神戸へ

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◾️亡くなった母の年金を支給停止にすることに関して、母の住まいの地域を所管している年金事務所に電話をしました。そうすると、母が住んでいた地域を所管する事務所ではなくて、大津の事務所でも良いということを教えてもらいました(そうか、知らなかったな)。ただし、住民票とか戸籍抄本とか、諸々の書類を発行してもらうために、あちこちをウロウロしなくてはいけません。また、年金事務所から送られてくる書類に記入をして提出しなくては行けません。事務的なことは先週でお終いと思っていましたが、来週以降にも続きそうです。

◾️喪主になるのは、今回で2回目です。父と母の2回だけでもう十分なわけですが、父や母の看病や介護、亡くなりそうになる直前の段階から亡くなった後のいろんな手続きや供養に至るまでを含めて、いろいろ勉強させてもらったような気がします。先週は、母が入所していた老人ホームの居室から荷物を撤去しました。その次の日は、暮らしていた自治体の役所で様々な手続きをしました。次から次へと担当者がやってこられて、丁寧に説明をしてくださいましたので助かりました。落語の「善哉公社」のような、たらい回しになることはありませんでしたが、よくわからない事ばかりでした。助かりました。人は、様々な制度に登録されています。当たり前のことですが、いろんなことに気がついたり、改めて認識したり…。そういう経験を文字化して、子どもたちに伝えておく必要があるんじゃないのか。今、そういうふうに思っています。エンディングノートには、そういう子どもに向けたマニュアルのようなことを書いておく部分はあるのかな…。いろいろ介護や看取りの本も出版されていますね。自分自身の介護、看取り、葬儀、亡くなった後の諸々のこと。勉強して、子ども達と共有しておこうと思います。子ども達からすれば、私の生きている間にそういう勉強をすることは、なんだか気がすすまないことでしょうしね。親の介護が終わったので、次は自分の終活をきちんとできるようにしなければなりません。

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20190114kobe6.jpg◾️毎日、亡くなった母のことであちこちに移動しているわけですが、一昨日の土曜日は神戸に行ってきました。神戸に本籍があるからです。必要だったのは戸籍抄本ですが、JR三宮駅に隣接するビルに市役所のサービスコーナーがあり、休日でも受け付けてもらえることがわかりました。ただし、当日の発行にならないとのこと。発行は、火曜日以降になるとのことでした。ちょっとがっかりでした。ということで、せっかく神戸に来たからと少し街をぶらついて帰ることにしました。まずは、市役所の展望台に登り、高いところから自分の故郷である神戸の街を見渡しました。私の記憶の中にある故郷・神戸の街は、阪神淡路大震災以前のものですから、海と山に挟まれたその地形は変わらないにしても、街の雰囲気は随分変化してしまいました。展望台から神戸の街を眺めた後は、東遊園地に行きました。もちろん「慰霊と復興のモニュメント」へ。この日は、市内のたくさんの中学生たちが集まって、「1.17希望の灯り」から火を分けてもらっていました。何かのイベントの一部ですね。おそらくは、17日に開催される「阪神淡路大震災1.17の集い」の関連かと思います。次に神戸に来て戸籍抄本を受け取るのは17日になるので、また東遊園地に行ってみようと思います。

◾️そのあとは、元町の中華街に行きましたが、人混みが嫌でそこから外れてみると、有名な「ぎょうざ専門店 赤萬」が目の前に。ここで遅い昼食をいただきくことにしました。神戸の餃子は味噌ダレでいただきます。有名店だけあって、かなり美味しいと思いました。そしてデザートは、大学時代に所属していた関西学院大学交響楽団の後輩である採田くんが経営カフェに行きました。「フルーツカフェ サイタ!サイタ!」です。以前から、噂に聞いていたフルーツサンドを、この日、やっといただくことができました。これも美味しかったな〜。みなさんも、ぜひ「フルーツカフェ サイタ!サイタ!」へ。母の通夜や葬儀が終わり、ちょっと故郷の神戸で休憩です。
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母のこと

20190111funeral.jpg ◾️新年4日の晩から、娘の一家が我が家にやってきました。もちろん、可愛い孫も一緒です。今回は、人見知りもなく、娘夫婦があらかじめ画像や動画で私のことを事前学習しておいてくれたおかげか、笑顔で「おじいちゃん」と言ってくれました。一緒に、積み木でも遊びました。アホのように見えるでしょうが、私自身は、大変幸せです。

◾️5日は、その娘夫婦と孫、そして息子や妻と一緒に老人ホームにいる老母を見舞いました。というか、見舞う予定でした。ところが、朝、老人ホームから連絡が入りました。血液の酸素量や血圧が下がっているので病院に搬送するというのです。母は、先々月あたりから、かなり弱ってきていましたが、とりあえず、救急隊員の方達の処置で少し持ち直したようです。病院に駆けつけて母を見守りましたが、幸いなことに、母の様子が落ち着いてきたということで昼過ぎに老人ホームの方に戻ることになりましたが、老人ホームに戻った母が喋ることはありませんでした。意識があるようにも思えませんでしたが、孫たち(息子と娘)が一生懸命声をかけて見舞ってくれました。意識がないように見えてはいましたが、ひょっとすると、孫たちの声が聞こえていたのかもしれません。

