卒論の口述試問を終えて

■卒業論文の口述試問が終わりました。対面式はやらないでと大学が要請がありましたが、オミクロンの感染が大変な状況になることを見越して、私は最初からzoomでやることにしていました。zoomを通してですが、いろいろ思うところがありました。

■これまで何度かfbにも書いてきたわけですが、ゼミの基本方針として、自らのフィールドワークに基づいて卒業論文を執筆してもらうことを前提にしています。龍谷大学社会学部の理念「現場主義」に、真正面から愚直に取り組もうとしているからです。ただし、「現場主義」も解釈次第なので、ゼミごとに多様な「現場主義」の捉え方があろうかと思いますが、私のゼミでは「頑張って1人でフィールドワークに取り組む」ことをお願いしています。学生の皆さんにも、そのことを分かった上でゼミに所属してもらっています。もっとも、ここ2年は新型コロナウイルスの問題もあり、フィールドワークには状況に応じて、各自の判断で取り組んでもらっています。

■それでも、今年度は、19名のゼミ生のうち13名が頑張ってフィールドワークに取り組みました。フィールドワークに取り組んだ人たちは、口述試問で、判で押したように「もっと早くフィールドワークに取り組めばよかった」と同じようなことを言うのです。これは毎年のことなのですが…。なぜこのような反省を言うのかといえば、「アポイントメントを取って、知らない人のところに出かけて話を聞くことに、相当、心理的抵抗がある」からなのだそうです。アポイントメントを取るためにメールを書くことになりますが、その添削、そしてフィールドワークでどのような質問をするのか…面談で相談しながらさまざまなサポートをします。学生の皆さんに、サポートをしますよと言っても、なかなか前に進めないのです。まあ、その気持ちも理解できますが…。

■でも、一度フィールドワークに行くと、あんなに心配していたのは、いったい何だったのかなと思うのだそうです。ちょっと、逞しくなります。全員ではありませんが、何度もフィールドに通ううちに、さらに逞しくなります。私の方も、フィールドワークに行くたびに、面談で指導を行います。そこまでできる人の卒論は、それなりに充実してきます。

■まあ、そんなこんなで、今年も卒論の指導が終わりました。

「社会学入門演習」に関連して

■2021年度、「社会学入門演習」を担当しました。この演習の目的として、シラバスには次のようなことが書かれています。高校までの「勉強」と大学における「学修」の違いです。高校までは与えられた問題に「正しく」答えることが大切になりますが、大学の「学修」はそうではありません。大学では、自ら「問い」を立て、さまざまな資料やデータを基に緻密な分析と深い考察を行うことから、その問いに答えうる論理的・結論を導き出すことが必要になります。また、社会学部の場合、人と人、人と社会との関係において生じる、必ずしも明示的でない問題や課題に気づくことも大切になります。詳しくは、シラバスをもう一度読んでみて欲しいと思います。

■私もシラバスに書かれていることは、その通りだとは思うのですが、学生の皆さんからすればそれほど簡単なことではないでしょう。特に、自ら「問い」を立てるということについては、困惑されるのではないでしょうか。3年次から始まる「社会学演習」では、自らの研究を進めていくために、いずれかのゼミに所属することになります。私の指導経験では、この段階で自分は「○○について、しっかり研究したい」という目標を明確に持っている人は、非常に少ないように思います。漠然と、あるいはなんとく、「こんなテーマで研究したい」といったようなことは言えるかもしれませんが、そこには具体性が伴っていません。

■それは単位やカリキュラムからなる仕組みの中で「流される」ように学んできたからです。自分自身の学びを築くことを試みてこなかったからです。もっとも、このようなことは、学生の皆さん自身の怠慢ばかりではありません。個人な意見だとあらかじめ断っておきますが、私自身は、カリキュラムの中で、自らの「問い」を立てるための指導が十分にできていないからだと思っています。今のところ、学修者本位のカリキュラムには至っていないように思っています。大学も教員も、いろいろ検討し、カリキュラム改革などに取り組んではきましたが、いまだ不十分だと思うのです。そこで、今年度の「社会学入門演習」では、自らの「問い」を立てるための準備運動のようなことをグループワークで行うことにしました。

