ノルウェー旅行(4) - グリーグのカエル -

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■ノルウェーの作曲家・グリーグは、ピアノの名手でした。ただし、かなりの「あがり症」だったようです。演奏するさいは、このカエルをお守りのようにポケットに入れていました。そして、指先で、このカエルのお守りをこすっていたのです。本物は、ゴム製だったようです。もちろん、これはお土産です。グリーグの暮らした家がある場所(「トロールハウゲン」)には、少し前に投稿したコンサートホールだけでなく、博物館もあるのですが、その博物館のショップに売られていました。グリーグがもっていたお守りのレプリカですね。前足が欠けています。おそらく、本物が欠けているのでしょうね。

■グリーグにとって、このゴムのカエルは、単なる幸運を呼ぶお守りを超えて、精神的なつながりをもった友達だったようです。このカエルの他に、子豚のぬいぐるみの友達もいました。寒い冬のあいだ、グリーグは、自分の作品をもってヨーロッパのあちこちに演奏旅行することが多かったようですが、そのときにはいつもカエルくんと子豚くんが一緒でした。眠るときも、一緒だったと伝えられています。

■グリーグの博物館では、彼の生涯についていろいろ学ぶことができました。特に、妻であるニーナ・グリーグとの関係は、とても興味深いものがあります。グリーグ自身、以下のように語っています。「私は素晴らしい声とたぐいまれな解釈力を持つ若い女性に恋をした。その女性が私の妻となり、生涯の伴侶となった。あえていえば、ニーナは私の歌曲の唯一の理解者であり、表現者だ」。詳しくは、以下のページをご覧ください。

ニーナ・グリーグ Nina Grieg (1845~1935)(norway the official site japan)

20141207grieg2.jpeg ■グリーグの生涯について関心をもつようになり、良い伝記はないかとちょっとだけ調べてみました。すると、この本が一番、読んでみたいと思いました。「音楽の友社」のサイトのなかで、青山学院大学の広瀬大介(ひろせ・だいすけ)さんが、この本の書評を書かれています。この書評を読んで、迷わず読んでみることにしました。

本書は、グリーグの生涯を丹念に追いかけるというよりも、作曲家の生涯においてもっとも輝ける瞬間をそのまま切り取り、そこからグリーグの人となりをあぶりだすような手法を用いる。ノルウェーの民謡素材を用いつつも、それを普遍的言語へと高める努力を惜しまぬ結果生まれた《ピアノ協奏曲イ短調》作品16、そしてもっとも長大な分量が割かれる《ペール・ギュント》など、「音楽そのもの」を媒介として、そこから作曲家の生涯を浮かび上がらせていく。とりわけ、後者を巡るヘンリク・イプセンとの関係は興味深い。お互い完全に胸襟を開くわけではないものの、その志のありようをきちんと理解しあう友情は、互いの芸術を尊重するゆえの距離感なのだろう(このような詩人と音楽家の距離感の取り方は、ホフマンスタールとリヒャルト・シュトラウスのそれをある程度識る筆者にとっては、大変納得ゆくものだった)。
 こうした特殊な、ある種の入門的・あるいは啓蒙的とも言うべき記述方法を採用したのは、そもそもグリーグの浩瀚な伝記は言うに及ばず、北欧音楽の研究書そのものが日本語ではまだまだ少ない(これは日本に限らず西欧諸国でも大差ないはず)という特殊事情にもよるだろう。寡作なグリーグの場合であれば、代表曲についての記述によって、その生涯をほぼ網羅できてしまう。
 その全貌をいまだ知られているとは言い難いこの作曲家を多くの人に知ってもらう、という観点から見れば、この叙述方法は、考え得る幾多の方法のなかでも、もっとも適したものと思われる。まだ人目に触れることの少ないグリーグ関連の写真もふんだんに用いられており、それを見るだけでも豊かな発見に満ちている。もっとも、作曲家の人生とその作品を並置して描こうとするこの方法は、前者の体系的な叙述がある程度犠牲になることは避けられない。巻末の年譜を参照しながら読むことで、理解を補うことも必要になるだろう。作品へのアプローチも、その種の人間ドラマを紡ぐことに主眼があるために、「音楽そのもの」への言及はごく限られている。

