『東京喰種(東京グール)」
▪︎知り合いの建築家Fさんから、Facebookを通して教えていただきました。強烈な内容の漫画です。ずいぶん昔に、『寄生獣』(岩明均)を読んだときにもショックを受けましたが、こちらの『東京喰種』は、それ以上の迫力があります。『進撃の巨人』もそうですが、「人を喰らう」、あるいは「人が喰われる」というところでは共通しています。どういう漫画か。ストーリーをバラさない範囲で、ごく簡単に説明すれば、以下の通りです。人間のような姿をしながら、突如として怪物のようにに変身して人を喰らう「喰種」という謎の生物が、人間社会のなかに紛れ込み生きている…そのような設定になっています。「喰種」は、人間しか食べることができません。主人公は、その「喰種」の臓器を移植された青年です。人間でありながら、「喰種」でもあるわけです。喰う-喰われるという、絶対的に両者が相容れることのない関係のなかで、両者を媒介するような位置のなかで苦悩することになります…。
▪︎「殺される」と「喰われる」は、同じようなもののように思いますが、両者の間には決定的な違いがあるように思います。そこにある恐怖には大きな落差がります。そのような落差が、読者(たとえば私)の存在自体をも強く揺さぶってくるのです。言い換えれば、絶望的な関係のなかで、主人公の青年は、結果としてですが、両者を媒介する存在であるがゆえに、周りの人びと(「喰種」)に微かな希望、微かな可能性を与えているのではないか…とも思います。この漫画に描かれている世界を、現実の世界と重ね合わせたときに、何が見えてくるのか。何を感じ取ることができるのか。それは人様々でしょうが、そのように思わせるだけの力をもっているように思います。
『考える人』2015年冬号「特集 山極寿一さんと考える 家族ってなんだ?」
▪︎季刊『考える人』 2015年冬号、昨年発売されたときに気になって購入していました。定期的に購読しているわけではありませんが、特集のタイトルのなかに「山極寿一」とあったので購入しました。すぐに読めばよかったのですが、なかなかチャンスがありませんでした。たまたま、先日、山極さんの講演やインタビューをYouTubeで視聴するチャンスがあり、「あっ、そういえば、このまえの『考える人』も山極さんやったな」と思い出し、読んでみることにしました。なかなか読み応えがありました。
▪︎少し前のエントリー「抑制力」の記述や、リンクした動画(山極さんの講演)とも重なる部分も多いように思いますが、このロングインタビューなかで、以下のような興味深い指摘をされています。
家族やコミュニテイを支えてきたのは、言葉ではなかった。言葉以前のコミュニケーションによる付き合い方だったと思います。そしてそれは、今でも、同じなのです。
人間関係については、だんだんと視覚を使うコミュニケーションが減って、逆に、遠距離間のコミュニケーション、相手の顔が見えないコミュニケーションがふえてきた。もう一つ言えば、視覚、聴覚、臭覚、触覚、味覚の五感のうち、触覚を使ったコミュニケーションは、人間のコミュニケーションのなかで非常に重要だった。(中略)だが、そういう接触を頻繁に使ったコミュニケーションも薄れてきました。もともと人間は会うことでお互いの信頼関係を高め、維持してきたわけですが、今はそのことそのものが省略されるようになっている。食事もそう。昔は長い時間をかけて食事の準備をし、そして長い時間をかけて、みんなで楽しく語らいながら食べるものでした。家族の団欒というのは、必ず食事の席にあったのです。
集団のために何かしたいというのは、人間にしかない。「誰かのために」というのはあります。子供のために何かをすることは、ほかの動物でもあります。しかし、集団のためにというのはない。集団は実体のあるものではありませんから、まさに人間だけの行為です。それが今だんだん薄れてきている。
その理由は、実は近代科学技術と民主主義にあると思っています。民主主義も近代科学技術も、個人の自由度を高め、個人の欲求をなるべく多く満たすように働いてきました。(中略)煩わしいと思っていた集団の時間は、実は社会関係をつくるにはこの上ないものだった。だが、それを負の側面としてしか捉えなかった。(中略)時間を節約してなるべくき自由な時間をふやそうとするのは、ある意味では正しいかもしれないが、社会的な関係をつくる上では、むしろマイナスだった。相手に対する優しさというのは時間をかけなければ生まれてこない。それが結局は、自分の資本になる。これを社会関係資本と言うのですが、そういうもをつくることに、日本社会は向かったこなかった。
日本社会は、個人主義を発達させてる前に集団を重視した社会をつくってきました。近代科学技術と民主主義がどんどん個人を解放するとそちらへ向かい、集団の大切さを見失って、集団に依存していた社会関係も一気に壊れてしまったのです。
自分を犠牲にする行為がなぜなくならないかというと、根本的にうれしいことだからです。母親は自分のお腹を痛めて産んだ子だから当然かもしれないし、養子に迎えた子や、あるいは近所の子でもあっても、子供に対して尽くすのは、人間にとって大きな喜びです。不幸なことになったり、アクシデントが起こったときに、子供を助けてやりたいという思う気持ちは、人間が共通に持っている幸福なのです。それがあるからこそ、そして分かり合えるからこそ、人間は存在すると思うのです。
