いい専門家とは

201505132gokan.jpg
▪︎朝日新聞の連載「折々のことば」、現在は、哲学者の鷲田清一さんが執筆されています。私、このコラムのけして良い読者ではありません。若い友人であるSさんが、時々、気に「折々のことば」をfacebookにアップしてくれています。先日、アップされたのは、以下のものです。

いい専門家とは、いっしょに考えてくれる人のことです。

フォーラムの参加者

 福島の原発事故後に開かれたフォーラムで、知人が会場の人たちに「どんな専門家がいい専門家ですか」と問いかけた。返ってきた答えは、高度な知識を有する人でも、責任をとってくれる人でもなく、これ。社会のエネルギー源は専門家だけでは解決できない難問の一つだ。専門家も専攻分野に引きこもっていてはだめ。だれもが当事者であることを免れえないからには。(鷲田清一)

▪︎専門家ってというと、普通は、「高度な知識を有する人」だと考えられています。そして、何かあったときには、その高度な知識にもとづいて「こうすればよい」と指示してくれる人。そして、最後は何かあったら「責任をとってくれる人」…。ここには、ある種のパータナリズムや専門家とそうでない非専門家との「共犯関係」もみえてきます。鷲田さんは、原発事故に関連するフォーラムに参加した人の発言に注目します。「いっしょに考えてくれる人」。この「いっしょに考えてくれる人」に関して、facebookのコメント欄でSさんと少しだけやりとりをしました。この「いっしょに考えてくれる人」とは、もちろん「特定の意見やステイクホルダーに汲みして他者への対抗手段を考える」人でもないし、また「一方で外野から評論家的な意見を発する」ような人でもないわけです。前者においては、時として、対抗手段を考えることが目的で、特定の意見やステイクホルダーの存在は、そのための手段である、そのようなことが透けてみえてきたりします。こういう人には、うんざりましますし、時として危険であると思います。また、後者の方は、ステイクホルダーを苛立たせることになりがちです。

▪︎もうひとつ、Sさんが取り上げた「折々のことば」を見てみましょう。

スキルと呼ばれるものは、隣の芝生に行って発揮されなきゃ実はだめなんじゃないか。

小山田徹

 アーティストがアートの分野で突きつめた表現をするのはあたりまえ。異なった分野に出かけていって、アートの分野で培った技をそこに翻訳し、活用できてはじめてそれはスキルとなる。アーティストとは隣の芝生に行けるパスポートを持っている人のことだ、とこの美術家は言う。宮城県女川町で試みた「対話工房」での発言。これは博士号についても言えること。(鷲田清一)

▪︎私は、この「対話工房」のことを知りませんでした。少し調べてみました。東日本大震災で被災した宮城県の女川町で、「失われた『表現と対話の場』を人々の日常に取り戻すために、様々な地域から様々な分野の表現者が集まって、現地の人と共に活動」することを目的にされています。この小山田さんのことば、「隣の芝生に行って発揮されなきゃ」というのは重要だと思います。私のように、「自分の専門領域のなかだけで、偉そうにしていても、結局、何もできないやん…」と心底思ってしまっている人間には、ビンビン心に響いてきます。異分野に出かけて自分がもっているものがスキルとして評価されるとき、必要とされるとき、なんらかの具体的な「現場」のなかで(あるいは「現場」のコンテクストにおいて)、意味のコミュニケーションが生まれます。そのこようなコミュニケーションからは、創発的に新しい価値も生み出される可能性が高まる…そういうふうに思うのです。

(写真と本文とは、特に関係はありません。)

管理者用