十三・ションベン横町

20140907jyuso.jpg ■夕刊の1面記事を読んでいて、昔のことを思い出しました。以下は、十三・ションベン横丁の思い出です。facebookに投稿したものを転載します。
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■今から、25年以上前のことになるだろうか。その頃まで、十三には、とても美味しい居酒屋があった。「万長」という店だ。これは、本当に美味い素敵な居酒屋だった。お店に入ると、出汁の良い香りがプーンとした。これが「万長」のすごいところだ。特に、魚を使った料理がとても美味かった。

■この「万長」に初めていったのは、学部の卒業式のときのことだった。卒業式が終わったあと、ゼミの担当教員であった山路勝彦先生と一緒に、4月から大学院でお世話になる領家穰先生の研究室にご挨拶にいった。卒業式が午前中で終わり、山路先生に付き添われて領家先生の研究室にうかがったのだ。

■「脇田をとるつもりはなかったんや(大学院に合格させて、ゼミ担当教員として受入れる予定はなかった)。ところが、俺がいないあいだに会議で決められてしまって。不在裁判やな(笑)」というところから話しが始まった。そして、「ここにいても、しょうがないから。十三の『万長』に行こう」ということになった。領家先生は、山路先生と私を、大阪十三の「万長」という居酒屋に連れていったのだ。

■昼間からやっている居酒屋もあるが、「万長」の開店は夕方だったように思う。店は、ショウベン横町の神戸よりの角の、阪急寄りにあった。角だから、2面は、ガラガラっとガラス戸を開けることになる。そこに暖簾がぶらさがっている。昔は、このタイプの店が多かった。領家先生は、この店の超・超常連だったので、マスターに一言声をかけて店にはいり、仕込みの途中であるにもかかわらず、マスターに「できるもんでいいから、出してくれ」といって、真っ昼間から宴会(私の歓迎会)が始まった。店は2階建て。2階にあがるためには、梯子のような急な階段をのぼることになる。このとき、マスターが仕込みをしている1階カウンターで宴会が始まった。

■呑むのは、そのときは濁酒だったように思う。今のように、洗練されたものではなく、昔ながらの濁り酒。それを呑んだ(たしか…)。酒のあては、う〜ん…、マグロを海苔とシソでくるんで食べるやつとか…、まあ、マスターが適当につくってくれた。美味かった。今よりももっとアホだった私は、調子に乗ってのんだ。数時間、宴会が続いただろうか…。とりあえず、「万長」での宴会は無事に終了した。

■しかし、山路先生と私には、新阪急ホテルでの「謝恩会」がまっていた。当時は、ゼミごとにホテルで部屋を借りて謝恩会をやっていた。学生が費用を出してホテルの部屋を借りてパーティをするのだ。今の学生さんたちからは、とても考えられないだろう。ちなみに、龍大には謝恩会はない。同窓会の歓迎パーティなのだ。私たちは、来賓として招かれているだけ。謝恩会なんて、今の時代にはそぐわないしね。で、新阪急ホテルにたどり着く、山路先生も私もフラフラ…。ゼミの仲間たちには、きっと顰蹙をかったにちがいない。もちろん、領家先生だって…なのだ。

■その時から、私の20歳代の十三ションベン横町の記憶は始まる。なんというか、今から思えば、すごい経験をさせていただいた。1人で呑みにいって、電車がなくなり、マスターにタクシー代金をもらって下宿まで帰った記憶もある。マスターは、学部の先輩でもあった。おごってくれたのだ。もちろん、ずいぶん学年は上の先輩だ(マスター、あのときはありがとうございました。)。そのような良き時代だった。昔は、すぐにセピア色の素敵なノスタルジーになる。それでいい。それにひきかえ今は…と言わない限りだが。

