『考える人』2015年冬号「特集 山極寿一さんと考える 家族ってなんだ?」

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▪︎季刊『考える人』 2015年冬号、昨年発売されたときに気になって購入していました。定期的に購読しているわけではありませんが、特集のタイトルのなかに「山極寿一」とあったので購入しました。すぐに読めばよかったのですが、なかなかチャンスがありませんでした。たまたま、先日、山極さんの講演やインタビューをYouTubeで視聴するチャンスがあり、「あっ、そういえば、このまえの『考える人』も山極さんやったな」と思い出し、読んでみることにしました。なかなか読み応えがありました。

▪︎少し前のエントリー「抑制力」の記述や、リンクした動画(山極さんの講演)とも重なる部分も多いように思いますが、このロングインタビューなかで、以下のような興味深い指摘をされています。

家族やコミュニテイを支えてきたのは、言葉ではなかった。言葉以前のコミュニケーションによる付き合い方だったと思います。そしてそれは、今でも、同じなのです。

人間関係については、だんだんと視覚を使うコミュニケーションが減って、逆に、遠距離間のコミュニケーション、相手の顔が見えないコミュニケーションがふえてきた。もう一つ言えば、視覚、聴覚、臭覚、触覚、味覚の五感のうち、触覚を使ったコミュニケーションは、人間のコミュニケーションのなかで非常に重要だった。(中略)だが、そういう接触を頻繁に使ったコミュニケーションも薄れてきました。もともと人間は会うことでお互いの信頼関係を高め、維持してきたわけですが、今はそのことそのものが省略されるようになっている。食事もそう。昔は長い時間をかけて食事の準備をし、そして長い時間をかけて、みんなで楽しく語らいながら食べるものでした。家族の団欒というのは、必ず食事の席にあったのです。

集団のために何かしたいというのは、人間にしかない。「誰かのために」というのはあります。子供のために何かをすることは、ほかの動物でもあります。しかし、集団のためにというのはない。集団は実体のあるものではありませんから、まさに人間だけの行為です。それが今だんだん薄れてきている

その理由は、実は近代科学技術と民主主義にあると思っています。民主主義も近代科学技術も、個人の自由度を高め、個人の欲求をなるべく多く満たすように働いてきました。(中略)煩わしいと思っていた集団の時間は、実は社会関係をつくるにはこの上ないものだった。だが、それを負の側面としてしか捉えなかった。(中略)時間を節約してなるべくき自由な時間をふやそうとするのは、ある意味では正しいかもしれないが、社会的な関係をつくる上では、むしろマイナスだった。相手に対する優しさというのは時間をかけなければ生まれてこない。それが結局は、自分の資本になる。これを社会関係資本と言うのですが、そういうもをつくることに、日本社会は向かったこなかった

日本社会は、個人主義を発達させてる前に集団を重視した社会をつくってきました。近代科学技術と民主主義がどんどん個人を解放するとそちらへ向かい、集団の大切さを見失って、集団に依存していた社会関係も一気に壊れてしまったのです。

自分を犠牲にする行為がなぜなくならないかというと、根本的にうれしいことだからです。母親は自分のお腹を痛めて産んだ子だから当然かもしれないし、養子に迎えた子や、あるいは近所の子でもあっても、子供に対して尽くすのは、人間にとって大きな喜びです。不幸なことになったり、アクシデントが起こったときに、子供を助けてやりたいという思う気持ちは、人間が共通に持っている幸福なのです。それがあるからこそ、そして分かり合えるからこそ、人間は存在すると思うのです。

私はアフリカでNGOの活動をずっとやってきました。文化も社会も違い、言葉も違う人たちだけれども、言葉も違う人たちだけれども、何が一番根本的に了解し合えるかといったら、「未来のため」ということ。子供たちのために何かをしてやりたい、現在の自分たちの利得勘定で世界を解釈してはいけない、自分たちの持っている資源を未来の子供たちに託さなければいけないという思いです。そういうことを重荷と思ってはいけないのです。

人間というのは、現実から来る抑制ではなくて、タイムスケールの長い過去と未来に縛られる抑制によって生きている。それが人間的なものだと思います。それが一番実感できるのが、子供を持つということ、家族をつくるということなのです。

▪︎他にも興味深い指摘を多々されているのですが、引用はこのあたりにしておきましょう。私が学び研究してきた社会学、そして社会学も含めた社会科学は、自然と社会を対立的に捉えるところがあります。人間と動物とは何が違うのか、人間社会の本質を把握するために、人間と動物(サルや霊長類)との差異を強調します。それに対して、霊長類進化学、人類進化学の立場にたつ山極さんは、差異よりも連続性に注目されているように思います。サルから霊長類、霊長類から人類へと進化するなかで、人間が獲得していった特質を説明されます。また、なぜそのような特質を獲得したのかについても、興味深い説明をされています。山極理論を、家族研究者やジェンダーの研究者たちは、どのように捉え、理解しようとするのでしょうか。そのような討論や対談のようなものが、この世の中には存在するのでしょうか。あれば、ぜひ読んでみたいと思います。

