小さな発見、わたしの知床『シリエトク ノート』第9号 2014年文月

20150129shirietoku.jpg ▪︎「青山ブックセンター」の「青山ブックスクール」で企画主任されている作田祥介くんが、雑誌を送ってくれました。雑誌というか、小冊子かな…。まあ、それはともかくです。作田くんが、北海道の斜里町の方から、エゾジカ猟特集の雑誌をもらったのでと、私にも1冊わけてくださいました。『シリエトクノート』第9号です。「シリエトク」とは、知床のことです。アイヌの言葉で、地の果て…という意味なのだそうです。この雑誌の特集は、「エゾシカ猟」。冒頭で、猟師さんたちとエゾジカ猟を撮り続けているホンマタカシさんが座談会をされています。作田くんは、ここから何か環境社会学に通じるものを感じたらしく、私に送ってくれたのでした。

▪︎エゾジカ猟は、増えすぎて森林を破壊するエゾジカを駆除するために行われているものです。これについては、いろいろ意見の対立がこれまであったようです。この知床では自然保護運動が取り組まれてきたからです。このあたりの問題については、ネット上にあるNHKのニュースをご覧いただくことができます。

エゾシカ駆除へ 知床の決断 NHKニュースおはよう日本 2010年12月14日 放送

▪︎『シリエトクノート』の座談会では、このあたりのことが詳しくは説明されていません。駆除するハンターの皆さんは猟友会に入っておられますが、その猟友会の皆さん自身が、「我々が絶滅危惧種なんだよ」と揶揄しておっしゃるのです。ハンターが高齢化し減少していく一方で、近年は、あちこちで獣害の問題が深刻化しています。獣害は北海道だけではありません。このあたりの問題については、出版されてだいぶたちますが、鬼頭秀一さんの『自然保護を問い直す』のことが頭に浮かんできます。

▪︎鬼頭さんは、「生身」と「切り身」という独特の概念を使います。いずれも人間と自然との関係を表現するための概念です。そして、人間が社会/経済的にも、文化/宗教的にも、多様なネットワークのなかで総体としての自然と不可分なかたちでかかわりつつ生業を営み生活している一種の理念型の状態を「かかわりの全体性」と呼んでいます。それに対して、この「生身」の関係が、人間の都合で部分的な関係を取り結ぶようになったとき、それは「かかわりの部分性」ということになり、「生身」ではなく「切り身」ということになります。鬼頭さんは、「環境問題の本質は人間から離れて存在している自然の破壊にあるのではなく、人間と「生身」のかかわりあいがあった自然が「切り身」化していくことにある」と捉えます。そのうえで、「近代が、自然破壊と同時に自然保護という概念も生み出したと言ったのは、まさに、両極の二種類の『切り身』の関係が、近代という時代に出現したことを意味している」と述べています。

▪︎最近では、専門書ですが、『野生動物管理システム』(梶光一/土屋俊幸 編)という本も出版されています。これについては、2014年10月7日のエントリーで少しだけ紹介していますので、そちらをご覧いただければと思います。

▪︎『シリクトク ノート』第9号の最後の「編集後記」では、編集・制作作業にあたった中山芳子さんが、次のように書いておられます。素敵な文章だなと思いました。

雪のエゾジカ猟は、自分の生まれ育った斜里にいながらにして、映画の中の出来事のようだった。解体作業では、まだ若いシカの体にナイフが入り、鮮血とともに白い湯気がフワーッと立ち上がった時、あー確かに今の今まで、生きていたのだと感じ、自然に涙が出た。「カワイソウ」などというあいまい感情とは違う心の揺れ。解体に格闘する若いハンターを見守るベテランの視線の温かさ。そうして、内臓を抜いたシカを車まで引っ張って運ばせてもらうと、思いがけない重みに汗が吹き出た。いのちの重み。野生動物や、雄大な風景がクローズアップされがちな知床だけど、こうして人間が常に自然に携わり、いのちに対峙し続けている。良くも悪くも、人間が居てこそ知床なのだと思う。

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