メタレベルを強く意識する

■大学院生に指導をするとき、昔、自分が院生時代に読んだ本の話しをすることがあります。たとえば、佐伯胖さんの『認知科学選書10 認知科学の方法』(1986年)です。この本の1章から4章までのところで、佐伯さんは、「メタ理論の吟味」の重要性について述べておられます。そのうち、1章はズバリ「おもしろい研究をするには」です。タテ糸、ヨコ糸、ナナメ糸という比喩的な表現を使いながら説明されています。少しだけ紹介しましょう。

■タテ糸とは、「それぞれの研究テーマに関する過去から未来へ向けての研究の歴史的な流れ」であり、「過去にどのような人がどのような主張をし、どういう反論を経てどういう変化をしたのか」といったような、「一貫した問題意識と主義主張」の系列のことです。ただし、このタテ糸だけでは研究はおもしろくなりません。そこでヨコ糸です。ヨコ糸とは、「異なる分野での同じような考え方、理論、モデル、主張」のことです。佐伯さんは、このように述べられています。

当面の研究テーマの従来のバラダイムを一応踏襲しながら、その中で、従来研究の発想の限界を飛び越えた、あたらしい研究をはじめるため、他の領域からヨコ糸をはっぱってきてよりあわせる、ということならば、それほど困難なことではない。そういう例はいくつもあるのだが、発表された論文ではヨコ糸は陰に隠されて、読み取ることがむつかしくなっていることが多い。そういう隠れたネタを探り出し、「ははん、発想はあそこから取ったな」ということをあばいてみるのは、自分の研究をすすめるときのよいヒントになる。

■しかし、タテ糸とヨコ糸だけで研究がおもしろくなるわけではありません。佐伯さんは、ナナメ糸が必要だといいます。ナナメ糸とは、「それぞれの時代のそれぞれの考え方に対する『批判』の流れ」です。というのも、「すべての研究は『何かに対する』研究であり、『闘う相手』がいるはず」だからです。

そういう闘う相手をどこまで深く、広く意識した研究であるかによって、その研究の「おもしろさ」がきまるのだといってよいだろう。つまり、対立する仮説や考え方をどこまで徹底して「つぶして」いるか、それが相手にはどこまで深刻な打撃になっているかということが読み取れたとき、人は知的に興奮をおぼえる。

■ナナメ糸とは、「自らの闘う相手=敵手」をどこまで深く認識しているのか…ということと、関係しています。もちろん、「闘う相手=敵手」とは理論的・学説史的なものですが、おわかりいただけますよね。自分が闘う相手が「自明」としている点を、その足元から揺さぶりをかける(深刻な打撃)を与えるには、それなりの鍛錬がいります。自分自身の経験、そしていろいろ指導をしてきた経験からすると、そのような鍛錬ができるようになるのは博士課程(博士後期課程)からなのかなと思います。研究者として自立・自律していくプロセスでこのような能力を獲得する必要があります。言いかえれば、メタレベルを強く意識する必要があるのです。

■学術雑誌の査読や編集作業を長年やってきました。一番困るのは、このメタレベルをきちんと意識できていない論文です。そういう論文は、とりあえず分析っぽいことをしていますが、自分自身で論文の価値をうまく浮かび上がらせることができていません。「ほんで、どないやねん!!」と、ツッコミを入れたくなるのです。一応、冒頭の課題設定の節では、それらしいことを書いてはいるのですが、さっぱり理解できません。そういう論文の多くは、自分が闘う相手=敵手がわかっていないことが多いように思います。闘う相手が設定できても、ピントはずれな議論を展開して、闘う相手に深刻な打撃を与えることができていないばあいもあります。そうすると、結果として、分析の視点は焦点化していきません。これは大変困ったことです。比喩的な言い方をすれば、出汁が効いていない料理のような感じ…とでもいえばよいのでしょうか。

■もうひとつ、困ったことがあります。それは、一見、メタレベルを意識しているようでいながら、それが「借り物」であるばあいです。師匠である先生から学問的なトレーニングを受けるなかで、武道でいうところの「型」を身につけていきます。たしかに、それはメタレベルを認識する力でもあるわけです。「型」を身につけることは、その学問の「流派」の先人たちが蓄積してきた力をみにつけることでもあります。それはそれでよいのですが、下手をすると、そのあたりが無自覚なままになってしまう危険性があります。「型」のもっている「怖さ」も同時に知らなければ、単なる先生の「モノマネ」「サルマネ」のような論文になってしまいます。先生とは、扱う対象や事例が違ってはいても、わかる人が読めば、「モノマネ」「サルマネ」の論文にしか読めないのです。時々こういう話しを聞きます。「あの人たちは、どれを読んでみても、みんな同じようなかんじの論文しか書けないのだね…」と。

■「エピゴーネン」という言葉があります。「先行する顕著な思想や文学・芸術など追随をし、まねをしているだけの人。独創性のない模倣者・追随者を軽蔑していう語」のことです。そこまでいうと言いすぎかもしれませんが、自分自身の力でメタレベルを洞察し整理してほしいのです。とってつけたような学説史の整理や、「またそういう落とし所か…」(メタレベルの金太郎飴)というような感想をもたれてしまう論文は、あまり評価できません。こちらについても比喩的な言い方をすれば、スーパーやコンビニでよく売れている化学調味料で無理矢理まとめた味…という感じでしょうか。残念ながら「おもしろい研究」とは思えません。メタレベルで闘っていない論文は、おもしろくないのです。

■大学院生の指導に関して、次は、論文の構造ということについて書いてみたいと思います。

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