有利になるから」と言った皮相的な動機付けでは長続きしません。「損得」の物差しでは、「交換」では無理です。この活動からどのような「意味」(単なる個人的な満足ではなく)を獲得することができたのか。それも頭の中の理屈としてだけではなく、心身ともに深く獲得することができたのか。そのあたりが、重要だと思っています。様々な地域社会の大人の方達と「良い関係」を保ちながら、その関係の中で汗をかいて、何かに気づき、同時にいろいろ悩むことになります。「意味」は、そのようなプロセスで獲得されると思います。「意味」は、上の先輩から、地域の年上の大人の方達から贈与されるものなのです。その「意味」を今度は、自分が下の世代に伝えていきたい/いかなければならない…と思えるようになることが理想です。それは「贈与」と呼ぶとができるのかもしれません。「交換」ではなく、「贈与」の縦のつながりが生まれていけば…。

■地域づくりに取り組まれている市民の皆さんから学生たちは、「研究会の学生たちはよく頑張っている、自分たちが若い学生ぐらいの年齢の頃は、遊ぶことばかり考えていた」と褒めていただきます。確かに、若い年代の多くの学生にとって(一部の問題意識を持った学生は別にして)、このような地域づくりの活動に参加することの「意味」を主体的に獲得することは、なかなか難しいことだと思います(パッとみの雰囲気と見せかけを作って、ハリボテの活動とともに教員が自己満足することは簡単ですが…)。だからこそ、この活動が社会一般にとって、地域社会にとって、さらには自分にとってはどのような「意味」をもっているのかを、常に考え続けなければなりません。私ができるのは、学生たちが活動する「環境」を整え、考え続ける「ヒント」のようなことを時々しゃべるだけです。教師としての私は、できるだけ何もしないことが仕事だと思っていますが、この辺りの、教員の関わり方はとても難しいところでもあります。本当は、3年ほどの期間で、先輩から後輩へと指導と学びの連鎖が生まれるような形になれば良いのですが、現状ではなかなか困難でした。ゼミは2年間。実質的に活動ができるのは1年ほどの間ですから(3回生の後期から4回生の前期頃まで)。来年1年間は、その辺りのことを考え直して、2018年度から新たにスタートを切ることができればと思っています。

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■左上は、リーダーの水戸くんです。右上は、黒木くん。左下は、サブリーダーの左川さんと北野くん。右下は、藤井くんです。もう一人、清水くんもいますが、個人の写真がありません…。

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■「北船路野菜市」は、当初は、「旧大津公会堂」での開催でしたが、その後、天孫神社の境内に移動し、その後はずっと、中心市街地の丸屋町商店街の中にある「大津百町館」の前で開催させていただきました。「大津百町館」に詰めておられる「大津の町家を考える会」の野口さんには、学生たちが大変お世話になってきました。この日も、北船路の野菜で美味しいお味噌汁を作ってくださいました。柚子を浮かべた大変香りの良いお味噌汁でした。学生たちは、最後の「野菜市」ということで、商店街の商店主さんたちにご挨拶に伺いましたが、その際に、このお味噌汁を商店主さんたちに召し上がっていただきました。多くの地域の皆さんに見守っていただきながらの活動でした。ありがとうございました。
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20170128kitafunaji1.jpg■来年度、2017年度は、「北船路米づくり研究会」の活動を1年間休止します。大学や学生が地域に関わって地域連携の活動をするときに、いつも問題になるのが継続性です。個人の教員の力だけに頼って実施していると、そうなってしまいます。私たちの「北船路米づくり研究会」は、2010年度から7年間活動を継続してきました。自分で言うのもなんですが、学生たちはよく頑張ってきたと思います(私は、普段は、あまりそのような褒めかたはしませんが…)。

■もっとも、今回はあくまで休止だけで終了するわけではありません。来年度は、研究会の活動をリニューアルしていくために、学内外の皆さんの協力を得ながら、いろいろ活動の在り方自体も工夫を重ねて行こうと思います。すでに、相談を初めています。大学と地域社会の地域連携活動の中で、学生自身が活動の中で「意味」を獲得し、ささやかだけれど実質的な「成果」を生みだしていけるのような仕組みを、北船路の集落の関係者の皆さん、NPOの皆さん、そして行政の皆さんとも相談をしながら作っていければと思っています。ご期待ください。

【追記】■これまで、このブログで「北船路」関連の投稿はどれだけあるかなと調べみました。サイト内検索に「北船路」と入れてみたのです。すると、「283」のエントリーがありました。こちらのエントリーも、よく頑張ってきたなと、ちょっと自分を褒めてやりたいと思います(マラソンの有森裕子さんの真似ですけど…)。