私はアフリカでNGOの活動をずっとやってきました。文化も社会も違い、言葉も違う人たちだけれども、言葉も違う人たちだけれども、何が一番根本的に了解し合えるかといったら、「未来のため」ということ。子供たちのために何かをしてやりたい、現在の自分たちの利得勘定で世界を解釈してはいけない、自分たちの持っている資源を未来の子供たちに託さなければいけないという思いです。そういうことを重荷と思ってはいけないのです。
人間というのは、現実から来る抑制ではなくて、タイムスケールの長い過去と未来に縛られる抑制によって生きている。それが人間的なものだと思います。それが一番実感できるのが、子供を持つということ、家族をつくるということなのです。
▪︎他にも興味深い指摘を多々されているのですが、引用はこのあたりにしておきましょう。私が学び研究してきた社会学、そして社会学も含めた社会科学は、自然と社会を対立的に捉えるところがあります。人間と動物とは何が違うのか、人間社会の本質を把握するために、人間と動物(サルや霊長類)との差異を強調します。それに対して、霊長類進化学、人類進化学の立場にたつ山極さんは、差異よりも連続性に注目されているように思います。サルから霊長類、霊長類から人類へと進化するなかで、人間が獲得していった特質を説明されます。また、なぜそのような特質を獲得したのかについても、興味深い説明をされています。山極理論を、家族研究者やジェンダーの研究者たちは、どのように捉え、理解しようとするのでしょうか。そのような討論や対談のようなものが、この世の中には存在するのでしょうか。あれば、ぜひ読んでみたいと思います。
▪︎私自身はどうかといえば、上記の引用からもおわかりかもしれませんが、山極さんの説明に共感するところが多々あります。もちろん、自分自身の家族でどう振る舞ってきたかといえば、これはかなり怪しいところがありますね。山極さん自身も、「相当子育てに関与されたんですね」という質問に、「いや、関与していないって女房から言われます(笑)」とお答えになっています(笑)。そのような点はあるにしても、山極さんが主張されていることは、まちづくりや、地域づくり、環境再生という実践に携わるなかで、私自身が常に感じていることと随分共通しています。
▪︎地域に出ると、山極さんのいう「子供のために何かをする」という考え方に、しばしば出会うことになります。「子供のために」といういうことで相互に人びとが納得して、コミュニティが結束し、共同の活動に取り組むということもよくみられます。また、様々な環境問題の被害のなかで、弱い立場にある子供の健康を守るために母親たちが環境運動に取組み始めることも、たくさんの事例を通してよく知られています。私自身、滋賀県の女性たちによって取組みれた石けん運動について論文を書いたことがあります。「地域環境問題をめぐる“状況の定義のズレ”と“社会的コンテクスト”-滋賀県における石けん運動をもとに」(『講座 環境社会学第2巻 加害・被害と解決過程』有斐閣)という論文です。
▪︎この論文で取り上げた石けん運動でも、たびたび「子供や家族の健康や命を守りたい」という言い方がなされてきました。これに対しては、フェミニズムの立場からは、「性的役割分業の固定化」「エコ母性主義」「本質主義」といった批判がありうると思います。日本では、女性と環境の結びつきについては、「エコフェミ」(エコロジカル・フェミニズム)という言い方で否定的に捉えられてきたからです。それに対して私は、「一般論として、『主婦・母親』は、合意形成過程から(動員されながらも)排除されると同時に、「『ケア役割』を、歴史的に社会的、文化的性役割(gender role)として割当たられて(萩原[1997]310頁)きた」と指摘したのち、「利便性、効率性、経済性、消費の差異性の追求といった欲望を掘り起こそうとする社会システムが、『主婦・母親』と同時に『身体・生命』(自然環境を含む)といった価値をも排除してきたということである」と述べました(萩原さんの論文は、萩原なつ子,1997,「エコロジカル・フェミニズム」江原由美子・金井敏子編『フェミニズム』新曜社)。私自身は社会学者なので、女性の環境運動における「子供のために何かをする」をこのように説明しました。それに対して、人類進化学の山極さんの考え方は、人びとは「タイムスケールの長い過去と未来に縛られる抑制によって生きている」ということになります。進化のなかで獲得してきた特質ということになります。私はどちらかといえば、空間的な視点のなかで、ジェンダーと社会システムの問題として考えましたが、山極さんは、時間的な視点のなかで考えておられます。このような差異はありますが、私には山極さんの考え方がとても興味深いのです。特に、このロングインタビューのなかでは、人類進化の過程において獲得してきたこのような特徴が、現代社会においては崩壊しようとしているとも指摘されています。そのような現代社会批判と人類進化学が結びつくあたりに関心を強く持ってしまうのです(社会科学の諸理論とどのように連関するのか。また、逆に矛盾するのか…)。
▪︎山極さんは、一般の読者向けにもたくさんの書籍を出されています。一番最近のものは、『「サル化」する人間社会 』(知のトレッキング叢書) です。以下が、この本の内容です。
「上下関係」も「勝ち負け」もないゴリラ社会。
厳格な序列社会を形成し、個人の利益と効率を優先するサル社会。
個食や通信革命がもたらした極端な個人主義。そして、家族の崩壊。
いま、人間社会は限りなくサル社会に近づいているのではないか。
霊長類研究の世界的権威は、そう警鐘をならす。
なぜ、家族は必要なのかを説く、慧眼の一冊。・ヒトの睾丸は、チンパンジーより小さく、ゴリラより大きい。その事実からわかる進化の謎とは?