◾️見舞った後は、老人ホームの側と「看取り」についての合意をしておくことにしました。滋賀医科大学の医師から、「いつ亡くなっておかしくない。まだ2年先まで生きておられるかもしれない。いつ亡くなられるかはわからない。だからこそ、お母様の延命治療をどうするのか老人ホームの側ときちんと相談をして欲しい」とのアドバイスをいただいたからです。ただし、「看取り」の協議については隣接するクリニックの医師の同席が必要とのことで、正月の休み明けに、その協議を行うということになりました。

◾️朝から大騒動でしたが、ひとまず、母を見舞った私たちは遅い昼食を摂るため老人ホームの外に出ました。そして昼食を摂っている時、老人ホームの方から私の携帯電話に連絡が入りました。今しがた、母が息を引き取ったというのです。孫たちに会った直後だったこともあり、大変驚きました。本当のことはよくわかりません。都合の良い考えかもしれませんが、孫に会って、孫の声を聞いて、安心して息を引き取ったのではないかと思います。享年86歳でした。7日に通夜を、8日に葬儀を相済ますことができました。家族と親戚だけの小さな葬儀でしたが、生前母が私によく言っていた通り、葬儀会社には、明るい華やかな洋花で祭壇を飾っていただきました。葬儀の後は、孫も含めて家族や親戚の皆さんと、母の棺を鮮やかな花でいっぱいにしました。

◾️葬儀の後は、比良山系の麓にある火葬場に。天候も晴れ。少し暖かい日でした。母のご遺体がお骨になるまで親戚の皆さんから、それぞれの方の母の思い出をたくさんお聞きすることができました。炉から出てきた母の遺骨については、女性の職員の方が、大変丁寧にご説明くださいました。まるで人骨の講義をされているかのように丁寧にご説明くださいました。その中で、「指仏」という言葉を知りました。指先の骨なのだそうです。「お母様は、手先がご器用でいらしたのでしょうね」と職員の方が言われました。たしかに。和裁、洋裁、編み物が好きでしたし、料理も好きでした。おそらくは母のお骨上げをしてくださった家族や親戚の皆さんの記憶に残ることでしょう。お骨上げ。それを見ていた孫も自分でやってみたかったようですが、1歳9ヶ月でまだ少し小さいわけで、ちょっと無理ですね。ごめんね。おじいさんの時には、ぜひよろしくお願いします。

◾️9日は亡くなった母が入所していた老人ホームに行って、母の居室から荷物を引き上げてきました。母が使っていた電動式の介護のベッドとリクライニングの車椅子については、ベッドは福祉団体に、リクライニングの車椅子は老人ホームに寄付させていただきました。考えてみれば、母のことについては、この10年間で実に多くの皆さんのお世話になってきました。その方達のお顔が頭に浮かんできます。地域包括支援センターの職員さん。介護保険のケアマネージャーさん。ヘルパーさん。訪問看護師さん。いろいろ支えてくださったご近所の皆さん。病院の医師や看護師の皆さん。老健の職員の皆さん。最寄りの役所の職員の皆さん。老人ホームの職員の皆さん。司法書士の先生。それから妻をはじめとする家族や親戚の皆さん。最後は、葬儀会社の社員の皆さんや火葬場の職員の方にも。お一人お一人の方達に、母のことに関していろんなことをお話しし、ご相談してきました。その時々、皆さんからの親切で優しいお言葉から、どれだけお力をいただけたかわかりません。また、facebookにも母の介護のことを投稿してきましたが、fbの友達の皆さんにも、介護で疲れた気持ちをどれだけ慰めていただき、励ましていただいたかわかりません。本当にありがとうございました。

◾️10日は、母が暮らしてい町の役場に行き、様々な手続きをしました。後期高齢者医療、介護保険、障害者手帳…。うっかりしていて、印鑑証明証のカードと障害者手帳のことを忘れていました。明日は、もう一度カードと手帳を返却しに役場に行って、その後は尼崎にある年金事務所に行きます。年金と健康保険の手続きをします。これで、とりあえずは社会的な手続きは一段落かなと思います。明日は、大阪梅田を経由することになります。昔、奈良に暮らしていた頃、母の世話をしに行く時には、よく阪急梅田三番街の「インデアンカレー」で昼食を摂って気合を入れたものです。明日は、うまくいけば開店直後に食べられるかもしれません。甘くて辛いカレーをいただきながら、この10年間のことを、いろいろ思い出すことにします。

2019 あけましておめでとうございます!

