お葬式に参列して

■妻方の親戚のお葬式に参列しました。お葬式に対する感じ方、年々、違ってきているなあ…と思いました。死をみつめることは、今の生をしっかり生きることの前提であり出発点でもある…年を取ると、自然とそのようなな考え方が強まってきました。死を終着点ではなく通過点としてイメージすることも大切かなと思います。

■今日は、妻方の親戚のお葬式があり、大阪の葬祭場まで、妻、妻の母(義母)の3人で参列してきました。亡くなられた方には、ひょっとすると親戚の結婚式のときにお会いしただけなのかもしれません。こういう遠い親戚のばあい、最近は、参列しない人のほうが多いのかもしれませんが、なぜか参列させていただこうという気持ちになりました。

■その親戚の男性は、82歳でお亡くなりになりました。天寿を全うされたと思います。何人ものご弟さんやお姉さんが参列されていました。現在、家族の規模はどんどん縮小していますから、近い将来、このようにたくさんの兄弟姉妹が故人をみおくるということは無くなるのではないかと思います。葬儀は、その時代ごとの家族のあり方や死生観と大きく関係しています。近年は、家族だけで葬儀を行う家族葬、お通夜をおこなわない一日葬、そして火葬のみの直葬もおこなわれるようになりました。その善し悪しについては、様々な議論があるところですが、お葬式はどうなっていくのでしょうか。これは、日本人の生き方に関わるけれど、みえにくい、社会の根底にところに潜んでいる切実な問題だと思っています。

■お葬式だけではありません。今は、墓の問題も深刻です。先日のNHK「クローズアップ現代」のテーマは、「墓が捨てられる~無縁化の先に何が~」というものでした。「全国各地で墓石の不法投棄が相次いで」おり、「その背景には、お参りする人がいないいわゆる無縁墓の急増が」あるというのです。そして、「過疎化の進む地方から始まった墓の無縁化が、今、都会でも急速に広がり始めて」いるというのです。詳しくは、こちらをご覧ください。現在は、先祖伝来の土地で生涯暮らすわけではありません。子どもの世代は、遠く離れたところに住んでいます。祖父母のことを孫たちはよく知らない…物理的にも心理的にも世代を超えた家族の関係は希薄にならざるをえません。そのような状況のなかで、墓の無縁化が進んでいるのでしょう。

■番組のなかで、宗教学者の山折哲雄さんは、以下のように説明されています。

これは戦前からずっと、日本人の宗教の一つの中心をなしていたのは、『家の宗教』としての先祖崇拝でした。これがガタガタと崩れ始めた、その結果とも言えるかもしれません。従来の伝統的な家制度の中で作られたお墓信仰は崩れざるを得ない、魂の行方を信じることができない。現代人がそうですよね、私もそうだ。誰も思わなくなってしまったとすれば、自分の死後の問題をどうするか、葬儀の問題をどうするかという問題に直面しているということです。ある意味ではジレンマの時期に今さしかかっていると思います。

■昔は、死んだ後のあとのことは、子どもや子孫が面倒をみて、きちんと供養するのがあたりまえでした。ある意味で義務でした。しかし、今は、生きているあいだに自分が死んだあとのことを考えなくてはいけません。番組のなかでは、本人の希望どおりに死後の手続きを勧めてくれるNPO法人と契約されたご夫婦が登場されます。ご夫婦は墓もつくりません。以前、家族社会学者の山田昌弘さんが、もう5年ほど前のことでしょうか、日本社会学会の学会誌で「家族の個人化」と「家族の『本質的』個人化」について論文を書かれていました。私は、そのような「家族の『本質的』個人化」と、このエントリーで取り上げているような問題が関連していると考えています(こりのエントリーでは、個人化については説明しませんが)。死後のことを、自己責任で考えねばならない時代がやってきているのです。

