庭に秋がやってきました。

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◾️先週末は出張でした。出張というか、調査ですね。その出張から帰宅して、朝、庭の見回りをするとタマスダレが庭のあちこちで満開になっていました。トップの写真では、白いタマスダレの横でシュウメイギクも咲いていました。いよいよ、我が家の小さな庭にも秋の雰囲気が漂ってきました。中段左は、ムラサキシキブです。あの「源氏物語」の作者である紫式部と同じ名前です。元々は、ムラサキシキミと呼ばれていたけれど、名前が変わってしまった…と聞いていますが、どうなんでしょうね。写真のように紫色の実がなります(なんだか、「梅仁丹」のようですね)。このムラサキシキブの横には、ハギが植えられています。開花はまだですが、蕾ができていました。開花ももう時期ですね。タマスダレは、南米原産のヒガンバナ科の花のようですが、本家本元のヒガンバナの芽もグググッと伸びてきています。もうじき赤い花を咲かせてくれるでしょう。曼珠沙華。気温が下がり、庭の雰囲気も秋らしくなってきました。

◾️ただし、秋の素敵な花を楽しんでいるだけではありません、蛾の幼虫が大発生しています。ジューンベリーの葉が、改札を済ませた鉄道の昔の切符のように、なんだか変な形になっていました。下を見ると、何やら糞らしきものが。で、よーくみると、黄緑色の幼虫が大発生していました。イガラの幼虫です。下手に触る刺されてしまいます。それから、タマスダレにも黒っぽい幼虫が。ハマオモトヨトウの幼虫です。最近は、水やりをする必要がなくなってきましたが、その代わりにこれらの幼虫の駆除が朝の庭仕事になっています。

大津市制120周年記念企画展(第76回企画展)「60年前の大津」

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◾️大津市は市制120周年。私は今年、60歳、還暦になりましたが、その2倍ということですね。ということで、大津市歴史博物館では、「60年前の大津」という企画展を開催されるようです。このような企画です。

平成30 年10 月1 日、大津市は明治31 年(1898)の市制施行から120 周年、人にたとえれば「大還暦(2度目の還暦)」という節目を迎えます。今回の展覧会では、大津市が還暦を迎えた昭和33 年(1958)を中心に、高度経済長期を迎えて急速に変化する昭和30 年代の市内の移り変わりを、当時の写真や資料で紹介します。
 昭和33 年は、大津市にとって新たな出発となる年でした。戦後、米軍(進駐軍)によって使用されていたキャンプ大津が返還され、返還間もないキャンプA地区(現:皇子山総合運動公園)の体育館で、市制60 周年記念式典が行なわれました。
 この頃の大津市は、湖岸の埋め立てや山の手の開発などによる市街地の拡大とともに、学校や公共施設などの都市基盤の整備が急速に進められました。これらの様子は、当時の広報誌や市制60 周年の記念誌『還暦』などに多くの写真を使って紹介されています。まさに、現在の私たちが生活する大津の風景や生活の土台は、この頃にかたち作られていったといえるでしょう。
 また、本展覧会期間中のミニ企画展は「大津市制の120 年」と題して、明治31 年の市制施行から現在までを市町村合併を中心に、かけあしで振り返ります。加えて、期間限定ですが、西武大津店でも貴重なカラー写真の展示も予定しています。この機会に、これまでの大津市のあゆみについて理解を深めていただければ幸いです。

大津市制120周年記念企画展(第76回企画展)「60年前の大津」

大谷光瑞師遷化70年記念国際シンポジウム 「大谷光瑞師の構想と居住空間」

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◾️龍谷大学の龍谷大学世界仏教文化研究センター(RCWBC)と龍谷大学アジア仏教文化研究センター(BARC)の主催で、以下のシンポジウムが開催されます。

大谷光瑞師遷化70年記念国際シンポジウム「大谷光瑞師の構想と居住空間」

【日時】2018年10月6日(土) 9:30~18:00
【会場】龍谷大学 大宮学舎 東黌101教室

【プログラム】
〔司会〕三谷真澄(龍谷大学国際学部長)