◾️新年、あけましておめでとうございます。皆さま、本年もよろしくお願いいたします。

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◾️大晦日に息子が帰省しました。元旦は、いつもよりも1人多い3人でお雑煮とお節料理いただきました。これは習慣だと思いますが、正月は家で作ったお節料理を頂かないと気持ちが落ち着きません。蒲鉾、イクラ、カズノコ以外は、すべて我が家で作られたものです。あっ、そうそう、葉蘭も南天も庭にはえているものです。雑煮だけは私が作ります。我が家の元旦の雑煮は、すまし。例年は鶏肉と水菜と焼き餅なのですが、水菜が売り切れていたことから替わりに小松菜です(関東方面は、小松菜入れることが多かったような気が…)。明日からは、雑煮は白味噌になります。ちなみに餅ですが、年末に購入したデロンギのオーブントースターでうまく焼けました。まあ、こんな感じで穏やかな元旦を過ごしました。

◾️2日は、帰省した息子も一緒に、家族で老人ホームにいる老母を見舞いに行きました。到着したのは、3時のオヤツを食べたあとです。老人ホームに入所して2年少しが経ちますが、今は話しかけても「はい」としか言えません。息子(=孫)が話しかけても、反応がありません。誰がやってきたのか、よくわからないのかもしれません。そうこうしているうちに、また眠ってしまいました。ひさしぶりに見舞いに来た息子には、母が弱っていることがよくわかるようでした。ただし、痛みや苦しみが見られないようなので安心したようです。

◾️ 2年前、母が滋賀の老人ホームに移ってしばらくしてからの正月は、まだみんなで介助をすれば、我が家に連れてくることができました。2年前は、まだ笑顔がありました。しかし、その年の春に脳内出血を起こしました。滋賀医大に入院しました。退院はできましたが、身体に麻痺が残ることになりました。介護保険のレベルも要介護5になりました。すべてに介助を必要とするようになったのです。その後、腎臓の問題で、またまた入院。この10年間に、眼底出血、横紋筋融解、硬膜下血腫…いろんなことで入院してきました。入院のたびに体力がなってきたように思います。今は、「はい」しか言えない程弱ってきているわけです。5日には、娘の家族と一緒に老人ホームの母を見舞おうと思っています。小さな孫(母にとってはひ孫ですが…)のことがわかるかな。

◾️見舞いの後は、少し琵琶湖の風景を眺めながら帰宅することにしました。南湖の東側から、比叡山、そして雪で白くなった比良山系の山々をしばらく眺めて風景を「味わい」ました。お正月からキャンプを楽しまれている方達がおられます。すごいですね。
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◾️ここで少し昨年のことを振り返っみようと思います。2018年は、私にとってどんな年だったのでしょうか。良いことばかりではありません。不愉快なこと、腹ただしいことがありました。これはここに書くわけにはいきませんね。まあ、組織で働いていれば、ある意味で仕方のないことでもあります。悲しいこともありました。大津駅前のいつもの居酒屋「利やん」のマスター光山幸宏くんが亡くなったことです。本当に悲しかった。仕事では大きな変化があったわけではありませんが、還暦を迎えたことで、なにか気持ちに少し変化が生まれたきたように思います。退職まで順調にいけばあと8年になり、大学教員として今後取り組むべきことが、私の意思というよりも、様々な方達との「ご縁」のなかで、結果として絞り込まれてきたようにも思います。

◾️おそらく人生最後になる、流域ガバナンスに関する文理連携の研究プロジェクトも終盤を迎えました(こういうプロジェクトは、生涯に何度もできるものではありません)。当初からの構想を大切にしつつ、強い意志を持って最後までやり遂げます。このように終盤を迎えていることもありますが、新しい取り組みも始まりました。市民団体「水草は宝の山」も、少しずつですが歩みを進めています。この取り組みを契機として新たにNPOも生まれようとしています。「ビワポイント」という環境保全活動をサポートする社会的仕組みも動き始めるはずです。また、仰木の里学区の皆さん、大津市役所、そして龍谷大学の学生・教職員の協働による「学生まちづくりLaboratory」の取り組みも前進を始めました。そんなこんなで、来年も、地域社会の中に「贈与の精神」が循環する素敵な取り組みや仕組みが、お世話になっている皆さんとのつながりの中でうまく育っていくように、楽しみながら努めていきたいと思います。

◾️そうそう、昨年は、母校・兵庫県立兵庫高等学校の同級生の皆さんとも、再びつながり、交流が始まりました。とても嬉しかった。たいへんありがたいことです。同級生の皆さん、よろしくお願いいたします。神戸を訪問するチャンスが増えると素敵だなと思っています。

◾️冒頭の動画は、「水草は宝の山」の活動に一緒に取り組んでいる山田英二さんが、経営されている真野浜(大津市)の民宿「きよみ荘」の上から撮られた、初日の出の動画です。山田さんは、毎日のように朝日を撮影されています。初日の出の動画、1時間以上の長さがあります。もし、お時間があったら全てご覧になって琵琶湖の素晴らしさを感じ取っていただければと思います。初日の出だけをご覧になりたい場合は、時間を端折って、後の方からご覧になってください。