龍谷大学吹奏楽部第41回定期演奏会

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■今年も龍大吹奏楽部の定期演奏会に参ります。これで何回目だったかな…。さきほど申し込みました。もう、すでにC席しか残っていませんが、なんとかセーフ。早めに申し込んでいなかったので、わざわざ吹奏楽部の関係者の方が、研究室の扉にメッセージを残してくれました。ありがとうございました。手分けして、営業活動にも励んでおられるのですね。

■ところで、今回のプログラムのなかには、「吹奏楽のためのラプソディ」(外山 雄三)が入っています。「管弦楽のためのラプソディ」を吹奏楽部版に編曲したものでしょうかね。楽しみです。

【プログラム】
《Ⅰ部》
フライト
作曲:C.T.スミス

《Ⅱ部》
トランペット協奏曲変ホ長調
作曲:J.N.フンメル

客演/菊本 和昭(トランペット奏者)

吹奏楽のためのラプソディ
作曲:外山 雄三

【追記】■後日談。毎年通っているということで、どういうわけか招待されることになりました。ありがとうございます。

ズービン・メータ

2014111mehta.jpg ■昨晩は、リビングからマーラーの5番が聞こえてきました。NHK「クラシック音楽館」を妻が視ていました。昨晩は、ズービン・メータ指揮のイスラエル・フィルハーモニー管弦楽団。プログラムは、シューベルトの「交響曲 第6番 ハ長調 D.589」とマーラーの「交響曲 第5番 嬰ハ短調」でした。私がきがついたときは、すでにマーラーの5番が始まっていました。

■メータは1968年からイスラエルフィルの音楽監督を務めているそうです。非常に長い関係ですね。強い絆で結ばれているといわれています。シンフォニー全体の仕上がり具合に関しては、なんともいえませんが、豊かな弦楽器の響きにちょっと驚きました。素晴らしさは噂通りだなと思いました。また、アンコールは、マスカーニの「カヴァレリア・ルスティカーナ」間奏曲。これは私自身、思い出深い曲なので、グッときました〜。

■ところで、メータとイスラエルフィルによるマラーの5番を聞きながら、「あれっ…そういえば、メータのLPレコードをもっていたな」と思い出したのでした。すでに、LPレコードを聞くことのできるプレーヤーは、我が家にはありません。なんですが、LP自体はいまだにきちんと保管してありました。誇りかぶっていましたけど…。ジャケットは、若い頃のメータ。といいますか、このLPレコード自体を購入したのが、ずいぶん昔のことですので、当然、メータの髪の毛も黒々としています。中をあけると作曲家・音楽評論家の柴田南雄が解説を書いています。その日付は、1976年になっています。購入したのは1976年ではなく、もう少し後だと思います。価格は、4,000円。当時、超・貧乏だった私によく買えたな…と思うような価格です。


「カヴァレリア・ルスティカーナ」間奏曲(マスカーニ作曲)
■余韻に浸る間もなく、「ブラボー」!! とても日本的現象かもしれませんね。メータも、目を丸くしてびっくりしています。個人的には、この「プラボー」と叫んだ人も恥ずかしいだろうに…と思うわけですが、意外に本人は得意げだったりして…。この曲は、学生時代に何度も弾きました。しかし、私たち学生では、こんなに長くフレーズ感じとることや、同時に繊細かつダイナミックに演奏する事はできませんでした。今から思うと恥ずかしいです…。譜面づらは弾けるのですが、こんな風にはまった演奏できませんでした。まあ、あたりまえか(^^;;。