豊田さんの「利やん」デビューと山田周生さんとの出会い

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■アメリカの映画”Back to the Future”のことをご存知でしょうか。マイケル・J・フォックスが主演した映画で、デロリアンというスポーツカーを改造したタイムマシンで現在・過去・未来を行き来するストーリー…とまとめてしまうと乱暴すぎますね。私はこの映画の大ファンなんですが、昨晩は、「おお!! 大津駅前に、デロリアンが現れた!!」と言いたくなるようなシーンに出くわしました。かっこいい !! なんだか、ちょっとSFチックです!! 頭の中では、映画”Back to the Future”のテーマが流れてきました。もう、妄想全開です。この車は、昨晩、大津駅前のいつもの居酒屋「利やん」でお会いした山田周生さんが乗っておられるディーゼルエンジン車です。車の後ろには、廃食油からバイディーゼルを作る超小型の精製装置を積んでいます。この車で山田さんは、化石燃料に頼らず世界一周されました。すごいです。詳しくは、山田さんのwebサイトをご覧ください。
Biodiesel Adventure

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■山田さんは、現在、岩手県の三陸沿岸にある釜石市で、エコハウスを作ってエネルギーを自給自足する生活にチャレンジされているそうです。そして、釜石の復興に尽力されています。菜の花畑から広がる持続可能な地域づくりです。こちら菜の花畑から広がる持続可能な地域づくりからは、その活動を知ることができます。以下は、引用です。

活動サマリー
【これまでの活動 〜廃油で地球を走る〜】元々は廃油をリサイクルして作る「バイオディーゼル燃料」を自給自足しながら地球を走る実験プロジェクトを行ってきました。2007〜2008年には廃油のみで地球一周を完走。世界の自然再生エネルギーやエコビレッジなど「自然と共生する循環型のくらし」に関わる幅広い分野を研究取材してきました。

【大震災に遭遇 〜エコ燃料が力を発揮〜】
地球一周後、2009年から日本一周をしていた最中、岩手県花巻市滞在中に大震災に遭遇したのです。ガソリンが枯渇し、多くの人が被災現場へ辿り着けない中、廃油さえあれば燃料を自前できる当車が力を発揮。物資配給・人の運搬など支援活動を展開できました。それまで行ってきた活動が緊急時に役立つということを自ら実証することとなったのです。

【緊急支援から地域づくり活動へ】
その経験により「今こそ東北被災地から循環型のエネルギーとくらしを実現・発信すること」が私たちのミッションであると強く感じ、被災地に居住を続け長期活動を行っています。

【どんな事業?】
「身近な自然再生エネルギーを取り入れた循環型地域づくり」をコンセプトに、下記3つを柱に事業を行っています。
①「菜の花大地復興プロジェクト」
被災農地や耕作放棄地を活用し、菜の花を植え搾油し、無農薬無添加のなたね油を全国へ販売。農作業やラベル貼りなど小さいけれど幸せと思える雇用を生み、土や自然に触れ心身を健康に保ち、コミュニティ間の交流機会も促します。菜の花は食料(菜花と油)にもなれば、景観も美しく、油は緊急時に燃料になります。そうした多くの利点を活かしながら、地域力を向上し災害に強い地域づくりにつなげます。菜の花と地域食材を活かした「青空レストラン」も季節限定で開きます。
②「エコエネルギー100%古民家ハウス づくり」
海と山をつなぐ川の中流域にも菜の花畑を育てています。そこにある古民家を、地域内外の人が交流できるハウスとして改築中。電気は自然再生エネルギー100%を実現し、自然から電気を生み出すくらしを実際に学び体験できる場所として活用します。エコツーリズムと連携したプログラムも行います。
③「廃油リサイクルプロジェクト」
地域から出る廃食油を集め、バイオディーゼル燃料にリサイクルし、地域で利用する仕組みをつくり、エネルギーの地産地消と環境への意識向上を目指す取り組みです。

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■昨晩は「ご縁」の不思議さを感じました。建築家の伴政憲さんとパニソニックの関連企業にお勤めの田中正敏さんが、釜石の山田さんのもとで出会い、どういうわけかそれぞれ別のルートで大津駅前のいつもの居酒屋「利やん」のランニングチームに入られました。「あっ、なんでここにいるの!」とお互いにびっくりしたという話しでした。そのことを、昨日聞かせていただきました。そして、そのお2人を介して、私は山田さんとお知り合いになることができました。「利やん」は、人をつなぐ不思議な場所だな〜と思います。また、元々お酒を嗜まれない「大津グリル」というレストランの経営者である豊田令枝さんからは、お酒をちょっと楽しめるようになったので「利やん」にデビューしたいとのご要望があり、お店にお連れすることになりました。また、伴さんからも、「山田周生さんを『利やん』にお連れするので、一緒にどうですか~」とお誘いがありました。そのようなお誘いのコラボの中で「ご縁」をいただくことができました。昨晩は…というか、昨晩も盛り上がりました。豊田さんによれば、「琵琶湖の歴史や地形の話から、米の話、東北大震災の話、菜の花ディーゼルオイルの話、そしてどう暮らせば幸せなのかという哲学的な話まで、幅広く濃い濃い時間」だったそうです。あまり意識していませんが、結果としてそのような話題で盛り上がりました。楽しかったな〜。山田さんと伴さんは、車の運転があるのでお酒を飲まれませんでしたが、アルコールで調子を上げた私におつきあいくださいました。私は、幸せ者だな〜。昨日は、そうやって山田さんのプロジェクトのお話しを伺ったわけですが、釜石に行って実際に見てみたいと強く思いました。来年度は行ってみよう。

