宮沢賢治の「幸せ」と「死生観」
■先日、7月24日の朝日新聞(朝刊)の「リレーおぴにおん」に、宮澤賢治の弟・清六さんの孫である宮沢和樹さんが登場されていました。とても興味深いご意見でした。
■賢治ファンの皆さんが、宮沢賢治を聖人や偉人のような存在に位置づけようとする傾向を「違う」と否定されます。「賢治さんは失敗のほうが多かったといってもいい」とも語っておられます。賢治の作品を「悩みを抱えた人間が書いたもの」という視点で読むことではじめて「真の価値」が見えてくるというのです。この「おぴにおん」の後半部分では、賢治の「幸せ」観や「死生観」について語られています。
自分自身や他人に対して、何か後ろめたいことをしていると感じたら幸せにはなれない。ならば、どう生きるべきかと、考えさせてくれます。
現代人の死生観にも訴えるものがありますね。童話では登場人物が死んでしまったり、八パーエンドでなかったりします。それでも基本的には明るいと思いませんか?人はみな、いつか死ぬ。じゃあ、何もかもなくなってしまうのでしょうか。銀河鉄道の列車は時空を超えてどこまでも走っていく。そのよう「意識」のようなものは残り、終着点はない。死は悲しいことだけど、同時に悲しいことじゃない。
■とても大切なことをおっしゃっておられる。死ぬ前の段階で、「死は終着点ではない」というイメージやリアリティをもつことができるのかどうか、とても大事なことだと思います。このようなイメージやリアリティをもつことができなければ、「底なしの真っ暗闇に吸い込まれていく…そして消えていく…」、そのような恐怖しか存在しないからです。よく、「死んだらすてべて無くなる。自分もただの物質に戻っていく(たとえば…遺骨)」という発言も聞きます。しかし、そのようなイメージも、現代科学の、たとえば生態系やそのなかでの物質循環のイメージを媒介にしながら、死後をイメージしようとされているのだと思うのです。
■フォロースルーという言葉があります。調べてみました。「野球、テニス、ゴルフなどの球技で、ボールを打ったり投げたりしたとき、そのプレーの流れとして後まで続いていくからだの動き」のことだそうですね。死の瞬間が、バットにボールが当たる瞬間、ラケットにボールが当たる瞬間、ゴルフのクラブにボールが当たる瞬間と考えるならば(実際には、死は瞬間ではなく一定の幅をもった時間と考えたほうがよいと思っていますが…)、死は生の終着点と考えるのではなく、死は生との連続線上にあるものとして理解できます。現世と死後のイメージとが連続しており、通常私たちがいう死とはその経過点にしかすぎなくなります。そうでないと、今、生きているこの瞬間が「幸せ」にはなりません。この続きは、また別のエントリーで。