第6回「大津ジャズフェスティバル」

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■昨日は、第6回「大津ジャズフェスティバル」(OJF)でした。実行委員のMさんから、緊急にボランティアをしてもらえないかとの打診があり、土曜日だけボランティアをさせていただきました。私の担当場所は「大津祭曳山展示館前」でした。ひさしぶりの会場担当でしたが、なんとか無事にボランティアを終えることができました。ありがとうございました。第6回をむかえた「大津ジャズフェスティバル」、じつに立派に運営をされています。安定感がありますね。「大津祭曳山展示館前」の受付をしながら、昔のことを思い出しました。

■10月15日の京都新聞の1面のコラム「凡語」に、小山さんの事が書かれていました。

青い琵琶湖と秋空を背景にしたステージで、プロやアマチュアのミュージシャンが演奏し、多くのジャズファンが音楽を楽しむ。「世界一美しい」をうたい文句とする大津ジャズフェスティバルが18、19の両日、大津市の浜大津など湖岸一帯で開かれる▼市民の自主的な活動として2009年に始まり、今年で6回目となる。開催を言い出したのは、第3回まで実行委員長を務めた故小山清治さんだ▼大津市の市街地を歩き、シャッターが下りた商店の多さに驚いたのがきっかけだった。「好きなジャズでまちなかを盛り上げたい」と、仲間と立ち上がった▼数人しかスタッフが集まらない会議もあったが地道に賛同者を増やし、強いリーダーシップで初回を成功に導いた。その後、がんが見つかり、闘病の中で第3回を開いたが、一昨年春に54歳で亡くなった▼遺志を継いだスタッフたちの奮闘で、その後もイベントは盛大に続き、今年は約160組1100人が32会場で演奏する。プロも含めて全て無料で聴けるのが魅力の一つだ▼小山さんは運営を始めたころ、「とりあえず、第5回までは何とか続けたい」と話していた。今回、もうその回数を超える。故人が当初想像した以上に育ったフェス。今年は、どんな音色をまちなかに響かせてくれるのだろうか。 [京都新聞 2014年10月15日掲載]

■第1回の2009年の7月に、父親が1年間の闘病の末に亡くなりました。私はずっと看病等で週末は父のところにいっていたので、「大津ジャズフェスティバル」の実行委員会立ち上げには参加できましたが、その後、実行委員としては実質的に参加できないでいました(実行委員会が週末に開催されたため…)。ボランティアかなにかでお手伝いをしようと思っていましたが、小山さんは、わざわざ私に声をかけてくださいました。開催近くになって、再び実行委員になってほしいと呼んでくださったのでした。しかし、実際に実行委員会に参加してみるときちんと機能しているようにはとても思えませんでした。人はそれなりに集まっていましたが、必要な知恵をだし、きちんと動ける人があまりにも少なすぎました。人を動かす仕組みもありませんでした。また、私が知る限りですが、MCなどをしたいという人はいても、汗をかいて舞台裏の仕事等をする覚悟のある人が少なすぎました。上記のコラムのなかには、「初回を成功に導いた」とありますが、それは天国の小山さんも「ちょっと違うよ、それは…」とおっしゃるかもしれません。実際、第1回の運営は惨憺たるものがありました(あくまで個人的な見解ですが)。個人的な知り合いの街の皆さん、そして市役所の職員の方からも、厳しい評価をいただきました。

■しかし、このときの失敗を乗り越え、きちんと実行委員会を再構成し、準備をしっかりした第2回目以降からは、「大津ジャズフェスティバル」は軌道に乗り始めしまた。社会経験豊富な社会人の実行委員の方が増えて、実行委員会の組織を機動力をもたせるた形に再構成したことが大きかったと思います。ジャズフェスティパルの目指す方向性や運営の仕組みをめぐっては様々な議論(激論)が交わされましたが、結果として、現在のジャズフェスの原型ができあがったのが、この第2回目なのではないかと思います。そして私が参加できたのも、この第2回目までです。というのも、1人暮らしを始めた老母の生活介護や大学の地域連携事業等で忙しくなり、ジャズフェスティバルにエネルギーを注ぐだけの余裕が無くなってしまったからです。第6回「大津ジャズフェスティバル」は、冒頭にもかきましたが、第2回目以降の経験知やノウハウが蓄積され、多くの実行委員やボランティアの参加もあり、大変安定した運営のように思えました。素晴らしいですね。