極暖の”パッチ”

20170127heattech.jpg ■龍谷大学に勤務するようになってから13年が経ちました。それ以前は、6年間、岩手県盛岡市に暮らしながら、盛岡市に隣接する滝沢市にある岩手県立大学総合政策学部に勤務していました。40歳から45歳までの頃です。関西出身ということで、盛岡の人たちからは「京都は底冷えする寒さというらしいですが、岩手の寒さは底なしですよ(^^)」と脅かされました。もっとも二重窓で暖房のよく効く教員住宅でしたし、職場も暖かかったので、寒さは苦ではありませんでした。関西の湿っぽい寒さではなく、どこか乾燥しているような寒さでした。雪も、粉雪です。その雪で白くなった岩手山の美しい風景を眺めていると、なんだかスキー場かリゾートに来ているかのような、そんな幸せな気分になったものです。

■そのころ、冬はジーンズにパーカーと革ジャンというワンパターンの格好をしていました。足元は、内側のボアのついたスノーブーツを履いていたように思います。ジーンズの下ですが、たとえ−10℃であろうと、パッチをはくことはありませんでした。40代前半で、厚かましくも、まだどこか青年の延長のような気持ちがあったものですから、「パッチなんて爺さんがはくもの」という固定観念がありました。実際、パッチをはかなくても問題はありませんでした。

■ところが、「底なし」から「底冷え」の関西に戻り歳を重ねていくと、「パッチなんて爺さんがはくもの」なんて強がりも言っておられなくなり、あっさりとUNIQLOの「ヒートテック」のパッチ、いやいやヒートテックのタイツの軍門に降ってしまいました。ヒートテックをはき始めると、気分も一気に爺さんに近づいていったような気になりました。まあ、実際にも爺さんに近づいていましたから。

■さて、そのUNIQLOのヒートテックのタイツなのですが、最初は力道山のタイツのようにぴったりしていました(力道山というのは、学生の皆さんはご存知ありませんね。昭和28年から日本のプロレスがテレビ中継されるようになりましたが、その当時のヒーローです)。ぴったりしたタイツも、何年かはいていると、伸びてしまって本当にパッチのようにフガフガになってしまいました。風呂に入る前、鏡で自分でその姿を見て、「どちらのお爺さん?」と呟いてしまうような、ちょっと情けない格好だったのです。こういうタイツの「賞味期限」はいつまでなんでしょうね?フガフガでも使えないことはないけど、もう買い換えの時期なのだと思います。

■このタイツ姿を人に見せるわけではありませんし、ジーンズの下でわからないわけですが、どこか気分的にシュンとしてしまうようなこともあり、新しいヒートテックのパッチ、いやいやタイツを買うことにしました。するとどうでしょう、「極暖」というやつを売っていたのです。極めて暖かいわけだ。すぐに購入決定。しかも2つも。実際、かなり暖かいので驚きました‼︎ facebookでこのことを話題にしたところ、「超極暖」というのもあることを教えてもらいました。「極暖」が普通のヒートテックの1.5倍の暖かさ。「超極暖」は、「極暖」のさらに1.5倍なのだそうです。寒い冬のスポーツ観戦など、野外でじっとしている時などは、この「超極暖」はかなり役にたちそうです。

■ところで、パッチという言葉を使いましたが、東日本ではパッチはあまり通用しないようです。これは関西の言葉なんですね。wikipediaですが、以下のような説明がありました。

ズボン型の衣服は、18世紀には日本に定着していたと見られ、上方では丈の長いものを「ぱっち」、短いものを「股引」と呼んでいた。宝暦ごろから江戸でも流行し始め、木綿製を「股引」、絹製を「ぱっち」と呼んで区別した。当初のぱっちは必ずしも下着ではなかったが、現代では主に関西で、ズボンの下、トランクスやブリーフの上にはく、木綿製または羊毛製のものを指して「ぱっち」と言う。

■なるほど〜。ちなみに、facebookで盛岡在住の作家・斉藤純さんからは、「盛岡ではパッチとはいわず、『ズボン下』とか『下ズボン』などといいます」と教えていただきました。「ズボン下」は標準語だろうと思いますが、「下ズボン」は盛岡弁っぽいですね〜。となりますと、今、野球解説者をされている矢野燿大さんが阪神タイガースの現役選手だった時、ヒーローインタビューの際によく言った「必死のぱっち」は、全国の方にはほとんど通じていなかったということになります。関西限定で受けていたわけていたということになります。そもそも「必死のぱっち」の語源は何なんでしょうか。と思って調べてみると、諸説があり困りましたが、将棋にルーツがあるという説が、なんとなくですが本物っぽいよな…と思うところがありました。ただし、将棋のことがわからない私には理解できていないところがあります。確かに桂馬の進路は2つあり、その進路を合わせるとパッチのようであることは理解できますが、そのあとの詰めるところの話しが理解できません…。将棋のわかる人に教えてもらいます。