■大学の世界で、こういうことは、もう、おそらくは、絶えてしまっているように思う。私たちは、先生に、もう勘弁してください…と思うほど、酒を呑ませてもらった。しかし、それは思っているだけで、口の方は卑しかった。胃袋は拒否しているのに、口は酒を求めるのだ。ションベン横町でも、たぶん何度かリバースしていると思う。当時は、酒類といえば、ビール、日本酒、焼酎、そしてたまに濁り酒だった。モスコミュールとカシスソーダとか…、なんとかチューハイとか、そういうものはなかったのだ。しかし、酒の美味しさがわかっていなくても、呑みたかった。とにかく呑みたかった。

■領家先生には、30歳頃まで十三で呑ませてもらった。結婚前、今の妻も呼び出されて「万長」にやってきた。妻は、大学入学した当時の基礎ゼミで領家先生のお世話になっていた。そういうこともあり、妻は呼び出されたのだ。結婚することが決まり、お祝いをしようと呼び出したのだ。妻は、遠く、奈良の自宅からやってきた(そのあいだも、ずっと先生と私は呑み続けていた)。

■その後、私は琵琶湖博物館や岩手県立大学で働くようになり、十三とは疎遠になってしまった。そして、「万長」もいろいろ事情があり閉店してしまった。ずいぶん、駄文を長々と書いてしまった。領家先生との再会の話しや、晩年の先生のお宅に訪問した時の話しは、また別の機会にするしかない。領家先生は、2011年5月14日に逝去された。さて、朝日の夕刊。なかなかションベン横町の復活は難しそうだ。でも…、という気持ちはもちろんあるのだが。

寿司

20140731sushi.jpg ■私は、「介護世代」です。同世代が集まれば、必ずといってよいほど、親の介護の話しになります。私も生活の介護をしている母親がいます。日々の生活に関しては、介護保険を使ってヘルパーさんにに介護していただいていますが、私自身も、母親の家に週に1回通っています。片道2時間15分程度ですので、遠距離介護とまではいきませんね。中距離?!介護ぐらいでしょうか。前回は先週の日曜日でした。妻も一緒に来てくれました。しかも、先週は、息子の方からも連絡があり、息子も一緒に来てくれました。母親は、孫(=息子)といろいろ話しができて満足したようでした。時間をきちんと確保して自分の祖母と話しをしておくことは、息子にとっても大切な経験かなと思っています。

■ところで、母親の世話を済ませ、息子の自宅に行くことになりました。息子は、今年の4月から社会人になりました。職場に近い大阪の街中にあるワンルームマンションで暮らしています。驚きましたが、周りも独身者向けのワンルームマンションばかり。私としては、ちょっと殺伐した風景です。今回は、妻が「ぜひ見学したい」と希望したことで、夫婦で「瞬間」訪問することになりましたが、室内は、私が想像していたよりもずっとちゃんと暮らしている雰囲気でした。ついこの前まで、雅な京都で大学院生をしていたので、この風景は辛くないかと思いましたが、騒音以外は、それほど苦にはなっていないようでした。仕事に慣れるのに必死…ということなんでしょうね。

■その「自宅見学」をさせてもらったあと、夫婦&息子の3人で梅田の寿司屋に行きました。ここは、私が大学院の博士後期課程のときに、妻と時々行った寿司屋です。妻のボーナスが出たときに、いつもおごってもらっていた寿司屋です。人生で初めて「おどり」をいただいたのも、この梅田の寿司屋でした。ひさしぶりに寿司をいただきながら、新社会人の息子の仕事の様子など、いろいろ聞かせてもらいました。ゆったりした時間を過ごすことができました。写真は、平目の握りと富山の日本酒「立山」です。