・言葉が誕生する前、人間はどうコミュニケーションしていたのか?
・ゴリラは歌う。どんな時に、何のために?その答えは、本書にあります。
●本書の目次
第一章 なぜゴリラを研究するのか
第二章 ゴリラの魅力
第三章 ゴリラと同性愛
第四章 家族の起源を探る
第五章 なぜゴリラは歌うのか
第六章 言語以前のコミュニケーションと社会性の進化
第七章 「サル化」する人間社会
▪︎最初の方に、少し前のエントリー「抑制力」を紹介ました。そのエントリーのなかに引用したのですが、山極さんは、「サル化」について以下のように述べておられます。それを、再び、引用しておきます。知人の新聞記者の方が、山極さんの講演を聞いてこの本を読まれたようです。ということで、私も読んでみることにしました。現在、注文中です。
それはじつはね、ニホンザルの社会に近い社会なんですよ。なにかトラブルがあったときに、そのトラブルを解消しようとしたら、勝ち負けをつけるのが一番簡単な方法なんですよ。だけど、ゴリラは、勝ち負けをつけずに、それを解消しようとする。だから抑制力が必要になるんです。つまり、自分の取れるものを取らないわけでしょ。自分の欲望を抑制しながら、相手に取らせる。ということで、平和をもたらそうとするわけですね。そこには、力の強いものが抑制するっていう精神がなければ成り立たない社会なんですね。それをゴリラは作ってきたし、もともと人間もそういう社会をはじめに作ったはずなんです。
『母と庭の肖像』(山崎弘義・著、大隅書店)
▪︎大津の出版社「大隅書店」さんが、新しい本を出版されました。山崎弘義の『母と庭の肖像』です。大隅書店の公式サイトでは、以下のように紹介されています。
今日の母は無表情だった。庭に出てみるとムラサキハナナが一気に咲き始めている。日々の移ろいを感じる瞬間だ。認知症の母と自宅の庭を3年間、ほぼ毎日、日記的に撮影。期間は2001年9月4日から、母が亡くなった2004年10月26日まで。撮影した枚数は3600枚を越えた(本書冒頭より)。森山大道に師事し路上スナップを撮り続けてきた写真家山崎弘義が祈るように撮影した写真と日々の記録からなる静謐かつ渾身の写真集。
▪︎この解説からは、毎日毎日、山崎さんは認知症のお母様とご自宅の庭を撮影されたようです。この本に収められた写真には、日記も添えられているとのことです。私自身、週に1回程度ではありますが、老母の世話をしに5年近く通い続けているので、この本のことがすごく気になりました。実際に手にとって読んで写真を感じとってからの感想を書くべきなのでしょうが、写真の対象である認知症のお母様と著者である山崎弘義さんの「関係」も表現されているのではないのかな…と想像しています。その「関係」も介護をされていた当時の「関係」だけでなく、過去の母と息子の「関係」もそこには織り込まれているような気がします。
▪︎この『母と庭の肖像』には、山崎さんの写真の師匠である森山大道さん、そして作家の荻野アンナさんが推薦の言葉を添えられています。
優しさと、しぶとさが、写真の原質を踏まえて露れている。 森山大道(写真家)
渾身という言葉が「DIARY」には相応しい。認知症の母親と庭の一隅をセットにして、日々撮り重ねたものが一冊になってみると、静謐にして渾身、という不思議な作品が成立した。荻野アンナ(作家・慶應義塾大学文学部教授)
【追記】▪︎以下も、ご覧ください。
“Collaborative Governance of Forests Towards Sustainable Forest Resource Utilization”
▪︎Facebookで、知人の井上真さんが、ご自身の研究チームの成果をまとめられました。“Collaborative Governance of Forests Towards Sustainable Forest Resource Utilization”です。ちょっと高目の値段の専門書ですが、さっそく予約しました。東京大学出版会から出ます。この本の出版に関しては、Columbia University Press と Singapore University Press も協力しているとのことです。私たちの総合地球環境学研究所の研究プロジェクト「生物多様性が駆動する栄養循環と流域圏社会─生態システムの健全性」は、生物多様性・栄養循環と流域の環境ガバナンスのあたりをテーマにしており、森林の井上さんたちの研究とは異なる部分があるとは思いますが、基本的な考え方のところでいろいろ学ばせていただけるのではないかと思っています。
▪︎以下は、東京大学出版会での紹介文と目次です。
在地と外来の利害がせめぎ合う熱帯社会において,自然資源と社会の持続的発展を支える森林ガバナンスのために必要な条件とは何か.資源や権利を共に活用し,多様な利害を分かち合うことで,複数のアクターを取り込む包摂的アプローチとしての「協治」の可能性を探る.