将棋駒の桂馬は進路が二股に割れるので股引になぞらえて『パッチ』と隠語で呼ばれる事があった。したがって、桂馬を打たれた事で自玉の逃げ場が無くなり、相手にひたすら王手をかけて敵玉を詰めるしかなくなった状態が『必至のパッチ』です。その後『必至』が同音語の『必死』にかわり、将棋以外の世界でも、がむしゃらにやるしかない事を指すようになった。

「ハリハリ鍋を食べながら 鯨について語り、遊ぶ会」

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20170125outenin3.jpg ■昨日は、夕方まで自宅で仕事をしていました。来年度からの国内長期研究員にそなえて、少しずつ研究中心のモードに暮らしや意識をシフトチェンジさせています。もちろん、研究部の仕事は3月末まで頑張りますが、春からに備えて少しずつ準備を進めているのです。そういうわけで夕方まで自宅の書斎で仕事をしていましたが、夕方からは雪のなか、大阪に出かけることにしました(雪が降っているのは滋賀だけですが・・・)。

■出かけた先は、大阪市天王寺区にある應典院という浄土宗の寺院です。寺院とはいってもお葬式はしません。應典院のwebサイトでは、次のように説明されています。「かつてお寺が持っていた地域の教育文化の振興に関する活動に特化した寺院として計画され、〈気づき、学び、遊び〉をコンセプトとした地域ネットワーク型寺院として1997年に再建されました」。このwebサイトをご覧になればよくわかると思いますが、様々な方たちがこの寺院に出入りして魅力的な活動をされています。以前から、應典院のことはよく聞いていたので、一度訪問したいと思っていましたが、今回やっ行くことができました。應典院を訪問したのは、あの「まわしよみ新聞」の発案者であり、「大阪あそ歩」のプロデューサーとしても知られる陸奥賢さんが、應典院で企画された催しに参加しようと思ったからです。「ハリハリ鍋を食べながら 鯨について語り、遊ぶ会」という催しです。生のリアルな陸奥賢さんにお会いできて、しかも鯨の「ハリハリ鍋」を味わえる。なかなか豪華な企画です。以下は、陸奥さんのプロフィールです。

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プロフィール 400文字バージョン]
観光家/コモンズ・デザイナー/社会実験者。1978年大阪生まれ。2007年に堺を舞台にしたコミュニティ・ツーリズム企画で地域活性化ビジネスプラン「SAKAI賞」を受賞。2008年10月に大阪コミュニティ・ツーリズム推進連絡協議会「大阪あそ歩」のプロデューサーに就任。大阪市内だけで300以上のまち歩きコースを有する「日本最大のまち歩きプロジェクト」となり、『大阪あそ歩まち歩きマップ集』は約2万部を売るロングセラーに。2012年9月にはコミュニティ・ツーリズム事業としては日本初の「観光庁長官表彰」を受賞。2013年1月に大阪あそ歩プロデューサーを辞任し、現在は観光、メディア、まちづくりに関するプロデューサーとして活動中。「大阪七墓巡り復活プロジェクト」「まわしよみ新聞」「直観讀みブックマーカー」「当事者研究スゴロク」などを手掛ける。應典院寺町倶楽部専門委員。著書に『まわしよみ新聞のすゝめ』。

■陸奥さんは、チーム「いきものがかり」の皆さん(よくわかりません…私には謎…)と一緒に、蚕、鯰、狸、亀など「異類」に関するプロジェクトを手掛けてこられました。今回の「異類」は鯨です。鯨を食べること=命をいただくことを通して、鯨の歴史・文化・物語を見つめ直す。鯨肉を使った「ハリハリ鍋」を味わうことで、鯨の命を自分の命につなげていく・・・そのような企画のように思いました。もっとも、陸奥さんの発想からすれば、きっちりとした企画や計画を組み上げるのではなく、むしろ良い意味でスカスカの状態をつくり、そのスカスカの空間で参加した方達が面白い相互作用を展開し、当初は予想していなかった面白い出来事が創発的に生成してくる…そんなことを期待されているに違いないと思っているのですが、実際のところはどうなんでしょうね~。

■当日は、冒頭のイントロダクションの後、應典院のなかにある十一面観音を祀った祭壇の前で、参加者の皆さんと浄土宗に則った法要を営みました。法要(鯨の供養)にあたっては、秋田光軌さん(浄土宗應典院主幹・應典院寺町倶楽部事務局長)が導師をお務めになりました。龍谷大学では浄土真宗の法要が営まれますが、「浄土宗と浄土真宗とでは同じ浄土教系だけどやはり差異があるなあ」と、仏教に関して素人ではありますが、そのようなことを感じました。まあ、それはともかく、こうやって「ハリハリ鍋」をいただくにあたって法要を営むと、「命」をいただいているという感覚が身体のなかで増幅されていきます。美味しい食事ができるという意味よりも、鯨の命を自分の命の一部に組み込んでいくということの有難さを感じるわけです。私の単なる主観的に思いなのかもしれませんが…。