■このような問題は、ひとつ上の世代ではなく、まさに私たちの世代の問題なのです(私は56歳ですが)。死んだあとのことをどうするのか…そのことを今から考えねばなりません。問題は、このこと以外にもあるように思います。まわりの同世代は、しばらく先に定年を迎えます。「残りの人生」をどう充実させていくのかということを真剣に考え始めています(そして、どう生きていくのかも…)。もちろんそれは大切なことなのですが、今の「生」をしっかり生きることの前提や出発的には、「死」をしっかりみつめることが必要だ…そのように思います。「生」を煽る現代社会において、「死」をみつめることは非常に難しい。みつめるためには、「死」を終着点ではなく通過点としてリアルに「イメージ」することも大切かなと思っています(山折哲男さんのいう「魂の行方」)。「死」をみつめ「死」を通過点としてイメージする。私も含めて、一人一人にとって大きな課題なんじゃないのか…個人的にはそう思っています。

チャイコフスキー交響曲第5番

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■風邪をひいてしまい38℃の熱が出ていましたが、病院に処方してもらった薬で、やっと熱が下がりました。体調も安定してきたように思います。今回は、風邪がもとで、2日間の禁酒をせざるを得ませんでした。しかし、体調が戻ったので「もう、飲んでも良いでしょう〜」と自分で勝手に診断し、夕食では缶ビールをいただきました。美味しいですね〜。

■晩は、ひさしぶりに、テレビでNHK交響楽団の演奏を楽しみました。プログラムは、モーツァルトの交響曲 第40番と、チャイコフスキーの交響曲 第5番です。後者の「チャイ5」は、私が学生時代(学部4年生)に演奏した最後の曲です。懐かしかったですね〜。指揮者のブロムシュテットさんは、1927年生まれといいますから、87歳になります。ものすごく、お元気ですね。驚きます。亡くなった父親と同年齢とはとても思えません。番組では、演奏前にプロムシュテットさんの解説がありました。このようなことをおっしゃっていました。スコアには、作曲家がすべてにわたり細かく指示を書いている…というのですね。なぜそのスピードなのか、なぜこの音であって別の音でないのか。作曲家の意図を細かく検討していくと、その曲が深く理解できる…まあ、そのようなお話しでした。スコアという地層を掘り進む科学者のようでもあります。曲を、作曲者という主体の視点から構造的に理解しようとされている…そういうふうにいえるのかもしれません。

■今回のN響の演奏では、ブロムシュテットさんが思うように演奏できたのでしょう。そのことが、演奏後のブロムシュテットさんの満足げな様子からよくわかりました。チャイコフスキーの曲では、しばしばメロドラマのようなロマンチックな演奏がみられます。しかし、ブロムシュテットさんの指揮は、ロマンチックな演奏でありながらも、スコアの分析にもとづく曲の解釈の「枠組み」があり、その「枠組み」のなかで適度に抑制されているように思えました。ベタベタしたところが、ありません。そのバランスの妙味は、87歳で現役の指揮者にしかできないことなのかもしれません。

■ところで、「チャイ5」と書きました。オケの世界では、曲名に関して業界用語がいろいろあります。「チャイ5」は「チャイコフスキーの交響曲第5番」のことです。だから、チャイコフスキーの交響曲4番のばあいは、「チャイ4」といいます。では、6番はどうかというと、こちらは「悲壮」タイトルがついています。ベートーベンだと、交響曲の3・5・6・9番は、それぞれ「英雄」・「運命」・「田園」・「第9」と呼ばれることが多いわけですが、その他は、「べー1」、「べー2」、「べー4」、「べー7(なな)」ということになります。私が学生時代に演奏した曲でいえば、ドボルザークの交響曲9番については良く知られるように「新世界」となりますが、8番は「ドボ8」といいます。「ブラ1」、「ブラ2」、「ブラ3」、「ブラ4」。これは、すべてブラームスの交響曲ですね。えっ…と思うものもあります。たとえば、「モツレク」です。モーツァルトの「レクイエム」です…。話しが脱線してしまいました。

■トップの写真は、私が4年生の12月に行われた「関西学院交響楽団 第60回 定期演奏会」の写真です。私にとっては、学部生時代最後の定期演奏会です。演奏しているのは「チャイ5」。指揮は、湯浅卓雄先生です。今日、自宅にあるMDに録音された演奏を聞いてみました。まあ当然なのですが、いかにも学生オーケストラ…です。特に弦楽器は、初心者から始めた人がほとんどなので、技術的なレベルでいえば、…いろいろ問題があります。いやお恥ずかしい…という感じなのですが、指揮者の湯浅先生は、そのような技術的なレベルであっても、私たち学生オケの良いところを引き出し、できるだけ良い演奏に曲全体をうまく組み立てようとされていることが伝わってきます。