主要目次
Introduction (Motomu Tanaka)Part I: Policies, Institutions and Rights to Share:Prerequisites for Collaborative Governance
Chapter 1 Historical Typology of Collaborative Governance: Modern Forest Policy in Japan (Hiroaki Kakizawa)
Chapter 2 Endogenous Development and Collaborative Governance in Japanese Mountain Villages (Hironori Okuda/Makoto Inoue)
Chapter 3 Collaborative Forest Governance in Mass Private Tree Plantation Management: Company-Community Forestry Partnership System in Java, Indonesia (PHBM) (Yasuhiro Yokota/Kazuhiro Harada/ Rohman/Oktalina Nur Silvi/Wiyono)
Chapter 4 Legitimacy for “Great Happiness”: The Communal Resource Utilization in Biche Village, Marovo Lagoon in the Solomon Islands (Motomu Tanaka)Part II: Sharing Interests, Roles and Risks: The Process of Collaborative Governance
Chapter 5 Task-sharing, to the Degree Possible: Collaboration between Out-migrants and Remaining Residents of a Mountain Community Experiencing Rural depopulation (Mika Okubo)
Chapter 6 Collaborative Governance for Planted Forest Resources: Japanese Experiences (Noriko Sato/Takahiro Fujiwara/Vinh Quang Nguyen)
Chapter 7 Forest Resources and Actor Relationships: A Study of Changes Caused by Plantations in Lao PDR (Kimihiko Hyakumura)
Chapter 8 Whom to Share With? Dynamics of the Food Sharing System of the Shipibo in Peruvian Amazon (Mariko Ohashi)Part III: Sharing Information: Extending Collaborative Governance
Chapter 9 Providing Regional Information for Collaborative Governance: Case Study regarding Green Tourism at Kaneyama Town, Yamagata, Japan (Nobuhiko Tanaka)
Chapter 10 Simulating Future Land-cover Change (Arief Darmawan/Satoshi Tsuyuki)
Chapter 11 Potential of the Effective Utilization of New Woody Biomass Resources in the Melak City area of West Kutai Regency in the Province of East Kalimantan (Masatoshi Sato)Final Chapter (Makoto Inoue)
▪︎編者は井上真さん東京大学農学部に勤務されていますが、もうお一人は田中求さんで、ご所属は九州大学の「持続可能な社会のための決断科学センター」です。このような研究機関が九州大学に設置されているとは知りませんでした。様々な学問分野を統合する形で組織されています。メンバーのなかには知っている方もおられますね。詳しくは、こちらをご覧ください。少し公式サイトから引用します。
「決断科学」とは,さまざまな不確実性の下で,価値観の多様性を考慮しながら最善の決断を行い,その決断を成功に導く方法論に関する科学である. この新たな科学は,複合的で不確実性を持つ現象についての洞察と俯瞰的理解,不合理性を伴う人間行動・心理の体系的理解, および地球環境と人類社会が直面する諸課題についての統域的理解によって成り立つ. 科学を基盤としてこれからの時代を牽引するグローバルリーダーには,専門分野における世界でトップレベルの研究業績に加え, 自然科学・社会科学を統合した問題解決型の新しい科学(統域科学 Trans-disciplinary Science)を開拓し, 適確な決断を通じて人類社会の持続可能性達成に大きく貢献する能力が求められる. 「持続可能な社会を拓く決断科学大学院プログラム」ではこの要請に応えるために,地球環境と人類社会の持続可能性に向けてのオールラウンド型科学として, 「決断科学」(Decision Science)を開拓するとともにその人材を育てることを本プログラムの目標とする.