■トップの写真は、その鯨です。奥の白い肉、これはセミクジラの皮です。手間の2皿は、ナガスクジラの肉です。左は、サシが入っていますね。これはナガスクジラの顎の肉です。鹿の子と呼ぶそうです。法要にあたっては、鯨に戒名が与えられました。セミクジラとナガスクジラだから最低でも2頭の鯨ということになるのですが、戒名は1つです。陸奥さんと秋田さんが一緒に考えられました。「鯨誉大光」。この戒名のもとで、法要を営みました。十一面観音の祭壇の下の方をご覧ください。ここには、鯨のハリハリ鍋がお供えしてあります。

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■法要の後は、陸奥さんから鯨に関するお話しを伺いながら、鯨の「ハリハリ鍋」を美味しくいただきました。「ハリハリ鍋」とは、鯨肉と水菜を使った鍋料理です。ハリハリとは、水菜の食感を表現していると言われています。関西では、昔、この「ハリハリ鍋」を家庭料理としてよく食べました。今回の「ハリハリ鍋」は、陸奥さんのお友達で、浄土真宗の僧侶で調理師の免許をお持ちの方が、北海道日高産の上等の昆布で出汁をとり、その昆布出汁をベースに鯨と水菜を炊いてあります。非常に上品な味に仕上がっていて、驚きました。鯨の個性的な出汁が強いと思ってしまいますが、昆布と鯨の出汁が見事にマッチしていました。私が幼い頃に自宅で食べたものはとはかなり違います。おそらく昔は、冷凍の技術や鮮度の問題もあり、肉の劣化が早いため、もう少し濃い甘辛い出汁でごまかして食べていたような気がします。記憶が曖昧ですが…。今回のものは、それはと全然違います。

■「ハリハリ鍋」のことを調べてみると、冷凍技術と輸送技術が発達した明治期以降に、庶民の味として親しまれるようになったようです。もう少し、日本の近代、捕鯨技術、流通、食文化、その辺りの関係についてきちんと勉強をしたいと思いました。この「ハリハリ鍋」とは別に、炊き込みご飯もご用意していただいていました。これも美味しかった!! 私のテーブルは比較的年齢の高い方たちが座っていたことから(私が年齢が一番上だったような)、こどもの頃に食べた鯨の話しで盛り上がりました。

■食事の後は、陸奥さんが考案された「直観讀みブックマーカー」を楽しみました。あらかじめ、タイトルに鯨が入った本がたくさん用意されており、その本を使って遊ぶゲームです。今回の「直観讀みブックマーカー」のやり方がやっとわかりました。このゲームを通して、コミュニケーションが生まれることがポイントなのですね。また、本を通して、知らない人と、まだ見ぬ方との「ご縁」も生まれるところも重要かな。この「直観讀みブックマーカー」については、また別途ご紹介したいと思います。

【関連エントリー】鯨のベーコン

またまた雪

20170124snow.png ■昨日は、私が担当している「地域社会論II」の試験でした。試験は2限でしたが、出版社に校正した原稿をPDFにして返送するため早めに出勤しました。無事に校正を送り、試験の監督をしていると、またまた雪が降り始めました。朝から、facebookの「友達」の皆さんの投稿を見ていると、滋賀県内、湖東は野洲川以北、湖西は和邇以北は大雪が降って大変だったようです。琵琶湖でいえば、北湖に面している地域に降雪があったようです。

■2限の試験監督を終えて、今度は滋賀県庁に移動。14時から16時15分頃まで農政水産部の職員の皆さんと一緒に「世界農業遺産推進会議」。アドバイザーとして出席しました。今回で7回目になります。滋賀県の主張をよりストレートにかつクリアに伝えていくためには、まだ工夫と努力が必要ですが、議論は少しずつではありますが着実に前進しているように思いました。農政水産部の皆さんとの会議を終えた後は、滋賀県庁の琵琶湖環境部琵琶湖政策課に移動、総合地球環境学研究所のプロジェクトの仲間も集まり、琵琶湖政策課の職員の方と、草津市の志那町にある内湖、平湖柳平湖の再生と地域づくりの活動について協議を行いました。

■この志那町にある平湖柳平湖には、琵琶湖政策課の「つながり再生モデル事業」を通して職員の皆さんと何度か通わせていただきました。その「ご縁」で、総合地球環境学研究所のプロジェクトのメンバーたちも、ここに通って調査を開始することになりました(私のばあいだけではないと思いますが、「ご縁」ってとても大切ですね)。もっとも、私自身は大学の研究部長の職務で忙しく、ここしばらくプロジェクトのメンバーの支援ができていませんが、来年度1年間は龍谷大学の国内長期研究員に就任し、授業はもちろんのこと学内行政の仕事も全て免除され研究に専念することができるようになることから、来年は平湖柳平湖に通って志那町の関係者の皆さんと一緒に、この内湖の再生に関わる研究調査に力を注いで行きたいと思っています。