■写真のなかには、現在も市民オーケストラで活躍されている人たちが多数います。羨ましいですね〜。また、音楽大学等からエキストラで来ていただいた方のなかには、その後、プロのオーケストラに入団された方もおられます。このブログで何度も書きましたが、私はといえば、28歳のときにそれまで続けてきた音楽活動を中止しました。それは、それでよかったと思っていますが、問題は、はたして楽器を再開できるのか…ということでしょうね。

【追記】■ブロムシュテットさんと東日本大震災・いわき市について。
ブロムシュテットのスピーチ〜いわき市民に語りかけた5分間(前編)
ブロムシュテットのスピーチ〜いわき市民に語りかけた5分間(後編)

滋賀会館

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■ここは、滋賀会館です。滋賀会館は、2008年にはホールが閉鎖し、2010年3月31日にその他すべての文化施設機能が廃止されました。この滋賀会館が誕生したのは、1954年6月15日です。60年の歴史が経過しています。オープンした当時は、音楽、演劇、講演などの文化活動がホールで行われました。それだけでなく、結婚式場もあったと聞いています。他にも、映画館や県立図書館、地下には滋賀の名産を販売する銘店街やレストランなど、あらゆる機能が満載した施設でした。私と同年代以上の大津市民の皆さんにとっては、いろんな「思い出」がギュッと詰まったビルディングなのです。この滋賀会館、もうじき取り壊されることになっています。

■1991年4月から2年ほど、私は、このもうじき取り壊される滋賀会館の3階にあるとても狭いオフィスで仕事をしていました。滋賀県教育委員会文化施設開設準備室のオフィスです。私は、滋賀県立琵琶湖博物館開設を担当する「学芸技師」として滋賀県庁に採用され、この大津で働き始めることになりました。ほとんど研究している時間はありませんでしたが、人生にとって有意義な経験ができました(今から振り返るとですが…)。このときの人脈は、今でも大切にしています。それはともかくです。この滋賀会館のあと、私たちのオフィスは別の場所に移転しました。膳所のパルコの西あたりです。大昔のことになりますが、大津土木事務所が入っていた建物に移転し、(仮称)琵琶湖博物館開設準備室となりました。今は、その建物もありません。そして、このビルディングももうじきなくなります。ビルではなくて、ビルディング…。そう呼びたくなりますよね、どうしても。

関西学院交響楽団の同窓会

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■一昨日の13日(土)。朝一番に、瀬田キャンパスに出勤しました。大学院の入試が行われたからです。入試の後、午後からは研究室で仕事をして。夕方にから大阪梅田に移動しました。学生時代に所属していた学生オーケストラ「関西学院交響楽団」の同級生や近い学年の人たちで集まりました。

■私たちの学年のなかに、海外で暮らしている友人が2人います。1人はフランス。1人は香港。フランスの方の友人は、毎年、年末年始に帰国します。また、香港の方の友人も、時期は決まっていませんが、時々帰国してきます。そして2人とも、帰国前に、「日本に帰るので、みんなに会いたいから、セッティッングをしてほしい」と連絡をくれます。というわけで、私たちの学年では、海外で暮らす友人たちが帰国するときに同窓会をするようになったのです。海外にいる2人のおかげで同窓会ができる…わけですね。一昨日は、香港のMくんを囲む会になりました。

■土曜日は、15名ほどの友人たちが集まりました。今回の声掛けやセッティングについては、後輩のOくんが手伝ってくれました。といいますか、ほとんど彼がやってくれました。Oくん、ありがとうございます。しかも、Oくんは、学生オケ時代の写真をデジタル化してアルバムをつくり、そのアルバムから一人一人にあわせて写真を選択し、プリントアウトしてくれプレゼントまでしてくれました。