7月下旬〜9月18日までの脇田の予定です。

■現在、わかっている範囲で、私の予定をお知らせします。随時、予定を追加していきます。特に、卒業論文の指導については、積極的に相談に来てください。以下の予定を見て、面談の日時を相談してください。
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7月24日(木):午前、学生指導。午後、学生指導。
7月25日(金):業者さん来室。学生指導。
7月26日(土):午前、北船路野菜市。午後修士論文中間発表会。晩、北船路米づくり研究会OB現役交流会。
7月27日(日):大学に行きません。介護。
7月28日(月):午前、学生指導。午後、学生指導と授業。授業終了。
7月29日(火):午後、15時から深草で大学院運営委員会、全学研究運営会議。瀬田キャンパスには行きません。
7月30日(水):午前、試験。午後、町家キャンパス「龍龍」で会議。17時から町家キャンパスで「大津エンパワねっとを進める会」。
7月31日(木):午後、3限補助監督。17時から深草キャンバスでLORC第一研究班会議。
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8月1日(金):午前、「地域エンパワねっと」会議。
8月2日(土):大学に行きません。介護。
8月3日(日):大学に行きません。龍谷大学「ともいき荘」で、大学院「東アジアプロジェクト」「韓国学生交流プログラム」。
8月4日(月):晩、奈良県人会。
8月5日(火):午前、小佐治生物調査。
8月6日(水):午前、大学院執行部会議。午後、滋賀生物多様性地域戦略策定に係る専門家会議。
8月7日(木):午後、大津市都市計画審議会。晩、韓国訪日学生歓迎パーティ。
8月8日(金):大学に行くことが可能です。
8月9日(土):大学に行きません。介護。
8月10日(日):大学に行きません。
8月11日(月):個人休暇。仕事を入れません。
8月12日(火):個人休暇。仕事を入れません。
8月13日(水):個人休暇。仕事を入れません。
8月14日(木):個人休暇。仕事を入れません。
8月15日(金):個人休暇。仕事を入れません。
8月16日(土):個人休暇。仕事を入れません。
8月17日(日):個人休暇。仕事を入れません。
8月18日(月):個人休暇。仕事を入れません。
8月19日(火):個人休暇。仕事を入れません。
8月20日(水):個人休暇。仕事を入れません。
8月21日(木):大学に行きません。
8月22日(金):大学に行くことが可能です。
8月23日(土):午前、びわコミュ会議。
8月24日(日):大学に行きません。介護。
8月25日(月):午後、大津エンパワねっと学生指導。
8月26日(火):午前、小佐治生物調査。
8月27日(水):秋田県、八郎湖調査。
8月28日(木):秋田県、八郎湖調査。
8月29日(金):午後、大津エンパワねっと学生指導。
8月30日(土):「北船路米づくり研究会」の「かかし祭」。
8月31日(日):大学に行きません。介護。
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9月1日(月):大学に行くことが可能です。
9月2日(火):大学に行くことが可能です。
9月3日(水):午後17時から「大津エンパワねっと」を進める会。
9月4日(木):大学に行くことが可能です。
9月5日(金):午後、保険管理センター。
9月6日(土):大学に行くことが可能です。
9月7日(日):大津エンパワねっと「地域エンパワねっとⅡ」報告会。
9月8日(月):大学に行くことが可能です。介護。 
9月9日(火):大学に行くことが可能です。
9月10日(水):午後、教授会。
9月11日(木):大学に行くことが可能です。
9月12日(金):おおつ未来まちづくり学生会議」まち歩き。
9月13日(土):大学院入学試験。
9月14日(日):大学に行きません。介護。
9月15日(月):大学に行きません。
9月16日(火):午後、大学院運営会議。
9月17日(水):韓国国際会議。
9月18日(木):韓国国際会議。
9月19日(金):韓国国際会議。

2014年度の時間割

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■今更なんですが、今年度の時間割です。会議が入る、あるいは入りそうな可能性の高い時間も示してあります。前期については、すでにほとんどの担当授業が修了しました。夏期休暇の予定についてはこちらをご覧ください