■会議を終え大津駅前のいつもの居酒屋「利やん」に顔を出し、仲良しの常連の皆さんとしばし交流してから帰宅しました。大津駅前のあたりは大した降雪ではありませんがしたが、JR湖西線に乗り最寄り駅に近づいてくると、かなり降雪しているではありませんか。朝とは大違いです。自分が住む住宅地もすっかり雪で白くなっていました。またまた雪…雪かきをしなくてはいけません。私の住んでいる所は、まだましです。湖西でも高島市などは、知り合いの方のお話しだと70cm近い積雪があったようです。滋賀県も北半分は雪国に近い気候だと思います。雪国で暮らしていくのは大変です。

■しかし、雪がしっかり降ることは琵琶湖の環境にとってはとても大切だと言われています。春になると、山の雪解け水が琵琶湖に流れ込みます。その雪解け水にはたくさんの酸素が含まれています。また、琵琶湖の湖水よりも温度が低く密度も濃い「重い」水であることから、琵琶湖に流入した雪止め水はそのまま琵琶湖の湖底に滑り込んで行きます。こうやって琵琶湖の底に酸素が供給されるのです。琵琶湖の湖底から酸素がなくなってしまうと、底生動物が死んでしまうだけでなく、湖底の泥の中に酸化して溶け込んでいる物質が還元されて水中に溶出し、琵琶湖の水質や生態系が元に戻れないようになってしまう可能性があります。大きな暮らしからすれば、雪は面倒な存在でしかないかもしれませんが、琵琶湖の水質や生態系の保全という観点からすれば、雪の評価も変わってくるように思います。

ひさしぶりに…

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■最近、うちの妻はチェロのレッスンに通い、市民オケにも入り、音楽三昧の生活をしています。もともと、私と同じ学生オーケストラに所属してチェロを弾いていました。大学入学時は、クラリネットの経験はあるものの弦楽器は初心者。しかし、努力して4年生の時には首席奏者になりました。そうやって努力をしてきたわけですが、卒業後は仕事が忙しく一切楽器を触ってきませんでした。ところが、最近、そのチェロを復活させたというわけです。そのことを羨ましく思いながら、今月の前半は締め切りの過ぎた原稿を書いていました。一昨日の午後、妻はレッスンを受けているチェロの先生が出演するコンサートに出かけて行きました。午前中は大津市の伊香立での研修会の仕事でしたが、午後は原稿書きも終わっており気持ちが落ち着いたので、一人だけの自宅で自分もヴァイオリンを出して弾いてみようと思ったのでした。

■写真が私の楽器ですが、これは一昨年だったと思いますが購入したものです。新作の楽器ですが、イタリアのクレモナのバイオリン工房で製作されたものです。このブログでも紹介したことがあります。その時は、まだバイオリンを知り合いの工房からお借りしている状態でしたが、清水の舞台から飛び降りる気持ちで購入したのです。頑張って働いてきた自分へのご褒美です。なのですが、購入してガンガン弾いているかといえば、そうではありません。妻の「チェロ復活」も刺激になり、これではいかんと弾いてみることにしたのです。もっとも、楽器から離れて26年たっています。しばらく弾くと、身体の筋が痛んでくるのです。まあ、これは仕方がないかな。思うように弾けないのが歯痒い思いあります。まあ、これからの練習でしょうか。知り合いの方たちからは、「できるだけ頻繁に、数日おきに10分でも良いから、楽器を弾く習慣をつけるように」と言われています。頑張ってみます。

「かぶとやま交響楽団」第54回定期演奏会

20170122kabutoyama.jpg ■本日、「かぶとやま交響楽団」の第54回定期演奏会が開催されました。じつは、私は、この市民オーケストラの設立時のメンバーでした。設立時の当時は、関西学院交響楽団のOBとOG、そして関西学院交響楽団にエキストラに来られていた方達が中心になっていたと思います。エキストラとして来て頂いていた方の中には、その後、大阪フィルハーモー管弦楽団に入団されるような方もおられました。もちろん、その方は、音大のご出身でしたが。というわけで、学生時代、アマチュア演奏家として活躍していた(あるいは頑張っていた)方達が集まってできた市民オーケストラだったのです。設立の発起人の皆さんは、私よりも2つ下の学年の人たちだったように記憶しています。団の名前からしても、関西学院大学出身者が母体ということがわかります。というのも、母校・関西学院大学は、六甲山系の一番東の端にある甲山の麓にあるからです。そのことにちなんだネーミンクなのです。

■私は、この市民オケの第1回と第2回で弾いている。弾いた曲目は、以下の通りです。

第1回演奏会(宝塚ベガホール)1990年4月14日
デュカス:ペリのファンファーレ
ウェーバー:「オベロン」序曲
     :ファゴット協奏曲(Fg.宇治原明)
ブラームス:交響曲第1番