母校・兵庫県立兵庫高等学校を訪問しました。

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■神戸出身です。といっても、0歳〜4歳、16歳〜25歳の期間しか神戸には暮らしていません。ただ、「どちらの出身?」と聞かれると、やはり神戸と答えることになります。学校関係でいうと、唯一、高校だけは神戸の学校を卒業しています。兵庫県立兵庫高等学校です。今月の17日になりますが、その兵庫高校の関係で神戸に行ってきました。コミュニティFMとして知られる「FMわいわい」の「ゆうかりに乾杯」という番組の取材を受けるためです。こんな番組です。

長田、兵庫、須磨地域に根付いた県立兵庫高校(旧神戸二中)の卒業生をベースに、その友人たちや地域で活躍する人々をゲストに迎えて、仕事や趣味やいろいろな地域活動等をお伺いして、FMわいわいを通じた地域コミュニティの連携強化に繋げて行きます。

放送番組『ゆうかりに乾杯』は、コミュニティ放送局「FMわぃわぃ」から、毎月第4土曜日の午後4時から5時まで 60分番組を提供しています。

■人にお話しを伺うことは、自分の仕事の範疇に入ってくるのですが、この日は逆に聞かれるということで、どんな感じになるのか興味津々でした。放送はインターネットの動画が流れますので、また報告させていただくとして、ここからは取材の後の事を。取材の後は、母校・兵庫県立兵庫高等学校を訪問しました。自分たちが学んだ校舎は、建て替えられてもうありませんが、今も思い出の地であることに変わりはありません。阪神淡路大震災の際には、偶然にも母校に滋賀県職員として派遣され、図書室に寝泊まりしながら避難されていた被災者の皆さんに支援物資をお配りしました。そのような意味でも、懐かしさを感じました。

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20181123hyogo7.jpg■母校には、「FMわぃわぃ」でお世話になる同級生のSさん、そして「武陽会」という母校同窓会の理事長でもある同級生Kくんと一緒に徒歩で向かいました。母校に到着すると、ソフトボール部にいたやはり同級生のAさんが待っていてくれました。また、私たちよりも2年後輩の同窓生の先生が、待機してくださっていました。到着後、まず見学させていただいたのは、戦前、母校が神戸第二中学だった時代に卒業された東山魁夷先輩達の作品を展示している「記念室」でした(同窓生は、東山魁夷さんのことを東山先輩と呼ぶことがあります)。母校の先輩には、他にも、画家であれば小磯良平先輩がおられます。この「記念室」に飾られている東山先輩の作品の中で、私が一番惹かれた作品は、雪の降る京都の街描いた「年暮る」というタイトルのついたリトグラフでした。このような先輩方の作品が、母校の「記念室」に飾られているとは夢にも思っていませんでした。私が在籍していた頃は、東山魁夷先輩や小磯良平先輩の作品が、当たり前のように講堂や廊下に飾ってありました。飾ってありましたが、高校生当時の私には、それらの作品の価値がまったくわかっていませんでした。

■画家である東山魁夷・小磯良平両先輩以外にも、母校の先輩にはたくさんの著名人がおられます。そのことが、同窓生にとっては少し誇らしかったりします。たとえば、小説家の横溝正史さんや舞台美術家・作家である妹尾河童さんなども私たちの先輩に当たります。母校訪問から話しが逸れていきますが、横溝正史さんが在籍されていたころのことについては、「東京紅団」というサイトの「横溝正史の神戸を歩く」というエッセーで詳しく知ることができます。このエッセーによれば、神戸駅の近くにある東川崎公園内には横溝正史の生誕地碑が設置されているようです。一度、訪問してみたいものです。

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20181123hyogo10.jpg■上の2枚の写真のうち左側は、卒業アルバムに掲載された写真です。私が在籍した3年4組の集合写真です。右側は、今回の母校訪問で撮った同じ場所の写真です。私たちが学んだ校舎は、1940年にできた校舎です。戦前の建物ですね。今の校舎は、1994年に建て替えられたものです。現在の校舎とは同じ敷地の中でも、建てられている場所が違います。私たちの頃は、南東の角が正門でしたが、現在はもう少し北、北西部分に正門があります。

■正門を入ると右手に、「合掌の碑」が建てられています。私たちが在学している頃は、敷地の西の方にありました。この「合掌の碑」は、沖縄県最後の官選知事として沖縄戦に散った島田叡(あきら)先輩(1901~1945年)の慰霊碑です。島田先輩は、1945年1月に沖縄県知事として赴任し、米軍上陸を前に県民の疎開や食糧確保に奔走。米軍の砲撃の下でも壕(ごう)を転々として執務を続け、本島南部で消息を絶ちました。享年43歳。沖縄県では、島田叡を知らない方はおられません。それほど、有名です。現役の後輩達も、毎年、沖縄で修学旅行を実施しています。詳しくは、島田先輩のことについては、拙ブログの「島田叡さんのこと」の投稿をお読みいただければと思います。