■以下は、塩漬け状態になっている個人プログのなかの「大津ジャズフェスティバル」のエントリーです。忘れていたことを、いろいろ思い出します。この他にも、「ジャズフェスティバル」で検索すると、たくさんの記事がまだ出てくると思います。ジャズフェスの前史のような感じになりますが、私と小山さんとの出会いは、2008年でした。当時、大津市が主催していた地域SNSを通して出会いがありました。そして、6月には、龍谷大学社会学部で実施している地域連携型教育プログラム「大津エンパワねっと」と、中心市街地で地域づくりに取り組んでいる「大津まちなか元気回復委員会・企画部会」とのコラボレーションによる「町歩き」に、小山さんは参加されました。大津中心市街地の寂しい様子を目の当たりにし、「大津ジャズフェスティバル」の実施を決意されました。そのような話しも、以下のエントリーのなかに出てくるかもしれません。

2009/5/14「大津ジャズフェスティバル(その1)」
2009/5/14「大津ジャズフェスティバル(その2)」
2009/5/14「大津ジャズフェスティバル(その3)」
2009/5/14「大津ジャズフェスティバル(その4)」

■ところで、写真の説明をしていませんでしたね。ステージの背景は、「大津祭曳山展示資料館」です。ガラスを通して、なかに曳山の原寸大レプリカが置かれていることがわかります。「西王母山」です。この展示館がある丸屋町の曳山です。

■トップの写真は、「ORB」というバンドです。パンフレットには、「同じ会社で働いていた仲間が集まり、スタンダード・ジャズなどの演奏を楽しんでいる『おやじバンド』です」と自己紹介されています。定年退職をされた中までジャズを楽しまれているのですね。演奏ですが、これがまた素晴らしいのです。多くの人びとが会場の前で足を止めて、その演奏を楽しまれていました。

■3枚目の写真は、「幸バンド」です。男女のボーカルが印象的です。最後のステージということもあり、ベテラン…の風格が漂っています。迫力ありました。私の仕事は、会場の設営と撤収に加えて、パンフレット等の配布とともに、ステージが終わるたびに、募金をお願いすることでした。300円以上の募金をしていただくと、様々な種類が用意されたOJF特製のカンバッジを差し上げる仕組みになっています。たくさんの方達が募金をしてくださいました。市民の実行委員とボランティアが開催して、多くの市民が応援する…そして街に音楽と賑わいを生み出す、素敵だと思います。

チャイコフスキー交響曲第5番

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■風邪をひいてしまい38℃の熱が出ていましたが、病院に処方してもらった薬で、やっと熱が下がりました。体調も安定してきたように思います。今回は、風邪がもとで、2日間の禁酒をせざるを得ませんでした。しかし、体調が戻ったので「もう、飲んでも良いでしょう〜」と自分で勝手に診断し、夕食では缶ビールをいただきました。美味しいですね〜。

■晩は、ひさしぶりに、テレビでNHK交響楽団の演奏を楽しみました。プログラムは、モーツァルトの交響曲 第40番と、チャイコフスキーの交響曲 第5番です。後者の「チャイ5」は、私が学生時代(学部4年生)に演奏した最後の曲です。懐かしかったですね〜。指揮者のブロムシュテットさんは、1927年生まれといいますから、87歳になります。ものすごく、お元気ですね。驚きます。亡くなった父親と同年齢とはとても思えません。番組では、演奏前にプロムシュテットさんの解説がありました。このようなことをおっしゃっていました。スコアには、作曲家がすべてにわたり細かく指示を書いている…というのですね。なぜそのスピードなのか、なぜこの音であって別の音でないのか。作曲家の意図を細かく検討していくと、その曲が深く理解できる…まあ、そのようなお話しでした。スコアという地層を掘り進む科学者のようでもあります。曲を、作曲者という主体の視点から構造的に理解しようとされている…そういうふうにいえるのかもしれません。