▪︎私自身はどうかといえば、上記の引用からもおわかりかもしれませんが、山極さんの説明に共感するところが多々あります。もちろん、自分自身の家族でどう振る舞ってきたかといえば、これはかなり怪しいところがありますね。山極さん自身も、「相当子育てに関与されたんですね」という質問に、「いや、関与していないって女房から言われます(笑)」とお答えになっています(笑)。そのような点はあるにしても、山極さんが主張されていることは、まちづくりや、地域づくり、環境再生という実践に携わるなかで、私自身が常に感じていることと随分共通しています。

▪︎地域に出ると、山極さんのいう「子供のために何かをする」という考え方に、しばしば出会うことになります。「子供のために」といういうことで相互に人びとが納得して、コミュニティが結束し、共同の活動に取り組むということもよくみられます。また、様々な環境問題の被害のなかで、弱い立場にある子供の健康を守るために母親たちが環境運動に取組み始めることも、たくさんの事例を通してよく知られています。私自身、滋賀県の女性たちによって取組みれた石けん運動について論文を書いたことがあります。「地域環境問題をめぐる“状況の定義のズレ”と“社会的コンテクスト”-滋賀県における石けん運動をもとに」(『講座 環境社会学第2巻 加害・被害と解決過程』有斐閣)という論文です。

▪︎この論文で取り上げた石けん運動でも、たびたび「子供や家族の健康や命を守りたい」という言い方がなされてきました。これに対しては、フェミニズムの立場からは、「性的役割分業の固定化」「エコ母性主義」「本質主義」といった批判がありうると思います。日本では、女性と環境の結びつきについては、「エコフェミ」(エコロジカル・フェミニズム)という言い方で否定的に捉えられてきたからです。それに対して私は、「一般論として、『主婦・母親』は、合意形成過程から(動員されながらも)排除されると同時に、「『ケア役割』を、歴史的に社会的、文化的性役割(gender role)として割当たられて(萩原[1997]310頁)きた」と指摘したのち、「利便性、効率性、経済性、消費の差異性の追求といった欲望を掘り起こそうとする社会システムが、『主婦・母親』と同時に『身体・生命』(自然環境を含む)といった価値をも排除してきたということである」と述べました(萩原さんの論文は、萩原なつ子,1997,「エコロジカル・フェミニズム」江原由美子・金井敏子編『フェミニズム』新曜社)。私自身は社会学者なので、女性の環境運動における「子供のために何かをする」をこのように説明しました。それに対して、人類進化学の山極さんの考え方は、人びとは「タイムスケールの長い過去と未来に縛られる抑制によって生きている」ということになります。進化のなかで獲得してきた特質ということになります。私はどちらかといえば、空間的な視点のなかで、ジェンダーと社会システムの問題として考えましたが、山極さんは、時間的な視点のなかで考えておられます。このような差異はありますが、私には山極さんの考え方がとても興味深いのです。特に、このロングインタビューのなかでは、人類進化の過程において獲得してきたこのような特徴が、現代社会においては崩壊しようとしているとも指摘されています。そのような現代社会批判と人類進化学が結びつくあたりに関心を強く持ってしまうのです(社会科学の諸理論とどのように連関するのか。また、逆に矛盾するのか…)。

20153025yamagiwa.jpeg ▪︎山極さんは、一般の読者向けにもたくさんの書籍を出されています。一番最近のものは、『「サル化」する人間社会 』(知のトレッキング叢書) です。以下が、この本の内容です。

「上下関係」も「勝ち負け」もないゴリラ社会。
厳格な序列社会を形成し、個人の利益と効率を優先するサル社会。
個食や通信革命がもたらした極端な個人主義。そして、家族の崩壊。
いま、人間社会は限りなくサル社会に近づいているのではないか。
霊長類研究の世界的権威は、そう警鐘をならす。
なぜ、家族は必要なのかを説く、慧眼の一冊。

・ヒトの睾丸は、チンパンジーより小さく、ゴリラより大きい。その事実からわかる進化の謎とは?
・言葉が誕生する前、人間はどうコミュニケーションしていたのか?
・ゴリラは歌う。どんな時に、何のために?

その答えは、本書にあります。

●本書の目次
第一章 なぜゴリラを研究するのか
第二章 ゴリラの魅力
第三章 ゴリラと同性愛
第四章 家族の起源を探る
第五章 なぜゴリラは歌うのか
第六章 言語以前のコミュニケーションと社会性の進化
第七章 「サル化」する人間社会

▪︎最初の方に、少し前のエントリー「抑制力」を紹介ました。そのエントリーのなかに引用したのですが、山極さんは、「サル化」について以下のように述べておられます。それを、再び、引用しておきます。知人の新聞記者の方が、山極さんの講演を聞いてこの本を読まれたようです。ということで、私も読んでみることにしました。現在、注文中です。

それはじつはね、ニホンザルの社会に近い社会なんですよ。なにかトラブルがあったときに、そのトラブルを解消しようとしたら、勝ち負けをつけるのが一番簡単な方法なんですよ。だけど、ゴリラは、勝ち負けをつけずに、それを解消しようとする。だから抑制力が必要になるんです。つまり、自分の取れるものを取らないわけでしょ。自分の欲望を抑制しながら、相手に取らせる。ということで、平和をもたらそうとするわけですね。そこには、力の強いものが抑制するっていう精神がなければ成り立たない社会なんですね。それをゴリラは作ってきたし、もともと人間もそういう社会をはじめに作ったはずなんです。

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