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■校舎は建て替えられ、昔の様子は曖昧な記憶の中にしかありません。同級生たちと歩きながら、ここに武道場があったね…とか、部室の建物があったよね…とか、昔の様子を思い出しながら歩きました。すつかり変わってしまっていますが、以前と変わらないものがあります。ユーカリの樹とスタンドです。敷地のあちこちに、ユーカリの樹が植えられています。以前は、もっとたくさんのユーカリの樹があったように思います。今回、私の母校訪問に同行してくださった同窓会理事長のKくんからは、もともと池があったところを埋め立てて学校作ったために土地に湿気がく、その対策として深く根を張って水分を吸い上げるユーカリの樹が植えられたのだそうです。この話しは、今回初めて聞きました。校章にも、そのユーカリの葉が3枚デザインされています。

■グランドでは、テニス部やソフトボール部が練習していました。その様子をスタンドから眺めました。昔、このスタンドを使って練習をしたな…とか、いろいろ思い出しました。そうすると、母校という「場所」の持つ力のようなものを感じることができました。偉大な先輩たち、多くの同窓生、そして現役生の皆さんと一緒に築いてきた伝統のようなものを感じることができました。

■昔の正門は、学校の敷地の南東の角にありました。その正門を出て川を渡ったところには、駄菓子屋がありました。学校帰りに、よく立ち寄っていました。お店の名前はなんという名前だったかな…。確か、西明寺という名前だったように思います。阪神・淡路大震災の時に、この辺りは大変被害にあいました。この駄菓子屋さんに隣接する商店街も全て火災で燃えてしまいました。

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20181123hyogo17.jpg■母校を見学した後、同行してくださった同級生の皆さんが、母校の周り散策してみようと提案してくださったことから、かつて通学に使っていた神戸電鉄の長田駅に向かっての坂道を登っていくことにしました。震災の影響もあるのでしょうが、街並みについては随分変わったかなという印象です。もっとも42年が経過しているので、変わっていても当然でしょうか。ただし、駅近くの地形等については、記憶の中にある通りのものでした。いろいろ懐かしい思い出が蘇ってきました。一番の思い出は、不良中学生にからまれたところを、同級生が救ってくれたことでしょうか。その同級生は、今、有名な企業の経営者になっています。その時のことを、彼は覚えているかな。

■長田駅からは一駅、湊川駅まで神戸電鉄に乗ることにしました。神戸の皆さんは、普通、神鉄(しんてつ)と呼びます。同行してくれた同級生は、普段、神鉄に乗ることはないようで、「長田駅から初めて乗った」と言っていました。神戸電鉄を利用する方達は、六甲山の裏側、北区にお住いの皆さんが多く、母校の近くに住んでいる方達は、普通、乗ることはないですからね。

■同級生の皆さんとは散策しながらいろいろ話をしました。私たちは今年度に還暦になります。母校のかつての先生方よりも年を取ってしまいました。お亡くなりになった先生のほうが多いと思います。先生だけではありません。同級生でも亡くなられた方達がおられました。大病をされた方達の話しも聞かせてもらいました。私はといえば、卒業後、同窓会ときちんと連絡を取っていなかったので、ずっと「行方不明」のままでした。42年の時間が経過しました。人生いろいろです。神戸電鉄で移動した湊川駅の近くでは、懐かしいお店と再会しました。「人工衛星饅頭」のお店です。このお店は、高校の時からずっと流行っているようです。ソビエトのスプートニクが打ち上げられた年に開店したとか。こちらについては変わりはありませんでした。

稲刈り

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◾️このプログでは、あまりにも個人的過ぎるかなと、あまり触れないようにしていますが、facebookでは週1回、孫の成長の様子を投稿しています。娘が孫の成長の記録を写真や動画に撮って送ってくれるからです。普段なかなか会えませんが、娘のおかげで孫の成長を見守りつつ楽しむことができています。ありがたいことです。スマホで簡単に写真や動画を撮ることができない時代、遠く離れた祖父母の皆さんは、孫の成長をどのように見守っていたのでしょうね。

◾️普段は写真や動画でしか孫の成長を見守ることができませんが、一昨日は、大阪で孫と遊んできました。祖父である私にとって、孫と接することは心の栄養をもらえるかのようです。これまでは、たまにしか会うことができないので人見知りをされていましたが、一昨日は、私に抱っこされても普通にしていました。やっと、慣れてくれたんでしょうかね。祖父とは自分にとってどういう人物なのか、まだ理解はできていないと思いますが、少なくとも危険な人物ではない、抱っこされても問題ないと思ってくれているのかなと思います。。

◾️昨日は孫の父方の親戚のお家で稲刈り作業があり、家族で手伝いに出かけていったたようです。去年も来ていますが、まだなんのことやらわからなかったでしょうね。今年は少しはわかるようになったかもしれません。親戚のお姉ちゃんにも、しっかり遊んでもらいましたし、おとうさんには、コンバインに乗せてもららいました。「せっかくだから、将来は、田植え機やコンバインも操作できる『農ガール』になっておくれ」と、おじいさんである私は思っています。

