「アフターコロナ好機に大学のデジタル革新が始まる。消える授業、残る授業」という記事

■Twitterで、「アフターコロナ好機に大学のデジタル革新が始まる。消える授業、残る授業」という日刊工業新聞の記事を読みました。科学技術部・論説委員兼編集委員の山本佳世子さんの記事です。この記事の最後は、こう締め括られています。

一部の大学では学生の多様な事情に対応すべく、同じ授業を対面とオンラインで展開する例が出ている。しかし教員の負担が重く、大学の経費もかかるだけに定着は難しい。「やはり対面中心に」という揺り戻しもあるとみられる。その中で「かくあるべきだ」の教育論だけでなく、デジタル技術で取得されるデータを活用し、学修者である学生本位の教育改革が進むことが期待されそうだ。

■山本さんは、コメントとして次のように述べています。

オンライン授業で認められる単位数が増え、大学設置基準で定められている学生収容定員に対する専任教員数の縛りは緩くなる―。この大変化は近いうちに確実に起こる、と私はにらむ。実際に今回のオンライン授業導入で、某一流大学の理系教養科目では、同じ科目を担当する4人の教員の実力差(優れているのは1人だけ)が明らかになってしまった、という話を耳にした。オンラインならその1人の教員で十分となるだろう。研究力評価で四苦八苦するのは理系教員が中心だったが、教育力評価で授業をみるとなると、数多い私立大文系教員にも大事で、「十年一日のごとく」の授業は消え去るだろう。学生本位の教育のためには、好機であるのは間違いない。

■オンライン授業が当たり前になると、対面式授業に伴う物理的な縛りを緩くすることになります。論説委員の山本さんが言っているように、教員は今ほど必要なくなる…のです。教員は選ばれることになります。さらに言えば、人件費は縮小していくことにもなります。ただし、オンライ授業を受講するたくさんの学生たちに、毎週のように学生にレポートを提出させて、ひとつひとつにコメントを入れていくような丁寧な指導をしていると、教員は大変なことになっていきますね。学生から見れば、ライブでの講義は別にして、オンディマンドであれば自分の都合のつく時間に講義を受けることができる。学びたい授業が、例えば、水曜日の2限に重なっていても、オンディマンドであれば問題ないことになります。

■大学の授業は講義形式だけではありません。演習や実習はどうしていくのか。ケースバイケースでしょう。慣れてくれば、ゼミもオンラインでできないわけではないことがわかりました。今も実際にやっていますけどね。学生によっては、こちらの方が自由に発言できるという人もいるのです。演習室という狭い部屋で20人ほどの学生がいると、その場が生み出す雰囲気に緊張する人がおられるのです。この辺りが、難しいですね。

■私立大学の文化系学部だと、普通に真面目に勉強していれば、4年生になれば卒業するのに必要な残りの単位はゼミと卒論だけということになります。もっと関心のある授業を履修して勉強したらよいのに…という意見もあるでしょうが、就職活動もあるし、別のことに時間を取られます。いろいろ忙しいから、わざわざキャンパスに行かなくても、自宅でゼミを受講できれば交通費がかからないし、時間も有効に使えてありがたいという人も現れるでしょう。通学にも時間がかかりますからね。下宿をするとさらにお金もかかります。仮に図書館の書籍がオンラインで読むことができれば「さらによし…」ということになるのでしょうが、まだこの辺りはなかなか…のようです。こうやってみてくると、オンラインでやりにくいのは、実習ということになります。もっとも、実習の内容にもよりますね。地域社会と連携しながら進めるような実習などは、かなり困難かと思います。

■さてさて。こうなってくると、これまでの投稿でも書いてきたことにも重なりますが、学生にとっての大学という「場所」の意味や価値は、おそらく今とは違ってくるでしょう。揺らいでいくことになると思います。今は、急に環境が変化したことから、「友達と会えなくて寂しい」と学生さんたちは言うわけですが、コロナ禍が収束した後、仮にオンラインが一定程度カリキュラムの中で存在感を持つようになると、大学での友人関係も、今とは異なるものになってくるような予感がします。課外活動にも大きな影響を与えることになるでしょう。でも、それがいつになるのか…。よくわかりません。

■よくわからないのですが、さらにオンライン化が進んでいくことがあっても後退することはないような気がします。それを押し進めるのは、「学生本位の教育」という考え方です。大学側が学習する内容をカリキュラム、そして学科やコースという制度の中で決められる…のではなく、「学生が本気になって学びたいことがあり」、そのために学生自身が自らの意思で「学びを積み上げていく」、そのような方向に変わっていくことでしょう。新自由主義的な思想が浸透した社会を背景に、学びについても個人化が進んでいくことでしょう。誰に指図されるのでもなく、自分で選択し決定できるのです。

■ただし、「学生が本気になって学びたいことがあり」ということが前提になるように思います。学びたいことがあってもなくても、そのような前提で大学の学びやカリキュラムが再編成されていくと、今度は、何を学んでよいのかわからない人にとっては、「選択の圧力」という負荷がかかってくることになります。高大連携や初年次教育の中で、自分自身と、そして教員としっかり対話をして、「自分は何を学びたいのか」をはっきりさせなければなりません。以上のことは学部教育の話なのですが、オンライン化は、大学院に社会人院生として入学されてくる皆さんには都合が良いものになるでしょう。すでに専門職大学院等では、このようなオンラインが当たり前になっていると思います。龍谷大学大学院も積極的にオンライン授業に取り組むと良いのではないかと思いますが、はたしてどうなるでしょうね。

■もう一度の学部教育の話に戻りましょう。ここまで述べてきたようなことと同時に、おそらく大学の中での人と人とのつながり(友人関係、教員・学生の関係)は、身体を伴ったものではなく、オンライン上の人格(アバータのようなものか…)を通したつながりに比重を移していくことになるのでしょう。とはいえ、そのあたりのことが、まだよく見えません。友人と語り合い一緒に学ぶ、協働しながら学ぶ、そのような経験や教育上の意味も大学での学び全体の中で、これまでとは違う位置づけになってくる可能性があります。加えて、地域連携等の実習科目です。私は、「大津エンパワねっと」を含めて、地域連携に熱心に取り組んできました。オンライン化が進むからこそ、地域との連携をしっかり取り組まねばならないと思っています。

■問題は、その変化のスピードと、オンライン化を進めることによって生まれる、(その時になってみないとわからない…)負の部分です。オンライン化を進めたい方達の視野のなかは、このような負の部分は入ってこないでしょうね。負の部分ってなんでしょうね(古典的な社会学の用語で言えば、意図せざる結果、潜在的逆機能…ということになるでしょう)。前提になんらかの価値判断があるから負になるわけですが、どうすれば、そのような負の部分を緩和できるのでしょう。そのような負の部分を常に意識しながら、オンラインをカリキュラムの中に、どうやって「巧く」取り込んでいくのか、きちんと考える必要があるように思います。個人的には、オンライン授業がコロナの間の、対面式の授業が復活するまでの代替手段として捉えているとまずいことになると思っています。昨日も、ある会議でそのようなことを言ったのですが、反応はイマイチでしたね。

【追記】■中原淳さんのブログ。「あなたの組織には「元に戻しましょうオバケ」が出現していませんか?:「これからの大学」が必要とするオンライン戦略とは何か?」
・コロナ禍をきっかけに「大学の学びの革新」を行おうとする「オンライン戦略の欠如」
・まぁ、対面に戻れるんだから、ここはみんな平等に戻りましょうよという「悪しき平等主義」
・カリキュラムをいじるのは面倒くさいという「怠慢」

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