高松市の屋島

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■先週のことになりますが、高松に2泊3日で出張してきました。その時、ふと気がつきました。宿泊したホテルの窓から東の方を眺めると、何やらテーブルのような不思議な形をした山がありました。大変お恥ずかしい話ですが、これが有名な屋島なのかときがついたのでした。これまで何度か高島に来てはいるのですが、情けない話です…。屋島と言えば、私はにとっては、まず古戦場ということになります。平安時代末期に起きた「治承・寿永の乱」、いわゆる源氏と平氏の一連の戦いのひとつである「屋島の戦い」がおこなわれました。平氏は、この「屋島の戦い」で源氏に敗れ、現在の山口県の彦島に撤退し、最後は「壇ノ浦の戦い」で滅亡します。「平家物語」の中では、この「屋島の戦い」で、源氏側の弓の名手である那須与一が、平氏側の船上に掲げられた扇の的を見事に射抜いたという有名な話が登場します。高松市のマンホールは、その「扇の的」の場面をデザインしたものです。
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(この屋島の全景の画像は、「ウィキメディア・コモンズ」より)

■屋島はもともと島でした。江戸時代に干拓や塩田等がおこなわれた結果、陸続きになりました。下の画像をご覧いただければ分かりますね。「+」のカーソルの記号があるところに「標高283.05m」とあります。これかカーソルを置いたところの屋島の標高です。屋島の東側は、深い入江になっています。もともと島だった頃は、さらに深かったと思います。調べてみると、平安時代末期、平家はこの深い入江を船団の基地にしていたようです。そういうことを調べて「なるほど…」と納得しつつ、屋島の形がどうしてあんな平なんだろうと改めて不思議に思ったのでした。これも調べてみると、屋島のような地形は、地学の分野ではメサと呼ばれるようです。これは,「水平な硬岩層が侵食に抵抗して生じた平坦な頂面と、周縁の急な崖とをもつ台地の地形」とのことです。
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■もう少し広い範囲で見てみましょう。これは讃岐平野です。よくみると、円錐形の小さな山があちこちにあることがわかります。この中でも、飯野山(讃岐富士)、白山(東讃富士)、六ツ目山(御厩富士)、堤山(羽床富士)、 高鉢山(綾上富士)、爺神山(高瀬富士)、観音寺町の江甫山(有明富士)は、「讃岐七富士」と呼ばれているようです。これらの山も、火山活動で生まれた硬い岩石がキャップのようにあるために、侵食せずにこのような形になっているようです。車で瀬戸大橋を渡ると、まず飯野山(讃岐富士)が目につきます。その形は、まさに讃岐の富士山ですね。このように山があちこちに見える讃岐平野は独特の雰囲気を醸し出します。なんといいますか、昔話の絵本に登場するような可愛らしい優しい雰囲気なんですね。本当は、こちらの私鉄である「ことでん」に乗りながら、このようなおにぎりのような山がある田園風景(たくさんのため池もあります)を楽しんでみたかったのですが、出張のため、そのような余裕はありませんでした。残念。
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