■今回のN響の演奏では、ブロムシュテットさんが思うように演奏できたのでしょう。そのことが、演奏後のブロムシュテットさんの満足げな様子からよくわかりました。チャイコフスキーの曲では、しばしばメロドラマのようなロマンチックな演奏がみられます。しかし、ブロムシュテットさんの指揮は、ロマンチックな演奏でありながらも、スコアの分析にもとづく曲の解釈の「枠組み」があり、その「枠組み」のなかで適度に抑制されているように思えました。ベタベタしたところが、ありません。そのバランスの妙味は、87歳で現役の指揮者にしかできないことなのかもしれません。

■ところで、「チャイ5」と書きました。オケの世界では、曲名に関して業界用語がいろいろあります。「チャイ5」は「チャイコフスキーの交響曲第5番」のことです。だから、チャイコフスキーの交響曲4番のばあいは、「チャイ4」といいます。では、6番はどうかというと、こちらは「悲壮」タイトルがついています。ベートーベンだと、交響曲の3・5・6・9番は、それぞれ「英雄」・「運命」・「田園」・「第9」と呼ばれることが多いわけですが、その他は、「べー1」、「べー2」、「べー4」、「べー7(なな)」ということになります。私が学生時代に演奏した曲でいえば、ドボルザークの交響曲9番については良く知られるように「新世界」となりますが、8番は「ドボ8」といいます。「ブラ1」、「ブラ2」、「ブラ3」、「ブラ4」。これは、すべてブラームスの交響曲ですね。えっ…と思うものもあります。たとえば、「モツレク」です。モーツァルトの「レクイエム」です…。話しが脱線してしまいました。

■トップの写真は、私が4年生の12月に行われた「関西学院交響楽団 第60回 定期演奏会」の写真です。私にとっては、学部生時代最後の定期演奏会です。演奏しているのは「チャイ5」。指揮は、湯浅卓雄先生です。今日、自宅にあるMDに録音された演奏を聞いてみました。まあ当然なのですが、いかにも学生オーケストラ…です。特に弦楽器は、初心者から始めた人がほとんどなので、技術的なレベルでいえば、…いろいろ問題があります。いやお恥ずかしい…という感じなのですが、指揮者の湯浅先生は、そのような技術的なレベルであっても、私たち学生オケの良いところを引き出し、できるだけ良い演奏に曲全体をうまく組み立てようとされていることが伝わってきます。

■写真のなかには、現在も市民オーケストラで活躍されている人たちが多数います。羨ましいですね〜。また、音楽大学等からエキストラで来ていただいた方のなかには、その後、プロのオーケストラに入団された方もおられます。このブログで何度も書きましたが、私はといえば、28歳のときにそれまで続けてきた音楽活動を中止しました。それは、それでよかったと思っていますが、問題は、はたして楽器を再開できるのか…ということでしょうね。

【追記】■ブロムシュテットさんと東日本大震災・いわき市について。
ブロムシュテットのスピーチ〜いわき市民に語りかけた5分間(前編)
ブロムシュテットのスピーチ〜いわき市民に語りかけた5分間(後編)

Jascha Heifetz - Bach, Chaconne From Partita No.2 In D Minor, BWV 1004


■昨日、突然、空から「音楽」のイメージが降ってきました。学生オーケストラの時代に演奏していた曲のイメージです。それは、ピエトロ・マスカーニが作曲したオペラ「カヴァレリア・ルスティカーナ」の間奏曲でした。当時、この曲をたびたび私の所属していた学生オーケストラでは演奏していました。年に何度か大阪や神戸の複数の小学校で音楽教室を開催し、活動資金を稼いでいました。その音楽教室には、必ずこの曲が入っていました。そなんことをfacebookに投稿して、学生オーケストラ時代の後輩たちからコメントをもらったりしていると、いろいろ当時のことが思い出されてきました。