■「社会学入門演習」の最初の方では、龍谷大学宗教部のTwitterのツイートを教材に使用しました。宗教部の皆さんは、吉本新喜劇の俳優であったチャーリー浜さんのギャグ「君たちがいて僕がいる」を、仏教の思想である縁起との関連において捉えておられます。しかし、「誰もが関わり合いながら存在しています。独立して存在するものはありません」という縁起の考え方は、社会学の中にある社会構成主義の発想とも通じ合っているように思います。自己と他者が関係から始まるという発想は、自己を絶対視しがちな現代社会が孕む傾向を相対化してくれます。このチャーリー浜さんのギャグを出発点にして、前期の「社会学入門演習」は始まりました。

■「社会学入門演習」では、学生の皆さんが、お互いのことをよく理解し合えるように、グループワークをたくさん行いました。たとえば、「マンダラチャート」という発想法も利用してみました。仏教の曼陀羅(マンダラ)のようなパターンを利用して自分が目標を具体化していくための方法です。昨年は、アメリカ大リーグのエンジェルスで投手と打者の両刀で活躍した大谷翔平さんのことが大きな話題になりました。大谷さんも、花巻東高等学校の野球部員だったときに、プロ野球からドラフトで指名を受けるだけの力をつけるため、このマンダラチャートを使用して練習に取り組まれました。大変有名な話です。そこで学生の皆さんには、「30歳になったときに、自分が思う素敵な大人になるためには、日々、どのようなことに取り組めば良いのだろう」という課題を出して、このマンダラチャートを埋めてもらいました。少々、無理な課題だったかもしれません。とはいえ、大学に入学したてではありますが、将来の「素敵な大人」に向かって大学4年間で自分は何をしていけば良いのかを考えてもらうことにしたのです。そして、グループワークで自分のマンダラチャートをひとりづつ説明しながら、ディスカッションをしてもらいました。もちろん、まだ自分自身が描く「素敵な大人」(将来の自分自身)は不明確なことから、これからも、マンダラシートを何度も書き直していくことになるのかもしれませんが、それでも良いと思っています。

■自らの「問い」を立てるためには、読書が不可欠です。ところが、残念なことに、多くの学生の皆さんには読書を楽しむ習慣がありません。そこで、『「利他」とは何か』(伊藤亜紗編)という集英社新書の一部を読んでもらいました。その上で、2回に分けてグループワークを実施し、ディスカッションをしてもらいました。ハイブリッド型の授業で、このようなグループワークを行うことは、なかなか難しいのですが、学生の皆さんは熱心にディスカッションをしてくれました。仏教を建学の精神に持つ龍谷大学は、「自省利他」という行動哲学を打ち出しています。これは、自己的な考え方や行動をしてはいないか、常に自分を省みて、他(自然・社会・人)の幸せや利益を追求することを意味しています。この『「利他」とは何か』を読むことで、「自省利他」を他人事ではなく自分事として受け止めるきっかけになればと思っています。

■また、この『「利他」とは何か』に関連して、5月21日に龍谷大学創立記念・降誕会法要での入澤崇学長の式辞も教材に使用させてもらいました。入澤学長は、式辞の中でエイリッヒ・フロムの『生きるということ』を取り上げます。この書籍の中にある「持つこと」と「あること」、この2つの概念の対比の中で、「自省利他」を行動哲学とする龍谷大学の学生の学びはどうあるべきなのか、そのあり方を示そうとされました。式辞の中で、入澤学長は「あること」をBeingに関連して、well-beingという言葉にも触れられました。

■このwell-beingに関連しては、『ソトコト』(2021.7月.257号)という雑誌に掲載された、板倉杏介さん(東京都市大学)の記事も参考資料として読んでもらいました。そして、「自分にとってのウェルビーイング」とは何なのか、自分以外の人たち、すなわち他者との関係の中で考えてもらいました。加えて、文芸評論家である若松英輔さんのTwitterのツイートについても参考資料にして考えてもらいました。