■同窓会のあと、facebookでやりとりをしました。「ああして話していると、ついさっきまで音練で練習してたかのような気持ちになりました」(音練というのは、音楽系サークルが練習する部屋のことです)。「飲み会の最年少は久しぶり。同年代、無礼講との声もありましたが、大学一年生にタイムスリップしました!」(私たちが4年の時に1年だったから…)。「昨晩は本当に楽しかったです。 2年くらいぶりで会った人、10年ぶりくらいであった人、殆ど卒業以来の人… でも、合ったとたんに30年前に戻れるというのは学生時代の友達ならではですね」。いいですね〜同窓会は。

十三・ションベン横町

20140907jyuso.jpg ■夕刊の1面記事を読んでいて、昔のことを思い出しました。以下は、十三・ションベン横丁の思い出です。facebookに投稿したものを転載します。
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■今から、25年以上前のことになるだろうか。その頃まで、十三には、とても美味しい居酒屋があった。「万長」という店だ。これは、本当に美味い素敵な居酒屋だった。お店に入ると、出汁の良い香りがプーンとした。これが「万長」のすごいところだ。特に、魚を使った料理がとても美味かった。

■この「万長」に初めていったのは、学部の卒業式のときのことだった。卒業式が終わったあと、ゼミの担当教員であった山路勝彦先生と一緒に、4月から大学院でお世話になる領家穰先生の研究室にご挨拶にいった。卒業式が午前中で終わり、山路先生に付き添われて領家先生の研究室にうかがったのだ。

■「脇田をとるつもりはなかったんや(大学院に合格させて、ゼミ担当教員として受入れる予定はなかった)。ところが、俺がいないあいだに会議で決められてしまって。不在裁判やな(笑)」というところから話しが始まった。そして、「ここにいても、しょうがないから。十三の『万長』に行こう」ということになった。領家先生は、山路先生と私を、大阪十三の「万長」という居酒屋に連れていったのだ。

■昼間からやっている居酒屋もあるが、「万長」の開店は夕方だったように思う。店は、ショウベン横町の神戸よりの角の、阪急寄りにあった。角だから、2面は、ガラガラっとガラス戸を開けることになる。そこに暖簾がぶらさがっている。昔は、このタイプの店が多かった。領家先生は、この店の超・超常連だったので、マスターに一言声をかけて店にはいり、仕込みの途中であるにもかかわらず、マスターに「できるもんでいいから、出してくれ」といって、真っ昼間から宴会(私の歓迎会)が始まった。店は2階建て。2階にあがるためには、梯子のような急な階段をのぼることになる。このとき、マスターが仕込みをしている1階カウンターで宴会が始まった。

■呑むのは、そのときは濁酒だったように思う。今のように、洗練されたものではなく、昔ながらの濁り酒。それを呑んだ(たしか…)。酒のあては、う〜ん…、マグロを海苔とシソでくるんで食べるやつとか…、まあ、マスターが適当につくってくれた。美味かった。今よりももっとアホだった私は、調子に乗ってのんだ。数時間、宴会が続いただろうか…。とりあえず、「万長」での宴会は無事に終了した。

■しかし、山路先生と私には、新阪急ホテルでの「謝恩会」がまっていた。当時は、ゼミごとにホテルで部屋を借りて謝恩会をやっていた。学生が費用を出してホテルの部屋を借りてパーティをするのだ。今の学生さんたちからは、とても考えられないだろう。ちなみに、龍大には謝恩会はない。同窓会の歓迎パーティなのだ。私たちは、来賓として招かれているだけ。謝恩会なんて、今の時代にはそぐわないしね。で、新阪急ホテルにたどり着く、山路先生も私もフラフラ…。ゼミの仲間たちには、きっと顰蹙をかったにちがいない。もちろん、領家先生だって…なのだ。

■その時から、私の20歳代の十三ションベン横町の記憶は始まる。なんというか、今から思えば、すごい経験をさせていただいた。1人で呑みにいって、電車がなくなり、マスターにタクシー代金をもらって下宿まで帰った記憶もある。マスターは、学部の先輩でもあった。おごってくれたのだ。もちろん、ずいぶん学年は上の先輩だ(マスター、あのときはありがとうございました。)。そのような良き時代だった。昔は、すぐにセピア色の素敵なノスタルジーになる。それでいい。それにひきかえ今は…と言わない限りだが。