■私が学生オーケストラ(関西学院交響楽団)に入部した頃、部室は、仮説の狭いプレハブの建物でした(私が入部する数年前に、部室は火事で焼けてしまっていました)。今から30年程前に新しい学生会館が建てられ、専用練習場もできましたが(私たちが卒業したあと…)、当時は、アメリカンフットボール部やボート部といった体育会の様々な部と同じ2階建てのプレハプの建物のなかありました。体育会系の部は1階、文科系の部は2階だったように思います。もちろん練習場も専用の場所はなく、古い学生会館のなかにある音楽練習場を他の音楽系サークルと共用していました。全体の練習は、音楽練習場でやるとしても、個々人の練習はそういうわけにはいきません。学生会館の片隅やテラス、そして体育館の軒下…といった場所で練習を行いました。

■こういう外の環境は、特に木製の弦楽器や管楽器に良いはずがありません。しかし、雨の日も風の日も、こういった環境でひたすら練習に励みました。冬は寒さに凍え、夏は厚さや湿気、さらには蚊の襲撃に悩みながら練習を続けました。音楽系サークルといっても、体育会の部のようにひたすら練習に練習を重ねる日々でした。当時は、スキーやテニスのサークルが花盛りでしたが、私たちはそのようなある意味「学生らしい」ことは一切しませんでした。といいますか、そういうことをやっている余裕がありませんでした。特に弦楽器のパートの学生たちはほとんど「初心者」でした。練習をひたすら積み重ねるしか、定期演奏会に出る方法はなかったのです。

■練習は(弦楽器であれば)、以下のように練習を積み重ねました。「個人」練習。先輩による「指導」。ひとつの譜面台で一緒に演奏しなが練習する「プルート練習」。パート全体で一緒に練習する「パート練習」。1stバイオリン、2ndバイオリン、ビオラ、チェロ1名づつで行う「カルテット」による練習。ここにコントラバスが1名加わる「クインテット」による練習。それから、弦楽器セクション全体でおこなう「弦セク」とよばれる練習。オーケストラ全体で行う「総合」練習。今から考えると、よく考えられたやり方だと思います。弦楽器パートは、ほんんどが「初心者」の人たちです。そんな「初心者」の集まりであっても、鍛え上げていく練習メニューが用意されていたのです(当時は、これが当たり前…と思っていましたが)。まあ、時間的余裕がある学生だからこそ、できることでもありますが…(今の学生さんたちにはどうでしょうか…)。

■そうやって定期演奏会に向けて練習を積み重ねながら、時々、時間をみつけてはモーツアルトの弦楽四重奏を楽しんでみたりしました。懐かしいです。それに加えて、私のようにバイオリンをやっているものであれば、個人的に楽しむ曲がありました。それはヨハン・ゼバスティアン・バッハが作曲した「無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティー」と呼ばれる曲です。ソナタとパルティータがそれぞれ3曲づす、合計6曲から構成されています。バイオリンを弾く人であれば必ず弾く曲、愛されている曲なのです。しかし、なかなか技術的にはとても困難な曲…でもあります。難しいのです。全曲を弾きこなせるような人は、私がオーケストラにいた頃には誰もいなかったように思います。特に難曲として有名なのは、パルティータ2番のなかにある「シャコンヌ」という曲です。私も、夜、体育館の軒下でこの「シャコンヌ」を練習しました。あこがれの曲でした。しかし、きちんと弾けるようにはなりませんでした。動画は、20世紀を代表するバイオリニストの1人であるヤッシャ・ハイフェッツの演奏です。

【追記1】■本文の冒頭にピエトロ・マスカーニ作曲の「カヴァレリア・ルスティカーナ」間奏曲のことについてふれました。せっかくですので、学生オケ時代の後輩が大勧めの動画もアップしておきます。リッカルド・ムーティの指揮によるものです。

20140928taiyounosyounen.jpg 【追記2】■Facebookで、「カヴァレリア・ルスティカーナ」間奏曲に関して、学生オーケストラ時代の後輩たち以外からもコメントをいただきました。その方のコメントで、「中国英語のBGM」でも使われているということでした。少し調べてみました。「太陽の少年」(監督: チアン・ウェン)という映画でした。文化大革命時の北京を舞台にした青春映画です。この映画の最後のところで、「カヴァレリア・ルスティカーナ」間奏曲が使われているようなのです。どんな映画か、それはこちらをお読みください。なお、映画のラストシーンはこちらでご覧いただけます

Flash mob in the Copenhagen Metro. Copenhagen Phil playing Peer Gynt.


