シュテファン・ツヴァイクの『書痴メンデル』
▪︎以下は、facbookに投稿したものに、少しだけ加筆したものです。
———————-
▪︎通勤の電車のなかで、学生時代の英語のN先生のことが、どういうわけか記憶の奥底から浮かび上がってきた。N先生は、厳しいことで有名だった。私のいた関学の社会学部には、英語のN先生、ドイツ語のH先生、フランス語のK先生が厳しいことで有名だった。3人あわせて「社会学部のNHK」と学生からは呼ばれていた(K先生は、噂ほど厳しいとも思わなかったが…)。
▪︎思い出したのは、N先生の授業で使われていた小説である。シュテファン・ツヴァイクの『書痴メンデル』。ツヴァイクはオーストリアのユダヤ人だから、原文はドイツ語だ。それを英訳したものがテキストに使われていたのだ。今時の大学だと、教養教育で使うテキストではないような気がするが、どうだろうか…。
▪︎大学2回生だった私たちが、英文の『書痴メンデル』をスラスラ読んでいたかというと、全然違う。ある意味、耐え難きを耐え、忍び難きを忍び、仕方なしに辞書を引きながら苦労して読んでいた。テキストは、書き込みでいっぱいだったように思う。
▪︎『書痴メンデル』のあらすじ。書痴。現在ではあまり使わない言葉だ。「読書ばかりしていて世事にうとい人。書物収集狂。ビブリオマニア」という意味だ。記憶のなかにある「あらすじ」。ヤーコブ・メンデルは、本に関することはすべてを知っている。どんな情報でも、彼に聞けばスラスラと出てくる。そういう人物だ。しかし、彼は、第一次世界大戦が起きていることを知らない。世の中大騒ぎなのに、自分の頭のなかの本の世界に埋没している。世の中からズレているのだ。ズレているので、本の問い合わせで敵国に手紙を送ってしまう。そのことからスパイと疑われて逮捕される。知識人に尊敬されていたメンデルだっだか、そこから彼はどんどん転落していく…。おそらくは、授業ではテキストを全部読み通していないと思う。後半のあらすじは、後付けの知識のようにも思う。
▪︎多くの読者は、メンデルのことを滑稽だと思いつつも、彼が転落していく人生を通して、生きることの深い哀しみを感じるだろう。小説を読み進めていくうちに、哀しみが自分の体に染み込んでくるような…、そんな感覚に陥るだろう。もちろん、大学2回生の私たちに、そのような話しなど理解できるはずもなかった。『書痴メンデル』、私たちはN先生から英語のテキストを読まされたが、優れた翻訳も出ているので、手にとってお読みいただければと思う。
▪︎こんな細かなことも思い出した。小説のなかに、レジスターが出てきた。スーパーのレジにある、あの機械だ。ある学生が「レジスター」と訳したら、N先生は許さなかった。正しくは「金銭登録機」というのだと訂正をさせた。困惑したその学生。気の毒に思った私…。段落ごとに、順番に学生が翻訳をしていく。そういう授業だった。
▪︎N先生は、関学のあの「スパニッシュ・ミッション・スタイル」の明るいキャンパスが大嫌いだった。ご本人は、関学のご出身だったのだが。そのあたり、どうしてなのかわからない。能天気にテニスだスキーだと遊び惚けている学生たちに厳しかった。N先生のなかでは、「あるべき大学像」があったのかもしれない。
▪︎ところで、どうして通勤電車のなかで、N先生のことや、ツヴァイクの『書痴メンデル』のことを思い出したのか、自分でもよくわからない。N先生のことや、彼の授業が好きだったわけではないのだが、自分の記憶というよりも身体のなかに残っているのだ。不思議だ。大学改革が声高に叫ばれている。議論はいろいろだが、このような経験も、年をとってからも反芻することのできる経験が、今の大学には必要なのではないのか…と、ふと思ったのだ。