▪︎これを読んだだけでは、具体的な内容についてはわかりませんが、新しい学問地の形成を目指していることは間違いありません。このような言い方をすると叱られるかもしれませんが、欲張った内容になっていますね。私が共同研究員をしている総合地球環境学研究所もそうですが、多くの大学や研究機関で、実際の複雑な問題をどのように解決していくのか、多くのステークホルダーとともに問題をどのように解決していくのかという課題に取り組んでいます。超領域、あるいは超学際的と呼ばれる新たな学問の構築が目指されているのです。単なる「理念」や「はったり」ではなく、実質的に成果を生み出していくために、多くの人びとが懸命になって研究に取り組んでいます。しかし、そのような新たなパラダイムにもとづく学問の構築には、まだ時間と努力が必要だと思います。
「限界集落株式会社」
▪︎黒野伸一さんの『限界集落株式会社』が、NHKのドラマになるようです。主演は、反町隆史さん。カッコいいですね〜。このドラマのホームページで、制作統括をされた落合将さんが、次のように語っておられます。
NHKの現代ドラマ、久しぶりの農業ものです。農業を撮影するのは困難を極めます。作物の状態が、限られたスケジュールに合うのか、台風などの襲来によっては撮影用の畑が壊滅します。それでも、その困難な素材に正面から取り組んだのは、いま劇的に日本の農業をめぐる世界が変わってきているからです。ドラマをつくるにあたって、いろいろ取材をされていることがわかります。
日本の農村はいまや「限界集落」どころではなく「地方消滅」の危機を迎えています。そのなかで、地方唯一の産業「農業」を通じて、一矢を報いていく小さなチームを描くときに、バブルの時代に描かれたのんびりした空気の流れる「村おこし」を描くことはもはやできませんでした。シビアな時代に、どういまある力を使って、仲間たちと立ち向かっていくのか、難しい題材を描く際に、あとおししてくれたのは、実際に農業法人をたちあげて、新しい農業の形を模索する若者たちの姿でした。農業未経験者の彼らは、都会ではなく、農村に夢を求めて、アイターンしてきます。旧来の世襲制度が崩れ始め、地方の農村が変わり行く中で、私たちの目には彼らが「開拓者」のように見えました。そういったたくさんの取材先の方々たちの力を借りながら、この挑戦的な企画はなりたちました。出来上がったドラマもまた、素晴らしい出演者の皆さんの力を借りた、現代の「開拓者たち」のドラマに仕上がったと思います。
▪︎黒野さんの本自体は、研究室に置いてあるのですが(本のタイトルに惹かれて…)、まだ読めていません。原作とドラマは少し違っているようですが、まずは明日31日(土)から始まるドラマを視ることにしたいと思います。小説自体の評価は様々なようですが、大切なことは、ここからどういうメッセージを受け取るかでしょうかね。このような限界集落のようなテーマと関連する新書を紹介したことがあります。1月7日のエントリー「『農山村は消滅しない』(小田切徳美・岩波新書)」です。こちらの方、ぜひご覧いただければと思います。新書の著者である小田切徳美さんの講演の動画も貼り付けてあります。
【追記】▪︎さきほど、ゼミ生が研究室に相談にやってきました。ゼミでおこなっている「北船路米づくり研究会」の活動に関して、ある財団に活動助成を申請するのですが、その申請書類をチェックしてほしいとやってきたのです。ちょっと雑談もしました。お父様が、時々、このブログを読んでくださっているとのこと。ありがとうございます。お父さん、娘さんは頑張って大学で勉強してはりますよ!!
小さな発見、わたしの知床『シリエトク ノート』第9号 2014年文月
▪︎「青山ブックセンター」の「青山ブックスクール」で企画主任されている作田祥介くんが、雑誌を送ってくれました。雑誌というか、小冊子かな…。まあ、それはともかくです。作田くんが、北海道の斜里町の方から、エゾジカ猟特集の雑誌をもらったのでと、私にも1冊わけてくださいました。『シリエトクノート』第9号です。「シリエトク」とは、知床のことです。アイヌの言葉で、地の果て…という意味なのだそうです。この雑誌の特集は、「エゾシカ猟」。冒頭で、猟師さんたちとエゾジカ猟を撮り続けているホンマタカシさんが座談会をされています。作田くんは、ここから何か環境社会学に通じるものを感じたらしく、私に送ってくれたのでした。
▪︎エゾジカ猟は、増えすぎて森林を破壊するエゾジカを駆除するために行われているものです。これについては、いろいろ意見の対立がこれまであったようです。この知床では自然保護運動が取り組まれてきたからです。このあたりの問題については、ネット上にあるNHKのニュースをご覧いただくことができます。
エゾシカ駆除へ 知床の決断 NHKニュースおはよう日本 2010年12月14日 放送
▪︎『シリエトクノート』の座談会では、このあたりのことが詳しくは説明されていません。駆除するハンターの皆さんは猟友会に入っておられますが、その猟友会の皆さん自身が、「我々が絶滅危惧種なんだよ」と揶揄しておっしゃるのです。ハンターが高齢化し減少していく一方で、近年は、あちこちで獣害の問題が深刻化しています。獣害は北海道だけではありません。このあたりの問題については、出版されてだいぶたちますが、鬼頭秀一さんの『自然保護を問い直す』のことが頭に浮かんできます。