■大学の世界で、こういうことは、もう、おそらくは、絶えてしまっているように思う。私たちは、先生に、もう勘弁してください…と思うほど、酒を呑ませてもらった。しかし、それは思っているだけで、口の方は卑しかった。胃袋は拒否しているのに、口は酒を求めるのだ。ションベン横町でも、たぶん何度かリバースしていると思う。当時は、酒類といえば、ビール、日本酒、焼酎、そしてたまに濁り酒だった。モスコミュールとカシスソーダとか…、なんとかチューハイとか、そういうものはなかったのだ。しかし、酒の美味しさがわかっていなくても、呑みたかった。とにかく呑みたかった。

■領家先生には、30歳頃まで十三で呑ませてもらった。結婚前、今の妻も呼び出されて「万長」にやってきた。妻は、大学入学した当時の基礎ゼミで領家先生のお世話になっていた。そういうこともあり、妻は呼び出されたのだ。結婚することが決まり、お祝いをしようと呼び出したのだ。妻は、遠く、奈良の自宅からやってきた(そのあいだも、ずっと先生と私は呑み続けていた)。

■その後、私は琵琶湖博物館や岩手県立大学で働くようになり、十三とは疎遠になってしまった。そして、「万長」もいろいろ事情があり閉店してしまった。ずいぶん、駄文を長々と書いてしまった。領家先生との再会の話しや、晩年の先生のお宅に訪問した時の話しは、また別の機会にするしかない。領家先生は、2011年5月14日に逝去された。さて、朝日の夕刊。なかなかションベン横町の復活は難しそうだ。でも…、という気持ちはもちろんあるのだが。

寿司

20140731sushi.jpg ■私は、「介護世代」です。同世代が集まれば、必ずといってよいほど、親の介護の話しになります。私も生活の介護をしている母親がいます。日々の生活に関しては、介護保険を使ってヘルパーさんにに介護していただいていますが、私自身も、母親の家に週に1回通っています。片道2時間15分程度ですので、遠距離介護とまではいきませんね。中距離?!介護ぐらいでしょうか。前回は先週の日曜日でした。妻も一緒に来てくれました。しかも、先週は、息子の方からも連絡があり、息子も一緒に来てくれました。母親は、孫(=息子)といろいろ話しができて満足したようでした。時間をきちんと確保して自分の祖母と話しをしておくことは、息子にとっても大切な経験かなと思っています。

■ところで、母親の世話を済ませ、息子の自宅に行くことになりました。息子は、今年の4月から社会人になりました。職場に近い大阪の街中にあるワンルームマンションで暮らしています。驚きましたが、周りも独身者向けのワンルームマンションばかり。私としては、ちょっと殺伐した風景です。今回は、妻が「ぜひ見学したい」と希望したことで、夫婦で「瞬間」訪問することになりましたが、室内は、私が想像していたよりもずっとちゃんと暮らしている雰囲気でした。ついこの前まで、雅な京都で大学院生をしていたので、この風景は辛くないかと思いましたが、騒音以外は、それほど苦にはなっていないようでした。仕事に慣れるのに必死…ということなんでしょうね。

■その「自宅見学」をさせてもらったあと、夫婦&息子の3人で梅田の寿司屋に行きました。ここは、私が大学院の博士後期課程のときに、妻と時々行った寿司屋です。妻のボーナスが出たときに、いつもおごってもらっていた寿司屋です。人生で初めて「おどり」をいただいたのも、この梅田の寿司屋でした。ひさしぶりに寿司をいただきながら、新社会人の息子の仕事の様子など、いろいろ聞かせてもらいました。ゆったりした時間を過ごすことができました。写真は、平目の握りと富山の日本酒「立山」です。