【追記】
■「オフィスアワー」を設けていますが、それ以外でも面談をいたします。メールで面談の日時等を調整させていただきます。
■月曜日の3限を「オフィスアワー」とします。授業に関する質問、研究についての相談、そのた学生生活に関する相談等も含めて研究室にお越しください。ただし緊急の用事等が発生する場合がありますので、あらかじめメールでご連絡をいただけるとありがたいです。
■火曜日の午後は、深草キャンパスで大学院委員会、大学院運営委員会、全学研究運営会議等が入ることがあります。毎週ではありませんが、瀬田キャンパスにいないことが多いと思います。火曜日の午後面談を希望されるばあいは、あらかじめメールで確認をお願いいたします。
■水曜日の午後は、学科会議、教授会、研究科委員会等が入ることがあります。それらの会議がなくても、大津エンパワねっと運営委員会、その他の打ち合せ等がはいる可能性があります。水曜日の午後面談を希望されるばあいは、あらかじめメールで確認をお願いいたします。
■木曜日、2014年度は終日研究にあてたいと思います。土日も、地域連携に関する活動からなかなか研究のための時間がとれません。ということで、ここは無理をしてでも研究日を設けなくてはということで、一切、研究以外のことはやる予定がありません。大学に来ているかもしれませんが、この日は面談はいたしません。

Wakita

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■アメリカのオクラホマ州の北部に、「Wakita」という地名の小さな小さな町があります。wikipediaやネット上にある関連情報によれば、人口が減って、町のなかあった学校が維持できなくなるくらいに小さな町です。なぜそんな町が気になっているのかといえば、町の名前が私と同じだからです。正確には、「ワキタ」てはなく「Wok-ih-taw」と発音するのだそうです。アメリカでは、変わった名前かと思います。ここに町ができる以前に、この地域を竜巻からまもってきたチェロキー族(ネイティブ・アメリカン)のリーダーの名前に由来するのだとか。写真は、町の給水塔です。町の象徴のようですね。

■ここは「twister」という竜巻の映画でも有名になりました。スピルバーグ製作総指揮、M・クライトン脚本による1996年に公開された映画です。wikipediaによれば、以下のような粗筋です。こちらのブログの記事も詳しいですね。

まれに見る不安定な気象状況に、多数の竜巻発生が予想されたアメリカ南部。
かつて「ストーム・チェイサー(竜巻を追い観測する研究者)」として名をはせた気象予報官のビルは、現役のストーム・チェイサーである妻ジョーとの離婚を成立させるため、フィアンセをともなってひさしぶりに竜巻追跡の現場へやってくる。ジョーのチームは、ビルの発案で開発された画期的観測装置「ドロシー」の運用実験に臨んでいた。そこにはアイデアを盗んでまったく同じ仕様の装置を持ち出して来たライバル研究者、ジョーナスの姿もあった。気もそぞろにジョーたちの手伝いを始めるビル。資金力にものをいわせて竜巻を追うジョーナスたちに先んじて、なんとしても「ドロシー」を竜巻の直下に仕掛けなければならない。
いくつもの竜巻との遭遇……幼少時、竜巻に奪われた父を追うかのように無謀なジョーの姿……ビルの中で、何かが動き始めたその時、夜の闇の奥から強力な大竜巻が現れ、町を破壊しつくしていった。新しい竜巻予報システムを構築して被害を防がなければ……。そのためにはデータが要る!目的と絆を取り戻したビルとジョーは、「ドロシー」に改良を加え最後の追跡に挑む。そして遂に、彼らの目の前に、最大級F5クラスの巨大竜巻が現れた

■この町には、映画「twister」に関する小さな博物館があります。以下は、この博物館に関するテレビニュースです。

■自分の名前とアメリカのチェロキー族や竜巻が、ちょっと無理矢理ではありますが、こんなふうに結びついているとは…。多くの皆さんには、どうでもよい話しだとは思いますけど(^^;;。

16年前の私

20140619wakita.jpg■1998年から2004年3月まで、岩手県立大学総合政策学部に勤務していました。今日は、その時に大変お世話になった職員のTさんからfacebookを通して、こんな写真をいただきました。大学の広報誌に掲載された教員紹介の写真です。1998年当時の私です。40歳。 自分でいうのもなんですが、若いですね〜。髪の毛がいっぱいあるよ…。この時、16年後の自分を想像できませんでした。でも、今は、16年後の自分を想像することができるような気がします。