◾️写真は、娘が送ってくれたものです。facebookにも投稿しましたが、なかなか評判がよかったので、このブログにも掲載させてもらうことにしました。親戚のお姉ちゃんに手をつないでもらって、黄金色に染まった水田の中の一本道を歩いています。空の雲のコントラストや、一本道に伸びる親戚のお姉ちゃんと孫の影が、写真を印象深いものにしています。

50年ぶりの再会

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◾️昨日は、人生の中でもたぶん記憶に残り続けるんじゃないのかな…と思うような「再会」がありました。半世紀ぶりの再会でした。半世紀、50年ですよ。その方に、半世紀ぶりに会うために大阪に行ってきました。今回「再会」したのは、小学校3年生から4年生にかけてクラスメイトだったHくんです。私は、小1から小4まで、福岡県北九州市戸畑区にあるカトリック系ミッションスクールである「明治学園小学校」に通学していました。Hくんは、小3になった時に転校してきました。いろんな事情があると思いますが、お兄さんがこの学園の中学校に進学されたことから、兄弟で同じ学園に通うこととなり、小3の時に転校されてきたのです。私の記憶の中でのHくんは、このような人でした。皆んなが「Aだろう」という時に「Bだよ」というような人でした。だから印象に残っているのだと思います。いろんなエピソード、記憶があります。記憶の中では、親しくさせていただいていました。

◾️それはともかく、私の方からお願いをして、Hくんと会っていただきました。しつこいですが、半世紀ぶりの再会でした。もっとも、私がHくんのことを記憶しているほど、Hくんは私のことを記憶されてはいませんでした…(Hくんは小学校時代の記憶があまりないとのこと)。まあ、それはそれで普通だと思います。私とHくんとの共有した時間はたった2年間ですから。9歳・10歳の時です。Hくんとは、大阪駅の改札口で再会する約束でした。約束の時間よりも20分も早く到着したのですが、すでにHくんは改札口に立っていました。随分早くにやってきて、待っていてくれたのですね。一目会っときに、Hくんだとすぐにわかりました。昔と同じ面影でしたから。その後、大阪梅田のビル地下街にあるお店で呑みながら一緒に夕食を摂りました。半世紀ぶりでしたが、「明治学園小学校」関連のいろんなことをお聞かせいただけました。Hくん、ありがとうございました。Hくんの話しを通じて、当時仲良くしていただいていた他の皆さんの近況も知ることができました。

◾️次回は、大津駅前のいつもの居酒屋「利やん」で、Hくんが目をかけておられる後輩の方とも一緒に、お会いすることになりました。楽しみです。いろいろあるな。そして人生は続く…かな😅。Hくんとどうして再会できるようになったのか、このブログに「50年ぶり」とのタイトルで投稿しています。ご覧いただければと思います。

50年ぶり

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▪️この写真は、小学校4年生の時の集合写真です。当時、私は、福岡県北九州市戸畑区にあるカトリック系の私立の小学校、明治学園小学校に通っていました。といいますか、両親の方針で通わされていた…というのが正しいのかなと思います(特に、両親がカトリックを信仰していたわけではありませんが)。この小学校、元々は現在の九州工業大学の前身である専門学校が、教職員の子弟のために1910年(明治43年)に設立したのが始まりです。第二次世界大戦後は、カナダ系のカトリック修道会に経営が引き継がれました。そのような学校の歴史はともかく、自宅は、小倉区(現在の小倉北区)にあった日本住宅公団が建設した団地でしたから、その団地から1時間以上バスに乗って通学していました。

▪️この写真は1968年の4月に撮ったものです。私「4年2組」でした。集合写真の先生。左が1組の担任のM先生。ベテランの先生ですね、たぶん。次がA校長先生。その次が担任のI先生。山口県のご出身でした。ご健在ならば、今は73歳かな。そして、その隣は3組の先生。お名前は忘れました。私は前から3列目の、右から7番目です。10歳です。じつは、この中に写っている同級生と、もうじき会えることになりました。50年ぶりです。記憶も、もう曖昧なんですが。

▪️母親が暮らしていた家の荷物を整理する時、アルバムや写真を「救出」しました。そのようなアルバムの中の1冊を眺めながら、かすかに覚えている同級生の名前を思い出していきました。その中のお一人。Hくん。ネットで検索すると、たまたま動画を拝見することができたのです。普通、なかなかネットで検索しても手掛かりはなかなかありませんが、彼の場合はお仕事の関係でそのような動画がネット上に存在して、たまたま拝見することができたのです。女性だと名字がご結婚されて変わっている場合が多いですし、まず手がかりはありません。そのようなことはともかく、動画の男性の面影は、私の記憶のなかにある同級生でした。間違いありません。気分が高まり、会いたくなりました。