▪︎鬼頭さんは、「生身」と「切り身」という独特の概念を使います。いずれも人間と自然との関係を表現するための概念です。そして、人間が社会/経済的にも、文化/宗教的にも、多様なネットワークのなかで総体としての自然と不可分なかたちでかかわりつつ生業を営み生活している一種の理念型の状態を「かかわりの全体性」と呼んでいます。それに対して、この「生身」の関係が、人間の都合で部分的な関係を取り結ぶようになったとき、それは「かかわりの部分性」ということになり、「生身」ではなく「切り身」ということになります。鬼頭さんは、「環境問題の本質は人間から離れて存在している自然の破壊にあるのではなく、人間と「生身」のかかわりあいがあった自然が「切り身」化していくことにある」と捉えます。そのうえで、「近代が、自然破壊と同時に自然保護という概念も生み出したと言ったのは、まさに、両極の二種類の『切り身』の関係が、近代という時代に出現したことを意味している」と述べています。
▪︎最近では、専門書ですが、『野生動物管理システム』(梶光一/土屋俊幸 編)という本も出版されています。これについては、2014年10月7日のエントリーで少しだけ紹介していますので、そちらをご覧いただければと思います。
▪︎『シリクトク ノート』第9号の最後の「編集後記」では、編集・制作作業にあたった中山芳子さんが、次のように書いておられます。素敵な文章だなと思いました。
雪のエゾジカ猟は、自分の生まれ育った斜里にいながらにして、映画の中の出来事のようだった。解体作業では、まだ若いシカの体にナイフが入り、鮮血とともに白い湯気がフワーッと立ち上がった時、あー確かに今の今まで、生きていたのだと感じ、自然に涙が出た。「カワイソウ」などというあいまい感情とは違う心の揺れ。解体に格闘する若いハンターを見守るベテランの視線の温かさ。そうして、内臓を抜いたシカを車まで引っ張って運ばせてもらうと、思いがけない重みに汗が吹き出た。いのちの重み。野生動物や、雄大な風景がクローズアップされがちな知床だけど、こうして人間が常に自然に携わり、いのちに対峙し続けている。良くも悪くも、人間が居てこそ知床なのだと思う。
『リスクの社会学』( Niklas Luhmann ・著、 小松 丈晃 ・訳)
▪︎今日は12日(月)、成人式で祝日です。しかし、大学は授業をやっている…と思って大学にいくと、今日は休みでした。法科大学院だけが授業で、他はすべて祝日で休みです。授業の15回確保という文科省からの指示があり、月曜日は祝日でも授業実施日になることがほとんどだったのです。しかし、今日は、違っていました…。
▪︎キャンパスに到着してから、愕然としました。ちょっとだけですけど(^^;;。休日、誰もいないキャンパスに来て研究室にこもることが、嫌いではないのです。卒論の添削やその他諸々で、年末の研究室の大掃除ができていなかったので、今日は、少し整理整頓を行いました。もう、これから残りの人生、かなりの確率で読む事はない書籍・報告書・雑誌の類を選び出しました。研究室のスペースは限られており、これ以上、書籍を書架に置くことができないのです。こういう単純な作業でも、残すのか捨てるのか考え始めるとけっこう時間がかかりました。ふと外をみると、すっかり暗くなっていました。
▪︎さあて帰宅しようと、建物の外に出たとき、私の研究室のある2号館のお隣り、理工学部がはいっている1号館の入り口あたりに照明がつけられていました。なんとなく、エエ感じやな〜ということで、iPhone6plusで撮ってみました。こういう暗い時間帯でも、iPhone6plusはけっこう思うように撮ってくれます。ありがたいですね〜。
▪︎まあ、そんな1日であったわけですが、1日の最後に、ニコラス・ルーマンの『リスクの社会学』の翻訳が出版されていることを知りました。翻訳者は、『リスク論のルーマン』の著者である小松丈晃さんです。私は、少しだけ小松さんと面識があります(東北社会学会)。ルーマンの『リスクの社会学』をベースに東北大学で学位を取得されたときに、小松さんの学位論文を送っていただき拝読していました。小松さんが、学位論文のなかで紹介されているルーマンのリスク論と、当時、私が執筆したばかりの論文、「地域環境問題をめぐる“状況の定義のズレ”と“社会的コンテクスト”-滋賀県における石けん運動をもとに」(『講座 環境社会学第2巻 加害・被害と解決過程』,有斐閣)とが、リスクに対する考え方で交錯するところがあり、そのことで小松さんと少しお話しをさせていただいたのです。その後、小松さんは、学位論文を『リスク論のルーマン』にまとめられました。この小松さんの著書は、大変評価の高いものになりました(日本の環境社会学者は引用しませんが、すぐれた研究書です)。私としては、はやく小松さんに『リスクの社会学』を翻訳していただきたいと思っていましたが、とうとうそれが実現しました。これまでは、英訳されたものを読んでいましたが、はやく小松さんにと、ずっと思っていたのです。