■facebookで知りました。今年の夏はノルウェーに旅行したけれど、こちらはデンマーク。コペンハーゲン・フィルハーモニー管弦楽団の団員が、電車のなかで、突然「ペールギュント」(グリーグ作曲、第1曲「朝」)が演奏されはじめるという、フラッシュモブ。乗っている人たちの笑顔が素敵だ。有名な動画のようですね。こういうのに遭遇しみたいね〜。


■こちらは、同じく、コペンハーゲン・フィルハーモニー管弦楽団の「ボレロ」(ラヴェル作曲)。

夕照コンサート

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CD「『小沢征爾さんと、音楽について話をする』で聴いたクラシック」

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■今日、社会学部教務課で職員のNさんが笑顔とともに「村上春樹発売されましたね!」と話しかけてくれました。忘れていましたが、今日は9年ぶりに発売される村上春樹の短編集(「女のいない男たち」)の発売の日だったのですね〜。大の村上春樹ファンであるNさんは、彼の作品をすべて読んでおられるようですが、私のほうは最近、あまり「良いファン」ではありません。『色彩を持たない、多崎つくると、彼の巡礼の年』も、まだ買っただけで読めていません(春樹さん、ごめんなさい)。もっと余裕をもたねばなりません。昔は、あれだけ夢中になっていたのにな…。

■ということで、これまた買っただけ…になっていたCD「『小沢征爾さんと、音楽について話をする』で聴いたクラシック」を開けてみることにしました。届いたのはいいけれど、開けてみる気持ちの余裕がありませんでした。いけませんね〜…。とりあえず村上春樹のライナーノーツを読んでみました。このCDには、お2人の対談集というか、村上さんが小沢さんに行ったロングインタビュー『小沢征爾×村上春樹 小沢征爾さんと、音楽について話しをする』で、実際お2人が耳を傾けた曲が入っています。こういう企画っていいですね。

■CD1の冒頭は、グレン・グールドのブラームスのピアノ協奏曲1番です。指揮はバーンスタイン、オケはもちろんニューヨーク・フィルハーモニーです。曲の前には、バースタインの演奏前のスピーチが入っています。その翻訳もライナーノーツのあとに掲載されています。こういう企画はおもしろいな〜。このCDを聞きながら、できればもっているスコアも見ながら、そのうえで、あらためてロングインタビューを読むと楽しいでしょうね〜。

■ロングインタビューのなかで、小澤さんはしばしば村上さんの質問の前で考えこみます。小澤さんが音楽の造形を通してやってきたことを、あえて言葉にするのはかなり大変なことなのです。ですから、ライナーノーツのなかで村上さんは、このロングインタビューが「そこにある音楽感覚と言語感覚の『落差』みたいなものに橋を架けることだった」とか、「小澤さんが持っているナチュラルな音楽感覚を、いわば擬似的にナチュラルな『文章言語感覚』に置き換えていく作業だ」と述べています。ただし、置き換えることができるのも、村上さん自身がクラシックをずっと「深く」(井戸を掘るように…)聞いてこられたからではないかと思います。小澤さんの語りを受け止めることができるクラシックのきちんとした土台をもっておられるのですね。すごい。

Brahms Symphony No. 4 - 1st Movement


■HYOGO Performing Arts Center ORCHESTRA
Brahms Symphony No. 4 - 2nd Movement
Brahms Symphony No. 4 - 3rd Movement
Brahms Symphony No. 4 - 4th Movement[/url

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