7月下旬〜9月18日までの脇田の予定です。

■現在、わかっている範囲で、私の予定をお知らせします。随時、予定を追加していきます。特に、卒業論文の指導については、積極的に相談に来てください。以下の予定を見て、面談の日時を相談してください。
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7月24日(木):午前、学生指導。午後、学生指導。
7月25日(金):業者さん来室。学生指導。
7月26日(土):午前、北船路野菜市。午後修士論文中間発表会。晩、北船路米づくり研究会OB現役交流会。
7月27日(日):大学に行きません。介護。
7月28日(月):午前、学生指導。午後、学生指導と授業。授業終了。
7月29日(火):午後、15時から深草で大学院運営委員会、全学研究運営会議。瀬田キャンパスには行きません。
7月30日(水):午前、試験。午後、町家キャンパス「龍龍」で会議。17時から町家キャンパスで「大津エンパワねっとを進める会」。
7月31日(木):午後、3限補助監督。17時から深草キャンバスでLORC第一研究班会議。
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8月1日(金):午前、「地域エンパワねっと」会議。
8月2日(土):大学に行きません。介護。
8月3日(日):大学に行きません。龍谷大学「ともいき荘」で、大学院「東アジアプロジェクト」「韓国学生交流プログラム」。
8月4日(月):晩、奈良県人会。
8月5日(火):午前、小佐治生物調査。
8月6日(水):午前、大学院執行部会議。午後、滋賀生物多様性地域戦略策定に係る専門家会議。
8月7日(木):午後、大津市都市計画審議会。晩、韓国訪日学生歓迎パーティ。
8月8日(金):大学に行くことが可能です。
8月9日(土):大学に行きません。介護。
8月10日(日):大学に行きません。
8月11日(月):個人休暇。仕事を入れません。
8月12日(火):個人休暇。仕事を入れません。
8月13日(水):個人休暇。仕事を入れません。
8月14日(木):個人休暇。仕事を入れません。
8月15日(金):個人休暇。仕事を入れません。
8月16日(土):個人休暇。仕事を入れません。
8月17日(日):個人休暇。仕事を入れません。
8月18日(月):個人休暇。仕事を入れません。
8月19日(火):個人休暇。仕事を入れません。
8月20日(水):個人休暇。仕事を入れません。
8月21日(木):大学に行きません。
8月22日(金):大学に行くことが可能です。
8月23日(土):午前、びわコミュ会議。
8月24日(日):大学に行きません。介護。
8月25日(月):午後、大津エンパワねっと学生指導。
8月26日(火):午前、小佐治生物調査。
8月27日(水):秋田県、八郎湖調査。
8月28日(木):秋田県、八郎湖調査。
8月29日(金):午後、大津エンパワねっと学生指導。
8月30日(土):「北船路米づくり研究会」の「かかし祭」。
8月31日(日):大学に行きません。介護。
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9月1日(月):大学に行くことが可能です。
9月2日(火):大学に行くことが可能です。
9月3日(水):午後17時から「大津エンパワねっと」を進める会。
9月4日(木):大学に行くことが可能です。
9月5日(金):午後、保険管理センター。
9月6日(土):大学に行くことが可能です。
9月7日(日):大津エンパワねっと「地域エンパワねっとⅡ」報告会。
9月8日(月):大学に行くことが可能です。介護。 
9月9日(火):大学に行くことが可能です。
9月10日(水):午後、教授会。
9月11日(木):大学に行くことが可能です。
9月12日(金):おおつ未来まちづくり学生会議」まち歩き。
9月13日(土):大学院入学試験。
9月14日(日):大学に行きません。介護。
9月15日(月):大学に行きません。
9月16日(火):午後、大学院運営会議。
9月17日(水):韓国国際会議。
9月18日(木):韓国国際会議。
9月19日(金):韓国国際会議。

2014年度の時間割

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■今更なんですが、今年度の時間割です。会議が入る、あるいは入りそうな可能性の高い時間も示してあります。前期については、すでにほとんどの担当授業が修了しました。夏期休暇の予定についてはこちらをご覧ください

【追記】
■「オフィスアワー」を設けていますが、それ以外でも面談をいたします。メールで面談の日時等を調整させていただきます。
■月曜日の3限を「オフィスアワー」とします。授業に関する質問、研究についての相談、そのた学生生活に関する相談等も含めて研究室にお越しください。ただし緊急の用事等が発生する場合がありますので、あらかじめメールでご連絡をいただけるとありがたいです。
■火曜日の午後は、深草キャンパスで大学院委員会、大学院運営委員会、全学研究運営会議等が入ることがあります。毎週ではありませんが、瀬田キャンパスにいないことが多いと思います。火曜日の午後面談を希望されるばあいは、あらかじめメールで確認をお願いいたします。
■水曜日の午後は、学科会議、教授会、研究科委員会等が入ることがあります。それらの会議がなくても、大津エンパワねっと運営委員会、その他の打ち合せ等がはいる可能性があります。水曜日の午後面談を希望されるばあいは、あらかじめメールで確認をお願いいたします。
■木曜日、2014年度は終日研究にあてたいと思います。土日も、地域連携に関する活動からなかなか研究のための時間がとれません。ということで、ここは無理をしてでも研究日を設けなくてはということで、一切、研究以外のことはやる予定がありません。大学に来ているかもしれませんが、この日は面談はいたしません。