第2回定期演奏会(宝塚ベガホール)1990年10月7日
ブラームス:ハイドンの主題による変奏曲
ストラヴィンスキー:組曲第1番・第2番
ベートーヴェン:交響曲第7番

■ところが、私は、この市民オケで弾いていたこと自体を、あまりよく覚えていないのです。確認すると両方とも1990年でした。このことに最近、気がつきました。自分自身の経験なので、気が付いたといのもおかしいのですが…。私自身の、アマチュア演奏家としての最後の演奏会は、1986年の冬、後輩たちの定期演奏会で、エキストラとして弾いた時だと思っていました。その時は、湯浅卓雄先生の指揮でベートーヴェンの第9でした。ずっとそう思っていたのですが、私の記憶違いでした。

■当時の私は、定職のないいわゆるオーバードクターでした。もちろん、結婚もして、子どもたちもすでに生まれていました。翌年からは、滋賀県庁の職員となり、琵琶湖博物館の開設に仕事として取り組み始めることになります。その頃は、たぶん必死だったのだと思います。

■先ほど、最後の演奏会と書きましたが、1990年で楽器をやめました。やめたのは、当時、バイオリンの調整や弓の毛替え等をお願いしていた宝木さんという楽器職人の方からの何気ない一言でした。「脇田さんは、すごいですね。研究者をめざしながら、こうやって楽器をやっているんですから。私は、自分が楽器職人を目指しているときは、とてもそんな余裕はありませんでした」。嫌みを言われる方ではなかったので、素直におっしゃったのだろうと思います。しかし、私はその職人さんの一言に、「ほんまに、楽器を楽しんでいるばあいではない。子どももいるというのに」と心の底から思ったのでした。そのときから、楽器を弾くことをやめてしまいました(でも、ひょっとすると、宝木さんの親心的な一言だったのかも…)。

■話しは変わりますが、うちの妻は最近、市民オームストラに入団しました。ということで、妻は自宅で、次の定期演奏会の曲のスコアを見ながらCDを聞いています。勉強しているのです。ひとつは、シューマンの「交響曲第3番 ライン」。もうひとつは、ウェーバーの「オベロン序曲」です。後者の「オベロン序曲」は「かぶとやま交響楽団」で演奏しているのに、私はそのことをすっかり忘れていました。しかし、身体の中には弾いた記憶が残っているのです。自宅で聞こえてくるCDの音に合わせて、身体がムクムクしてくる(表現が難しいのですが…)。「おかしいな〜、どこかで弾いているのかな?」としばらくわかりませんでした。そういえば、ブラームスの「ハイドンの主題による変奏曲」だってそうです。好きな曲なので、iPhoneに入れて車で聴くことが多いわけですが、これについても「かぶとやま交響楽団」で弾いていることをすっかり忘れていました。身体とは恐ろしいものです。といいますか、ここでは自分の記憶の衰え、脳の劣化を嘆かなくてはいけません…。

■こうやって、「かぶとやま交響楽団」の第54回定期演奏会のことを紹介していますが、私自身は行っていません。自分の大学で開催される中沢新一さんの講演会に行くことになっていたからです。「かぶとやま交響楽団」は、かつては関学出身者が中心でしたが、最近はそうではないそうです。多いのは関西大学の出身者だそうです。

暴風雪警報

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■昨日のことですが、研究室に突然電話がかかってきました。「先生、暴風雪警報が出たので、5限と6限の授業は中止になりました。天気がひどくならないうちに、早くご帰宅ください‼︎」。この日は、最後の授業の日でした。5限と6限に授業をお持ちで、その講義内容に関しても定期試験に出題しようとお考えの教員の皆さんは、困られたのではないでしょうか。私はといいますと、19時に大津京駅で人と待ち合わせをしていました。学生のキャリア形成に関連する地域連携のご相談をいただいていたのです。企画書を見せていただき、いろいろお話しをさせていただく予定でしたが、その相手の方も、公務員をされている関係で動きが取れなくなったとのことで、相談は延期になりました。

■上の左の地図をご覧ください。赤い府県は警報が発令されているところです。鳥取、京都、福井、石川、富山、そして滋賀が赤くなっています。この辺りは、気象的にはつながっていますね。滋賀県は、日本海の影響を強く受けていることがわかります。上の左の天気図をご覧ください。日本海にある低気圧のあたりで、白い線が混み合っていますね。この白い線は等圧線です。気圧をこの等圧線で示しているのです。等圧線が混み合うほど気圧の傾きが急になります。短い距離で、急激に気圧が下がる訳です。地形に例えれば、等高線が混み合うと、そこは坂ですね。こういう坂のようになっいる場合、風が強くなるのです。なるほど、気象庁が暴風雪警報を出したことも納得がいきます。ところが、夕方の段階ではいつ暴風雪がやってくるのだろう…、その気配まったく無し…という感じでした。23時頃に布団に入ると、やっと外で強い風が吹いていることが音で伝わってきました。強い雨も降っているようでした。結局、雨ですみました。これが雪だったら…。早朝からまた雪かき作業をしなければなりませんでしたから。