■このようなグループワークの後、滋賀県高島市マキノ町でエコツーリズムに取り組む谷口良一さんにご講演をしていただきました。谷口さんは、以前は、滋賀県庁の職員をされていました。県庁の職員をされている頃から、将来は、エコツーリズムを通して地域を活性化させていくことを目指して準備をされてきました。そして、滋賀県庁を退職された後は、自ら民宿を経営しながらエコツーリズムによる地域活性化に取り組んでおられます。学生のみなさんには、このような谷口さんの生き方と、グループワークを通して勉強してきたこと(「君たちがいて僕がいる」、マンダラチャート、利他、「持つこと」と「あること」、well-being、自省利他…)とがどこかで結びついていることに、気がついていただけると良いなと思っています。現段階ではなかなか難しいことかもしれませんが。

2021年度の面談

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■2021年度の面談記録を表にしてみました。当然のことですが、卒業論文を執筆せねばならない4回生が一番多く、102人。次が3回生でぐっと減って10人。ゼミ生以外(大学院生、留年生、1・2回生)が10人になっています。合計で132人です。まだ、面談は入るとは思いますが、それほど増えることはないと思います。また、これまでの期間で、記録し忘れて埋もれている面談もあるのではないかと思いますが、それを入れてもほぼこの132人に近いのではないかと思います。

■短い面談だと15分、しかし多くは30分〜1時間、長い場合は1時間半を超えることも度々ありました。時間が長くなるのは、ゼミ生のフィールドワークの結果や成果をしっかり聞き、私から質問をしながら指導することに時間がかかるからです。zoomが面談に使えるようになったので、学生の皆さんとの面談が大学ではなく、自宅にいながらできるようになったので、一つひとつ面談の時間が長くなっていることもあります。まあ、そのことは構わないのですが、問題はプライベートな時間帯に学生の指導が入ってくることでしょうか。でも、コロナ感染拡大のこともありますし、仕方がありませんね。これは私が仕方ないと受け入れれば良いわけです。問題はもっと別にあります。

■4回生の相談数が増えるのは10月からになっていますが、できれば8月から面談希望者が増えて欲しいと思います。あと、春の段階での面談希望者が少ないので、この季節でも進捗状況を報告するなど、私と面談をするようにして欲しいと思います。私の方から面談を強いるのではなく、学生の皆さんの方から面談を希望してほしい…本音を言えばそうあって欲しいのですが、現実はそうではありません。というわけで、今後は、状況を見ながら、集中的に面談をしてみようかなと思っています。今年度10月に30人となっているのは、4回生を対象に集中的に全員の面談を行ったからです。

■もうひとつ問題があります。研究が進捗している人ほど面談の回数が増え、進捗していない人は面談を先送りにする傾向です。学生の皆さんが取り組む活動については、勉強だけでなく、課外活動やボランティアなども重要だと思います。私自身、吹奏楽部の部長をしてますので、そのことはよくわかっています。そのほかにも、アルバイトに時間を取られる人も多いでしょうか。経済的に余裕があれば問題ないのですが、多くの大学生はアルバイトをしないと「今時の大学生としての生活」を維持することができないと思います。持てる時間を、卒業論文に一番集中させることのは困難な状況があります。そのことはよくわかっているのですが、それでも、できるだけ卒業論文の優先順位をあげていただきたいと思います。卒業論文は、大学での学修での最後の「キャップストーン」なのですから。私が、ゼミの目標を、「『ここまでやり遂げた!』と、納得のいく卒論を書いて、自信を持って卒業していく」ことにおいているのは、卒論をそのような大学生活の総仕上げとして重視しているからです。

■現在の3回生の皆さん、そして4月から私のゼミに配属になる学生の皆さん。頑張ってください。

2021年度の卒業論文

■2021年度の卒業論文提出の締め切りは、1月13日(水)でした。私が担当するゼミでは、無事、全員が論文を提出することができました。もちろん、まだ口述試問がありますので、4回生の皆さんには最後までしっかり頑張って欲しいと思います。まだ、卒業が確定したわけではありません。教授会での卒業判定を経て、卒業が決まるからです。とはいえ、一応、「卒業予定」ということで、今年度の4回生が提出した卒業論文の題目を追加しました。

卒業論文

2022年度の時間割の再掲

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■私の時間割については、昨年の12月の段階ですでにこのブログでお知らせしてありますが、最終的に決定いたしましたので、修正を加えて再掲させて頂こうと思います。