少年易老學難成
一寸光陰不可輕
未覺池塘春草夢
階前梧葉已秋聲

■意味は、次のような感じです。若者は年をとり易く、学問はなかなか完成しにくい。だから少しの時間でも軽々しくしてはならない。さて、池の堤の若草の上でまどろんだ春の日の夢がまだ覚めないうちに、庭先の青桐の葉には、もう秋の声が聞かれるように、月日は速やかに過ぎ去ってしまうのである。

メジロ

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■娘はある企業で建築士として働いています。趣味は海釣り。よく日本海にでかけます。遊漁船で沖にでて、でっかい魚を釣っていきます。一昨日も、メジロを届けてくれました。メジロとは、ブリの子どもです。ブリは「出世魚」と呼ばれ、成長する段階で名前がかわりますが、関西では、プリになるひとつ手前の段階を「メジロ」というようです。wikipediaですが、以下のように解説していました。

関東 - モジャコ(稚魚)→ワカシ(35cm以下)→イナダ(35-60cm)→ワラサ(60-80cm)→ブリ(80cm以上)
北陸 - コゾクラ、コズクラ、ツバイソ(35cm以下)→フクラギ(35-60cm)→ガンド、ガンドブリ(60-80cm)→ブリ(80cm以上)
関西 - モジャコ(稚魚)→ワカナ(兵庫県瀬戸内海側)→ツバス、ヤズ(40cm以下)→ハマチ(40-60cm)→メジロ(60-80cm)→ブリ(80cm以上)
南四国 - モジャコ(稚魚)→ワカナゴ(35cm以下)→ハマチ(30-40cm)→メジロ(40-60cm)→オオイオ(60-70cm)→スズイナ(70-80cm)→ブリ(80cm以上)

■我が家には、いちおう出刃包丁はあるのですが、サバやアジ程度の大きさをおろすときに使うものです。その小さな出刃包丁で苦労しながらさばきました。昨日は、刺身とカマの塩焼き。今日の晩は、あら炊き。明日の晩は、塩焼き。夫婦2人の家庭ですが、1匹丸ごと全部いただく予定になっています。

須磨海岸

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■出身地はどこかと聞かれたら、神戸だとこたえます。しかし、5歳から16歳の夏までは、神戸にはいませんでした。父親の転勤で、下関、小倉、博多、広島と転居と転校が続きました。幼稚園は3つ、小学校も3つ、中学は1つですが、高校も2つ。転校を繰り返した少年時代でした。というわけで、神戸出身とはいうものの、かなり微妙なところがあります。

■神戸に戻った両親は、私が高2年生のときに、須磨の新興住宅地に家を建てました。子どもからみても、かなり無理をして、がんばって建てた…という感じがしました。国の持ち家政策に煽られて、多くのサラリーマンがローンを組んで郊外に住宅を求めた時代です…。それとはもかく、高校や大学には、この須磨の家から通学することになりました。通学では山の中に造成された新興住宅地から海岸沿いの駅まで歩いていきました。通常、この地域の多くの住民はバスを使って通勤・通学をしていたと思いますが、私のばあい、節約する必要がありました。貧しかったので節約せざるを得ませんでした。行きも帰りも歩いていました。片道2.5kmほどの距離だったと思います。家は高台にありましたから、駅にむかって歩いていくときには、淡路島や瀬戸内海が見えました。

■駅の真横は須磨海岸でした。よく、海岸に座ってぼーっとしていました。現在のようなおじさんの年齢になると、仕事に追われるばかりで、そんな贅沢な時間は何処かに消えてしまっています。ありふれた言い方ですが、お金はなかったが、気持ち的には豊かだった…のです。。

■今日、通勤で京都駅のプラットホームに立っていると、普通・須磨行きの電車が止まっていました。仕事に疲れている現在「気持ち」的には、この電車にそのまま乗ってしまいたかった…というのが本音です。ひさしぶりに、若い頃のように、海岸に座ってぼーっとしてみたかったのです。しかし、それはあくまで妄想のなかだけでしか許されません。