■気象に詳しい方のご説明では、「雪か雨の予想は気象庁も難しいんですよね」とのことでした。確かに、そうですね。雨が雪になるのは、いくつかの条件が揃わないといけないのでしょうね。まあ、難しいことは私にはわかりませんが、今回は助かりました。雪かきが必要なほど降雪があると、ひとつ前にエントリーした伊香立の研修会の会場まで移動が、とても大変になっていたでしょうから。

大津市伊香立で研修会

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ikadachi2.jpg■今日の午前中、大津市の伊香立の自治連合会が主催された研修会「伊香立の未来を語ろう~人づくり、まちづくり、未来づくり~」で、講演会の講師と、座談会でのファシリテーターを務めました。思っていた以上にたくさん地域の皆さんがお集まりくださり、楽しく有意義な時間を過ごすことができました!!前半では、「地域づくり」における「場づくり」と「関係づくり」の大切さ、「地域づくり」の中で「地域の幸せ」をどのように”醸していく”のか…まあ、そのようなことについて、お話しをさせていただきました。後半の座談会では、40歳前後の若手の男性2人、60歳代の男性2人、女性1人に会場の前の方に用意した椅子に座っていただき、皆さんの前で地域の魅力や課題について、それぞれ思っておられることを語っていただきました。結果としてですが、私の講演の内容ともうまく話しが噛み合い、有意義な時間を皆さんと持つことができました。

■伊香立は、琵琶湖のJR湖西線堅田駅から鯖街道に向かって坂道を登っていく途中、真野川上流の丘陵一帯に広がっている地域です。堅田まで自家用車で移動すれば、大阪にぎりぎり通勤することが可能な地域です。40歳の男性の方にお聞きすると、同級生は、かつて伊香立には50人いたけれど、今は10人しかいないというとでした。ぎりぎり大阪に通勤できるから10人残っているのか、ぎりぎりで大変だから40人が伊香立から出ていったのか。これは両面ありますかね。でも、そのような中で、若い世代の皆さんが、面白いことに取り組み始めました。

■若い人たちの人数が減り、すでに担がれることがなくなったお神輿を、もう一度若者の手で担いでみよう…といった若い世代主導のプロジェクト。まだ秘密ですが…ギネスの世界記録に挑戦することで地域の農業や環境を再評価しようとするイベント…いろいろ若い世代で企画が進んでいます。いずれも、この地域から外に出ていった若い世代の皆さんの目を、再び地元に向けさせるためのイベントです。若い世代の人たちが頑張っていること、また上の世代の人たちがそのことを暖かく見守っていることもよく理解できました。とってもエエ感じです。

■座談会では、若い世代の方から、「これまでは、上の世代が若い世代の頭を抑えすぎるから外に出ていってしまった」という意見が出てきました。正直ですね。もちろん、和気藹々とした雰囲気の中での意見です。そんなことを上の世代の皆さんの前で言ったことはなかったとのこでした。私のような外部の人間が入ってファシリテーターをさせていただくことの意味は、このあたりにあるのかもしれませんね。ちょっと手前味噌ですけれど。

■また、伊香立を訪問することになろうかと思います。今後とも、よろしくおねがいいたします。今日は、伊香立にお住まいで「淡海ネットワークセンター」の職員をされている佐藤弥絵美さんもお子さんと一緒にご参加くださいました。ありがとうございました。私のブログをご覧いただいているとのことで、研修会終了後に少しお話しをさせていただきました。佐藤さんからは、ご自身が編集を手がけておられる人と企業とNPOをつなぐ市民情報交流誌『おうみネット』を複数いただきました。ありがたいことです。今日は伊香立でもいろいろご縁が広がり、私は幸せ者です。

■写真ですが、研修会終了後、会場であった環境交流館をお暇するときに撮ってもらったものです。研修会にご参加くださって伊香立の皆さんです。お若い肩もおられます。今後のこの地域の活性化に期待していますよ。本当は、研修会の会場の雰囲気を撮りたかったのですが、その余裕がありませんでした。

【追記】■この研修会には、龍谷大学社会学部で「大津エンパワねっと」を履修し、卒業後は地方自治体の職員として勤務しているKさんもやって来てくれました。彼女も、伊香立に暮らしています。私の方から、「地域づくりの研修会で講師をするのでおいでよ」と誘ったら来てくれたのです。ゆっくり話しをしている時間はありませんでしたが、あとで、このようなメッセージを伝えてくれました。「伊香立で、問題意識を持っていろんな取り組みをされていることに驚きました。地元ですが、全然知りませんでした」。そうなんです、地域づくりってそういうものです。でも、これからは地元・伊香立の取り組みにもっと関心を持ってくれることでしょう。「大津エンパワねっと」で得た経験を生かして、地元でも頑張ってくれることを切望します。

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