Wakita

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■アメリカのオクラホマ州の北部に、「Wakita」という地名の小さな小さな町があります。wikipediaやネット上にある関連情報によれば、人口が減って、町のなかあった学校が維持できなくなるくらいに小さな町です。なぜそんな町が気になっているのかといえば、町の名前が私と同じだからです。正確には、「ワキタ」てはなく「Wok-ih-taw」と発音するのだそうです。アメリカでは、変わった名前かと思います。ここに町ができる以前に、この地域を竜巻からまもってきたチェロキー族(ネイティブ・アメリカン)のリーダーの名前に由来するのだとか。写真は、町の給水塔です。町の象徴のようですね。

■ここは「twister」という竜巻の映画でも有名になりました。スピルバーグ製作総指揮、M・クライトン脚本による1996年に公開された映画です。wikipediaによれば、以下のような粗筋です。こちらのブログの記事も詳しいですね。

まれに見る不安定な気象状況に、多数の竜巻発生が予想されたアメリカ南部。
かつて「ストーム・チェイサー(竜巻を追い観測する研究者)」として名をはせた気象予報官のビルは、現役のストーム・チェイサーである妻ジョーとの離婚を成立させるため、フィアンセをともなってひさしぶりに竜巻追跡の現場へやってくる。ジョーのチームは、ビルの発案で開発された画期的観測装置「ドロシー」の運用実験に臨んでいた。そこにはアイデアを盗んでまったく同じ仕様の装置を持ち出して来たライバル研究者、ジョーナスの姿もあった。気もそぞろにジョーたちの手伝いを始めるビル。資金力にものをいわせて竜巻を追うジョーナスたちに先んじて、なんとしても「ドロシー」を竜巻の直下に仕掛けなければならない。
いくつもの竜巻との遭遇……幼少時、竜巻に奪われた父を追うかのように無謀なジョーの姿……ビルの中で、何かが動き始めたその時、夜の闇の奥から強力な大竜巻が現れ、町を破壊しつくしていった。新しい竜巻予報システムを構築して被害を防がなければ……。そのためにはデータが要る!目的と絆を取り戻したビルとジョーは、「ドロシー」に改良を加え最後の追跡に挑む。そして遂に、彼らの目の前に、最大級F5クラスの巨大竜巻が現れた

■この町には、映画「twister」に関する小さな博物館があります。以下は、この博物館に関するテレビニュースです。

■自分の名前とアメリカのチェロキー族や竜巻が、ちょっと無理矢理ではありますが、こんなふうに結びついているとは…。多くの皆さんには、どうでもよい話しだとは思いますけど(^^;;。

16年前の私

20140619wakita.jpg■1998年から2004年3月まで、岩手県立大学総合政策学部に勤務していました。今日は、その時に大変お世話になった職員のTさんからfacebookを通して、こんな写真をいただきました。大学の広報誌に掲載された教員紹介の写真です。1998年当時の私です。40歳。 自分でいうのもなんですが、若いですね〜。髪の毛がいっぱいあるよ…。この時、16年後の自分を想像できませんでした。でも、今は、16年後の自分を想像することができるような気がします。

少年易老學難成
一寸光陰不可輕
未覺池塘春草夢
階前梧葉已秋聲

■意味は、次のような感じです。若者は年をとり易く、学問はなかなか完成しにくい。だから少しの時間でも軽々しくしてはならない。さて、池の堤の若草の上でまどろんだ春の日の夢がまだ覚めないうちに、庭先の青桐の葉には、もう秋の声が聞かれるように、月日は速やかに過ぎ去ってしまうのである。

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