▪️うまい具合に、人のつながりの中で連絡先もすぐにわかり、メールを送ってみることにしました。すると、驚いたことに、今朝ほど、メールを送ったHくんから返信がありました。仕事の関係で、今は関西におられるようです。彼に、会いに行ってこようと思います。子どもの頃、父親の転勤により私は転校が続きました。昔の友だちとのつながりは、切れてしまっています。そのため、私にはいわゆる「地元」がありません。ただ、還暦を迎えた今年から、チャンスがあれば昔の友だちと再会しようと少しだけではありますが努力?!をしています。その努力が少し実ったのかもしれません。

【追記】▪️関連するエントリーです。「小倉時代」

義父の米寿の祝い

▪️昨日は、義父の米寿の祝いが奈良の「あやめ館」というお店でおこなわれました。以前暮らしていたマンションのすぐそばにあるお店です。長年連れ添ってこられた義母。義父と義母の2人の娘。その連れ合い2人(そのうちの1人は私です)。そして社会人となってそれぞれの職場で頑張っている2組の娘夫婦の子どもたち、つまり孫が4人。孫の連れ合いも1人。そしてそして1歳半になったひ孫もみんな揃い、11人でお祝いをしました。食事の後は、花束と、お祝いしたみんなからのメッセージを書いた色紙を贈りました。

▪️普段、義父は家族専用のSNSを通して、ひ孫である ひなちゃん の日々の成長や、孫たちの頑張っている様子を楽しみにしているようです。SNSを使って、孫やひ孫の様子を知ることができるように、iPadをプレゼントされているのです。昨日、義父は、ひさしぶりに孫とひ孫全員に会えました。人生の幸せは人それぞれですが、孫やひ孫に囲まれるというのは、そのような幸せの1つなんじゃないでしょうか。大切だと思います。思い起こせば、すでに社会人になった孫4人がまだ3人の頃、みんなで還暦のお祝いをしました。ついこの間のような気がします。あっという間ですね。

▪️還暦の頃、義父は、米寿になる頃のことを想像していたでしょうか。昨日は、そのことを聞きそびれました。私自身は、今還暦ですが、とても米寿まで長生きできる自信はありません。でも、孫のひなちゃんが成人した時に、一緒に飲みに行ける程度には体力と健康を残しておきたいなと思っています。でも、どうなるでしょうね。それは19年後です。これも、あっという間でしょうね。楽しみです。こうやって世代を超えて集まることは、その機会に、人生についていろいろ考え学ぶことになります。大切なことだと思いました。

▪️昨日は、老人ホームに入所している母の見舞いにも行きました。昨日は、老人ホームの「秋祭り」でした。ホームの中では、職員さんたちも着物に着替えるなどして、いろんなゲームや催しを楽しんでおられました。私の母親は、すでに寝たきりの状態ですが、リクライニングの車椅子で居室から出て少し「秋祭り」を楽しんでいたようでした。母は食欲はあるようで、寝たきりの状態ではありますが、身体の方はなんとかなっています。ただ認知的な部分では、どんどん曖昧になってきているような気がします。息子の私と、ひ孫のひなちゃんのことはなんとかわかるようです。

▪️亡くなった父の看病と看取りから始まり、そのあとは母の世話で10年たちました。実際に、ご自宅で介護された方たちのような大変な苦労はありませんでしたが、それでもいろいろありました。こちらも、今となれば、その過程でいろいろ学んできたんじゃないか、これからも学び続けるんじゃないのか、そのように思うわけです。

『わが街 わがふるさと 高倉台 高倉台団地15周年記念誌」

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◾️亡くなった父が最初に建てた戸建住宅は、神戸市須磨区にあった高倉山を切り崩して作った新興住宅地(住宅団地)、高倉台にありました。海と山に挟まれた神戸市では、山を切り崩して住宅地を建設し、切り崩した土砂で埋立地を造成してきました。国の補助金なしにこれらの事業を展開したことで、当時は「株式会社神戸市」と呼ばれるほど評価されました。もちろん、そのような評価は当時のものですが…。高倉台も含めて、須磨区には次々といわゆるニュータウンが建設されていきました。そのことについては、市役所のホームページで「須磨ニュータウンの歴史」として説明されています。その一部を引用してみます。

埋立用土砂は六甲山系の山から採取されることになり、昭和35年には鶴甲山、昭和37年には渦が森で工事が開始されていましたが、鶴甲と渦が森の土砂採取量だけでは、東部の臨海工業地帯を全て埋め立てる事は不可能であったことと、並行して西部の臨海工業地帯の造成も進めていたことから、高尾山と高倉山からも採取することになりました。

高倉山から東部工区への陸上輸送は、安全面からもコスト面からも不可能であるため、海上輸送に着目し、ベルトコンベヤとプッシャーパージ方式を、全国で始めての試みとして採用することになりました。このベルトコンベヤは平成17年9月に稼働が停止するまで、西神ニュータウンの造成や六甲アイランドの埋め立てにも利用されました。