■写真は、2009年の5月の須磨海岸。姫路にある兵庫県立大学に仕事に行った帰りに撮ったものです。末期の肺癌で苦しんでいた父親を泊まり込んで看病していた時期です。父親は、苦しんで、2ヶ月後に亡くなりました。海岸の風景も父の死を予感しながら眺めていたように思います。この写真、長らく塩漬けになったままの個人ブログから引っ張りだしてきました。

小倉時代

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■少し前のことですが、連休中、母親の家で自分が少年の時のアルバムをみつけました。そして、「篠崎バイオリン教室」のこと…をエントリーしました。今回もアルバムの写真に関するエントリーです。

■写真は、通学前の私です。たぶん、小4の頃だと思います。当時は、北九州市小倉区の城野団地に住んでいた。日本住宅公団(現在のUR)が開発した団地です。その団地から、私は私立の小学校に通っていました。小倉区に隣接する戸畑区の明治学園小学校。カトリック系の私立の学校に通っていました。ですから、写真では制服を着ています。バスで1時間以上かけて通学していたように記憶しています。今も1時間40分かけて奈良の自宅から大津瀬田のキャンパスまで通勤していますが、考えてみれば、このような遠距離通勤のルーツはこの時代にあるのか…という気になります(実際のところは関係ありませんが…)。

■この私立の学校には、親の意向で通うことになりました(もっとも、両親ともクリスチャンではありませんが…)。親の意向とはいえ、宗教的な様々な経験ができたことは、自分の人生にプラスだったのではないかと思います。この小学校は、私のような庶民の倅から、制服を着たおかかえ運転手のベンツで通学する大病院の令嬢や、地方財閥の御曹子まで、いろんな階層の子どもたちが通っていました。そのような「社会」を日常的に経験することも、自分としては良かったのではないかと思っています。

■住んでいた小倉の城野団地は、3DK。6畳、4.5畳×2、小さなキッチンの間取りでした。今から思うとかなり狭いわけですが、当時、庶民の暮らしはこんなもんだったと思います。おそらく40平米程ではないでしょうか。写真は部屋の中、そして自宅の窓から撮ったものです。おそらくは、フイルムが残ったから、父がもったいないと撮ったのだろうと思います。窓からの写真には、団地に隣接する三郎丸の聾学校(現在の福岡県立小倉聴覚特別支援学校)が写っています。時々、こちらの学校の生徒さんに散髪をしていただきました。理髪の技術を身につける実習のような位置づけだったと思います。近くには、元々米軍基地だった自衛隊基地(松本清張の小説で知られる)がありました。鉄条網で囲まれて、中には歩哨の自衛隊員が銃をもって歩いていました。ドキドキしながら、近所の子どもたちとそばによって話しかけたこともありました…。近くには民族学校もありました。そこでは、赤いネッカチーフをまいた少年少女たちが、左右に腕をふりながら並んで行進の練習をしていました。そのときは、素朴に、自分たちの運動会の練習とはずいぶん違うなあと思いました。まだ、帰還事業が行われていました。少し離れたところには、廃線になった線路がありました。かつて炭鉱につながっていた線路です。石炭を満載した貨車が走っていたのでしょう。私の少年の時には、すでにエネルギーは石油が中心になっていました。そういう時代でした。私が小倉に住んだのは、1964年4月から1968年3月までことです。

【追記】■本文に、「地方財閥の御曹子まで…」と書きました。これは本当のことです。クラスメートの1人がその地方財閥の次男でした。彼の自宅は、学校の近くにありました。大きなお屋敷でした。子どもたちが、軟式庭球のボールで、ちょっとした野球ができるほどの広さの庭がありました。庭というよりも、庭園ですね。植木や芝の手入れも細かく行き届いていました。遊びにいったとき、お屋敷の大きな正面玄関ではなく、キッチンのある裏口から入りました。裏口といっても、普通の家の玄関ぐらいはありました。基本的に欧米風のつくりになっていました。キッチンにある裏口に置かれたマットの上で靴をぬぎました。段差がありません。キッチンもちょっとした家庭科教室程の広さがありました。お手伝いさんが働いておられました。そのままスリッパに履き替えてお屋敷のなかを案内してもらいました。