▪︎私の論文は、今でも時々引用されますが、引用の仕方がいつも「状況の定義のズレ」という概念に特化したものになっています。一度、ひとつのパターンで引用されると、そのパターンで繰り返されるわけです。今時の学会のよくないところかもしれません。きちんと個々の論文を読み込んでいないのです。本当にしっかり読んでいただきたいところは、もっと別のところにあります。リスクという概念で捉える問題が登場した時代状況や、リスクそのものに対する考え方でした。小松さんはさすがといいますか、そのあたりきちんと理解していただけたように思います。さっそく、小松さんの翻訳を読んでみようと思います。かつて取り組んでいた「石けん運動」の研究は、中途半端に中断していますので、刺激をいただき「再起動」したいと思います。
『農山村は消滅しない』(小田切徳美・岩波新書)
▪︎ネットでこういうニュースを読みました。NHKのニュースです。一部を引用します。
住民の半数以上を高齢者が占め、存続が危ぶまれているいわゆる「限界集落」は国の調査で全国400か所以上に上り、中でも東北地方は50か所と中国・四国地方に次いで人口減少が深刻な過疎地が多く、集落維持のコストが課題となっています。
このため国土交通省は、集落を維持する場合と中心部に移しコンパクトな街づくりを進める場合のコストを比較し、実際の集落をモデルに検証することになりました。
▪︎国交省は、限界集落を維持するための、社会的費用がかかりすぎる…といいたいのでしょうね。「集落の維持にかかる道路や上下水道の費用やバスやゴミ収集車などのコストと、集落の移転に伴う費用を比較し移転でどれだけ節約できるのかを分析する」のだそうです。人口が集中している地域に住んでもらいたい、移転の費用を出すから、いまいるところを諦めて、町の方に暮らしてくれ…ということなのかもしれません。東北地方整備局の方は、「限界集落の問題は、住民の合意形成が難しくなかなか解決に向かわないが、『コスト』を見える形にすることで、集落再編を進める貴重なデータにしたい」とも話しておられます。
▪︎このようなコストだけが突出するような形での調査には違和感があります。単純に、集落維持に必要なコストと移転の費用を天稟にかけて判断することに違和感があります。限界集落の移転の話しは、その地域の歴史や状況、そして当事者の方たちの考え方を大切にしながらでないと進みません。コストの見える化だけの話しではないでしょう。移転するにしても、その移転先は、集落にとって馴染みのある地域なのか、それとも縁もゆかりもない地域なのかで、かなり違った話しになります。また、何代にもわたって暮らしてきたその土地の持つ意味、土地の「場所性」の問題についても、きちんと視野にいれないといけません。さらには、近くの町場に息子世代が暮らしているのかどうかといったことも、移転の問題にとっては重要になるでしょう。どのような地域を対象にした調査なのか、どのようなデータが収集されるのか、そのあたりもすごく気になります。特定の地域の事情が強く反映しているにもかかわらず、データだけが一人歩きしてしうことが怖いと思います。なんとか生き残ろうと頑張って村づくりに取り組んでいる地域がありますが、そのような地域にも、冷水をかけてしまうことにはならないのか…と心配しています。
▪︎この小田切徳美さんの『農山村は消滅しない』(岩波新書)は、このような政策的動向が既成事実化していく状況を批判的にとらえています。新書の帯には、「地方消滅論が見落とした農山村の可能性」と書いてあります。以下は、この新書の内容です。
増田レポートによるショックが地方を覆っている。地方はこのままいけば、消滅するのか? 否。どこよりも先に過疎化、超高齢化と切実に向き合ってきた農山村。311以降、社会のあり方を問い田園に向かう若者の動きとも合流し、この難問を突破しつつある。多くの事例を、現場をとことん歩いて回る研究者が丁寧に報告、レポートが意図した狙いを喝破する。
▪︎今は、時間的余裕がありませんが、近いうちに読んでみようと思います。
【追記】▪︎日本記者クラブで、小田切さんが講演されています。その講演がYouTubeにアップされています。
『地域の魅力を伝えるデザイン』
■まだ、この本を実際には手に取っていませんが、解説を読むと欲しくなります。
本書は、地域広報誌、フリーペーパー、ミニコミ誌、観光情報誌、フライヤー、マップなど、地域の魅力を伝えるために制作された紙メディアを紹介するデザイン事例集です。
人口の流出、地域高齢化、文化の衰退、伝統ある街並の画一的な開発…各地域にて抱える問題はさまざまですが、残すべきものを残し、大切なものを未来へと繋げていくために、企業、デザイナー、行政、地元の有志などが働きかけ、その土地の魅力を伝えようとする活動が全国的に盛んになっています。本書では、そうした全国的な活動のなかでも、特に紙のメディアに着目しました。優れたデザインを用い、確実に“伝わる力”を持ったグラフィック事例を約60点紹介しています。
