城野団地

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■施設に入所している母の家の中の整理をしていると、このような写真…というか絵葉書が見つかりました。これは、私が1964年4月から1968年3月まで暮らしていた団地です。日本住宅公団が建設した城野団地です。福岡県北九州市の小倉区(現在の小倉北区)にありました。この絵葉書、私の推測でしかありませんが、この団地に住んでいる住民の皆さんに配布されたものではないかと思います。ちょっと残念なことに、マジックインキで何やら矢印の線が書き込んであります。この意味は、私にはよくわかりません。団地の集会所と花壇、そして最寄りの西鉄バスのバス停(三艆丸)か近くの小さなスーパーマーケット「丸は」のあたりを指していますが…。

■城野団地には、5階建と庭のついたテラスハウスの2種類の住宅がありました。5階建の方の間取りは、多くは3Kと呼ばれるタイプだったのではないかと思います。団地サイズの小さな畳でですが、6畳の部屋と4畳半の部屋が2つ、加えて板の間のキッチン…という小さな間取りです。私の家も、この「3K」でした。確か、「2215」というのが私の家の番号でした。22棟の1階の左から5番目ということですね。

■この写真=絵葉書を見ると、当時のことがいろいろ思い出されます。団地の外に出て遊んでは絶対にいけないと厳しく言われていたので、団地の中を自転車で走ったり、団地の中央にあるグランドに隣接する公園等で遊ぶことが多かったように思います。グランドでは、盆踊り、運動会、ラジオ体操、映画の映写会…様々な行事が行われていました。グランドに隣接する集会所では、お稽古事の教室が開かれていました。書道や絵の教室、バレエの教室…。私も、書道と絵の教室に通っていました。

■それから、5階建の住宅の間にあるコモンスペースも大切な遊び場でした。シロツメクサが一面に咲いていました。一度、大雪が降ったことがありました。九州ですが、玄界灘に面している福岡の北の方は積雪することがあるのです。その積もった雪で、大人も手伝って「カマクラ」を作ったことも記憶しています。今のように、刺激的なオモチャがあるわけではありませんから、自分の想像力を最大限に膨らませて遊んでいました。

■以下は、以前のエントリーに書いたことからの転載です。

団地に隣接する三郎丸の聾学校(現在の福岡県立小倉聴覚特別支援学校)が写っています。時々、こちらの学校の生徒さんに散髪をしていただきました。理髪の技術を身につける実習のような位置づけだったと思います。近くには、元々米軍基地だった自衛隊基地(松本清張の小説で知られる)がありました。鉄条網で囲まれて、中には歩哨の自衛隊員が銃をもって歩いていました。ドキドキしながら、近所の子どもたちとそばによって話しかけたこともありました…。近くには民族学校もありました。そこでは、赤いネッカチーフをまいた在日の少年少女たちが、左右に腕をふりながら並んで行進の練習をしていました。そのときは、素朴に、自分たちの運動会の練習とはずいぶん違うなあと思いました。まだ、帰還事業が行われていました。少し離れたところには、廃線になった線路がありました。かつて炭鉱につながっていた線路です。石炭を満載した貨車が走っていたのでしょう。私の少年の時には、すでにエネルギーは石油が中心になっていました。そういう時代でした。

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