■大きな広間のようなリビングには暖炉がありました。その暖炉の前で、クラスメートの兄姉の皆さんと一緒にゲームをしました。そのゲームは、アメリカ製のボードゲームでした。ボードに書かれている文字は英語で、小学生の私にはさっぱり意味がわかりませんでした。おそらくは、人生ゲームのようなものではなかったかと思います。書けばきりがないのですが、「こんな大きなお家に住んでいる子どもも、世の中にはいるんだな…」と団地に暮らしていた私は心の底からびっくりしました。現在、そのお屋敷に、クラスメートの家族は住んでいません。結婚式場になっています。どうしているのかな、そのクラスメートは。

「篠崎バイオリン教室」のこと

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■連休中、通いで母親の介護をしています。母の家でみつけた、私の子どもの頃のアルバムのなかにこういう写真がありました。

■子供の頃、私はバイオリンを習わされていました。もちろん、私が「習わせて!!」といったわけではなく、強制です。「ピアノかバイオリンか、どっちをするか」と5歳のときに母親に迫られました。「やらない」という選択はありませでした。昭和一桁生まれの両親は、若い頃は戦争でできなかったことが多かったようです。いわゆる「文化的な事柄」に対するあこがれがありました。そもそも、いわゆる「文化資本」のない家ですから、「子どもには、何か身につけさせたい」というパターンだったんだろうと思います。本当は、ボーイスカウトのような活動をしたかったのですが、これについては、即、否決されました。

■この写真は、通っていた、「篠崎バイオリン教室」の「おさらい会」の写真です。当時、暮らしていた、北九州市小倉区(現在の小倉北区)に教室はありました。写真の「おさらい会」ですが、小倉のヤマハだったように記憶している。角のほうに「於:日本楽器国小倉店8階ホール」って書いてありますね。まず、一人一人、自分が取り組んできた曲の演奏を終えたあと、全員で合同演奏しているときの写真です。何を弾いているのかは、もう記憶にありません。

■右端に立っている男の子が私です。前の列には、先生の息子さんである篠崎史紀さんが弾いています。まだ幼稚園じゃないかと思います。当時は、「ふみちゃん」と呼ばれていました。年齢が離れているので、話しをすることはあまりありませんでした。現在、ふみちゃんは、N響のコンサートマスター。「まろ」というニックネームでファンの皆さんから呼ばれています。なんといいますか、迫力のある風貌をされていますが、小さい時は、こんなに可愛らしかったんです(まあ、あたりまえですね)。しかし、将来は大物のバイオリニストになると、みんな思っていたのではないでしょうか。子どもながらも、立派な演奏をされていました。ふみちゃんの他にも、篠崎バイオリン教室からは、すぐれた演奏家が排出されているようです。バイオリンが好きでなかった(当時…)私は、この教室の劣等生でした…。いつも先生に叱られていました。ところで、私の記憶では、彼はいつもマッシュルームカットでした。お母さんが自ら鋏をでカットされていたような記憶があります。

■篠崎永育先生がどうされているのか、調べてみました。喜寿でお元気のようですね。
篠崎ヴァイオリンスクール 九州交響楽団 合同演奏会

【追記】■写真の右隅をみると、昭和44年5月5日とあります。1969年ですね。そのとき、私は博多に住んでいました。篠崎先生は、小倉と博多で教室を開いておられました。博多の教室が開かれたのは、市内の東のほうにある公団住宅の集会所だったように記憶しています。ちなみに、私の向かって左側の方は、現在、九州で活躍されているバイオリニストです。北九州交響楽団のコンサートミストレスをされていたようです。

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