■昨年度と今年度は、退職された方の授業「環境社会学」や、長期研究員で研究に専念されている方の授業「現場主義入門」を、「代打」で担当したので担当コマ数が多かったのですが、来年度はそれらの授業が無くなります。大学院の授業の履修者がいると、前期は6コマ、後期は8コマになります。木曜日は、前期は短期学部の講義を1回だけ担当します。木曜日の後期は、留学生別科の授業を担当します。オフィスアワーは、金曜日の2限。場所は、6号館の社会共生実習支援室です。よろしくお願いいたします。

■月曜日、そして前期の木曜日は、大学教員生活も残り少なくなってきましたので、自分の研究に時間を充させていただこうと思います。まあ、現実には、なかなかそんなわけにはいかないと思いますし、すでにそのような雰囲気が漂ってきました。また、集中講義サマーセッション では、今年度に引き続き、来年度も「びわ湖・滋賀学」のコーディネーター務めます。コーディネーターは、基本的にボランティアになるので授業コマ数にはカウントされません。ただし、全ての授業のサポートに入ります。

■来年の担当授業は以上の通りです。

2021年度 社会共生実習活動報告会

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20220114shakaikyousei.jpg■金曜日2限は「社会共生実習」。普段は、担当している「地域エンパワねっと・大津中央」の指導をしているのですが、今日は、この「社会共生実習」で開講されているすべてのプロジェクトチームの学生たちが集まり、活動報告会を開催しました。全部で10チームの報告を聞かせていただきました。

■昨年から新型コロナの感染拡大の波が続き、社会共生実習のどのプロジェクトチームも思うように活動できませんでした。サーファーは大きな波を求めていきますが、私たちは逆に大きなコロナの波を避け、大きな波の隙間でなんとか活動を行ってきました。困難な状況のなかで、学生の皆さんは、よく頑張ってこられたなと思います。なんとか無事に今年度の「社会共生実習」を終えることができて、教員としてもほっとしました。

■ところで、大学の教育の場では、しばしば「きちんと単位を取っているか」という言い方を耳にします。まるで、単位を取ること自体が目的かのようです。大学が定めたカリキュラムの枠組みのなかで、単位の取りやすさという「コスパ」の物差しだけで単位を積み上げているかのようです。もちろん単位という考え方やカリキュラムの存在を否定するわけではありませんが、学びの主体性が伴わなければ、まるで「工場のオートメーションでどんどん製造されていく商品」のようになってしまいます。それでよいのでしょうか。

■おそらく、社会共生実習を履修している学生の皆さんは、このようなイメージの中に自分が吸い込まれていくことを拒否し、吸い込まれることがないように頑張っている方たちだと思います。そして、与えられたカリキュラムのなかに、自分の学びを立ち上げようとされている方たちだと思います。頑張ってください。応援します。

■今日の報告は、どちらかといえば、活動のプロセスや活動で生み出された成果を中心としたものでした。しかし、そのような成果を生み出す活動に取り組むことのなかで、自分自身に、プロジェクトの他のメンバー、そして学外の地域の皆さんとの関係に、さらには社会と自分との関係に、なにか素敵な変化が生まれてきてはいないでしょうか。この1年の活動を振り返りながら、そのことを改めて考えてみてほしいと思います。

■3段目右の写真は、中日新聞の記者さんが取材されているところ。最後の写真は、指導した「あつまれ!みんなで作る絵本館」のチームです。

「現場主義入門」の授業でのグループ発表

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■木曜日の3限は「現場主義入門」の授業です。後期は全体で15回授業がありますが、最後の13回ー15回は、小さなグループに別れて、グループワークに取り組みました。

■ 第13回(12月17日)は、まずグループで調べる「地域課題」を選び、その課題を解決するための「具体的地域(活動事例)」を調べ、その分担を決めることを行いました。第14回(1月7日)は、各自で調べてきた、実際に取り組んでいる「具体的な地域活動事例」を報告しあい、各自の報告を1つのプレゼンにまとめる作業に取り組みました。そして本日の第15回は、3教室に別れて、どの教室も10数グループが発表を行いました。