またデザインのポイントのみを解説するのではなく、プロジェクトの背景やそれがもたらした効果についても触れており、デザイナー問わず、地域をPRしたいと考えている多くの方々にヒントになる内容となっています。
掲載媒体(順不同)
naranara(奈良)
小豆島と茨木(香川/大阪)
飛騨(岐阜)
板木(福島)
飛騨のかざりもの(岐阜)
ラ・コリーナ(滋賀)
TOYOOKA 67DAYS(兵庫)
和食(日本)
シリエトク ノート(北海道)
鶴と亀(長野)
TOTTORI CRAFT(鳥取)
おきなわいちば(沖縄)
雲のうえ(福岡)
半島のじかん2014「半島の台所」(半島地域)
燕三条 工場の祭典(新潟)
Gozzo山形〔ゴッツォ山形〕(山形)
太宰府自慢(福岡)
Journal NAMO. (愛知)
あば村宣言(岡山)
キラリ☆ぎの座(沖縄)
コンダフル(兵庫)
やまがた旅手帖、やまがた旅図鑑(岐阜)
ミチカケ(栃木)
旅手帖beppu(大分)
桜みちくさマップ(栃木)
暖暖松山(愛媛)
アリタノヒビキ(佐賀)
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『まち再生の術語集』(延藤安弘・岩波新書)
■3年生のゼミで、延藤安弘先生の『まち再生の術語集』をじっくり読んでいます。というのも、ゼミでおこなっている「北船路米づくり研究会」の活動にとって大きなヒントになると思うからです。また、ゼミ生がこれから取り組む卒論の調査・研究にもきっと役立つと思うからです。全体は4章から構成されていますが、いろいろ不思議の仕掛けがしてあります(それは読んでからのお楽しみ…)。直線的ではないのです。キーワード=述語が網の目状につながっているのです。目次と「あとがき」からの抜粋です。少し、その不思議さが窺えるかもしれません。
Ⅰ「楽しさと遊び」→「歓喜咲楽」:よろこびわらいあそぶ、楽しさと遊び
Ⅱ 「つぶやきをかたちに」→「私発協働」:自らが主となりまわりとつながる、つぶやきをかたちに
Ⅲ 「知恵の育み合い」→「対話共有」:話し合い、知恵を育み合う
IV「トラブルをドラマに→「軋変可笑」:軋みを可笑しみに変える、トラブルをドラマに
本書のコンセプトはまさに「人生ってエエモンやなあ」「自分のまちは捨てたもんやないなぁ」と「生を楽しむ」センスです。(中略)深刻さの記述や改善方策の立案も大切ですが、一番大事なことは、ひとりひとりが「自分の生きる現場から状況を変えることを楽しむ」ことではないでしょうか。他者と共有された楽しさの体験は、創造的なアイディアや革新的な活動を生む縁を拡げ、生きる未来への方向感・希望をひらいていくものです。その過程では、芋ヅル式にキイワードがつながりあっていきます。根茎(リゾーム)のように絡み合うまち再生のプロセスが腑に落ちるよう、本書のキーワード(術語)から別のキーワードへ、ヒラヒラと蝶が舞うごとく自由移行する読み方ができるようにしました。(中略)混濁する状況を超えるイメージが術語の連関から生まれるよう願っています。
■私は、先生がかつて勤務されいてた千葉大学工学部に「環境社会学」の非常勤でお邪魔しました。そのとき、初めてお会いしました。また、龍谷大学社会学部で取り組んでいる「大津エンパワねっと」でも、学生たちの熱滅なラプコールを受け止めていただき、大津市の中央学区で講演をしていただきました。その延藤先生が執筆された『まち再生の術語集』、全国で大変評判なようです。
■先生が共著で執筆された『マンションをふるさとにしたユーコート物語―これからの集合住宅育て』(昭和堂、乾亨・延藤安弘)。「環境学会・論文著作賞」と「日本生活学会・今和次郎賞」を受賞しました。そのことを記念し講演が行われたようです。先生は、ご自身の講演会を「幻灯会」と呼んでおられます。だから、講演会という言い方は、よくありませんね…きっと。「幻灯会」は、その場を包み込む、ひとつのアートなのかなと思います。私が以前拝見したときは、2台のスライド投影機を使って、まるで講談師のように面白くお話しをされていました。ほんまに、おもろいんです、先生は。知的に…という点はもちろんなのですが、それだけでなく文字通り「おもろい」んです。『まち再生の術語集』を読んでいても、おもわず声を出して笑ってしまうところがありました(先生は、お若い頃から、駄洒落王だったに違いない)。いろいろ、仕掛けがしてあります。それに気がついて、「へ〜」と驚くこともあります。最後には、「おもろく」て、驚いて、力が湧いてきます。
■以下の動画は、延藤先生の「環境学会・論文著作賞」と「日本生活学会・今和次郎賞」受賞記念の「幻灯会」です。最近は、パワーポイントと2台のパソコンとプロジェクターを使って「幻灯会」をされているようです。
【追記】■今日は、3年生のゼミでした。ゼミのあとも、残ってミーティングをしていてたようです。ひとつは、「北船路米づくり研究会」の新しいパンフレットをつくめための相談。もうひとつは、研究会の活動資金のことです。学外の財団の助成金を獲得するための作戦会議です。楽しみです。