〈開会の辞〉
(9:30~9:35)久松英二(龍谷大学世界仏教文化研究センター長)

〈基調講演〉
(9:35~10:15)入澤 崇(龍谷大学長)「大谷光瑞師のめざしたこと」

〈学術発表 セクションⅠ〉
(10:30~11:00)菅澤 茂(工学院大学研究員)「大谷光瑞師と建築空間」
(11:00~11:30)和田秀寿(龍谷ミュージアム学芸員)「二楽荘と神戸大港都構想論-大谷光瑞師がめざした神戸への思い」
(11:30~12:00)市川良文(龍谷大学文学部)「管見三夜荘」

〈学術発表 セクションⅡ〉
(13:00~13:30)柴田幹夫(新潟大学)「中国における大谷光瑞師の動向」
(13:30~14:00)加藤斗規(別府大谷記念館)「旅順大谷邸及び大連浴日荘」
(14:00~14:30)陳 祖恩(上海東華大学)「光瑞師と上海別院・無憂園」

〈学術発表 セクションⅢ〉
(14:50~15:20)黄 朝煌(国立高雄大学前研究員)「台湾・逍遥園と修復事業」
(15:20~15:50)イムレ・ガランボス(イギリス・ケンブリッジ大学)「欧州における大谷光瑞師の構想と居住空間」
(15:50~16:20)エルダル・キュチュキュヤルチュン(ボアジチ大学)「トルコにおける大谷光瑞師の構想と農業」
(16:20~16:50)掬月誓成(別府大谷記念館)「別府・観光都市計画と晩年の大谷光瑞師」

(17:00~17:30)〈コメント〉
(17:30~18:00)〈質疑応答〉
〈閉会の辞〉楠 淳證(龍谷大学アジア仏教文化研究センター長)

※上記発表者・発表題目は変更になる場合もあります。
参加無料 (参加希望の方は、下記までお名前と参加人数をお知らせ下さい)
barc@ad.ryukoku.ac.jp

主催
龍谷大学世界仏教文化研究センター(RCWBC)
龍谷大学アジア仏教文化研究センター(BARC)
連絡先 龍谷大学アジア仏教文化研究センター
TEL (075)343-3811

恐ろしい台風21号

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◾️琵琶湖の南湖の西側に住んでいます。昼前から、風も雨も強くなってきました。自宅からは琵琶湖南湖の湖面が見えますが、白い波も確認できました。しだいに風雨が強くなってきました。午後、台風は関西を通過していき、日本海に抜けました。私が住んでいるところは、今回の台風21号の進路の東側にあたります。台風の東側の風には、台風の進行するスピードが加わるのでより強くなると聞いていますが、その通り、昼からは大人になってからの記憶では「こんなの初め」というような暴風雨で、非常に恐ろしい台風でした。

◾️閉められる雨戸はべて閉めましたが、強風で雨戸が大きな音を立てました。近くの比叡山麓や比良山麓の中山間地域では、「避難準備」が出ています。これまでも、避難しないといけなくなるかもしれない暴風雨はありましたが、これほどひどくなかったのではないかと思います。庭の草木が強風に煽られて、まるで踊り狂ったかのように揺れ動いていました。家の前の道路には、どこからか飛ばされてきた「月極駐車場」と書かれたトタンの看板が転がっていきました。そのような強風で、家も少し揺れるわけですね。本当に怖かった。SNS等で知りましたが、阪神間では停電も起こったようですね。何らかの被害を受けられたにしても、最小限の被害でありますように。

【追記】◾️テレビニュースを視ると、あたこちで大変なことになっていますね。関空では浸水し、連絡橋にタンカーが衝突しました。神戸や芦屋でも高潮による浸水被害も出ています。驚きました。

叡山電車「ひえい」

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『わが街 わがふるさと 高倉台 高倉台団地15周年記念誌」