■それぞれの発表に対して、他の学生の皆さんは評価を行いました。配布されたコメントシートに、「テーマ設定の適切さ」、「説明・資料のわかりすさ」、「考察の深さ」、以上の3つのポイントに関して点数(4点満点)をつけて、加えて短いコメントを書き込んでもらいました。最後はGoogleの機能を使って投票を行い、最優秀グループを決定しました。提出されたコメントシートのコメントもそのうちに学生の皆さんの公開されると思います。

■グループ数が多いので、なかなか難しいなあと思っていましたが、どのグループも1回生が中心であるにもかかわらず、上手にプレゼンテーションすることに驚きました。なかなかやりますね。いわゆる「情報の編集能力」は優れているのかな…と思いました。しかしながら、大切なことは、自分自身にとっての「問題」は何なのか、そして自分にとっての学びの「現場」を見つけられるのか…ということなのだと思います。自分の「学びの軸」が定まってまくれば、「情報の編集能力」も活かされてくると思います。

伊吹山と鈴鹿山脈、そして卒業論文

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■このブログのタイトル「環境社会学/地域社会論 琵琶湖畔発」とは無関係の内容ばかり投稿しています。「どこが環境社会学やねん」という感じですよね。申し訳ありません。まあ、毎日、環境社会学や地域社会論、そして大学のことばかりを考えて暮らしているわけでもないので、冬期休暇のゆったりした時ぐらいは、関係ないことを投稿させてください。

■今日は、最後の休暇でした。明日から授業が再開します。年末は大掃除等の家事ができたし、お正月は子どもや孫達が集まってきて楽しい時間を過ごすことができました。満足です。今日もその延長のような投稿です。なにか毎度同じような写真ばかりで申し訳ないですが、写真は今日の自宅近くから眺めた伊吹山と鈴鹿山脈です。夕陽を浴びて光り輝いていました。もっとも写真は、拡大しているので目で見るよりも大きく写っています。そこはご容赦ください。ただ、毎度同じ風景でも、日々の見え方は異なります。このような風景に抱かれて暮らしていることに幸せを感じます。

■年末やお正月は、楽しい時間を過ごしながらも、そのことと並行して、卒論の指導をzoomを使ったり、赤ぺんを入れて返却したりの仕事もやっていました。今日も、午前中はzoomによるオンラインの面談でした。卒論に対する姿勢は人それぞれです。ゼミの担当教員としては、卒論にエネルギーと時間を投入してレベルの高い卒論に仕上げていって欲しいのですが、大学生活で経験すること/経験しなければならないことは、何も卒論だけではありません。課外活動やボランティア等で、貴重な体験をされている方達がたくさんおられます。そのことをわかった上で、それでも卒論に真剣に取り組んでもらいたいなと思うわけです。以前、お世話になった大学教員の大先輩が、「たかが卒論、されど卒論」とおっしゃっておられました。そうなんです。「たかが」でありながら、「されど」なのです。卒業論文に真剣に取り組んで、きちんと評価を得られるレベルまで仕上げて、力を出し切ったと達成感を感じることができるような経験は、卒業後の人生に大きくプラスの影響を与えてくれるはずです。私が担当しているゼミの学生の皆さんのみならず、卒論に必死で取り組んでいる龍谷大学の学生の皆さん、最後まで頑張り抜いてください。

ゲーミフィケーションと大学の授業、そして卒論。

■ゲーミフィケーション…という言葉があるそうです。「そんな言葉も知らないのか…」と呆れている方もいらっしゃるかもしれません。「ゲームデザイン要素やゲームの原則をゲーム以外の物事に応用すること」なのだそうです。調べてみると、学校や大学の授業にこのゲーミフィケーションを取り入れて学習意欲を高めて、学力向上させようという議論もあるようです。もっとも、ゲームをやらない私には、いまいちよくわかりません。

ということで、ちょっと調べてみました。ゲーミフィケーションのやり方がいくつかあげられていました。例えば、以下のようなものです。

①目的・課題の提示を明確に提示する
→ゲームだと、例えば「勇者よ、汝の目的は、王国を魔物から解放することじゃ」 というミッションを与えるわけですね。授業だと、このシラバスの「授業概要」や「到達目標」がこれにあたりますかね。でも、シラバスに「学生よ、汝の目的は、これこれしかじかを理解することじゃ」なんてふうには書きませんけどね。