◾️造成工事が終わり、高倉台が誕生したのは昭和46年(1971年)頃でしょうか。集合住宅と戸建住宅からなる住宅団地でした。宅地分譲は昭和47年から始まっています。我が家は、昭和49年の第4次宅地分譲に応募して高倉台に家を建てることになりました。私は、ここに9年ほど暮らしました(高校の途中から、大学院の途中まで)。我が家の工事が終わった時、まだ周囲には住宅があまり建っておらず、造成された土地と道路があるだけでした。今でも、ポツンと我が家が建っている風景を思い出すことがあります。

◾️ところで、最近、母が暮らしていた家の荷物を整理しましたが、その際に、写真のような「記念誌」を回収しました。これは、資料として貴重だなと思っています。この「記念誌」は、高倉台が生まれて15周年を記念して作成されたものです。タイトルは『わが街 わがふるさと 高倉台 高倉台団地15周年記念誌』。発行は、昭和61年(1986年)。ちょうど、私が結婚した年になります。表紙を見るとわかる人にはわかりますが、「昭和の香り」満載です。表紙の写真からは、コミュニティ活動として様々な行事が行われていたことが示されています。また、なんとなくですが、原武史の『滝山コミューン一九七四』なんかも連想してしまいます。日本の高度経済成長期以降の地域社会の変化を考える際に、役に立ちそうです。担当している授業でも活用できるかもしれません。

◾️高倉台は、当時としては活発にコミュニティ活動に取り組むユニークな住宅団地でした。母校・関西学院大学社会学部で都市社会学を教えておられた倉田和四生先生が、高倉台を調査して論文を書いておられます。「日本のニュ-タウン(近隣住区)とコミュニティ活動–千里と高倉台」(関西学院大学社会学部紀要 (42), p37-59, 1981-02)です。パラパラページをめくっていると、「関西学院大学の交換留学生、ロナルド・グル君(20歳)ら4人が、指導の海野道郎教授に率いられ、ニュータウンにおけるコミュニティー活動の実態を研究するために高倉台を訪れた」、との記述がありました。この交換留学生は、高倉台の活発なコミュニティ活動やコミュニティに対して学校の施設や運動場が開放されていることに驚いています。昭和58年11月11日のことです。ちなみに、海野先生は、数理社会学や合理的選択理論がご専門でした。私とは同じ社会学とはいっても、その細かな専門分野はかなり違うわけですが、それでもいろいろお世話になりました(ちなみに、海野先生は、その後、東北大学に異動された)。

◾️この高倉台を3年前に訪ねてみました。当時は今のような「超高齢社会」(あるいは「超超高齢社会」)のことなど、誰も考えていなかった。須磨のニュータウンのことについても調べてみました。全国のニュータウンと同じく、厳しい状況にあるようです。3年前に訪問したときのことは、このブログに「神戸・須磨ニュータウン」としてエントリーしています。そのうちに、この記念誌をきちんと読んでみようと思います。

実家の荷物の処分

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◾️86歳の母は、身体が弱り、滋賀県の老人ホームに入所しています。母が住んでいた家を、このまま放置しておくわけにもいかず、処分することにしました。まずは、家の中の「物の処分」です。当初は、自分の力でやろうと思っていましたが、時間ばかり経過し、精神的にも重荷になってきたことから、先週の木曜日、母が住んでいた家の「物の処分」を業者さんにお願いしました。昨日は、この「家の処分」に先立って、諸々の手続きが必要になることがわかり、最寄りの役所に出かけました。そのついでに母の家を見に行くと、家の中はすっからかん。後は掃除だけの状態になっていました。4tトラック3台弱の物があるとの見積もりでしたが、すべて運び出されていました。呆気なくというか…さすがプロですね。あまりの量に途方に暮れていたのですが…。プロはすごいなと思います。
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◾️この家は、私が結婚してから建てられた家なので、私自身は特別な思い入れはありません。私からすると、亡くなった父の看病や介護、父が亡くなった後は、母の生活介護や入院のために通った家であり、どちらかといえば「しんどい思い出」ばかりしかありません。庭の草刈りも大変だったな…。とはいえ、気持ちは、少しずつ肩の荷が軽くなりつつある…という感じでしょうか。家の中はすっからかんと書きましたが、業者さんに買い取ってもらえるものは、残されていました。テレビ、カメラ、時計、それからどういうわけかゲームボーイ…。これ、売れるんですね。後は掃除をして、家の処分に取り掛かります。知り合いの行政書士さんと、親戚の不動産屋さんにお願いします。溜まっている仕事に、早く戻らなくてはいけませんので。

◾️これからの時代、子ども達に、私が経験したような苦労はかけられません。そういう時代になってきたと思います。「終活」と「引き継ぎ」をしっかりしなければと、改めて思っています。あっ!忘れていたことがあります。庭木の剪定も業者さんに頼まないと…。いろんなプロにお願いしています。

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