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◾️亡くなった父が最初に建てた戸建住宅は、神戸市須磨区にあった高倉山を切り崩して作った新興住宅地(住宅団地)、高倉台にありました。海と山に挟まれた神戸市では、山を切り崩して住宅地を建設し、切り崩した土砂で埋立地を造成してきました。国の補助金なしにこれらの事業を展開したことで、当時は「株式会社神戸市」と呼ばれるほど評価されました。もちろん、そのような評価は当時のものですが…。高倉台も含めて、須磨区には次々といわゆるニュータウンが建設されていきました。そのことについては、市役所のホームページで「須磨ニュータウンの歴史」として説明されています。その一部を引用してみます。

埋立用土砂は六甲山系の山から採取されることになり、昭和35年には鶴甲山、昭和37年には渦が森で工事が開始されていましたが、鶴甲と渦が森の土砂採取量だけでは、東部の臨海工業地帯を全て埋め立てる事は不可能であったことと、並行して西部の臨海工業地帯の造成も進めていたことから、高尾山と高倉山からも採取することになりました。

高倉山から東部工区への陸上輸送は、安全面からもコスト面からも不可能であるため、海上輸送に着目し、ベルトコンベヤとプッシャーパージ方式を、全国で始めての試みとして採用することになりました。このベルトコンベヤは平成17年9月に稼働が停止するまで、西神ニュータウンの造成や六甲アイランドの埋め立てにも利用されました。

◾️造成工事が終わり、高倉台が誕生したのは昭和46年(1971年)頃でしょうか。集合住宅と戸建住宅からなる住宅団地でした。宅地分譲は昭和47年から始まっています。我が家は、昭和49年の第4次宅地分譲に応募して高倉台に家を建てることになりました。私は、ここに9年ほど暮らしました(高校の途中から、大学院の途中まで)。我が家の工事が終わった時、まだ周囲には住宅があまり建っておらず、造成された土地と道路があるだけでした。今でも、ポツンと我が家が建っている風景を思い出すことがあります。

◾️ところで、最近、母が暮らしていた家の荷物を整理しましたが、その際に、写真のような「記念誌」を回収しました。これは、資料として貴重だなと思っています。この「記念誌」は、高倉台が生まれて15周年を記念して作成されたものです。タイトルは『わが街 わがふるさと 高倉台 高倉台団地15周年記念誌』。発行は、昭和61年(1986年)。ちょうど、私が結婚した年になります。表紙を見るとわかる人にはわかりますが、「昭和の香り」満載です。表紙の写真からは、コミュニティ活動として様々な行事が行われていたことが示されています。また、なんとなくですが、原武史の『滝山コミューン一九七四』なんかも連想してしまいます。日本の高度経済成長期以降の地域社会の変化を考える際に、役に立ちそうです。担当している授業でも活用できるかもしれません。

◾️高倉台は、当時としては活発にコミュニティ活動に取り組むユニークな住宅団地でした。母校・関西学院大学社会学部で都市社会学を教えておられた倉田和四生先生が、高倉台を調査して論文を書いておられます。「日本のニュ-タウン(近隣住区)とコミュニティ活動–千里と高倉台」(関西学院大学社会学部紀要 (42), p37-59, 1981-02)です。パラパラページをめくっていると、「関西学院大学の交換留学生、ロナルド・グル君(20歳)ら4人が、指導の海野道郎教授に率いられ、ニュータウンにおけるコミュニティー活動の実態を研究するために高倉台を訪れた」、との記述がありました。この交換留学生は、高倉台の活発なコミュニティ活動やコミュニティに対して学校の施設や運動場が開放されていることに驚いています。昭和58年11月11日のことです。ちなみに、海野先生は、数理社会学や合理的選択理論がご専門でした。私とは同じ社会学とはいっても、その細かな専門分野はかなり違うわけですが、それでもいろいろお世話になりました(ちなみに、海野先生は、その後、東北大学に異動された)。

◾️この高倉台を3年前に訪ねてみました。当時は今のような「超高齢社会」(あるいは「超超高齢社会」)のことなど、誰も考えていなかった。須磨のニュータウンのことについても調べてみました。全国のニュータウンと同じく、厳しい状況にあるようです。3年前に訪問したときのことは、このブログに「神戸・須磨ニュータウン」としてエントリーしています。そのうちに、この記念誌をきちんと読んでみようと思います。

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