②現状を可視化して、つぎの一歩をわかりやすくする
→ゲームだと「この地図にしたがって川をさかのぼり、山頂にいたって、大魔王と戦え」と。これもわかります。授業だと、授業計画全体の流れを理解してもらって、「今回は、その全体のうちのここ、このテーマに関して話をします。このポイントに関して理解を深めて」という感じでしょうか。

③ストーリーをつくる
→ゲームだと「数百年前から、この町は、勇者が守ってきたのじゃ」。ゲームで戦うことの背景、コンテクストを明示して、戦う意味をはっきりさせるわけですね。授業だと、この授業を学ぶことの学問的な意義のようなことを理解してもらうことかな。どうでしょう。

④フィードバックは迅速に行う
→ゲームだと「効果はバツグンだ。経験値50を得た。勇者はレベル25になった」。これもわかりやすいですね。授業だと、リアクションペーパーへのコメントを書いて返していくとかがそうでしょう。

⑤成功すれば、わかりやすい報酬をもらえるように
→ゲームだと「魔王を退治した勇者は、次期の王となり金10,000を与えられる」。これもよくわかる。レポートを1回提出すると何点…みたいな感じかな。シラバスだと、成績評価の方法のあたりでしょうか。

⑥競争者の情報も見える化する
→ゲームだと「西の町の勇者は、魔王まで3ブロックまで迫っているぞ」。競争することで、戦う意欲が高まるのかな。

■こうやってみていくと、⑥を除いて、大学の授業の場合も、授業そのものに加えて、シラバスや現在取り入れられているクラウド型の教育支援サービスの中に、①から⑤について一定程度取り入れられているようにも思います。⑥も、個別の授業でなく、成績全体であればGPAという数値で確認できます。もっとも、「〜〜するのじゃ」みたいなゲームのノリというか、そのような表現はしていませんけど。

■以上のことは、もちろん「機能」としては…です。先ほどリンクを貼り付けたサイトの記事によれは、「おもしろいゲーム」でなければ、ゲーミフィケーションは失敗するのだそうです。あたりまえですが、おもしろい中身の授業でなければ、①〜⑤が授業の運営に取り込まれているにしろ相手にされません。しかも、全ての人にとって面白いゲームは存在しないように、全ての学生にとって面白い授業も存在しません。

■なぜ、こういうことに関心を持ったかというと、以前、ゼミで卒論の指導をしていた時に、一人の学生さんが、「こうすれば卒論が絶対にうまくできるという道筋を示してくれたら、やる気スイッチ入るんですけどね」と言ったことを時々思い出すからです。その時は、何を言っているんだろうと驚きましたが、このゲーミフィケーションという概念を知ると、彼の言わんとすることもなんとなく理解できます。そういえば、その学生さんは日々ゲームに没頭している人でした。

■授業の運営でゲーミフィケーションを意識することは、それほど難しいことではないと思います。おそらく、無意識のうちにそうやっている教員もおられるでしょうね。そもそも、シラバスがそのような構造を取り込んでいるようにも思います。で、問題は卒論ですね。ゲームの場合は、ゲームを提供する人たちがいて、その提供されたゲームを体験して消費する人がいて成立していますが、卒論は、自分自身で意味や意義のある課題をみつけて、その課題を明らかにするために研究に取り組むわけです。教員は、それを側面から支援するわけです。ですから、あえて卒論でもゲーミフィケーションという考え方にこだわるのであれば、自分で面白いゲームを作りつつ、自分でそのゲームを体験してワクワクする…ということになるのでしょうか。もっとも、研究は自らの意思で行うものです。個人的には、そもそもゲーミフィケーションは成り立たないと思っています。

■ああ、卒論の指導。何年もやっていますが、いつもいつも苦労しています。

「社会共生実習」報告会

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■先日開催した「あつまれ!みんなで作る絵本館」(龍谷大学社会学部・社会共生実習)とっても好評でした。地域活動に取り組む方達や、社協や福祉の関係者にも評価していただくことができました。「一緒にコラボしませんか」というお誘いもいただいているようです。ありがとうございます。引き続き、学生たちを応援していきたいと思います。さて、来年のことになりますが、「絵本館」を含めた11のプロジェクトの活動報告会を開催します。ぜひ、ご参加ください。

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