他者の他者性
▪️今日は、2回生対象の社会学基礎ゼミナールで「杉岡先生を偲ぶ」というタイトルの高田文英先生(文学部・真宗学科)の講演録を読みました。『りゅうこくブックス 今ここの苦によりそう』138(龍谷大学宗教部)に収録されています。杉岡孝紀先生は、実践真宗学研究科で「宗教実践演習」を担当予定だったようですが、病気でお亡くなりになり、そのあとを高田先生が代わって担当されました。シラバスに書かれたテーマは「真宗他者論」でした。杉岡先生がお亡くなりになったので、履修予定者の院生のみなさんはそういうことであればと、他の先生の演習に変更されたのですが、お1人だけ「真宗他者論」を学びたいということで、高田先生はその院生の方と2人で演習をされたようです。贅沢な話ですね。
▪️この講演録、2回生のゼミ生の皆さんにも大変前向きに受け止めてもらえました。ゼミのテキストのひとつとして利用させていただいたわけですが、よかったなと思っています。
▪️高田先生は、杉岡先生の問題意識について、このように書いておられます。真宗学においては「他者との関係」ということが見過ごされてきたのではないかという問題意識です。もちろん、浄土真宗は阿弥陀如来との直接的な一対一の関係が根本ですが、親鸞聖人は「あらゆる諸仏や菩薩たち、天の神や地の神など」も信仰の中に位置づけられているし、異なる考えの信仰や、それを信仰する人々との関係性についても、考えを巡らしていたというのです。知りませんでした。杉岡先生は、阿弥陀如来と私という関係性が信仰の中心であっても、「それが全てのように捉えることで、その他の私たちを取り巻く様々な存在との関係というものが捨象されがちになっているのでないか」とお考えだったのです。
他者は私が決して理解することのできない存在である。その理解できないという事実を無視して、勝手に自分のなかで理解したつもりになるのならば、それは相手の独自性を抹殺することであり、それは暴力に他ならない。
▪️杉岡先生は、「他者は私が決して理解することのできない存在」と捉えておられました。それを「他者の他者性」と概念化されていました。フランスの哲学者エマニュエル・レヴィナスの他者論の思想からも学びとられていました。「他者の他者性を廃棄することは暴力になつながる…」、高田先生は杉岡先生のこの指摘をご自身の経験のなかで反芻されています。「『私は相手のことが分かっている』という思いが相手を傷つけ、相手の声を抹殺していく、そうしたことにも繋がってしまう」わけです。
▪️でも、それではどうすればよいのか、すぐにそのような指摘が出てきそうです。高田先生は以下のように話されています。
決して他者を理解することはできないという認識は、一見否定的で、あまり生産的なことではないように思ってしまいます。しかし、心のどこかでこの他者の他者性に思いをいたすことが、逆説的ですが、相手の思いを受け止めていく可能性を開いていく。とくに宗教信仰は一面において、独善的な排他主義に陥りやす危険性を孕んでいる。浄土真宗はそこを省みながら、具体的な事柄に対応していかねばならない。杉岡先生はそういうことをおっしゃっているのであろうと、私は理解しております。
▪️ここで大切なことは、「他者の他者性」という自分の物差しでは捉えきれないものをもっているということを常に前提として、相手の思いを受け止めていく…ことなのでしょうが、これはとても困難なことなのだろうなと思います。高田先生は、杉岡先生のお考えは、「他者の他者性ということを認識し、そこに耳を傾けること」だと述べておられます。
▪️もうひとつこういう大切なことも指摘されています。
他者の他者性を対象化するということ、それは裏返して言えば、私自身の愚かさを対象化するといてことでもあろうと思いますが、それは、自分は分かっていると自己完結してしまう在り方ではなく、他者の声を聞き続けるという、外に開かれた在り方を志向するものと言えます。
▪️龍谷大学の行動哲学は、「自省利他」です。他者のために何かを行うことは「利他」ですが、前半の「自省」の部分に、このか「他者の他者性」が深く関わっているのだと思うわけです。それがなければ、「利他」は暴力になってしまう危険性を孕んでいます。また、この「他者の他者性」という概念を根本におくと、様々なディシプリンの間に対話が生まれてくるような気もします。社会学部が移転した深草キャンパスで、そのような動きが生まれてくると素敵だなと思っています。